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 【 昭和十年代新作浄瑠璃文楽座床本集 桜時雨 】

(2006.10.06掲載)
(2019.08.02補訂)
 
 桜時雨   堀江座明治39年9月 同10月発行
 
桜時雨について 高安月郊 趣味4巻4号
櫻時雨*(土佐太夫を偲ぶ)* 高安月郊
土佐太夫の憶出 高安吸江
土佐太夫を偲ぶ 南木芳太郎


櫻時雨*(土佐太夫を偲ぶ)*
高安月郊 上方 125号 p32(266)
  【自筆原稿は「土佐太夫の思出《 食満南北『大阪藝談』p203】
  
 私の「櫻時雨《が始めて舞臺へ上つたのは明治三十八年十二月京の南座で、其時樂屋でこれを淨瑠璃にしても面白からうと云ふものがあつたので、私は攝津大掾が語るなら書くと云つたら、あの人は新作をやりはりませんといふので、私も氣がのらなんだ、所が次の年二月、よしのをつとめた芝雀が吉野の句碑を鳥部山へ建てたので其式に臨むと、大阪堀江座の人も來て、あれを淨瑠璃にと乞うた。太夫は誰をかと訊くと、伊達太夫と答へた。それで承諾して、三月下阪、堀江座へ行き、始めて伊達に逢うた。次の日太夫は京の新鳥丸の私の家へ來て、兼々抱いてゐた淨瑠璃改良の素志をかたつたので、私は大に賛成した。やがて出來上つたので送ると、また來て色々相談、一泊して歸つた。それを東京にゐた仙左衞門(後二代目團平)に送つて節をつけ、九月私の家へ來て下ひき、尚注意して修正した。愈々堀江座に上演したのは十月、揚屋ほ菅太夫、出口は錣太夫、佗住居は伊達太夫、吉野は玉松、三郎兵衞は簑助、紹由は兵吉であつた。
 伊達は大元氣で、雜誌でゞも氣焔をはいたが、座元が金をつかはなんだのと、聽手も舊物で滿足して新味を解するものが少なかつたか、期待した程の事もなかつたが、太夫は意とせず、次の年五月其宅でその茶會を催ほした。私は古香會の人々と行くと、床には應震の吉野の畫像に棕隱の賛をかけ、これは横濱富貴樓のお倉が梅幸が太夫をつとめる時やるのだからと假してくれたもの、花は大山蓮一輪、光悦の「かげひなた《と銘ある黒茶碗然も途中で破れた、それもあの作に反應、花車と銘のある茶入、庭に杜鵑が鳴くのは愛育するものであつた。
 それから二十幾年、大正[昭和]七年十月、文樂座で再演、揚屋はかけあひで、吉野を南部太夫、三郎兵衞を相生太夫、應山を燕太夫、大門口を錣太夫、佗住居を伊達改土佐太夫で、人形はよしのを文五郎、三郎兵衞を榮三、紹由を玉次郎、光悦を玉松であつた。此時が總て一番好かつた。二階で毎日茶をたてたりした。
 昭和九年十二月、東京歌舞伎座で三演、大門口と佗住居で役は前の通り、此時が最も好評であつた。
 その後大阪から放送で二度佗住居を聞いた。最後の時に吉野を二度勤めた歌右衞門が歿した夜で、然も土佐太夫を聞く最後であつた。
 夫に太夫は藝界の人には類すくない程、趣味があつた。茶を始め、畫もすこしやり、字も好くかき、物事は理解よく、話の面目さ、私とは好く氣が合うた。先日歿したとは、歳にふそくはないものゝ今更残りおしい。せめて思出の一端と此筆を取つた。
 

