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【 石割松太郎 人形浄るりに聴く「時局物」 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
人形浄るりに聴く「時局物」
  文楽座の「三勇士誉肉弾」
  石割松太郎
 演芸画報 26(5) pp.42-43 1932.5.1
 
 その時代の社会の感激を買ふに足る事象を、脚色する事が興行界の常勝手段である事に間違ひはない。当今において「三勇士」肉弾事件がそれである事に疑ひはない。この機会を捉えて、文楽座の人形浄るりに「三勇士」が上演される。「興行手段」として当然の事であらうが、この文楽座の時局物の新作を、人形浄るりの伝統を破つた大事件であるかの如く取はやされるのは、「興行政策」の宣伝方法ならばそれまでだが、歴史が教ふる事実とは違つてゐる。興行界の常態は新作を競ふにあつた。市井の出来事にさへ、結び付けて「際もの」に庶民的の関心を煽るに腐心したのが興行界の「眼先」だ。--その新作が出来なくなるといふ事は、その演芸の寿命の尽きたのだ。或は僅に「昔の新作」に流るゝ内容、形式を「古典」の名によつて、回顧的の余命を持続してゐるといふに止まる。
 人形浄るりの場合は、「内容」よりは「形式」、--音律曲節、人形の「形式美」が「恒産」となつて脈々として今日に及んでゐるが、寿命の尽きたのは宝暦、明和の昔にある。されば「際物」の上演は「伝統」を破つたのでない。際物、新作が不可能だといふ状態にあつたのだ。興行師が人寄せの宣伝のために、はやし立てるのは勝手だが、興行師の吹く笛につれて、一廉の識者づれが「文楽の伝統」を破つたなどは、苦々しい沙汰である。
 興行師の人寄せは捨てゝおけ!人形浄るりで、「新作」に万一の僥倖を期する場合を考ふると、一つに「作曲」に繋る。宝暦明和に寿命の尽きた人形浄るりに、作曲に天才が現はれなかつたから浄るりに更生の春が来なかつた。その代償として略々そのまゝに保存された。松屋清七、豊沢団平の如き大天才が現出してゐるが、これは義太夫節の整理者、保存者、集大成者で、新しき作曲の天才ではなかつた。--或は完成した人形浄るり界にあつては作曲の大天才を生む「温床」が造られなかつたといふ四囲の事情でもあつたらうか。
 
 この人形浄るり界にあつて、時局物の新作が芸術的に何を寄与しようとも期待はしないが、四月の文楽座の「三勇士」の作曲者鶴沢友次郎が、「洋楽器によらず大砲小銃の音に至るまで三味線によつて現代味を出したい」といふ談片を伝へ聞いて、この点に私の興味が繋がれた。
■世間では人形の洋服姿の不格好を予想してどうあらうかと言ふとも、私は反対の考へを根本的に抱いてゐる。元々人形の姿、着付は写実ぢやない、あのフキの広い日本服などが、日本のどの時代のどこの国にあつた? 頭と胴と手足のあの不均衡が、日本人の何時代の、どこの人間であつたらう? 即ち現実を離れた--「調和を破つた調和」が、人形美の基調だ。だから、洋服姿の不恰好は意とするに足りない。問題は「作曲」の一事にある。この意味において興行政策上、新作が必要ならば「作曲」は、新しい考へを抱いた老練なる既成大家を選ぶべし。太夫人形遣ひは未練でいゝ若手を選ぶべしとは私の持論だ。即ち三味線丈練達の芸を必要とするの意である。
■この心持で「三勇士」を見て、聴いて私の考への誤りでなかつた事を確めた。今度の「三勇士」の浄るりを聴いて御覧なさい。現代語、軍隊言葉の不成功や洋服姿の不恰好でなくして、人形浄るりを聴いた感じがない。言葉を換へると音楽的でない処に失敗してゐる。尤も「人形浄るり」以外の何物であつてもいゝが、音楽的である事が必須条件だ。この点が「三勇士」の失敗、即ち人形浄るり新作の不可能性を確め、裏書してゐる。--耳に熟しないとか、聞慣れないとかいふ皮層な事でない。もつと根本的な問題だ。この紙数に限られた小批評で委曲は尽せないのを恨みとするが、最も大きい欠点は、この一曲、叙事は叙事、詞は詞で独立して「叙事抒情」と言葉との間に音楽的、作曲的の要素を欠いてゐる事である。故に総てが「……と、何とやらして何とやら」と、恰も脚本の体裁である「ト書き」に節が付いてゐるといふ有様だ。--と、私がいふと、それは作曲でなくて、「作者」の罪だといふかも知れないが、さうとのみはいへない事情がある。この理由を明かにするには豊沢団平が「壺坂」の節付を引例すると明瞭だ。が、丁度この主旨を「豊沢団平の研究」と題して、私が四月創刊された雑誌「演劇学」において偶然にも、述べてそれに触れてある即ち「壺坂」の原形と作曲してからの今日の「壺坂」とを可なり綿密に、比較して述べてあるから、一応御覧を願ふと、この間の作曲上の用意が判らうと思ふ。--即ち「三勇士」の作曲には、語り物、唄ひ物、即ち音楽的に大切な浄るりにおける「地合」が殆んどない。全曲「ト書」の節付と詞からなつてゐる。唯僅かに「松下大尉につこと笑ひ」……「天佑有て守らるゝ、是れ日の本の常ぞかし」にやゝ「地合」の趣きを聴くに止まる。--これで作曲上音楽的を要求さるゝのは全く無謀だ。作曲者は何んといはるゝか、その意図を聞いてみたい。
 もう一つ「馬田軍曹縛れ、ハヽア中隊長殿危い事でしたナ」で人形の科を見ないで、この意味が判るか読者の判断を聞きたい。之は「省筆」でない。「語り物」の態を失つてゐる。 もう一つ三勇士が決しを語り合ふ処は、全くの詞のみだ。相当長い時間、詞のみであるのは音楽的を必須条件とする「人形芝居」のテキストとして果して作者、作曲者はそれでいいと考へてゐるだらうか。この件りの舞台を御覧なさい。「三勇士」は科に困つてゐる。栄三の作江、紋十郎の北川は散文[プロゼーク]的だが、尚詞に相当する科をやつてゐるが、文五郎の江下になると、その科が詞に添はず、持扱ひ兼ねてゐる。之は決して文五郎の不名誉でなくして、人形が「人形美」を発揮するだけの作曲が施こされてゐないのに因由する。旧き浄るりの例を手近な作から引例すると、「紙子仕立両面鑑」の栄三がお松との会話は相当良い、浄るりの詞の一レコードだが、あの詞に「味」と「工夫」とがあるのは、何による? 現代語であるがために「三勇士」が聞辛いのではあるまい。所謂「新派」の舞台と「人形芝居」とは違ふべき筈だ。--陽栄太夫の馬田軍曹の号令が真に迫るとて幕内でも評判がいゝ、又当人もこゝを懸命に真に迫らうと「練兵場声」を文楽座の床で発してゐる。事の間違ひはこゝに存する。「写実」といふ事「現実」だといふ事は、人形浄るりの必須条件でない。「現実らしい、真実らしい音楽的」が欠けて、語りものである--音楽である人形浄るりが成立するか。「芸」を忘れて「現実」をのみ狙ふ「嘘」を、人形浄るりのために、私は極力排撃したい。
 これで思ふ十が一も述べてゐないが、与へられた紙幅が超過するので筆を擱く