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【 伊達から土佐太夫へ 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
伊達から土佐太夫へ 《無署名》
 義太夫の中興の祖ともいふべき「土佐太夫」を襲名の伊達太夫
 六代目を名乗つて披露の語り物は「吃又」 伊達太夫には因縁の深い「土佐」
 サンデー毎日 大正十三年九月廿一日 3(41) p.28
 
 大阪名物の文楽座は越路の歿後津太夫が紋下になつた、そしてこの盆替りから一方の重鎮である伊達太夫が、番付面の所謂「庵」に入る事となつた。
 
 「庵」とは何か--その道の名誉の位
 この道で謂ふ処の「庵」とは番付の左の肩に入山方の芝居道でいふ「庵招牌[かんばん]」の中に太夫名の出る事をさしていふのであつて「庵」の位にある太夫は云はゞ紋下の控へである。紋下に事ある時に紋下に座るべき候補の太夫である、この番付面の「庵」といふもの元は浄瑠璃にはなかつた、芝居の「庵」--座頭格の俳優で客座の位置のために設けられたこの「庵」を浄瑠璃の番付に見えたのは、あの摂津大椽の越路が紋下に座つた時に、先代の津太夫即ち「法善寺」の津太夫を呼名にされてる津太夫が、この「庵」に入つたのである、この例を襲うて今度も文楽座に古参の津太夫が紋下に座つたので、伊達太夫も名誉の「庵」に入る事となりその披露を九月廿日初日の文楽座の盆替り興行でする事となつた、それと共に、伊達は「土佐太夫」の名跡を継ぐ事となつた。伊達が「土佐」といふ浄瑠璃界の重い名を継ぐには、伊達にいろ〳〵な因縁がある。
 
 土佐太夫とはどんな名前か--伊達太夫との関係
 初代の土佐太夫は寛延から明和の人で、二世政太夫の門人であつた。処が二代の土佐太夫といふのが、飛抜けた名人、後に播磨の大椽を受領した程の偉物、義太夫の中興の祖と仰がられてゐる、或は茶道でいへば千利休であるとまでいふ太夫であつた、この播磨の土佐太夫は、三代の政太夫の門人で安永の末から文政にわたつた長命であつたから永い間の鬱然たる巨匠である、この二代の土佐に初代の大隅が師事してゐる、そして播磨の土佐の実弟が伊達太夫の初代である。
 そして二代大隅太夫は素人から出た太夫であつて、初め二代伊達を襲名し後二代大隅となつた。又三代の大隅太夫は最も近頃のあの壺阪で名を売つた大隅であつて、その門人が今の伊達太夫であるのだから、伊達は土佐太夫には二重にも三重にも因縁が深い、その上に伊達太夫の生国は土佐は高知在であるから今度の庵に入るについて、伊達は土佐太夫の第六世を襲ふ事の決心をしたのである。土佐太夫の三代、四代は事蹟ははつきりしないが最も「土佐」を名乗る程の太夫であるから聞えた太夫であつたらうが二代の播磨の土佐が余り偉物すぎたから三代、四代は其の盛名に覆はれて聞えず、土佐太夫とさへいへば、二代を連想する程となつた。
 かうして土佐太夫は四代で絶えてゐたのであるから今度伊達がその名跡を継ぐと五代目の筈であるが、茲に玨太夫といふ旅浄るりの名手があつて、「土佐太夫」を僭称してゐたのを故団平などが、明治卅年その名前を取戻して因講に収めたのであるが、伊達は玨太夫のためにこの五代を認める事となつて愈々六代目土佐太夫を襲名する事と決定した。
 
 播磨の土佐が偉物であつた一例
 その頃--丁度清水町どぶ池東へ入つた、今の北村牛肉店の斜[すじ]向ひあたりに播磨の土佐が住んでゐたのであるが家は医師で原田と呼んでゐた、その二軒西が名人団平、その隣が藍玉の組太夫で呼ばれる名人の太夫が住んでゐたのであるから、清水町は恰も浄るり名人町であつた。処でその頃は今と違つて浄るりの横綱格の語る処は三段目であつて、四段目の語りは、左程でもない太夫の語り場になつてゐた、播磨の土佐は加太夫と名乗つてその頃師匠と共に江戸から帰阪したのであるが、人々は加太夫の腕を試さうとして、四段目を殊更に語らせたのであつた、加太夫はこゝに彼の日頃の蘊蓄を傾けて、浄るりに新生命を吹込んだ、四段目に工風をして四段目をして浄るり中の語り場として重からしめた、其一例が菅原の四段目の如きがソレで、松王の咳、泣笑ひなど五行本に絶えてない新工風がこの太夫によつて生れたのであるから今日の如く浄るりは四段目が重なる太夫の語り場となつたのである。
 今一つ土佐太夫の偉かつた一例をいふと京の南座で全く調子の違つた浄るりを一日に三段見事に語り分けて聞くものをして舌を巻かしめた、即ち七本の調子で「阿波の鳴戸」を二分半で「日向島」を五本で「吃又」を語つたといふのであるから、古今の太夫と謂ふも穴勝溢美の言ではなかつた、時代にも世話にも行く処として可ならざるないその声量、その調子、その工風、その風格は、全く義太夫の中興の祖と仰がれるに十分であつた。
 
