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【 石割松太郎 堀川の与次郎の小便と手洟 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
堀川の与次郎の小便と手洟
石割松太郎
民俗芸術2(12) p34 1929.12.1
「民俗芸術」御努力のほど、敬意を払つて毎月拝見してゐます。十月号の五十三頁の埋め草に、「堀川」の与次郎の小便の事が出てゐますが、「文楽にはむろんこの珍型はない」とありますが、この珍型のないのは、文楽でもほんのこゝ二三年来のことで、近くは死んだ吉田文三などは、三年ほど前迄は小便もしてゐましたし、空を見上げて手洟をかみ、その指を入口の柱へなすりつけるなどの科をしてゐます。お客はわつと来るのです。「淡路人形」のみではないのです。本来人形芝居の科は、この程度に、もつと下がゝつたことで猥雑な科が沢山あります。今日のお客を前にしては、廃した方が勿論いゝ事でせうが、文楽国宝扱ひ、近松神様扱ひが度をすぎると、昔の真の事実が知れなくなります。こんな例は枚挙に遑のないほどですが、今日でも残つてゐる型で、忠臣蔵の九段目--といへば、浄るりで第一の重いものですが、あの由良之助が、醉態で女房お石の裳を足の指で、まくらうとする。或は七段目の「船玉様が見えるわ」、「ヲヽ覗かんすないな」の如き、所謂「わるさ」の科など、真正面から、由良之助の性格論を振り舞はされては、昔の人形芝居は成立しませぬ。近い話が、明治十六年卯の十月に大江橋の席で、初めて「観音霊験記」の芸題で、「壺坂寺」を豊竹島太夫が、語つた、この書卸しの時に、谷底で「これはお初にお目にかゝる」といつた沢市夫婦の辞を、これはちとじやら〳〵しすぎてゐるとて、この辞は抜いてはといつた注告者があつたが、節付の名人豊沢団平が、抜かさなかつたといふ、人形浄るりは「これでよろしい」といつた御があります。今日の頭で昔の事を観じようとするのが、第一の誤りぢやないかと、人形芝居についても考へてゐます。「埋草」を読んで「埋草」の材料にもとて。
仁左・文楽・淡路人形
2(10) p53 1929.10.3
今の仁左衛門が初めて東京へのぼつてきた時のお目見得狂言は「堀川猿廻し」、その時、仁左は、背戸の畑で、小便をして劇評家にひどくやつゝけられたといふ話がある。上方役者の悪写実もこゝに至つてはゆるせないといふまけだ。
この珍型が仁左の独創かどうか、当人が別に弁明をした話もきかない。
ところで此間、淡路人形の小林六太夫を南海道の小さな町で見た。その時の演し物に、やはりこの「堀川」があつた。何の気なしに見てゐると、与次郎がかど口で一件をやりだした。見物はどツとくる。犬が出る。ふんどしをくはへて引張る。与次郎をどり上るといふシーン。無論万座は揺れるばかり。
文楽にはむろんこの珍型はない。そこで--仁左が阿波人形の珍型を失敬したのかどうか、といふこおtも問題にはなるが、あゝしたしぐさが「堀川」のできた時にもあうたのだらうかといふことが大きい問題である。
僕はあつたのだとおもつてゐる。いやさう思ひたいと言つた方が僕の本当の心持かもしれない。
都会の評論家からは悪写実だの何のと非難されることが田舎のおかみさんや子守等と一緒に見てゐると却つて人形芝居と田舎の生活を親炙的な関係においてくれる。これは到底文楽では味へないことで、このふしぎな親炙的な味ひに民俗芸術のほんとうの気持ちがひそんでゐるのではあるまいか。