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 【 櫻時雨 高安月郊 】

(2010.01.31)
櫻時雨について
高安月郊
趣味 4巻4号
 
△私が初めて脚本を書いたのはリア王で、其次が「大鹽平八郎」、それから「江戸城明渡し」、其後に出來のはこの「櫻時雨」です。江戸城明渡し迄の作は從來の脚本よりは全く新しい脚本を供する意氣込で書いたもので殊に「江戸城明渡し」などは出來得べきだけ寫實的に事實によつて書いたものです。尤も江戸城明け渡しならば極めて新しい事件で、まだ其當時の有様などを熟く知つてゐる人も幾らもあるのですから、多くの想像を納れる餘地がありません。然し此時に芝居と云ふものは、さうさう寫實的にばかりやつて行けるものでないと云ふ事を悟りましたので、此次に書く時分にはも少し賑かに華やかにやつて見たいと思つてゐました。
△そんな時でしたから櫻時雨の時には新しい式の脚本を書くと云ふやうな積りではなく、唯材料に適はしいやうに書いて見たいと思ひましだので、七五調の處もあればチョボも使ふと云ふ風にしたので、極新しい頭を持つた人には古臭くも見えるでせう。併し役者の話しを聞くと、仕出しの使ひ方や合方など
も從來のものとはすつかり變つてゐると云つてゐます。私の方では其積りで書いたのではないのですが自然とそんな事になつたのでせう。
△私が吉野大夫を書いて見たいと思つたのは大分前の事で、それについて色々材料を蒐めてゐましたが、漸々面白い種も集まつて來ました。愈書くとなると茶の湯なども一通りは知つてゐなければなるまいと思つて研究して見ますと、茶と云ふものは唯單に茶を飲むと云ふ事が主ではなく其内に大に精神的のある物を認めたのです、で故人はそれによつて大に精神を養つた事をも考へまして大變興味を覺えて來ました。それに史劇はどうも面白くないので、何か徳川時代の世話物を書いて見やうと思つてゐたのですが、大抵のよい材料は皆んな使はれて居るやうでしたが、獨りこの吉野大夫の事だけは誰れも書いた人がないやうなので、別に扮本も參考書も殆んどなしに書いたものです。これを仁左衛門にやらせるやうになつたのは、何時か靜間がリア王を演た時分、仁左衛門に何か新しい脚本はありませんかと聞かれて、日頃思つてゐた吉野太夫の芝居を仁左衛門なら丁度好い適つたものだと思ひまして、是れこれのものがあるが何うだと話しますと、是非演つて見たいといふので早速書き下した様な次第です。
△一番最初に演つたのは京都で其時は吉野大夫は芝雀其次に大坂の辨天座でやつた時も同人で三度目の中座でやつた時は吉野太夫は我童がやりました今度で丁度四度目です。仁左衛門は此前大坂でも親子を掛持ちにしました。矢張そんな事はやらない方がよいのでせうが、又仁左衛門としては双方を演分けて見たいと云ふ處もあるでせう其為めに唯素通りをさせればよい仕出しに樣々な藝をさせたり、色々彌縫せねばならなくなりました。又一人で勤めるため後に親子が對面する、一寸ほろりとさせる好い光景が出せなくなつて却て應山公を出すやうな事になりました。併し今の處ではこれ位で我慢しなければ仕方がありますまい。
△一寸見ると何でもないありふれた傾斜の事を書いたものゝやうですが、作者の考は従來の物よりは大分違つてゐるのです。先づ普通近松などの行方ですと、番頭でも連れに來て一緒に歸つて喜ぶと云ふ風になるのでせうが、これでは番頭が迎えに來ても歸らない、老翁から折れて出て始めて歸る事になる。それは何故かと云ふに吉野太夫の人格が凡ての葛藤を解決したのである。これは唯この事件ばかりでなく、現在にも當箝まる事だらうと思ふ。今日の如き過渡時代では親子の意見の相違などから色々の葛籐を生じて來る。これを解决するのは人格の他にはありますまい。私の作をする時の態度は何時もさう云ふ過去にも眞理だか又現在にもはまると云ふやうな處を狙つてゐます。
△私はあの作で高雅な趣味を現して見たいと思つたのです。花柳趣味のものではあるが、卑しい下品な感じを起させないやうに書いた積りです。それにあれが丁度寛永の事ですから夫れには丁度よい時期だつたのです。何時の時代でも時代の始めと云ふものは極寛闊で單純で實に気持のよいものです。下つて元禄になると華美で野卑になつて了ひますから高雅の趣などは出せなくなります。で、言葉なども大分注意して上品に書いた積りです。これで矢張野卑の感情が起るやうですと私しの書き方が悪いのです。吉野太夫の遺物は近頃になつても三味線や調度など色々のものを見ましたが實に立派な上品なものでした太夫と云つても當時は今日のやうに卑まれず、又當時の女性では比較的修養のあつたものでせう。つまり其社會の一種の性格を描いて見たのです。(談)
提供者:ね太郎