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【 石割松太郎 人形と人形遣ひの発達 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
人形芝居の味感
  人形と人形遣ひの発達
  石割松太郎
 演芸画報 25(8) pp. 1-4 1931.8.1
 
 かういふ大きな題目を捉えて、さてさう簡単には説けさうもない。古来人形、人形遣ひの事に関しての記録が殆んどないのだから、失礼な申分だが、余り的確な記述も、系統もが取調べが、どこにも付いてゐない。解つてゐることは何人でも知つてをり、解らぬ事はどこを温ねても判りさうもない。その解らぬ事が多いのだから始末が悪い。
早い話が、近松々々とはやされてから、相当の年月が経つが、近松時代の人形の遣ひ方は、どういふ風であつたか、的確に教へて下さる人がない。『どういふ風』と私がいふのは、浄るりにつれて、どういふ『型』或は『科』といふ意味ではない。どんな人形をどういふ形式で遣つたかといふ事である。これさへもが判らないのだ。ベンリントン夫人といふ未知の外国婦人が、我々にまで書を寄せて、『人形の振り』の書いてある書物はないかと、頻りに問合せらるゝが、人形芝居調査の現状は、そんな手取早い話が、すぐ取引さるゝところでなく、もつと根本な、卑近の事が、お恥しながら判つてゐない。それでは、お前は、こんな人形と遣ひの発達変遷などといふ、仰々しい題目で、何を書かうといふのかと反問さるゝが必定だと思ふ。私は、唯一つ、判らぬうちに判つたやうな心持がする一点があるので、そこに重点をおいて、こんな大きな題目を引受けたのである。されば人形芝居を、ちよいと覗いても判る何人も知つてる事は、さらりと書いておく
    ◇
人形芝居は、傀儡師の人形と、浄るりとが、結合した事だけは確かだが、その傀儡師の人形が、慶長の初め、四条河原に始めて人形浄るりとして興行された時の人形はどんな風で、どんな遣ひ方だつたかは、一寸判らない。手遣ひだつたか、糸操りだつたかさへもが的確にはいへないのだ。慶長は愚か、ずつと下つた時代でも上方の様式と、江戸の様式とでは、発達変遷に余ほどの相違があつたらしい。操りの画証を見れば見るほど、疑問が増すばかりだ。--と、いつて行くと、判らぬといふ事だけを述べるやうだから、ずつと端折つて流祖竹本義太夫が、貞享二年(或は元年といふ説)大阪道頓堀に操芝居の櫓を揚げてからの大阪に発達した人形芝居と局限して、お話を進めよう。
    ◇
 竹本義太夫は、古浄るりから蝉脱して、新節に新様式を示さうといふに、専念であつたから『操り』といひ条、音曲としての発達にのみ努力してゐた。人形は浄るり文句を説明するだけもので、芸術としての独立性にも乏しいほどの文句の仕方--科位の処であつたらうが、元禄末に至つて、人形そのものにも『芸』が出来て来た。これまでの早い時代に、名人として伝ふる京の二郎兵衛だとか、『羅山文集』にいふ『江戸第一の偃師小平太』などは芸の名人といふより、人形が巧みに動くといふ意味に解する位の名人と見てよからう?然るにこゝに、人形遣の名人としても辰松八郎兵衛、吉田三郎兵衛などの名が聞へる。そして人形のほんとの発達が、画期的になつたのは、宝永二年の顔見世の竹本座からであす。即ち竹本筑後が座元を引退して、二代竹田出雲が、新たに竹本座の座元となつた。そしてこの年の顔見世狂言に、近松作『用明天皇職人鑑』を上演し、鐘入の段を、辰松八郎兵衛が出遣ひをした。この時から人形が俄然として進歩発達を遂げたのである。--舞台芸術は、他の文芸絵画の如き芸術と異り、書斎や、アトリエで完成さるゝものでない。今日までの舞台芸術には、興行主が資本的に努力を致さねば、どんな立派な芸術も完成はされてゐないのである。