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【 石割松太郎 人形浄瑠璃と泉州堺 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
人形浄瑠璃と泉州堺
  石割松太郎
 劇 2巻2号 pp.62-65 1927.3.1
 
 
 ◇……私は泉州堺の生れである。足利末に栄えた泉州堺の津は、古い日本の文化の淵源である。この土地から海外の文化が流込んだのだ。日本の近世文明の踊は、この堺の津に育ぐくまれてゐたのである。今日見る堺の町は、物静かな落ついた町--古い匂のする幽かしい町であるが、足利末に栄えた頃の堺の津は全く、当時の日本国中随一のハイカラな町であつたらう。
 ◇……この堺の津は、海外貿易の唯一の関であつた、されば鉄砲はこの堺の津から輸入された、「桜の町が近いとてポン〳〵鉄砲を放なすまいぞ』--と浄瑠璃お夏清十郎連理の松、湊町の段にいつてゐるが『難波丸綱目』を繰拡げるまでもなく、私どもの子供の頃までは、井上といふ鉄砲鍛冶の職場が、堺市の北寄りである桜の町の中浜の西側にあつたものだ。
 ◇……堺の津から殺伐な鉄砲といふ武器が輸入されて、日本の武器に一大革命を起したとともに、この堺の津へは三味線といふ風雅な器物が輸入されてゐる。
 ◇……私のこゝに述べようといふのは、この三味線の輸入から話が初まるのであるが、実は旧臘堺市教育会の主催である市民講座の科外趣味講座で、私は『浄瑠璃と堺市の関係』といふ題のもとに、ほんのつまらぬ講演を試みた。雑誌『劇』が人形滞瑠璃号を収録するについて人形芝居の沿革を書けといふ註文であつたが、これは大事業であるから、責ふさげに、この市民講座でお喋りをした心覚えの稿本を更らに綴つて茲に印刷に付することゝする。
 ◇……私は小唄の祖である、堺に産れた隆達節について詳しいことを知りたかつたので、私の能ふ限りを尽したが、隆達については得るこころは余りに貧弱であつた、然しこの隆達とほゞ時代を同うして、永禄年間に三味線の原形が堺の津に輸入された、この三味線渡来を永禄とし文禄年間とする二説があるが、どうも永禄年間に琉球から渡来したのが、真事実であるらしい。が、ふしぎに隆達節とは関係がなかつた、即ち隆達はどこまでも扇拍子であつて、即興の唄であつて、三味線に合したものではなかつた。
 ◇……ところで、『浄瑠璃』の権輿はいつ頃ぞやといふと、例の『宗長日記』に既に見えてある如く、享禄四年に、宇津山辺の旅の宿りに、小座頭が浄瑠璃を語つてゐる、そして『浄瑠璃』とは、牛若と浄瑠璃姫の情事を物語りにした『語りもの』の一種である。
 ◇……この浄瑠璃姫物語が、浄瑠璃の始めであつて、少くとも享禄四年から永禄に亘つて扇拍子で語られてゐたと思はれるが、永禄年間に、葡萄牙の楽器であるバイオリン系の胡弓に類した楽器が、琉球から、堺の津に渡来したのである。この胡弓を奏することがむつかしかつたので、平家の琵琶師が、その撥を以て弾き初めた、これが三味線の根元である。
 ◇……ところで、琵琶の撥を以て弾き初めたのは、琵琶法師の手によつてなされた、そして三味線が弾けるようになると、これが扇拍子に代つて浄瑠璃をこの新しい楽器の絃に合して語り出すようになつたのである。この琵琶法師こそ、堺の産で慶長頃の盲人でその道の高手ご唄はれた沢住検校であつた。
 ◇……この沢住検校の門下に、目貫屋長三郎といふものがあつて、摂州西宮の傀儡子引田なにがしを語らひて、浄瑠璃に合せて人形を操つることを初めた、これが全く今日いふところの人形芝居の権輿であつた。そしてこの目貫屋長三郎は、京の人であるが、堺に移り住んでゐた。斯くの如く永禄年間に渡来した三味線が、沢住検校、及び目貫屋長三郎の手を経て浄瑠璃に合せるやうになつたのは、慶長の年間である。
