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【 石割松太郎 酒を飲まぬ楽しみ 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
サンデーゴシツプ
 酒を飲まぬ楽しみ
 石割松太郎
 サンデー毎日 大正十四年七月十二日 4(31) p.22
 
 
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 私は私の家庭の食卓から、私の宴席の食膳から、今は一滴の酒すらをしりぞけた。奈良漬の匂ひも、青梅のアルコール漬さへ近づけない近頃の私は、「酒を飲まない」といふ楽みをしみ〴〵と味はつてゐる。からだの都合で酒を飲めないからいふ「負け惜しみ」でなく、つく〴〵と酒を飲まぬ楽しみが、今の私にあるのだ。
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 飲まぬ楽みと飲む楽みは、直反対のやうに思はれるが、それは実は他人の考へである、飲む楽みも飲まぬ楽みも、実は紙一重の隣り同志、いはゞ味な夫婦仲のやうなものだ。例へば酒を飲むにいろ〳〵な癖、なくて七癖、八癖は大抵の人にある。酒興を興がる人、酔う境を買う人、量を誇る人--いろ〳〵あらうが、詮ずるところ現実から蝉脱してある境地に身を置かうと企つるに外ならない。言葉を換ていふと「愚」にならうとするのだ。飲んで愚になる人、飲まないで、飲んで阿呆になる酒席の人をしみ〴〵と見てゐる楽みは私の今まで知らなかつた境地である。
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 「愚」を求むるといへば、酒の量を誇る人の心持は分るやうで分らぬものゝ一つである、しかしこの「酒の量」を誇る愚は、今更の話ではない、昔から何人にもあつた癖の一つであるやうだ、あの酒戦の記録である「水鳥記」の記事を見てもこの事はうなづかれると思ふ。
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 私にもこの量を誇る(?)----喜んだ時代があつた。その想出の一つは、吉原にまだ昔の面影があつた頃の話--大火の前であつた、あの五十間の石畳が焼きつくやうに、キラ〳〵と真夏の日に照つてゐる、死んだやうな寂しい廓の真昼、ある引手茶屋の表二階で、一糸も纏はぬ真裸で、ビールの満をひいた、時は移つて夕すゞみの床几に、チラチラ人声を聞きながら、盃中に魂をうばはれてゐたが、大引の頃にはビールの空ビンが八十二本に及んだ。
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 量を誇り、酔興を買ひあるいてゐた私が、今までに禁酒を企てた事が二度あつた。一度は二十八日間の禁酒が、旅行中、なにも所でなし、一盞は寒さよけのどてら代りにと飲んだのが病付であつたが、それは伊賀は名張、鹿落渓の山中であつた。今一つは、禁酒の意志だけを表明すると、家庭では、実行を有力ならしめんがために、禁酒のまじなひとで、徳利に祈願の小石を入れたことがあつた、この小石を見つけた私には、禁酒の心持が全くなくなつたがために、この企ては破れた。
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 二度の禁酒に破れた私は、今から数へて三年五ヶ月前の私の誕生日を画してフツツリと酒を廃した、二十三年間なじんだ酒にわかれてこゝに三年五ヶ月、酒を飲まぬ楽みを持つ私の禁酒はほんものだ。禁酒といふよりも、飲まぬといふ壷中の楽みは、酒を忘れたものしか語れぬ消息の一つだ。
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 例へば僧房に童貞を守つて来たものゝの心持、具体的にいへばあの「俚言集覧」の著者村田了阿が、あの年で生を終へるまで、不犯であつたといふが、恐らくこの禁酒の心持と同じであらうと思へる。幾年かの後まで不犯であつた了阿は、今更その経て来た道をけがす事が惜くてならなかつたのであらうと思ふ。今一例をいふと今は太鼓の師匠になつてゐる元新町の一妓の如きは、この歌吹海裡の女に珍しい一客と終始し通したのであるが、この女の心持も同じだらうと思ふ。
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 この意味からいつて、私は今まで蛇蝎の如く厭うたのであるが、道徳生活の第一歩は、常に偽善の連続から出発するものだと、今では思つてゐる。