言葉を換へると、金の力を必須条件とする。二代出雲が、浄るりよりは、人形--換言すれば『耳』よりも『眼』に訴ふる舞台に、金を掛けたから、この宝永二年霜月興行から一線を画して人形の発達を促した。尤も錦文流の作である『棠大門屋敷』によると、元禄十二年の五月に、竹本座で、同じ文流の作『本海道虎石』の舞台に『綟子の手摺』を仕出したといふから、『虎石』の人形遣は綟子を通して出遣ひをやつたと見ていい。また例の『曾根崎心中』お初の道行で、辰松八郎兵衛の口上番付を『牟芸古雅志』所載に見ても、八郎兵衛が人形を遣つてゐる場所は勾欄の彼方であるが、遣つてゐる事を顕著[ありあり]と見せてゐるのは、絵空事とのみは見られない。恐らくこれらを出遣ひの先駆である一つの形式として、宝永二年顔見世の出遣ひが敢行されたものと見ていゝ。もう一つ注意すべきは、宇治加賀掾の正本である『愛染明王影向松』によると宇治太郎左衛門が、手妻人形の出遣ひをしてゐる。この『愛染明王』の刊行は、元禄末か宝永の初年といふ事であるから、『職人鑑』の鐘入の段と先後が疑問である位である。
 とにかく、二代出雲が人形の舞台に、資本的に努力して、人形と人形遣とが、長足の進歩をしたことは疑ふべくもない。
 (註)この『二代出雲』は千前軒といつた『忠臣蔵』の作者である竹田出雲だと思つてゐる人が多いやうだが、それは誤りで、千前軒との血縁はハツキリとはいへないが、この二代出雲は、千前軒の父であらうかと思ふ。興行的の手腕家で、初め出雲を名乗り後、外記と名乗つてゐる。千前軒の出雲は出雲名では三代、竹本座の座本としては二代目である事と取誤つてはならぬ。この後に、外記といつた二代出雲が興行師として、傑物であつたらしく、竹本筑後が引退したのを、芸人として復活せしめ、近松門左衛門を京の都万太夫座から、金力で引抜いて抱へ、歌舞伎作者から、浄るり専門の作者として其配下に専属せしめたのである。
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 ところで、この当時、--元禄、宝永、正徳--元禄前期の名で呼ばるゝこの頃の人形はどういふ形式で遣つたかといふと、勾欄の裏で、人形の裳より両手をさし込んだ、一人遣ひである。この両手を、思ひ切り、伸して人形だけを勾欄の上から見物へ見せるのであつた。これを出遣ひにすると両手を伸し切らないでもいゝ勘定である。これが当時普通の『さし込手』と唱へらるゝ遣ひ方で、辰松八郎兵衛のいろ〳〵な文証画証がこれを確実に証明してゐる。
 ところが、最近私が、発見した古役者評判記(逸題、元禄十四年刊行と推定)の記事によつて勘考すると、この辰松風の『さし込手』以外に今一つの遣ひ方がある。そしてそれは辰松風と共に並び行はれてゐたやうである。重要なる根本資料であるから、茲に抜書する。
  中之上 山下佐五右衛門
 此人は去冬都へ登りし、出羽が芝居にて山本飛騨掾遣はれし、片手人形共たとへられませうか、それをいかにといふに、此度のお役、ちよつと見た所が、片手人形のごとく、うごきさうな物でござらぬ所を、太夫元の引廻しの手を、うしろより入て遣はるゝ故か、一両年めつきりと所作ぶり、御狂言に成ましてござる。云々(註-国貞は私の施す処)
 とある。この意は、太夫元が、山下佐五右衛門に目をかけて引廻はすので役になつたといふ記事であるが、その引例に用ひた飛騨掾の片手人形の形式が、うしろより入て遣はるゝとあるのは見遁すべからざる記事である。即ち辰松風は、裳から両手をさし込み、飛騨掾は後から、片手を入て遣ふといふ。--片手人形の名称はこゝから起つてゐる。そして、享保十九年の竹本座で、現今の如く(?)三人遣ひの新しい遣ひ方が始つたといふ、その三人遣ひの主遣ひは片手をうしろから入れ遣つてゐる事、今の文楽座の人形に見るが如くである。
