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【 石割松太郎 焼けた文楽座の断片 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
焼けた文楽座の断片 その想ひ出と将来の人形浄瑠璃
石割松太郎
演芸画報 21(1) pp.75-77 大正十六年一月一日発行
◇……十一月の廿九日、朝飯を認めてゐると、文樂座が焼けてゐるといふ電話を受取つた、ハツと思つた、毎月狂言の替り日毎に、その木戸をくゞる、御霊の南門の石の鳥居をくゞるにして、西門の路次から入るにして、ゴミ〳〵としたこの宮地の隅ツこの文楽の桟敷へ通るたびに、火を恐れてゐたのだ、とう〳〵事実となつて現はれた、予期した恐ろしい不詳事に直面したのだ。
◇……自動車を、私の勤めてゐる新聞肚に飛ばした、車中で思つた事であるが、文楽はどうなるだらう? 今の文楽の焼跡にはとても再築は許されまい。--とすると、が、文楽の再築は松竹の白井氏は、恐らく採算を度外しても、遂行するにきまつてゐる、御霊神社や付近の人々は、とうの昔から移転を迫つてゐたのだ、両三年前に、文楽座が道頓堀の角座と朝日座との間に移転するので、その敷地が松竹へもう登記されたとまで噂された事があつたのだ、然しそれは単に噂に止つたやうだ。
◇……文楽座が引越すにして、盛り場の道頓堀を選ぶことは疑ふ余地はあるまい? 既成の芝居小屋を文楽座に改築するのではあるまいかなど考へてゐると、車は京町堀の電車通りを奔つてゐる、京町橋の上は人の黒山、その先きの御霊あたりには、白い煙が濛々としてゐる、あの懐しい文楽座があの白い煙の下に燃えてゐるのか、--と、何とも知れぬ哀愁を覚えた。
◇……毎日新聞社へ着くと、文楽の歴史を調べたり、想出咄のつづき物を執筆したりしてゐると、堺卯へ飛火したといふ号外が出たのだ、この社内に配布された号外を見て、因縁に驚き、不思議なる偶然の出来事に直面して、何かの因果があるやうな心地がした。
◇……といふのは、文楽から堺卯へは三町ばかりも隔つてゐるのだ、白昼に、しかも消防の手の届いた大阪の真ン中で、あれしきの火が三町余の処へ飛火するさへ不思議だが、不思議はこれに止らぬ、文楽座がもと松島の今の八千代座にあつたのが、大阪の西のはてゞ地の理を失つてゐるので、興行毎の不入、且ついなりの彦六座(東区博労町)に蹴落されさうなので、大阪の中心である船場へ引越さうとした。その時に第一候補地とされたのが、当時草茫々と生えてゐた、今の堺卯の地所だつたのだ、堺卯は大阪に名ある宴会茶屋である。
◇……が、引越す位なら、少しは客足のついてゐる御霊地内の土田の席を買ひつぶさうとこの方が選ばれて、土田席といつた席を改築したのが【土田の席が持つてゐた興行権利を買つて、新たに御霊社内西南の隅に新築したのが〔『人形芝居の研究』更生閣版〕】、今の文楽座で、それは明治十七年であつた、そして第一候補地の空地には、その後になつて堺卯が建築されたのだ、話はこれだけだが、この因縁に因果関係があるやうに思ひなされたのも私の愛惜する文楽座の火災を、我が家が焼けたやうに、心を痛めた私の神経の弱り目に蝕くふ一種の迷信の業だと、今では思つてゐるが、『その日』には変に感傷的な感じが先きに立つた。
◇……只一つの文楽座といふ小屋の火災が、何故にそれほどに、私なり、浄瑠璃を愛するものゝ心を痛めさすのだらうか、道噸堀の芝居小屋が焼けた場合とは、確かに感じが異つてゐる、それは何故だらうか。歴史ある由緒の深き「文楽座」といふものを愛惜するが故のみではないらしい。それは何?
