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【 石割松太郎 栄三の檀特山 淋しい文楽座 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
六月の道頓堀
石割松太郎 高原慶三
サンデー毎日 昭和二年六月十九日 6(28) p.14
【帝劇女優の光 中座の新派劇】
【沢田の桃中軒 浪花座の新国劇】
栄三の檀特山 淋しい文楽座
◇……文楽座がやけて、もう半年の歳月が流れた。この半年に文楽王国にとつては重大な事件が次ぎから次ぎへと発生した。人形浄るりの殿堂を蝕ばむ白蟻のやうな出来事--不祥事があとを踵いだことは悲しむべきことだがなほ忍ぶべきてあつたがこの昭和二年の上半期の終りのこの六月興行に際して文楽の落莫を感ぜずにはゐられない。それは叶、角、町、鶴尾の四太夫が、堅い決心のもとに文楽座を去つたことだ。
◇……或者はこれら四天王が文楽を去つたところで、何の落莫がある、あつてさして人気のない太夫だ、「船頭」が多すぎて困つてゐる文楽に、中堅でもないものゝ去るのは、内々は整理が出来ていゝといふかも知れぬ、又これらの太夫はさして将来に待つべき太夫でもない、去る者をして去らしめよと平気でいへるかも知れぬが、私の見るところは違ふ。
◇……この四太夫についで、当六月切りで文字太夫も文楽から籍を脱するさうだ、これで摂津大掾の系統が、文楽から一掃されることになる。が、私は大掾の縁故、春太夫、越路の一大系統である、明治に栄えたこの一つの流れがこゝに断絶することを、情においてはとにかく、芸の上からいつて悲しむべきものとも思はないが、これらの太夫をして固い決心のもとに、日本最後の又唯一の人形浄るりの殿堂から自ら身をひくに至らねばならなかつた「文楽の空気」をいたむのである。一葉落ちて天下の秋を知るのだ、今日のまゝにして文楽があるならば、それは坐ながらにして自滅を待つものといはねばならぬ。興行の責任者である松竹は、文楽座をしてその日暮しの状態におかしむることは、人形浄るりの墓穴を頻と自らほつてゐるやうなものだ。紋下なり、控櫓下の庵にあるものゝ奮起は今日をおいては悔を千載に残すことにもならうと思ふ。
◇……この寂しい--或は「自然整理」の後の六月の舞台の出来栄はどうかと見ると、太夫、三味線、人形を引くるめて第一等の出来は栄三の「檀特山」の熊谷が群を抜いた、実に立派な熊谷であつた、栄三の傑作はこれまでにもかなり見てゐるつもりだが、この組打の熊谷は栄三の傑作の或は唯一のものであるかも知れないと思ふ、下手から出たところ、敦盛を呼び返しつゝキツトきまつた形の貫禄といひ、形といひ立派なものだ、組打になつて「弥陀の利剣と心に唱名ふり上げは上げながら」で刃はふるへながら水平に敦盛に向けられ振上げられるまでの人形の手法、「討奉らばさぞや御父経盛卿の歎を思ひ」で敦盛をヂツトのぞき込む形のあたりは、この熊谷の二重の腹、子を思ふ父の感情が、ヒシ〳〵として看客に迫らうとする、かへつて初日を見物したせゐもあつたが、形よりも精神において、芸の腹が人形をして生かした、私が記憶する栄三の中の最高の傑作と許してもいゝ熊谷であつた。