 この変遷は大切な事で、辰松風の両手の『さし込手』が、今日の三人遣ひへと発達したのでなく、この飛騨風の片手人形の発達したのが、今日の三人遣ひの揺籃時代。即ち三人遣ひは、原始時代の山本飛騨の、この遣ひ方から出発してゐる。この点が私が前掲に重点として語りたいと云つた一点である。これは今日まで何人もまだ発見しえなかつた人形遣ひの一つの形式で、且つ大切な発達の道筋であると、私は確信する。
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もう一つ進んで説くと、享保二年二月の竹本座は『国性爺後日合戦』が上演されてゐる。この時に初めて、古今独歩の名人吉田文三郎の初舞台がある。この文三郎の初舞台を、宝暦九年刊行の『倒冠雑誌』にかう書いてある。
  国性爺後日合戦に錦しや(経錦舎)の出遣ひ片手にての晴業、年若なれ共さすが親三郎兵衛の子程有のち/\は天晴の役者(人形遣ひの意)にもなるべしと人々是をほめけるが。扨こそ此南瞻部州に吉田文三郎と名を揚たり、若かりし時分より親の職を受継て云々。
とある。更らに同書の別の項目で、
 吉田三郎兵衛は立役人形を専らにして、元祖山本飛騨掾に近寄人形の奥儀を極め云々。
 とある。即ち山本飛弾の系統を引いて吉田三郎兵衛、その親三郎兵衛から、飛弾風を伝来した吉田文三郎の人形の形式は、飛騨風である事、言を俟たない。その文三郎の錦舎で初舞台の片手人形が、前掲のうしろより片手を入て遺ふ人形である事に疑ひはあるまい。この文三郎が享保二年の初舞台から、竹本座で働き、人形のメカニカルの方面の工風、芸道の精進、衣裳の創案--それらの伝ふべき逸話は、誰もが周知の如くである 例へば『夏祭』の人形の帷子、源九郎狐の衣裳の源氏車の模様、等等。一として文三郎の創案ならざるものがない。即ち享保十九年の三人遣の工風も恐らく文三郎の始むる処で、飛弾の流れを汲む片手人形からの、発達に疑ひはあるまい。
 されば今日の人形芝居の功労者は、山本飛騨掾の片手人影に発し、吉田文三郎が、これを完成したといつていゝ。
    ◇
この調子で進むと、吉田文三郎は、我が人形芝居のために、どれだけ功蹟を残したか知れないのだが、盈つれば欠くる世上の習ひ。文三郎は、人形遣ひの埒を越えて、作者の列に加はり、人形本位の、浄るりの改作に指を染め、更らに自分で一本の操芝居を主宰しようとしたので、遂に座元竹田近江の怒りを買つて竹本座を退いた。それは宝暦九年閏七月の事で、前にも述べた如く。資本と相俟つて発達する舞台芸術は、文三郎の才能にして、竹本座を離れては如何ともする能はず、また竹本座も名手文三郎を追て、人気は一時に凋落した。加ふるに竹田近江の一家に経済上の打撃が見舞うたので、竹本座は滅び、豊竹座は他の理由によつて共に退転の運命を辿つた。爾来人形、浄るり共に振はず、文楽芝居へ淡路から初代吉田玉造が入つた。そして玉造の活躍で人形に生気が吹込まれたのであるが、吉田文三郎華かなりし頃に比すれば言ふに足りない。が、この玉造を中心として、名手だつたが夭折した玉助、振袖名人亀松、名人と伝ふる割に、実は宣伝上手で虚名を買つた桐竹紋十郎、下つては現今の栄三、文五郎に及んで述ぶべき事が多いが、与へられた紙数は尽きたから、玉造以下の明治期を又の機会に述べたい。
 要するに人形芝居は、古今の達人吉田文三郎が、享保二年の疾風の如き出現で、人形全盛時代を見せ、宝暦九年文三郎の退却と共に人形進歩の道を絶つてしまつたのだから、人形の盛衰を文三郎一代の栄枯に伴はしめた。以て文三郎の功蹟の大なる事を、却つて裏書してゐる。但し文三郎とは競争の位置にあつた、豊竹座の藤井小三郎などに、伝ふべき事も多いが、文三郎に比しては、月明の前の流星のやうにしか見えないから、今はこれらを尽く省いた。(昭和六、七、八)