◇……何人もいはず語らずのうちに、人形浄瑠璃の将来に覚束ない、寿命の末を感じてゐるのではあるまいか、『文楽は滅亡する』『否しない』と直仮対の事をいつてゐる人が二通りあるが、『する』『しない』の両者ともに、人形浄瑠璃の『寿命』を感じてゐる、帰するところは実は一つなのだ。
◇……この場合に、その本城が焼落ちたのだ、只の建造物が焼けただけだとのみ、実は楽観を許さない。文楽座は再び松竹の手で再築されるを疑はないが、どんな形式に再築されるか、それが問題だ。 ◇……誰れでもがすぐ気のつく事だが、人形浄瑠璃は、世界に類のない発達を遂げた『偶人劇』だから、昔さながらに保存せよ、厳格なる昔の口伝、法則、不文律そのまゝに保存せよ、--といふ説も、何といつても『時』の力には敵はない、浄瑠璃とても『時』の埒外に出ることが出来ないのだから、激甚なる発達変化の街頭に引出し、そして生存の権利を主張するならば、『時』につれて変化する事は当然だといふ説、その二つの道がある。
◇……人形浄瑠璃のために、果して何れの道が選ばるべきだらうか、私はいひたい、果した厳格なる意味において保存といふ事が出来るだらうか、疑ひなき能はすだ。現に十年一日の如く見ゆる『文楽座』が、この十年の変化は、考へれば恐ろしいほどの変化を見せてゐるのだ、この『文楽』をどう保存するか、その実行方法が聞きたい。
◇……これを街頭に出すとして、現に自由競争の巷に呻吟してゐるが、この文楽がこのまゝ一営利会社の手で興行を続けて行くとして、どんな運命をとるか。これも寒心に堪へない。 ◇……そんならば、今後の文楽はどんな方法で、興行を続けてゆくか、研究問題はこゝだ。私に一案があるが、この断片的の感想に述ぶべくもないから、他日の機会に譲るが、さし当り、人形浄瑠璃の熱愛者がなすべき三つの仕事がある、これは項目を挙げるだけで事は理解されると思ふから、最後にこの緊急なる三つの仕事を述べておかうと思ふ。
◇……その一は、人形の動作を、連続的に映画のフヰルムに、まづ収めておく事が一つ。
◇……その二は、各太夫の--保存に値する太夫の浄瑠璃を、出来るだけ完全に蓄音器のレコードにとつておく事、但し現在、世間に出てゐるレコードとは異つて、人形の動作に合ふやうに、単なる語り物としてゞなく、『人形芝居』の浄瑠璃をレコーヂングしておく事。
◇……今一つは、我が文壇に只一つの『人形浄瑠璃』の歴史がない。これが完全を期する事。この三つがさし当り為さるべき、又為さねばならぬ緊急事だと思ふ。
◇……日本の歌舞伎の歴史も、唯伊原青々園氏の列伝体の『日本演劇史』と『近世演劇史』とがあるのみだ、そして歌舞伎にあつては『舞台の歴史』があつて、『脚本の歴史』がない。然るに浄瑠璃に至つては、『浄瑠璃』の文献的の歴史は、不完全ながら一二を数ふる事が出来るが、これは又芝居と仮対で人形の舞台の歴史即ち『操の歴史』は唯の一本さへもないのだ、そして未だ何人が試みつゝあるといふ話さへも聞かない。
◇……『操の歴史』は、もう現在において、着手しないと到底出来ない、既に手遅れであるが、それでも今にして何人かゞこの困難なる事業に指を染めないと、到底大成はむづかしい四囲の事情にある。この話を嘗て文楽座の竹本土佐太夫氏に雑談の折りに話した、すると土佐氏もとくに憂ふるところであつたから、とにかく古老が尚現存してゐるうちに、『操の歴史の資料』を掻きあつめておかうといふ相談が持上つた。
◇……土佐氏と私とのこの話が動機となつて、この夏八【七〔『人形芝居雑話』〕】月九日に文楽座の主なる人々が集まつて、実はこの『操』の資料蒐集の企てを実行する事に話は進められた。会するもの土佐太夫を始め文楽座の紋下津太夫、古靭太夫、叶太夫三味線では鶴沢友次郎、斯道の古老としては岡田翠雨氏、故摂津大椽の嗣子ニ見文次郎氏、この七氏に加ふるに私が雑魚のとゝ混りをした。
◇……偶然に会したこの九日が、月こそ違へ、故摂津大椽の命日に相当するといふのでこの会を因縁あるものとして『九日会』と命じたのだ。で、天保度以後明治大正の人形浄瑠璃の研究を記録に止めておかうとの企ての実行に取かゝつたのである。天保度以後とさしづめ定めたのは『この生きたる文献』の集大成を、最も急務としたからである。
◇……私は唯『九日会』の書記を勤むればいゝと心得てゐる、どうぞ隠れたる斯道の研究者なり古老たちは、私の微力をお助け下さらん事をこの機会に御願ひしておきたい。文楽座の火災は、私をしてこの仕事に一層の焦慮を感ぜしめたのである。(一五、一二、二夜)