 「伊達太夫」で始終した伊達は「伊達」の名に別れるのを惜んでゐる
 処で、これ程の名人を二代に持つてゐる「土佐太夫」といふ名を継ぐ伊達が一度躊躇した、これは「土佐太夫」に不足があるのではなくして、「伊達太夫」といふ名に分れるのが辛らかつたのである。
 それには伊達に思ひ出の多い話があるそれは斯うである。
 伊達がまだ名も与へられないで、師匠の大隅について北海道に巡業した頃の事である、大隅の白湯を汲んでゐたのであるが、旅なれぬ身の脚気に悩んだので師匠に薬を買う金を借してくれと頼んだが、大隅はそんな脚気位何だこれから旅をするうちには脚気位は常中の事だ、薬代を借りたければお仕打に借りろと云つたそして、それは只僅に十銭の薬代であつた、伊達の馬公--伊達は本名を南馬太郎といふからその頃は「馬公」を以て呼ばれてゐた--はお仕打の木津屋に一向[ひたすら]に十銭の薬代をかしてくれと同じく頼んだ、すると木津屋は鼻であしらつた。「阿呆らしい、大体おまはんは大隅の用をしてゐればいゝ人や、旅に出ると立派な太夫でも、白湯汲みでも喰ふ丈は喰ひよるによつてな」とヂロリと馬公の顔を見た、「薬代はよう貸しまへん」といふ挨拶である。馬公は悲憤の涙にむせんだのであるが、脚気は胸を冒してけだるい事、呼吸[いき]苦しい事夥しい万策尽きて馬公は、函館のとある町の浅井といふ医師の玄関に飛込んで、事情を話し、「私が立派な太夫になつて金は返します、屹度返しますから薬を下さい」と頼んだ浅井医師は馬公の言ふ処を聞いてゐたが、面白いよからう診察をしてやらう、旅へ立つなら当分の薬はやらうといふので、馬公はこの浅井さんのために全く命を拾つたのであつた。
 
 伊達太夫といふ名を褒美にもらつた
 この巡業がつゞいて、奥州は秋田へ入つた時に、興行の都合で一座の人々は早く帰阪するものもあつて残つたのは大隅とその三味線の名人団平に、今東京にゐる朝太夫との三人限りとなつたのであるから、浄るりをかけるにしても太夫が足りない、そこで、仕打の木津屋は馬公にお前語つてみろ、語らしてやらう何も修業であるといふのであるが、馬公の伊達は肯じなかつた、白湯汲が人少な機会とは云へ、とにかく相当な語り場を語らしてやらうといふのだから、又とない機会ではあると思つたが、馬公の腸には十銭の薬代が付纏つてゐた、用のない時には十銭の金さへ借してはくれぬ不用の者、無人になると語らしてやらうは虫がよすぎる、俺は断じて語らぬといふのであつたが、名人団平が事情を聞いて「お前のいふのは尤もだ、が、考へろよ相当な語り場を語るなどは旅とはいへいゝ折だ」と勧められたので馬公も団平の言葉に我を折つて八陣の八ツ目を秋田で語つたのである。するとこれが素晴らしい出来栄、人気を博したので、団平も口の利き甲斐があると云つて喜び、その折に褒美として「伊達」の名を貰つた。そして伊達は今日までこの思ひ出の多い「伊達太夫」を大切に守立てゝ一方の旗頭となつた今日まで「伊達太夫」で終始したのであるから、伊達は「伊達太夫」で終る事を本懐としたのであつたといふ事である。が、いよ〳〵今度「土佐太夫」を継ぐに至つたのは、その忘じ難い故郷「土佐」の因縁からであるが、それを語るには土佐から起つて浄るり太夫となつた。伊達の生立をこの機会に少し紹介してみたい。(次号へつゞく)