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【 石割松太郎 文楽の二部制 弁天座 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
花見芝居
  文楽座 石割松太郎
  中座 浪花座 高原慶三
 サンデー毎日 昭和二年四月十七日 6(18) p.21
 
  文楽の二部制 弁天座
 
◇……私が主張した、時代に相応して時間短縮を計るための二部興行が、今度の文楽座で試みられたが、その方法は時間短縮の形骸を学んで精神を体してゐない二部興行となつてゐるのは返す〴〵も口惜しい事だ。こんな二部は改悪であつて、浄るり道のためにはならない、何事も精神を忘れることの不所存が、こゝにも窺はれる。
 
◇……即ち紋下、庵の重立つたものが夜に廻つて、昼は若手の「芸道修業の道場」とする、これが根本義だ、これが浄るり振起の精神だが、今度の二部興行は既成太夫も若手をも殺した愚案だ
 
◇……今一つ、この興行の狂言の立方に賛成が出来ない、立派な「忠臣蔵」を昼に立てながら道行、九段目を欠いてゐる。夜は夜で、千本桜を出しながら道行を抜いて切の「壺阪」などは、何たる出し物の詮議だ。
 
◇……私のきいたのは、昼の部の茶屋場からであつたが、各太夫のイキの合つた掛合であつてこそ、観客を引つける茶屋場が、一向に油も乗らない、熱もない茶屋場、あつたら名作の茶屋場にあくびの連発をした。この罪はどこにあるか、私の思ふには松太郎の三味線に罪がある、「名人松太郎」の三味線のためにこの一場が面白くないのだ、何故だ?朝太夫のおかるを除いて、津太夫の由良之助を初め三味線に添つてゐない、浄るりと絃が肌々になつて面白い油のゝつた浄るりがきかれようとは思はない、然らば朝太夫と松太郎とで面白い浄るりが語られるかといふにこれは前興行の「阿古屋」について、私は詳述したやうに、艶のない「朝太夫節」はもう文楽座の床に聞くべき代物ぢやあるまい、当事者もすでに朝太夫の浄るりの独立した語り場に危険を感じてゐよう、さればこそ、阿古屋に逃げ、おかるに廻して一力の掛合が選択されたのであらうと思ふが、それでこの結果だ。「湊町」で愛想の尽きた朝太夫を生かして使ふ道は、「阿古屋」と「茶屋場」であつた、が、この先はどうなるか?
 
◇……「すしや」は津太夫で、きずはあるが、さすがは紋下、殊に語り込んでゆくと段々あの難声ながら冴えて来る、大和下市の泥臭い権太がいゝ、弥左衛門がいゝ、梶原がいゝ、立派な熱演を示した。これに添ふ友次郎の腕は現在における浄るり三味線の最高の芸だといひたい。
 
◇……切は錣の「壺阪」だが感心しない、随所に前うけをねらふことがイヤだし、自ら楽しんで語る芸にイヤ味のあるのは、この人の匠気に祟るがためだらうと思ふ。新左衛門の三味線はあの音色を推賞し、太夫のぞんざいに比して克明なその芸をとる。錣もぬくし番付面のお礼参りも時間切迫で抜いてゐるに拘らず、愚劣な端場の「土佐町」を存してあるのは何の意か、こんどの狂言の立て方に不服が多いのである。(石割松太郎)