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【 安藤鶴夫 文楽座の人形が大きくなつたことについて 】

(2023.03.01)
提供者:ね太郎
 
文楽座の人形が大きくなつたことについて
     安藤鶴夫   演劇界 14(10) pp.78-79 1956.9
 
 ぼくがまだ学生の時分の話だから、昭和四五年の頃かと思う。明治座の楽屋で文楽の玉幸、いまの吉田玉助と大論争をしたことがあつた。
 玉幸のほかにも、二三の人形遣が集つてきて、いまは亡き桐竹門造の楽屋が大騒ぎをしたのである。
 文楽の人形が東京へくるたびにだんだん大きくなつてゆくということを指摘して、人形遣の芸が堕落したことを書いたぼくの批評が問題になつたのである。批評は当時東京から出版されていた〝太棹〟という義太夫の専門の雑誌に載つたものである。
 人形が大きくなるということは、当時にあつては人形の頭(かしら)を大きくしたり、手や足を大きく作るということではなかつた。人形ごしらえが大きくなるということだつた。
 御承知のように、人形の胴は竹の輪で出来ていて、この前とうしろに布がついているだけの空洞である。この肩に当る部分に肩板というものがあつて、この肩板には肩のふくらみをみせるために、へちまがついている。
 この肩板の左右に、人形の手についている紐をくゝつて垂れ下げる。これは足をつることから、この胴へそれ〴〵の役の衣裳を着せることから、すべて舞台でその役を受持つ人形遣がやることになつている。
 つまり、勝頼なら勝頼、八重垣姫なら八重垣姫という人形は、舞台でその役を貰つた人形遣が、ばら〳〵のものを自らの手で組立てる、その人形をつくるのである、これを文楽では人形ごしらえといつている。
 随つて、人形遣の好みによつては、人形を大きくこしらえることも出来るし、ある程度ちいさくこしらえることも出来る。むろんそれ〴〵の役によつてどのくらいの大きさという一応の標準はあつても、それは一種の不文律であつて、たとえば〝太十〟に例をとつてみると、光秀の人形より十次郎の人形を大きく人形ごしらえしてはいけないといつた程度の不文律である。だから光秀の役を貰つた人形遣がだん〳〵光秀の人形こしらえを大きくしていつても別に文句は出ないわけである。
 当時、玉幸の遣う立役の人形ごしらえが、東京へくるたびに大きくなつてゆくので、ほかの人形とのバランスを欠いてもくるし、第一、文楽の人形としての芸格がみる〳〵卑しくなつていくことがいつたい何故かと考えたら、この人形ごしらえが大きくなつていくためだと分つた。
 具体的に楽屋へ出掛けていつて寸法を調べたわけではないが、客席からみていて確かに大きくなったことは分つたのである。それが野天の淡路の人形みたいに卑しく、古怪なものにするのを指摘したところが、当時、ぼくは五代目・門造の部屋に出入りして人形を勉強させて貰つていたので、あゝいう告げ口をするのは門造だということになつた。ぼくはむろんそんなことを門造から聞いて書いたりしたのではないから、それが決して門造のいつたことではないということを証明するために、日と時を決めて、玉幸と門造の楽屋で相対したのである。
 玉幸は顔色を変えて自分の使つている人形の胴を持つてくると、口早やに自分の人形ごしらえが決して昔から較べて大きくなつてはいないということを説明した。実際、胴の大きさを大きくしないでは、そうはそう大きく人形ごらしえの出来るものではないのである。随つて、その玉幸の使つている人形の胴での、出来る限りの限度内で大きく人形ごしらえをしているということになる。ぼくはそれを指摘して論争したが、この明治座の楽屋に於ける人形ごしらえ問答は、いまでも文楽の人形遣で覚えているひともいることと思う。殆どつかみかゝられそうな険悪な一幕であつた。
 何故、そうまで玉幸は、ぼくが人形ごしらえの大きくなつたと指摘したことを怒つたのであろうか。
