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【 石割松太郎 一寸一ぷく 向上会を聴いて将来の文楽を背負つて立つ人 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
一寸一ぷく
 向上会を聴いて将来の文楽を背負つて立つ人
   石割松太郎
 サンデー毎日 大正十五年七月廿五日 5(33) p.16
 
 
◇……しかとした年代は記憶がないが数年前から夏場の文楽座に「技芸向上会」といふものが行はれる。六月の普通興行の出し物狂言をそのまゝに月を越えて若手連中が踏襲して、語り、遣ふのであるが、普通興行ではとても与へられない語り場が振あてられる、いはゞ此向上会は若手連中の為の登龍門ともいつてもいゝ、静太夫、死んだ越登太夫、鏡太夫、越名太夫、今は兵営にゐるつばめ太夫など、この向上会で擡頭した人々であつた。
 
◇……これらは等しく「向上会」が作つた、「向上会」が世間に送り出した「検定」済の太夫である。それだけに向上会の初期には太夫にも三味線にも人形にも熱があつた。疵だらけであつても、芸に冒すべからざる熱があつた、火花が出ようかと思はれた純なものがあつた。
 
◇……ところがこの一両年、一昨年あたりからの向上会には昔日の意気はもう認められない、太夫でも三味線でもが、切符を贔屓さきの家庭に頼み込むのがその主なる仕事と考へられてゐる、本質的に向上会の堕落は、この切符の配布から初まつてゐるらしく観測される。質も落ちた、熱もなくなつた、将来を嘱望された太夫は、殆ど尽くが、一寸中休みの形である。立派な太夫、文楽の中堅も行詰つたこの浄曲界の風潮は向上会の若手連中をもその渦中にまき込んだ形である。総括的に抽象的な物のいひかたを、直截に率直にいはうものならば、今年の向上会の成績に見るがいゝ、静太夫が向上会で認められた往年の意気が、どの太夫の語り場に尋ね当てることが出来るだらうか疑問だ。
 
◇……実をいふとその静太夫があの勢ひであの熱で進んで行かうものならば、どれだけの太夫になるだらうかと思はれたが、その静も一寸腰を下ろして一ぷく、四方の景色を眺め入つてゐるといふ形である。いつか、今の土佐太夫がまだ伊達太夫時代に、その自邸に催された「大序会」を聞いたときに越名の美声と、疵はあつても真摯なるその芸に、近い将来を楽しんだのであるが、今度「妹背山」の雛鳥を聞いて、残るところはその美声だけであることに失望した。
 
◇……なほ挙ぐれば挙ぐる程いろ〳〵の実例があるが、要するに、将来を嘱望された越名級の太夫は一寸一ぷく、静太夫までの階段をも中途半ばで小憩みの態、静太夫級の太夫もが又一ぷく、文楽の上下を挙げて腰をかけて一服、心のどかに(?)煙を輪に吹いてゐる有様だが、一体これは何の罪か、誰のなすわざか、貴い我浪花の地が産んだ唯一の人形浄るりのために、能ふべくはこの禍根を除いて、浄曲全盛の昔にかへしたいものだ、少くとも適法である保存方法をこの郷土芸術のために講じたいものだ。
 
◇……一体に文楽の人形浄るりの盛りの過ぎたことは、その寿命の致すところだらうが、今日よりも甚だしい事は一寸類が、昔にふりかへつてみてあるまいと思ふ。周囲の事情、浄曲の本質的に、或は等々とその原因の検索は、多くの材料を吾人に提供するであらうが、結局は携はるものゝ熱がなくなつたのが、この最大かつ根本的の原因だらうと思ふ。
 
◇……故団平は、人も知る如く近世の名匠で、どの方面に比較しても遜色のない名人上手だつたといふことだが、この人の語録に
 芸事は何でも彼でも二十五歳までに覚えるだけの事を覚えてしまへ、手前の力だけしか他人の芸も分るものぢやない二十五歳までに詰込んだ芸が自分の芸として花実の咲くのは四十五歳の後だ
 といつて弟子を導いたといふ事だが、二十年の自分の研究は、二十五歳までの蓄積した芸を個人の坩に入れて再現する準備時代なのだ、言葉を換ると、「手から口に」覚える事も小刻みに再現する事も小支払ひ式な当世風を戒めてゐる言葉と見ていゝ、独創のない芸は生命のない芸である事をいつたものとみてもいゝ。
 
◇……芸に個性を尚んだ団平の言葉は、どの種の芸にも共通の真理であるが、今の文楽の連中若手連中は小利口である、むさぼるが如く芸を満喫しようとする人がない、まして二十五歳までにすべての覚えらるゝだけを覚えようと心掛てゐる人は殆ど絶無といつていゝ位なものだ。
 
◇……このたのみ少の文楽向上会の出演者中で比較的有望な人々を、仮りに求めてみると、実力を涵養しえた点においては島太夫、その意気を壮とし音量をとるべきとするは鏡太夫、珠玉の如きいゝ本質を抱いてゐる点では人形の簔助であると、私はいひたい。
 
◇……かう見わたしてみると、太夫として先天的の強味である美音家は少いものだ、めつたにないものだ、百人に一人の割合は弾き出せまいと思ふ、すると死んだ越登太夫などは惜いことをしたものだ、越名太夫などは大に自重せねばなるまい、そして与へられたる天賦の美音を頼まずに、もつと〳〵精進すべきだ。
 
◇……美音家が少いといへば、昔の太夫の立者は、いつも〳〵その後進を求むるには、まづ野にある美音家を苦心をして求めたものださうな、表を通る八百屋の振売り、昼網のいわしを商ふ若者、冬の月に凍る霜夜の夜なきうどんの声にも耳をそばだてゝ、これはと思ふ声を求めては呼び込んだものだといふが、死んだ南部太夫の如きも八百屋のかど売の声から見出された美音家の一人である。芸に仇おろそかはない、と、ともに深ければ深くしていよ〳〵味の豊かなのも芸の道だ。