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【 [石割松太郎] 新「土佐太夫」の話 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
新「土佐太夫」の話 [無署名]
 サンデー毎日 大正十三年九月廿八日 3(42) p.27
 
 
 後藤伯の玄関番から浄るり太夫へ
  伊達太夫で通したその生立
 文楽座の盆替りに「吃又平」を語り物にして土佐太夫を襲名の伊達太夫が「土佐」を名乗るについての因縁は、前号に詳述したが、伊達の生国土佐は浄るりの盛んな国である。
 
 土佐は浄るりの国 素義流行の国
 阿波の徳島は浄るり処であるが、それにもまして土佐は浄るりの国である。その浄るり流行の環境に育つた伊達は幼い頃から浄るりを見まね聞きまねに覚えてゐたといふのは、土佐の女の子は、琴や生花を教はる代りに浄るりを教はつてゐた、伊達の妹も浄るりのお稽古に熱心であつた、その聞き覚えで伊達も酒屋や太十はその頃から語つてゐたのであるが、誰にも聞かした事がなかつた。その浄るりを偶然の機会に公衆の面前に語る事となつた。
 
 女の子の間に飛入りの十六歳の太夫
 或る日伊達が妹と一緒にお浚へに行つた、伊達の妹は所界隈で評判の美声、それとてつ張合つてゐたのが、後に東京の寄席に名を馳せ竹本東玉でこの二人が覇を争つてゐた為に、出る順番が問題で揉めたのであつた、その時に伊達は十六歳、一計を案じてこの覇を争つてゐる二女の間に挟つて一番私が語らう、すると語り場の先後に苦情がなからうといふのであつた。十六歳の伊達はその時忠臣蔵の六ツ目を聞き覚えに語つたのであるが、少女の間に語つたのであるから伊達の「忠六」は水際立つた出来栄でヤンヤと喝采を博した。これが恐らく伊達が後来「太夫」となる一つの動機を闇々の中に造つたものであるらしい。
 
 廿五才の玄関番から大隅太夫の弟子に
 その後伊達の南馬太郎は上京して同国のよしみであり、且伊達の母の主人筋であつた吉田といふ志士が後藤象次郎さんの伯父さんに当つてゐた処から伊達は後藤伯の玄関番に住込んでゐた
 何かの折に話は故郷の土佐に移つて国の浄るりが話題に上つた、後藤伯はお国柄有名な浄るり好きであつた、ふと伊達が私も浄るりの一段や二段は語れますと云つたのが縁で、後藤伯はそれぢや直ぐ聴かせろといふので、鶴沢仲助の三味線でなくては語れないといふ。伊達の註文が容れられて、伊達は伯爵の前で語つたのが、「三勝半七」であつた。--後年伊達がこの「酒屋」が得意の語り物であるのも所以もあれあば又思ひ出も多いのである--伯は驚いた、この玄関子にこれ程の浄るりの才能があらうとは夢にも知らなかつた。伯には聴く耳が立派にあつたのである、伯楽はこの駿馬の素材を見のがしはせなかつた、伯は伊達の語り終るのを待かねて、「お前は太夫になれ、立派な太夫になれ、手紙を出してやるから大阪の越路(後の摂津大掾)の処へ行け」といつた。が、伊達の胸中は甚だ不平であつた、伊達が将来に描く絵は、後藤伯の玄関から覗いて政治家でもなければ固より太夫ではなかつた、三井、三菱、山城屋などの姿がチラついてゐたのであつた。が伊達の胸中などに頓着なく後藤伯は話を進めて越路に入門の申出をした、すると越路からの返事に、「太夫は仇愚な事ではなれません、素人がちよいと甘[うま]い語り口だと云つて太夫志願は、人間一人を闇に迂路つかすやうなものである」といふ返事であつた。
 そのうち伊達も伯の慫慂につれて太夫志願の志が動きかけた。時恰も大隅太夫が名人団平と共に東京にかゝつてゐたので、伊達はその宿を尋ねて入門をたのんだ。大隅はまづ何か語つてみろといふ、「白石噺」の揚屋を語つた、大隅はぢつと聴いてゐたが、よし三年の間に太夫にしてやらうといふので、名は大隅の弟子となつて、実は名人団平に預けられたのであつた。
 これは明治廿二年で、伊達が職業的の浄るりのスタートを切つたのがこの二十五歳の時であつた。
 