◇……この組打の大隅は、徹頭徹尾些のゆるみも見せないで、緊張をつゞけて重々しく語つた、従来の「組打」とは趣きの違つた味のある「組打」であつた、そしてそれは清水町の団平の手だ、「団平の組打」であるといふ道八仕込みの味噌だが、大隅はこの「団平の骨」を極めて不器用に使用してゐた、功者なところがない、或は功者でないところが、大隅の価値で、大隅の将来が、この不器用さにあるともいへるが、もつと浄るりを引しめねばなるまいと思ふ、散漫に陥つたことが今度のきずだ。往々にして辞[ことば]なり、地合がのびると、歌舞伎の舞台ならば幸四郎の悪いせりふ癖のやうな感じを与へた、例へば「都の春より知らぬ身の」から「今魂はあまざかる」につゞくあたりが浄るりが引しまらない一例であり、幸四郎のせりふ癖を思はすやうな悪い意味の耳触りの一例でもある。道八の三味線はいゝ、どつしりとした。この「熊谷」の陣門はつばめである。声量といひ、熱といひ、将来に嘱目する腕を示してゐる、きずも多からうが今の修業の第一、三味線の勝市もよくつばめの芸を助けた。
◇……「陣屋」は津太夫で、今度の太夫ではこれが第一の聞きもの、例の熱で押し倒して行く、ひた押しに押して行く熱演、が、前の物語りがよく、いつもの津太夫とちがひ後半よりも前半がよく出来た、もつと弥陀六の間にいゝところがあらうと期待したが左程になく寧ろ弥陀六の世話味に、他との調和を欠いて破綻を見せた。三味線は友次郎が病気のゆゑで叶である、無事すぎる三味線、仕事をしなさすぎる手法--組打の道八から引つゞいて聞くと更にこの感じが深いが、仕事をしないで立派に聞かせばこれに越したことはないが、達者に任かせるといふだけだ。
◇……人形では栄三の熊谷は、私は前の組打に満点をつけると、陣屋は七十点だ。文五郎の相模はこの人の「太十」の操をしのばしむるといふ同一手法、情において誠の薄いことを非難したい。小兵吉の藤の局も、同じ人の万野をとる人形でも芝居でももたれる後だが、小次郎の首と知つてからのいゝ藤の局を見たいものと希望する。◇……この「陣屋」の端場の「熊谷桜」が貴鳳太夫だ、素人から玄人への手見世が前興行の「淡路町」であつた、その品のない語り口を私は難じた、この「半玄」の貴鳳が玄人に伍して端場を語つた時の惨めさを私は予想したが、今度がそれだ。大隅の「組打」と津太夫の「陣屋」とに狭まれて、いかにそれが端場であつても、破綻だらけの「熊谷桜」--軽佻にして浮薄なるこんな「熊谷桜」は実以て聞いてゐられない、あの語り口でいくと、藤の局も相模も軍次も、足が舞台についてゐない、ふわ〳〵浮いてゐる。又藤の局と相模とが語り分けられてゐない、この両人のやりとりが区別がなくてのつぺらぼうだ、例へば相模の「今来て今の物語り」のあたりは拙い素人臭い一標本であり、弥陀六の「冥途へ書出しはやられず、本の是がそんしやう菩提」のくだりの如きイヤ味と匠気で堪へられない「淡路町」で気品のなかつた貴鳳は「熊谷桜」で馬脚を露はしでゐるのは笑止だ。
◇……が、何んとしても今度の聞きものは中狂言で、切は源太夫の「油屋」夏向きのさらりとした滞りのないところを味はふのだが、喰足らぬ代物、この人の地合の不明瞭がいよ〳〵気になる。「油屋」の端場が源路太夫、奥庭が綾太夫、三味線は猿二郎で打出した。
◇……翻つて前狂言の「朝顔」は鏡太夫の「浜松」から聞いたが、結局土佐大夫の「宿屋」のための出し物「露の干ぬ間」なり「ひれふる山」でうならしたのはもう昔だ、土佐の味は今日では大井川になつてからにある、「川止めとは何ぞいな」のあたりから半狂乱の深雪に、美しい咽喉といふよりも、感情の迫つた深い雪、夫を思ふ辞にも地合にも真実に生きて声がかすれてくるところに、豊かな味が出る。文五郎の深雪もよく遣つた、(石割生)