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【 石割松太郎 人形浄瑠璃史の素材蒐集について 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
 人形浄瑠璃史の素材蒐集について 
  石割松太郎
 演芸画報 21(10) pp. 102-105 1927.10.1
 人形芝居-只今の文楽座が、このまゝで月日が経つならば、数年ならずして滅亡する。 否、三百年の歴史を持つ浄るりが、さう易々と亡びるものではない。と、二様の見方があるやうです、然し私の按ひますのには、亡ぶ、亡びないといふのは、畢竟程度の問題で厳密なる意味からいふと、私は人形浄るりは、この間亡くなつた越路太夫の最後の興行を以て、一段落が付いたのだと見ます。
 即ち、貞享二年二月一日に、竹本義太夫が大阪道頓堀に、櫓を揚げて、操芝居を興行した。この年から算出して、越路が文楽座で、『和田合戦』の市若の切腹を語つた、大正十一年一月、この年月を精算して二百四十二年間が、人形浄るりの一寿命であつたと観てさして不都合がないと思ひます。即ち貞享二年以前の義太夫現出前の浄曲界は、未だ十分の形をなしてゐない、浄曲大成の準備時代です。越路歿後の文楽座は、一寿命を終つた人形浄るりの一延長に過ぎない。四囲の事情から考へましても、余ほどの天才の現はれない限り、浄るりが更生され、更らに興隆されようとは思ひません。而してこの道の天才が生れるだけの畑地均[はたけぢなら]しがもうしてゐない、天才が生れるには生れるだけの準備がなくてはならない、その準備が、この世界にはもうなくなつてゐます。
 かう観じますと滅亡、不滅亡も畢竟するに一つであつて、二でない、今日のやうな存在は、実は存在の意義がなくなつてゐるのです。そしてこんな程度の存在ならば、さすがに根深い浄るりは、まだ〳〵この世に存在しませう、さう心配したがものぢやありません
 そこで、さすれば、人形浄るりの保存はどうすればいゝか--といふと、このまゝの保存は、到底申して実行される話でない、早晩もつと〳〵崩れてしまひます、既に見るに堪へないほど、聴くに堪へないほど格式は崩れ、古式は破られてゐますが、それでも御霊に文楽座の本城のあつたときは、まだ〳〵人形浄るりの匂ひはしましたが、今日では、それすらもない。道頓堀は竹田の芝居は、操には関係の深い座ですが、その後身てある弁天座に、文楽座は仮宅興行を続けてゐるのです。
 ところで、按ふに今日にして、この大阪の土が産んだ類のない立派な芸である人形浄るりの形だけでもの保存を--『博物館的の保存』を致さねば、全[まる]ツきり、人形浄るりは、ほんとに滅亡してしまひます。『博物館的の保存』と茲で私の申したのは、真の保存は生命ある興行をつゞけて、時代の観賞を受けつゝ永続して行くのを申します。興行に堪へない、一般の観賞の対象にならないものの保存は、『博物館的の保存』ではありますまいか。 では、どうすれば『博物館的の保存』が出来るか、と申しますと、私は三つの方法をとるより外道がないと思ふ。
 その第一は、前号に、当画報の安部豊氏が申されたやうに、今の間に人形の舞台を映画に撮影しておくことです、但し『映画化』は断じていけません、人形浄るりの舞台を撮影しておくのです、『人形芝居の映画化』は斯道のためには害はあつても益はありません。
 第二は、浄るりの音譜吹込みです、これも音譜を売らうとする蓄音器屋の吹込みては保存になりますまい。真に浄るり保存のための吹込みです。商品の製作でなくして、浄るりの保存のための吹込みです。
 今一つは、人形芝居の歴史の編纂です。
 この三つの方法で、ほゞ人形浄るりを、『博物館的』に後世に保存することが、出来ませうと思ふが、それも今日を過してはもう、どうにもなりますまい、これらは有識者のほんとに真面目な企図にならねばならぬと思ひます。本誌の前号に安部さんは、人形浄るりの『生殺与奪の権』は、松竹東西の両社長の、掌にあるのだからといふ意味で、松竹両社長に、この事業の一つ慫慂されてゐますが、私は松竹の文楽に対する興行方針に、とくに愛想を尽かしてゐますから、松竹といふ営利会社の克く為す事業でないと、こゝに断言します。松竹に人形浄るりに対して、それほどの良心があるならば、今日のやうな、文楽座の死期を早めるやうな興行政策は採りますまい。営利の算盤のけたにかゝれば知らぬこと、然らざれば文楽に対して、『その日暮し』の松竹の営業方針にたよつて、人形浄るりの保存を計らうなどは、木によつて魚を得るよりも、尚至難なことでせう。
 
