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【 石割松太郎 素人から玄人への芸 貴鳳太夫について 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
素人から玄人への芸
貴鳳太夫について
 石割松太郎
 サンデー毎日 昭和二年五月十五日 6(22) p.16-17
 
 
◇……弁天座における文楽座は、精神を忘れた二部興行に失敗して、五月は逆転の昔の興行に立戻つた。が、狂言の立て方は相も変らぬ、御都合主義、支離滅裂だ、「菅原」を大序から四段目までは、いゝとして、「酒屋」があつて、「重の井」切が「淡路町」だといふ。これで追出しは拙劣だ。「菅原」が出るからは、太夫の「顔」からいつて「佐太村」を朝太夫が語るのを当然とする、されば狂言の立て方ももつとすんなりとなるのだが、朝太夫ともあらう太夫が「佐太村」を知らないといふのだからなさけない。
 
◇……このために太夫語り場に役モメが起こる。イヤハヤだらしなさはお話にならぬ。その上新加入の素義界の立者貴鳳が「淡路町」をいはゆる「化物」として、切に語る、これぢや新進太夫三味線弾が、うだつの上りツこがない。貴鳳が「化物」として出演に立至つたのは、貴鳳の浄るりがうまいのでも何んでもない、一つに加入条件の「組」の頭数によるのだといふから助からない、組の頭が揃へば、誰でもが名誉ある文楽の床を汚せるのだ、これでは「文楽末世」の嘆がなくてどうする、この意味において浄曲界の乱脈は今日より甚だしい時代がいつの世にあつたらうか。
 
◇……こんな興行上の話しを別にして、さし当たりの成績はどうかと見ると、つばめの「東天紅」からきく、師匠そつくりの古靱うつしの語り口、久しぶりにきいたが悪くはない、こゝらあたりの太夫の抜擢が文楽座のとるべき道だ。
 
◇……「道明寺」を大隅が語つた。将来のある太夫だといふが、こんなものになると荷が勝つ、どうにもこなせることが出来ない、菅相丞を品よく語らうとすれば、する程、調子が逃げる、あぶなかしいにも何にも、きいてゐてハラ〳〵とする。私はこの一段をハラ〳〵して聞いたがそれに肩をこらしたこの太夫の若い位置でもあれでは批評の箸にも棒にもかゝらない。道八の三味線はさすがにたしか、「墨絵にゑがく雲龍」のあたり、段切は、目をさましめた、然し太夫を引立てしむる三味線ではないことを怨みとする。
 
◇……富太夫の「車先」があつて、叶の松王、錣の梅王、相生の桜丸で、「車場」だが、梅王、松王、桜丸の順序。島太夫の時平は小さし。駒太夫が「茶煎酒」である、外の顔ぶれがもつと上手な時から駒のこの場は度々聞いたが--従つて久しいものだ、危なかしさがないが、面白味がない「茶煎酒」といふ飄逸な白太夫が出てゐない、死んだ弥太夫のこの場が耳の底に残つてゐる。今更ら思ふと弥太夫は実にうまかつた。
 
◇……文字太夫の喧嘩場、これも久しいものだが相も変らぬ八十太夫時代から進境のない人だ。「桜丸切腹」を源太夫が、モゴ〳〵と語つた地合が分らぬ、あの声で地合の分らぬのは、この人の最大欠点であり、薄つぺらな腹は、人物が出ない。この場の白太夫で客を泣かせないなどは太夫の不名誉だ。絃は仙糸でチヨコ〳〵と規模の小さい三味線は、到底三段目とは受取れない。
 
◇……角太夫の「寺入り」があつて津太夫の四段目だが、いつもの熱演が身上だ。友次郎が病気とあつて叶が弾いた、何の奇もないところが、これまた叶の身上だらう。一段中のいゝところは、源蔵と戸浪との夫婦の述懐のあたりが圧巻だつた。
 
◇……人形では、前狂言中ひつくるめて、文五郎の千代が最上の出来だ。芝居でいふと二度の千代の出で、奥へ行かうとする。源蔵が切かゝるあのイキが、つい近い頃の梅幸の千代が無類だつたが、文五郎もやつぱりこの一くだりが無類、役者と異つたあの行き方、恐らく文五郎自身では千代よりもお園に努力もし得意でもあらうが、私はお園よりも何よりも今度の人形ではこの千代が一等の出来に推してはゞからない。栄三の菅相丞と松王だが、ともに振はぬ。玉次郎の白太夫はよいが、源蔵の方は悪い、最も初日の故もあつたらうが源蔵の魂がフワ〳〵してゐた首実験で看客の呼吸を、首の一点に引つけえなかつたのは、源蔵が悪かつたがためだと思ふ。紋十郎の桜丸は荷が勝つた、奥の暖簾から出たところ、人形に魂が入つてゐない。小兵吉の戸浪はよく遣つてゐた。
 
