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【 石割松太郎 越路の死んだ日の文楽座 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
前週の演芸 石割松太郎
 サンデー毎日 大正十三年三月三十日 3(14) p.27
 
越路の死んだ日の文楽座
 津の「鎌腹」と古靱の「安達の三」
 
 とう〳〵越路が死んだ、生きてゐても再び床にその姿を見る事が出来まいと思つてゐても流石に心丈夫な心地がしてゐたが、愈々死んだと聞くと「文楽」といふ古い屋台骨が急にグラ〴〵と崩壊して了ひさうな心地がする。団十郎が死んだ時に、その当時の若手であつた羽左衛門が、家橘から羽左衛門への改名の披露を舞台にしよんぼりと一人で述べた時に、もう「歌舞伎」が滅亡しさうに思へた。この私の当時の心持は嘘ではなかつた。今の所謂旧劇はその当時の若手が老巧になつて続々演じてゐるが、ほんとの「歌舞伎」は矢張団十郎の歿後跡を絶つたといへる。--今度の中座の「忠臣蔵」などを見てもこの感じが切実である。--これは余談であるが、今度の文楽座の出し物の悪いので私は見物を一日延びにのばして躊躇してゐたのが、越路が死んだと聞いた日にその挽歌を聞くかやうな心地がして、その日の文楽を聴きたかつた。で、急に思立つて文楽座へ駈つけると伊達の「御殿」の幕が開いてゐた。いろ〳〵な意味において越路の死を悼んでゐるものは、八十始めその弟子達よりは或は伊達の心持が切実であるやも知れぬ。
 この伊達のこの日の浄るりには気が乗つてゐなかつた。傷れたその心は「御殿」を語る余裕を持たなかつたらしい。その上咽喉を痛めてゐたのか、後半を錣が代つて語つた。中狂言は「忠臣講釈」の増補「弥作の鎌腹」である、前を八十太夫が語つた、いつもの味のない浄るりであるが、全くの百姓である「弥作」が軽く滅法よく語られてゐる。そこになると津太夫の弥作は重々しすぎ腹がありすぎるやうで根からの百姓でないやうに聞きなされる。然し「鎌腹」は津の語り物では面白い作の一つであらう。あの七太夫--強欲で我利々々のそして土臭い権柄づくの七太夫が生々として語られてゐた。恐らく今度の文楽を挙げてこの津の「七太夫」が最上の聴き物であらう。そして「鎌腹」全体としては疵はあるが面白い。それに引かへ、
 古靱の「安達原」は何といふ生彩のない浄るりだらう、近来これ丈けの大物をこれだけに面白くなく聴いた事も稀である。古靱の語り口にソツがない、周到すぎる程の用意と細心の注意が払はれてゐて、益々浄るりは面白くなく弥々詰まらないものになつてしまつた。いはゞ文法家の駄文を読むが如く、振付師匠の「物尺舞踊」を観るやうで面白くない事この上なし。この「安達の三」の前と次とをつばめと静とが語つた。寧ろこの方の疵だらけでも熱のある面白い浄るりを取りたい。
 切は駒太夫の「野崎村」功者だが腹がなくつて薄ツぺら、浄るりでなくて唄めいて悪い。
 人形では文五郎の政岡、前受を狙つてゐるやうな処もあるが、サワリの姿が何ともいへぬ、そして品位があつてよく遣つてゐた。おみつよりも袖萩よりも政岡がいゝ。
 玉蔵は八汐の憎体、弥作の愚鈍よりも久作がよかつた。弥作ではこれも重たすぎたのが疵で、その人柄が出ない。 
 
 【役者揃ひの 忠臣蔵 中座の弥生狂言】
  【鴈の由良之助 羽左の勘平 梅幸のおかる 松助の源六 その他の役々】
 
 【長唄研精会 後援会特別演奏】
 【角座の新派】