 私の筆は、文楽座を惜む余りに余計なことに逸れました、私が、この一文を草したのはそんな訳合ひでなくて、人形浄るり保存に関する、上に述べた第三の方法--即ち人形浄るりの歴史の編纂について、些か本誌の皆さんに読んでいたゞきたい、吹聴したい一議があつて、本誌の余白を拝借したわけです。私は、第一の人形芝居の舞台の映画撮影と、第二の音譜吹込みについても、いさゝか実行を目安にした私案を持つてゐますが、それは他日に譲るとして、第三の事業は、さして人の力を借りなくとも、微力ながら私にしてからが、或る年月のうちには完成される仕事の性質てすから、私は私の仕事の余暇にコツコツと取調べにかゝつたのです。ところで、私が実際に当つてみて、困難を感じたのは、材料の蒐集において、昔よりも近世の材料の少いのに困りだした、そして其の材料は、文献は今急にどうと取仕きつてせずとも、あるものはあるので、それ以上の蒐集は、人力の如何とも致しがたいところです。然しこの近世の材料に至つては、文献が殆んどない、そして今日尚生きた材料--素材が全くないではないといふことに、私はふと心づいたのです。
 で、浄曲界の古老を集めて、一つの座談会を開いて、近世の材料を蒐集することが、尤も急務であると感じ、これを今日において為さずば、到底蒐集の機会を逸する、一刻と争ふ仕事であると感じましたので、昨年の七月の九日に、斯道の古老をお招きして、私の存じよりをお話しました、そして皆さんの心からの賛成をえましたので、私は、その書記役を承つて、この座談会の記事を--近世人形浄るり史の素材を、蒐集しておかうと、今日にも引つゞいて努力をしてゐるわけです。
 即ち、時代から申しますと、天保度以降大正十一年まで。太夫で申しますと、五代目春太夫、即ち後に文楽座の中堅を握つた春太夫 摂津大椽の越路の一系統を中心とした六七十年間の、最も文献の乏しい時代を、この古老達の記憶を呼起して、一つの記録に残しておかうといふのが、その企図なのです。
 ところで、博く世間に、この素材のうちから、逸話的に興味のある題材を選んで、本誌に披露を致しますると、それを機縁に皆さんが、御存じの材料が、或は出て来はしまいかといふ心から、本誌の余白を毎号--本誌の編輯が許されますなれば、又皆さんが多少とも、この仕事のために、興味を以て御一読下さる光栄を得ますれば、余白を拝借出来ますれば本懐に存じます。
 そして、この私の会合は、恰も大正十五年七月の九日に生れましたから、『九日会』と命名しました。ところが、偶然にも九日といふ日は、近世の名人摂津大椽の命日に相当してゐますので、会員の人達は、仏縁の淺からざるを話し合つたのでした。この『九日会』に出席さるゝ会員を御披露致しておきませう。
(太夫では)竹本津太夫、竹本土佐太夫竹本古靱太夫、竹本叶太夫、竹本錣太夫
(三味線では)鶴沢友次郎、鶴沢綱造、野沢喜左衛門、鶴沢叶、野沢吉兵衛、野沢吉弥、豊沢新左衛門。
(人形では)吉田文五郎、吉田栄三。
(邊族では)摂津大椽の嗣子二見文次郎名人団平の長子加古平三郎。
(古老では)岡田翠雨、北川太助、楠本万助、中村住正、麻生五福、永藤呂篤、小西い京、梅本香伯(順序不同)
以上の二十四氏に、私を加へて二十五名です。で、これを『口上』として、昨年の七月九日の初会以来話された、いろ〳〵な逸話や芸談のうちから面白いお話を、こゝにご披露しませうとしたのですが、『長口上』で思はず余白を借りすぎました形ですから、今回は『口上』だけで御免を蒙りまして、次回に名人団平の内部生活の一端を書いてみませう。尤も私は歌舞伎座の出版部から発行されてゐます『歌舞伎研究』の第十三号に、この名人が床で浄るりを弾きながら死んだ時の話と『壷坂』の節付について記しておきましたから、御一覧おき下さいますれば幸ひです。(つゞく)