土佐太夫の憶出 上方 125号 p36(270)
高安吸江
  
 土佐太夫の急逝はいろ/\の意味で惜しいことでした。話好きといふのか、いつもよく談じ、興が乘ると熾に氣焔を吐くこともありました。いつかも放送の座談會の時でしたか、局から一緒に歸る車の中まで頻りと話しつゞけ、別れ際にもまだ/\物足らぬやうな風でした。
 去年九月十二日の午前三時に東京で中村歌右衞門が死んだ其夕土佐はBKから櫻時雨を放送しました。吉野役者として比類のなかつた歌右衞門の訃報が夕刊に出た晩に、義太夫としての初演者であり、且又自分にもそれを得意の語物としてゐた土佐が、其櫻時雨を放送することになつたのは偶然とは云へ、まるで拵へたやうで關係の淺からぬ我々は一しほの感慨を覚えました。それで
      吉野なきあとの吉野や虫の鳴く 吸江
此一句を早速同人の許へ送つた処、直に返事が來ました。紅葉を押した封筒に天紅の巻紙といふ凝つたものに例の達筆です。
 拝復 朝夕流石に涼しく相成候処益々御清雅大慶に奉存候櫻時雨を御清聽被下難有存候、月郊先生へ局から通知せしと存候。吉野なきあとの吉野や虫の鳴くの御吊吟早速歌右衞門宅へ申送候・實は歌右衞門氏と今秋會談の約束をして居候処病氣被成候、お快方度々祈居りしに櫻時雨を語る事になり候も全く偶然にて当日夕刊にて逝かれし寫眞を見て局に出かけ、出演の時は哀悼黙悼して、よし野を語り出し全く感慨無量なりし、この事を生かして置いて東京にて話をしたらと存じかへす/\も殘念に存候
      時雨してくらき茶室や香くゆる
 いづれ御拜禮可申上も如此御座候草々拜具
    九月十五日土佐太夫
 その後是非一度訪問して久しぶりに例の快辯に接し、茶室の時雨も味はひたく思てゐたが其甲斐もなく、舞臺のみか絃の吉野も亦一火+主の香煙と消果てたのは、洵に淋しい次第であります。
       花の雨夢の吉野となりにけり(了)
 

土佐太夫を偲ぶ 上方 125号 p44*45(278*279)
南木芳太郎
  
 四ッ橋文樂座では昭和七年十月一日初日で珍らしくも高安月郊氏作の『櫻時雨』が二十六年振りで上演された。櫻町侘住居の段を語る土佐太夫の得意も思ふべしであるが、折から來阪中の月郊氏歡迎を兼ねて知友數氏と清談を催したく、土佐氏とも相談の上で、三日の夜唐物町「とりせ《で小宴を催した。寫眞は當夜の撮影で、快談食後、茶人である土佐氏は、自宅より持參の一幅を床に掛けた。「神無月時雨もいまは降らなくはかねてうつろふ神なみの森《光悦の懷紙である。その他銀簪で印をした吉野の懷紙もあつた。土佐氏の盆手前で、宗入の黒茶碗銘は「面影《で一同は茶を喫した。替は備前虫明焼に櫻がほの/\と白く浮き出てゐるのに対して茶杓は惺齋の「時雨《を用ひたのは当夜の趣向であつた。「櫻時雨《についての苦心談が月郊氏と土佐氏との間に面白く交はされて、秋夜の餘情は盡きなかつた。
寫眞は右より福良竹亭翁、高原慶三氏、土佐太夫氏、とりせ女將、高安月郊氏、岡島眞藏氏、水木十五堂氏、(後列)三宅吉之助氏、南木、松阪青渓氏
 
 昭和八年十月廿七日は正しく初代竹本義太夫の二百二十年忌に相當するので、墓所天王寺南門超願寺で、追慕大法要を嚴修したいと考へ、これを土佐太夫に相談した。同氏は立所に賛成して因会幹部に謀られ協賛されたので、当日は盛大に法要が營まれた。この顛末は『上方』三十七号に詳細報告してあるが、來會者無量一千吊、空前の盛況で、會衆は本堂の廊下に溢れてゐた。当日は文樂座紋下津太夫氏を始め幹部座員洩れなく參集、本堂では嚴かなる法要が執り行はれ、祭詞、焼香、挨拶、講演後初手向として津、土佐、古靱、錣の四巨匠によつて近松門左衛門作の「蟬丸《道行の段が友治郎、新左衞門、吉兵衞、綱造、清六の吊匠の三味線で供演された、続いて相生、呂、つばめ、南部、さのの若手連によつて『國性爺合戦』樓門の段を團六師の糸で手向けられた。当日巨匠連の手向に用ひた白木の見台は、これが爲に特に新調されたもので一同が心からなる謹演は斯界稀に見る美しい情景であつて、恐らく文樂座始まつての出來事であつただらう。
写真は超願寺義太夫墓前での撮影で、右から文樂座新玉氏、吉田榮三氏、南木、古靱太夫氏、土佐太夫氏、錣太夫氏、友治郎氏、吉兵衞氏、津太夫氏、綱造氏、新左衞門氏、清六氏、松竹福井氏
 
六代目竹本土佐太夫

本吊 南馬太郎 文久三年九月十五日生
出生地 高知縣安芸郡安田村
前師匠 三世竹本大隅太夫 (入門明治二十二年一月、廿七歳の時
後師匠 竹本攝津大掾 (入門、大正二年二月)
前吊 竹本伊達太夫 (大正十三年 六代目土佐太夫襲吊)
引退 昭和十二年五月
死去 昭和十六年四月二日午後二時十分、天下茶屋聖天阪自宅にて歿、享年七十九。(五日自宅告別式執行)
 
 
提供者:ね太郎