 ◇……ところで、泉州堺の人で、水無瀬流の琵琶を岩橋検校に学んだ虎屋治郎右衛門が、沢住検校に曲節を学び、薩摩太夫となり、薩摩浄雲となつた。これが寛永の初年に江戸に下つて一流を開始した、これが江戸浄瑠璃の祖であつて、浄雲の下に丹後太夫、丹波太夫、源太夫、長門太夫といふ虎屋と称する四天王があつた。
 ◇……この四天王の一人である源太夫が、京都に上つて京都に浄瑠璃の根を下ろした。これと前後して京の人で井上播磨椽が源太夫の門に入つて、一流を始めた、これが寛文の頃よう流行し浪花の地に入つたのであるが、後の竹本豊竹ともに、この播磨の系統を引いてゐる。かくて山本角太夫土佐、宇治嘉太夫加賀などを経て、天王寺の五郎兵衛即ち竹本義太夫を生むに至つたのであるが、私の目的は浄瑠璃の歴史を説かうとするのではない。竹本義太夫といふ人形浄瑠璃の大成者を生むに至るまでの径路が明かになればいゝのだ。
 ◇……即ち沢住検校、薩摩浄雲といふ堺の津の人々によつて、堺の津に渡来した三味線が浄瑠璃姫物語と結合して、今日の浄瑠璃の基礎を作つた。故に人形浄瑠璃は堺の土地から発祥し、堺の土が産んだ一大芸術であつたのだ。
 ◇……堺の土が産んだ浄瑠璃は、不思議な因縁で、更らに近世に入つて、堺の人士の手で、今日に伝へ、且つ栄え来つたといへるのである。今日何人も近世の--近い時代の名人とこいへば、摂津大椽を推すことは間違ひがないが、この摂津は大阪の産ではあるが、春太大系の人である。そして春太夫系は結んで堺の出身なのである。
 ◇……初代春太夫は、竹本大和椽の門弟で、泉州堺の産、延享元年から天明四年まで栄えた名人であつた。春太夫の二代目は初代の又弟子であつたが凡庸の材であつた、三代目は岡太夫の門人でこれも凡々。四代目の春太夫が堺の人で桝屋又兵衛といつて、三代目の門人であつたが、四代を継いだが、多病であつたので、堺戎の町西六間筋へ隠退した。この四代目に養子となつたのが、竹本氏太夫の門弟で文字太夫といつた男で、これが五代目春太夫となり、春太夫の中興の祖である。この五代春太夫が泉州堺鍛冶屋町の産であるが、一日出羽庄内の城主酒井左衛門尉の江戸邸へ招かれて『山科』を語つたが、浄瑠璃を語つてゐるうちは寸分の隙がなく、気合充満してゐたと、左衛門の尉から激賞された名誉の逸話が残つてゐる。
 ◇……五代春太夫の三味線が野沢吉兵衛であつて、この両人が摂津大椽を仕込んだのである。摂津の浄瑠璃は勿論天性の美音の助くるところでもあつたらうが、春太夫吉兵衛に負ふところも多大であつた。そして大椽の衣鉢を継いだものが越路太夫であつて、これ又、堺の産である。
 ◇……かう数へて来ると、今日文楽座を拵へ上げた春太夫系統の殆んどが--初代春太夫、四代春太夫,五代春太夫、越路太夫と--堺の産である。これをしも因縁浅からずといへようか。この意味において三味線渡来の抑もから文楽座の紋下竹本越路太夫に至るまで、堺の土の生んだ『人形浄瑠璃』といふもあへて不思議ではない。或は又潜称でもない。全く人形浄瑠璃は、多く堺人士の手になつた郷土芸術でないといつていへないことがあるまいと思ふ。
 ◇……日本音曲の司である浄瑠璃が、堺の土地に因縁の浅からざることを、堺の人士がハツキリと知つてゐるのだらうか。私はこの意味からいつて、近世文化の大事業をなした、この立派な郷土芸術の大成者である初代春太夫から越路太夫に至る浄瑠璃界の『近世』の事蹟をもつと〳〵闡明したいと思ふ。この『近世』の時代こそ、最も文献に乏しく研究に資する材料を欠いてゐるので、せめても古老の生存中に材料の蒐集に努めんとして、『九日会』といふを創立し、現在の文楽座の主なる篤志家を以て組織し、『近世』浄瑠璃界の研究に貢献するところあらんことを期してゐるが、同好の方々に研究資料の御提供を希ひたいものである。(大毎図書室にて)