FILE 160

【 石割松太郎 七代目を継いだ野沢吉兵衛 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
七代目を継いだ野沢吉兵衛
  石割松太郎
 サンデー毎日 大正十五年九月廿六日 5(42) p.14
 
 
◇……御霊神社の一隅に、静かに一世界をなしてゐる文楽座にも、近来事が繁く、名人上手が段々と亡びてゆく、近く人形の玉蔵が逝いた。文楽王国にとつては多大な損失だ。いや文楽王国に限らぬ、この日本の芸界のためにどれだけの損失となつたかも知れぬ。がそれも命数だ、個人としては気の毒だが芸壇のためには逝つた名人上手を徒らに追慕せんよりも、新しいものゝ簇出と若いものゝ上達こそ大切である。
 
◇……ところで、この盆替りの興行から、土佐太夫の相三味線である野沢吉三郎がその恩師野沢吉兵衛の名を襲うて、七代目をつぐこととなつた。名などはどうでもいゝ、芸の本質さへよければそれでいゝといふ事も通用する、当たりまへすぎる程の理窟であるが、妙なもので、名は実の賓で、芸から名が生れるのだが、古来の名人上手の名をついでからめつきり腕が上達する場合がある。あるといふよりも「名」に責任を感じて名人の名を汚すまいとする芸道の誠が、その人の腕を磨く刺戟となつてゐる場合が多い。
 
◇……吉三郎が吉兵衛となつたのは、当り前すぎるほどの順序であるが、それでも当人は「名人吉兵衛」の名を継ぐことを空恐しいものとして辞退したのださうだが、太夫の土佐太夫も勧め、贔屓筋からの勧告もあつて、今度いよ〳〵吉兵衛を襲名した。元来「吉兵衛」の名は吉三郎、吉弥、吉兵衛といふ順序に進んで行く階段であるのが吉弥をさしおいて吉三郎が吉兵衛を襲名したといふのは、特殊な事情があつたのだ。
 
◇……この間死んだ六代目吉兵衛の重なる弟子としては八助と吉三郎とがある、この両人は何れを兄とも弟ともいひかぬるほどの腕である、が、八助は吉三郎よりも一月ほど早く入門した兄弟子である。芸はといふと一長一短である。が、私の見るところでは、八助に天才の閃きがあるが、常住不断の努力が欠けてゐる、吉三郎はどこどこまでも堅実に型を追うて手堅い努力の人、修養の人である。八助に堪まらぬほどの妙手があり、うまいと思はす桟敷の手摺を拍つところがあるが、腕の弱い、時にはだらけるところもある。吉三郎にはこの芸にムラがない、努力のひた押で叩き上げ築き上げたところの腕の強さは、八助の遠く及ぶところでない。が、撥のよく廻る器用さは八助にあつて、吉三郎の欠けるところだ。
 
◇……この一長一短の、何れを何れと批判し難い二人の弟子を持つた故吉兵衛は、吉兵衛の名を、一人に継がさうには、迷うたことであらう、ところへ、八助が吉弥の名を望んだのであるから吉兵衛は八助に吉弥を与へ、当時すでに吉三郎であつた吉三郎に七代目吉兵衛を与へることとしておいたのである。
 
◇……で、控紋下の太夫の土佐を弾いてゐる以上、吉三郎も紋下格の吉兵衛の名を襲ぐに何のふしぎもなく、この盆替りから七代目吉兵衛となつて、中幕の「堀川」に墨の香新しい「野沢吉兵衛」と太夫付の三味線に、その名を番付に現したのである。で、吉三郎の新吉兵衛の芸壇における生立ちを今にして顧みると、新吉兵衛は明治十二【一】年の生れ、当年四十八歳といふ今が油の乗りどころ。その子供の時には姉が地唄を稽古してゐるのを聞きながら三味線に引つけられて幼いながら、何を捨ても糸の調べに我を忘れてゐた。こんな事が縁で、十三歳といふ腕白盛りに、豊沢兵吉の弟子となつて兵一の名を貰ひ彦六座へ通つてゐた。
 