 彦六座の大序に「伊達」の二字が出た
 この年が例の大隅一座の北海道の旅で、前号に述べた曲折[いきさつ]があつて「伊達」といふ忘れ難い名を秋田で団平から土産にもらつて、「伊達太夫」として大阪に帰り、彦六座に籍をおいた、そして名人団平の薫陶を受けて伊達の腕はズン〳〵と上つた、処である興行--それは廿四年の事であるが、団平が伊達のために、付けものとして「明烏」を語らしてみようと云つたのであるが、他[ひと]は肯かなかつた、団平が事をわけてしつこく主張したので、それなら語らしてみようといふ事になつて、伊達の「明烏」が付け物として番付にのつた、それからといふもの伊達は全く一生懸命「死ぬ覚悟」と人は往々にしていふが、伊達が後に話した処によると、この「明烏」が悪かつたら恩師団平にすまぬと思つて、ほんとに死ぬ気でゐたといふ事である、この死を賭けた熱心とこの意気とが「明烏」をして生命のある浄るりとした。彦六座の「明烏」に都鄙の人気を蒐めたのであるから、団平もホツとしながら、「どうだ俺の眼鏡は」と云つた、伊達も旨く語れたと思つたから、一方安心をすると共にこの初日の出来栄を落すまいと精進努力を続けた。実に伊達をして今日あらしめた抑もの出世芸はこの「明烏」であつたのである。
 
 新作の代役に伊達の名とみに挙る
 その頃彦六座に最も人気のあつた太夫といふと朝太夫である、--今尚東京に松太郎の三味線で、その美音に聴衆を酔はしてゐるあの朝太夫であつた、その朝太夫が彦六座で「日蓮記」の龍の口と団平の妻ちか女が新作の「日進記」で博多の法勝寺とを語る筈になつてゐたが、初日に病気で仆れた、龍の口は誰でも代りをする太夫は数多くあつたが、「日進記」は新作である、けふが初めて手摺にかゝるといふのであるから誰人にも手心がない、腕に応へがないのであるから、この「日進記」の代役にはハタと困つた、一座の太夫誰一人法勝寺を買つて出るものがなかつたが、その時伊達はこの新作で何の見当もない「法勝寺」の場の代役を申出た。
 元来伊達太夫には一種の反骨がある旧いものに慊らず新しい道を拓いて進まうとする気力がその血に踴躍してゐる、それは故郷土佐の血でもあり、廿五歳までを後藤伯の玄関子であつた関係なども伊達をしてこの傾向に導いたのであらう、この伊達の傾向が今でもその浄るり生活と床の出処進退に付纏つてゐるが、それは余談としてこの「新しい物」に理解あり、新しいものに精進しようといふ気力が、この「日進記」の代役の初日を買はしめたのであつた、仕打は渡りに船である、然し伊達はどうこの新作を語り消化すかゞ問題であつた。然し伊達は「法勝寺」を立派に語つたのである。「明烏」で名をなし「法勝寺」で伊達はその位置を一挙にして築き上げたのである。
 
 爾来転々としてゐた伊達は文楽座へ入座
 伊達の腕は人々に認められ、その位置は可なりに築き上げたが、彦六座は沒落した、そして先代弥太夫を紋下として稲荷座となつて生れ替つた、大隅と組太夫とが交替に「庵」に入つてゐたので、伊達も稲荷座の人気者となつたが、弥太夫が引込んだので、大隅と組太夫が隔年交替の紋下で稲荷座を続けたが、組太夫が抜けて上京し、引つゞいて伊達の恩師名人団平が世を去つたので稲荷座は解散、太夫は散々バラ〳〵になつた。
 この時大隅が盟主となつて新しい団平をつれ、春子、伊達の連中で堀江明楽座に立籠り弔ひ合戦の火蓋を切つたのであるが、間もなく大隅が春子伊達等の弟子を置去りにして文楽座入りをしてしまつたので、残る明楽座の人々は一時困じたが、団平伊達仕打の木津屋の合議組織に、弥太夫を後見にして明楽座の孤塁を七年間守つてゐた。時恰も大阪の浄るり好きの人々によつて近松座が建てられて再び大隅を盟主に、明楽座連中が之に加はる事となつて、人々は大隅と床を共にした。そして大隅の歿後近松座が沒落に瀕し伊達は大正元年二月廿六日に辞表を提出して錣、米太夫等の弟子一門を率つれて文楽に入つて今日に至つたのである。
 かう彼の半生を述べて来ると、寔、伊達の床生活は奮闘の歴史であつて、今日の文楽の「庵」の位置をかち得たのも全くこの奮闘の賚[たまもの]であると共にその位置は当然すぎる程の位置であるといはねばならぬ。
 前にも述べたやう「芸における反骨」を抱く伊達--新しい土佐太夫の将来こそ活眼して俟つべき浄曲界の一つであるが、それと共に文楽座の現状は人の和を欠いてゐる、紋下と庵とは争覇の人となつてはならぬ、文楽といふ車の両輪とならねばならぬ。
 
 【前週の演芸 石割松太郎】
 【南枝会の第二回 その第一日】
 【国精劇の狂言 弁天座の二の替り】