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【 石割松太郎 耳で聴いた芸 問題の道八の三味線 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
東西演芸
 【沢田及びその一党の 忠臣蔵勘平切腹まで観て 歌舞伎劇の完全な破滅を嘆く 立花幸之助】
 
耳で聴いた芸
問題の道八の三味線・長唄の新作など
  石割松太郎
 サンデー毎日 大正十三年十一月九日 3(49) p.15
 
 文楽座の道八 津太夫の新傾向
 最近のこの週間には耳から受入れる「芸」のいろ〳〵に接した、就中最も興味の深かつたのは、初めて文楽の床に聴く友松、改め道八の三味線である、一言に評すれば、
◇道八の三味は面白い
 
 これで尽きてゐる。
 道八の文楽の初お目見得は「源平布引瀧」の四段目「鳥羽の離宮」で、紋下の津太夫の合三味線である。その文楽入りに、文楽あつて以来の問題を惹起したゞけに、この人の芸が興味の中心であつた。いかにも面白い三味線である、琵琶の件りは鮮かである、初めての合三味線として津太夫とのイキのまだ〳〵合はないのは余儀ないとして、噂の如く立派な腕、健かな腕、達者の撥さばきであるが、所謂団平系統の音が冴えて響かない事は--芸の疵ではなからうか--素人の耳には損である、覇気満々たる三味線、グツと突込んで聴客を引付けねば措かぬ意気が音色に溢れてゐる、それだけに面白い三味線、耳に快よい三味である、これ□長所として欠点からいふと評判の如く足が長い、又三味さへ聴かせばいゝ、浄るりはどうでもいゝといつたやうな感じ、語る浄るりを生かすが為めの三味線とは受取れぬ、浄るりと三味とがどつちが主であり客であるかのけぢめがつかぬ感じがする。衒気があり匠気がありすぎる、これが道八に対する私の初めての印象である。恰も新左衛門が文楽へ出て古靱を弾いた始めてを想起すると、道八と新左衛門の二人の芸のすつかりと違つた行方、背合せの芸である事が感じる、新左の文楽初見参には少からず失望した私は、顧みて新左の芸が浄るりを助ける三味であつて、三味を聴かさうとする芸でない事を知つた。新左はグツト抱込んで弾いてゆくその弾き方は、華やかに聴客を酔はすものではなかつた。
 この違つた傾向--直反対の芸の素質を持つてる道八と新左の始めての床を比較すると興味の深いものが多かつた。この華やかな道八の三味を新に得た、
 
◇津太夫の「鳥羽離宮」
 はどうであつたかといふと、不思議にいつもの津太夫とは違つてゐた。私は津太夫の最近に二□□を認める、紋下に座るまでの津の浄るりは好い面白い処もあつたが、溜らなくダレて聴いてゐられない処をも屢屢聴かされたが紋下に座つて、自重した故か、その浄るりが引締つた、そして自らに貫目も鰭もが急に出来たやうに思はれたが今度道八を得て、その芸風に一転機を与へられたやうに思ふ。それはこの人の浄るりに今までに絶えて見せなかつた写実脈の萌芽がチラ〳〵と随所に頭を擡げて來た事である。丁度今度の語り場でいふと、娘の小桜との二人限りの松永検校から多田蔵人になつてからの件がそれであるそしてそれが津の本来の芸と調和を失はない程度に写実脈が流れてゐるから、今度の鳥羽は面白く聴かされた。わけて人物からいふと多田の蔵人が生きてゐた。
 
◇出来の悪い古靱
 三段目の九郎助内は静太夫の次があつて、古靱が語つてゐる。例の語り口で浄るりは極めて面白くなく、敢て悪いとはいはぬが面白くないのは事実、慊怠を催す事夥しい、この人の浄るりも峠を越して下り阪か、中だるみか知らないが、聴いてゐて飽き〳〵する、瀬尾の皮肉などなつてゐないで平々凡々、皮肉が皮肉にならぬ程下さらないものはない恰もちよつとも利かぬ場ちがひの山葵のやうで、腑抜けの山葵は鋸屑同様だ。今にして想ふは死んだ弥太夫が数年前に語つたこの三段目、あの九郎助の旨さ--あの世話味、あの瀬尾の皮肉が、想出してもツーンと鼻から眼へ「芸の山葵」が通る。
 
◇土佐の「炬燵」と駒の「柳」
 中が伊達--新庵の土佐太夫が得意の紙治の内である、手かけて楽々しすぎる程の語り物であつて、その上前興行の「吃又」に精力を尽して健康を害したと聞いたが、果して今度の語り口には生気が乏しかつた、土佐の身上のものを身上だけに語つてゐるといふだけだが、おさんが一等よく生かしてゐた。切の駒太夫の「柳」はこれは案外に聴かれた、特に前半が面白い、お柳の述懐の件が出色の出来栄であつた。
 引くるめて人形からいふと、玉蔵の多田蔵人がよい、小桜を伽に琵琶を語れといはれる処がよく遣つた。二役炬燵のおさんもよい、男勝りの発明な町の女房の手堅さが出てよい。
 文三の瀬尾もよい出来である、この人の人形が往々にして泥臭い処があつてイヤであるが、瀬尾はよかつた。若手では扇太郎の小桜が小手が利き将来が楽しみである。
 
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