◇……が、後先代の吉三郎即ち溝池の吉三郎といはれてゐた名人のところへ通つたが、吉三郎が死んだので、この間の吉兵衛が吉弥時代にその門に入つたのである。かくして兵一、二十三歳の時に師匠から市次郎の名を貰つた、この市次郎といふ名はなか〳〵由緒深い名であるといふのは、野沢家では三代目の吉兵衛が中興の宗であり、且浄曲界全体としても一時代を画した画期的の名人上手であつた、その三代目の幼な名が市次郎で、三代目は市次郎、勝鳳、吉兵衛と進んだ人であるから、市次郎はなか〳〵の重い名とされてゐた。この市次郎を二十三歳にして貰つて初めて、当時の新靱太夫の「伊賀越」三段目の切「まんぢう娘」を勤めたのである。かくて廿五歳まで新靱の合三味線で、廿六歳で伊達太夫--今の土佐太夫を弾く事となり、今日に及んのであるが、廿七歳のときに堀江座が出来て、この開場興行に伊達太夫の「本朝二十四孝」四段目の切を弾いたのである。
 
◇……ところで新吉兵衛が、廿三歳にしてすでに市次郎の名を貰ひ、廿七歳にして四段目を弾くに至つたその出世芸は何であつたかといふと、いつも若い芸人の登龍門となしてゐる人の代役をして名人清水町即ち団平師匠にその技を認められたに端緒を発してゐる。
 
◇……それは新吉兵衛がまだ十八の時であつた、稲荷座で「箱根霊験記」が出た事があつた、この躄の仇討の「饌別」の立はじが新靱太夫で合三味線が広作であつたのが、興行半ばで広作が病んだのだ、どうにも代りの都合がつかなかつたので、立はじはまだ一度も弾いた事はないが手のあいてゐる新吉兵衛当時の兵一の頭上にこの大任が--或はこの出世のかけはしが見舞つたのであつた。若い兵一は懸命であつた、又すばらしい出来栄を見せた、清水町の師匠はこの兵一に嘱望し、その芸の筋とその努力を高く買つたのである。して稲荷の次興行に「菅原」の出た時に清水町の口添で兵一は立はじの車場を弾いた、太夫はこの間死んだ声の美しかつた雛太夫であつた、この「饌別」と「車場」を出世芸としてメキ〳〵と兵一は名をあげ腕を磨いたのであつた、そして代役の縁から伊達太夫を弾くまでの数年を新靱太夫の合三味線として終始した。
 
◇……ところで、今度の新吉兵衛の襲名の披露に「堀川」が出てゐるが、この「堀川」は「吉兵衛」にとつては、なか〳〵縁の深い狂言である。--といふのは、「堀川」ばかりではないが、--吉兵衛六代中での傑物であつた三代目の吉兵衛が時勢に添うて三味線の手を派手に〳〵とつけかへた、画期的に浄るり三味線の手を改善し一新時代を画したのだが、なかんづく「堀川」を最も得意として、今見るが如き「堀川」の三味線を創作した、--創作したといつてもいゝくらゐに、従来の「堀川」から脱離して、新しい三味線を生んだのである、爾来堀川はこの三代目吉兵衛の型によつて三味線は今聴くが如く弾かれてゐるのであるが、この吉兵衛名にとつても記念すべき作であり三味線の出し物でもあるところから、今度の吉兵衛襲名披露狂言の選に当たつたのだがこの三代目は「鬼吉兵衛」と呼ばれた程の名手で、あの大い太夫の春太夫を弾き摂津大掾を仕上げた名人である、そしてこの三代の父といふのが、初代の越路太夫であつたから、自分の育て子の摂津大掾に父の太夫名の越路太夫を名乗らしたのだから、文楽座にとつては、三代吉兵衛以来吉兵衛名は重い〳〵名跡となつてゐる。
 
◇……終りにこの由縁深き吉兵衛の名跡をついだ七代目を心から祝福し、浄曲界のためにその人を得た事を慶んでおく。