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【 石割松太郎 道頓堀の人形芝居 津太夫の「沼津」は傑作 】
(2023.05.28)
提供者:ね太郎
道頓堀の人形芝居
津太夫の「沼津」は傑作 石割松太郎
サンデー毎日 大正十四年十月廿五日 4(47) p.14
◇……御霊の文楽座が不振である、然し地方興行--東京をはじめ博多、神戸、京都では、こぞつて人気を呼んだといふので、本場では、御霊の地内にちゞこまつてゐるから、不振がつゞくのであらう、道頓堀へ出て--民衆の只中へ飛込んで人形芝居に対する意見の好尚の試験をしてみよう、或はこの一般興行、いはゞ、人形芝居を見たことも、聞いた事もない民衆への宣伝興行で、一人でも浄るり党が出来れば幸であるといふのが、今度の道頓堀へ人形浄るりが乗出した第一の理由であるらしい。
◇……この興行策戦が当たつて、文楽座に対する新しい□□者も大分得たやうである、穴勝に組見の見物でこの廿日間を道頓堀に打つゞける事が出来たものとは思はないが、今度の興行成績を見ても、もう文楽座は特別の保護を加へねば、何等かの方法のもとに保存の方法を確立せねばならぬ事を深く思はしめた。
◇……この一般への紹介興行との意味から、今度の各太夫の出し物は妥当な選択を経てゐる。第一に「寿式三番叟」があつて、前が「本朝廿四孝」叶太夫の勘助物語りから聞いたが、この人では勘助の人物が小いのは余儀ない、つぎの景勝の上使は島太夫であつたが、くすんだ立たぬ浄るりは損。
◇……十種香は美音の土佐太夫にサビが乗つていゝ聞かせものであつた、「ゆく水の」の語り出しからこの人一流の節のゆり、自由自在に語りこなせて行つたが、八重垣姫のあでやかさよりも、濡衣の心持が一等よく出てゐた、近来の土佐にこの傾向が語り物毎に色が濃くなつてゆくやうだ。難をいふと語り口に儲けようとするところに浄るりの品位が下る、が、当代の十種香、奇麗な浄るりは一寸真似手のない出来である。
◇……中狂言が津太夫の「沼津」であるこの人は愚直な程に生まじめに語り込んで行くから、前半はそれ程でもないが、語り進めば進む程に熱がある。語り手と人物とが融合渾一するところに聞く者を引つけねばおかない、けだし津太夫が近来の傑作であらう。中にも平作が無類、初めからのあの長丁場を些のたるみも見せずに語つたのは偉い、そしてこの人としては語り勝手の悪いおよねも十分に生かせたのは手柄、道八の三味線も足が長いといふ非難があつたが、大分縮まつても来た、太夫とのイキも合つて来たやうだ。
◇……人形からいふと栄三の八重垣姫はいゝ形を見せ、思ふ存分に使つたが、私が見た日には早替りは不手際であつた、然しこれは人形遣ひの不名誉でも何でもない。政亀の濡衣は一通り、玉次郎の勝頼は行儀が悪かつた。
◇……玉蔵の平作も傑作の一つだが、文五郎のおよねはよく遣つた、あの口説の間が何ともいへぬいゝ形をいろ〳〵に見せる。栄三の重兵衛は一通りの出来である。
◇……次ぎが「紙治」の河庄で静太夫の端場があつて、古靱である、幾度も〳〵もいふ事だが、古靱の浄るりは全く真[しん]以て面白くなくなつた、相当に語つてゐることは認める、あの難声をあれだけに語りこなせてゐる事も認める、あの乙の声のいゝところイキなところも認めるが、肝腎かなめの浄るり全体が少しも面白くないどうしたものだらうかいふまでもない芸に余裕がない、ぶん廻しと定木で描いた絵のやうで人物が少しも生きてゐない、魂のない浄るりに面白い筈がない、結局は古靱の浄るりの腹のすゑ方が間違つてゐるのだ、浄るりの面白くないのはこゝからすべてが出発してゐる、例へばどこまでいつても粉屋孫右衛門にならずに蔵屋敷のおさむらひ--それも歌舞伎役者の真似をしてゐるおさむらひで終始してゐる、この時代に世話の詞の面白さがないのなどは浄るりを語つて、人物を忘れてゐる事になる、ぎごちないこの人の浄るりは或はこれがもう行止りかも知れない。まだ〳〵往々にして古靱の浄るりに未来の紋下を聞いてゐる人のあるのを私は□ひたい。
◇……切は「阿古屋」で土佐太夫、重忠の津太夫、静の岩永、古靱の榛沢道八の三味線、清六のツレ弾で今での掛合の上乗のものであるが、流石にかう並んでみると文楽の修業は恐ろしいものだ、岩永の影の薄きは際立つて見える、三味線はうんと受けもし儲けもした。
◇……人形は栄三の治兵衛、文五郎の小春、玉蔵の孫右衛紋では、玉蔵の篤実な芸が弟思ひの兄の心持がにぢんで出るやうでよかつた。
【紅燕情話 堀江温習会の二日目】
【音曲界近頃の事】
【六四郎意気揚らず】
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【病気の望月太左衛門 全快の松尾太夫】
古曲珍曲では例の義太夫の方の豊沢松太郎老人が、又此月末に日本橋倶楽部で催す研究会に、古い物を出す事になりました、此前の時には昔の内地雑居を当て込んだ大久保彦左衛門夢物語りと、敵討大晏寺堤を出しましたが、これは敵討だけが一寸好評を受けたのみで、夢物語りは当て込み沢山の余興物のやうだとあつて、一向に受けなかつたので、今度は大分吟味をした結果正徳二年の七月竹本座に上演された近松作の『嫗山姥足柄山の段』を出す事になりました、これは松太郎が十二歳の折に故人豊沢広助から伝授された珍しい三下り物だと聞きますが、十二歳の時といふのはどうですか、ちと疑はれます、東京の花柳界で義太夫一方で売込んでゐますのは、芳町義太夫会の芸妓連ですが、これが久し振で又近くその演奏会を開く事になりましたが、その出し物については背後にあるいはゆる旦那連同士の争ひとなつて、目下頻に騒ぎ立つてゐます。来月一日から新橋演舞場に約十五日間開催する事になつた、新橋芸妓の舞踊東会と同様、芸妓の出し物については何処でも開催前の内輪の騒ぎは一通りではないと見えます、東会にしても最初は舞踊本位の出し物と、芝居若くは一般受けのする芝居掛りの物との二手に分れて、役員初め出演芸妓の間に、いろ〳〵と紛擾が起こつたのですが、結果は芝居掛りといつても「将門」程度の物に止めて全部舞踊本位に行く事に決定して、目下すでに稽古にかゝつてゐます、長唄宗家を称する植木店の杵屋寒玉は、此方に昨今全力を注いでゐますが、此人の勢力失墜も気の毒だといはれてゐます。