◇……中狂言は土佐太夫の「酒屋」端場を錣が語つた、錣はとにかく、新左衛門にこの端場を弾かしておくのは勿体ない、三味線があり余つてゐるとはいへ、人物経済からいつても無駄なことだ、有用の材を使ふ道はないものかしらん。
 
◇……土佐の「酒屋」は例の「写実の酒屋」だ、が、もう往年のお園のサワリでうならすよりも、今日の土佐は宗岸と半兵衛とをカツキリと語りわけたところに、土佐の腕もあり、今度の「酒屋」の価値もこゝにある、浄るりは歌舞伎の舞台と同じで、写実々々といつても、詮ずるところ、歌舞台の生世話程度の写実であつていゝ、歌舞伎の様式を基調とした写実だ、浄るりの形式を越えない写実に「世話物」の味がある。純写実ぢやないところが浄るりだ。丁度五代目菊五郎の「生世話の味」が、今日の土佐の「世話物の味」である、五代目が一足「生世話」の範疇を超えた時に「歌舞伎」は破れる、土佐の浄るりもこの味で、今日の写実を一足踏みはづすとその浄るりに破滅がある。
 
◇……「酒屋」の人形では矢張文五郎のお園だ、近松座以来の名誉のお園だが、動きすぎる、いざ見せよう〳〵とする匠気が離れない、うまいうちにこの匠気が邪魔をする、寺子屋の千代を、今興行中の第一等の出来だといつたのは千代に匠気が見えないのを私はとるのである。小兵吉の宗岸は同じ人の戸浪の劣つた。
 
◇……次狂言が朝太夫の「恋十」蓋し朝太夫文楽座入り以来の上出来であるがこの人一流のイヤ味な語り口は器が小さい、三十年の昔に人は「朝太夫節」といひ或は「乞食節」といつて、浄るりとも竹本ともいはなかつた、その「乞食節」の余脈が今日なほとれない、馬方三吉が、一段中の出来であるが、それだけに「乞食節」の尤なるものである。
 
◇……切が問題の素人から入つた貴鳳太夫である。素義界の雄だといふが、さて玄人仲間に入ると見劣り--否聞劣りのすることの夥しさよ。初お目見得がその最上級の得意の「淡路町」だが、第一落着が悪い、さすがに素人稽古の悲しさ声が立たぬ、様によつて葫蘆を描かうとする形で、ある節をなぜて行かうとする、うまく語らうとするのが、先きに立つて、その篇中の人物になりをほせようとする用意に乏しい。が、これらは初お目見得の劈頭にガーンと叩き付ようとは、私は思はないが、この貴鳳に見のがすことの出来ない最大欠点、根本の誤りが一つある--それは玄人に伍して素人の強身、うまい玄人に真似の出来ない素人の面白さは、浄るりの品位である、さすがに「旦那芸」の品位は、稽古を積んだ玄人でもてない、これが素人の強身であつて、柳適太夫にこれがあり、呂太夫にこれがあつた、錦太夫にはこれがない。この「旦那芸の品位」が貴鳳のどこにあるか、求めても得られない。
 
◇……貴鳳の浄るりを聞いて私は思つた、雑つうな春子、田舎の泥臭い春子を聞くやうな貴鳳の浄るりにはこの根本の欠点がある、心すべきだ。江戸札差の旦那衆が、「助六」の河東に出ると、みす内にずらりと並ぶ、頭取が出て「お初め下さい」と舞台で挨拶してから「春霞」となる、そしてお礼はおしなべて黄八丈一反と定まつてゐたなどは、「旦那芸」の床しい話だが、素人から入つたものには、少くとも匠気があつてはならぬ、今貴鳳を見るに、自ら素人の強味を捨て、見台の上でのびたり縮んだり、あの品の悪さは心すべきだ、形既に然り、浄るりの内容がそれだ、玄人筋の見当が文字太夫程度の浄るりといふが、私は「将来のない陸路太夫」程度だといひたい、陸路には「なほ将来がある」といふ強味がある。嘘と思ふなら貴鳳が次興行(?)にどこかの端場を語つたときに徴して御覧なさい、私は嘘をいはない積りだ。
 
◇……人形では、文五郎の重の井は感心しない、お千代の遣ひ手と一つに考へられないほどだ。そして重の井のこの場の照明が、人形の顔を暗くしてゐる、浅くかざつた玄関先の天井からの照明が人形の胸より上を照らしてゐないのは、初日のせゐもあつたが、不用意だつた。
 
◇……栄三の忠兵衛は一通り、羽織落しが切であわたゞしく、しんみりとしないでこの場の情趣がなかつた。玉七の母妙かん、古い人だが、又名人の跡だときくが、気のない事、夥しい。