 淡路の人形や、阿波の木偶などという野外で遣う人形は、文楽の人形と較べてまずその頭(かしら)の大きさからして二た廻りも三廻りも大きい。人形の中には眼にガラスの玉をはめこんであるくらいに、つまり出来るだけ人形そのものを大きく、目立つものにクロオズアップしようとしているのである。
 文楽はこれに対して人形がぐんとちいさい。人形そのものはちいさいが、そのちいさい人形を人形遣の芸の力によつて大きくみせるのを誇としていた。あのちいさな京舞の井上八千代が、東京の歌舞伎座の大きな舞台の中に、それに向つて芸のたつた一人で一杯になるのとおなじ誇を持ち修行をしていたのである。随つて、人形そのものを大きくして、自分の芸をカヴァーしているといわれたりすることを極力いやがつたのである。玉幸のぼくに対する抗議がそれを立証する。
 それから二十五年ばかりの歳月が流れた今日、大阪文楽座の八月興行で〝妹背山〟の道行に使う求女、橘姫、お三輪の人形を、高さで七寸大きくつくつて、これを試験的に遣つて、順次ほかの人形も大きく作つてゆくということが行われた。
 理由は道頓堀の新・文楽座という劇場が大きいので、観賞をし易くするためだとある。
 従来使われていた大きさの娘の人形を左端に置いて、お三輪と求女の人形が並んだ写真を東京新聞でみて慄然とした。 左端の娘の人形がいままでの文楽の人形なら、今度の新しい二つの人形は明らかに淡路の人形そのものである。お三輪の頭のでッこりと憎体なことはどうであろうか。いままでの人形より全体として約二割大きくなつたという。
 文楽座もついにこゝまで堕落したかと唖然とした。
 歌舞伎座の舞台で故・吉田栄三、吉田文五郎の人形をみて、一度でも人形のちいさいことを感じたであろうか。世話物でさえ、栄三の重兵衛は舞台一杯にひろがつてみえた、文五節のお園もむしろ格子の外が狭いように感じられたくらいのものである。
 まして新しい文楽座程度の劇場で、人形がちいさくみえるから、これからだんだんと人形そのものを大きくしてゆくという方針を松竹に取られるなどは、なんという人形遣に対する侮辱であろうか。
 これを侮辱と感じないほどに、文楽座の人形遣は堕落したのであろうか。
 現在玉助を名乗る往年の玉幸が、明治座の楽屋で、たつた一と言、人形ごしらえが大きくなつたと指摘したぼくに、つかみかゝらんばかりに、稲荷座以来の人形ごしらえを守つているといつて詰めよったあの意気は、あの人形遣の誇はどこに消え失せたのであろうか。
 昭和五年、当時人形の座頭をしていた吉田栄三が、黒衣の衣裳の紐がそれまで緋縮緬、或は淡紅色または萌黄とされていたものを、それらの色では舞台の目ざわりになるといつて黒の紐にしようとした精神は、もう現在の文楽座の人形遣にはないのであろうか。
 同時にぼくは文楽座の太夫、三味線のひとびとにも、たゞあきれ返るほかはない。人形の大きくなることは太夫、三味線の芸そのものにも影響があることである。それがいつたい太夫、三味線にどんな影響があるのかを知らないのは人形を大きくした松竹である。
 床で語つている太夫に向つて、人形遣が「この頭やで」と人形の頭をぐる〳〵振り廻してみせたのはいつたいなんのためだつたのか、この人形の精神を語れというということではなかつたのか。随つて、今後文楽の人形が淡路なみに大きく変えられてゆくならば、浄瑠璃の演奏そのものもまたそれに準じて淡路なみの芸を演ぜざるを得まい。尤も語られている浄瑠璃が既に淡路の義太夫だというなら話は別である。このことでも分るように、文楽座は次第に〝聞くもの〟でなく〝みるもの〟という方向へ向けられてゆくことさえ知らぬ顔の半兵衛とは情けない限りである。人形の大きくなることを他人ごとのように傍観している太夫・三味線のひとびとは、このところ滑稽新作を演じているために一斉に馬鹿になつてしまつたとでもいうのであろうか。
 更に新聞その他文楽のニュース、報道批評面に携わるひとたちの文楽に対する認識不足、或は愛情のなさにも驚かされる。
 「これが大きくなつた文楽人形」というみだしで報道された東京新聞の記事は、人形が大きくなつてみ易くなるという松竹側の宣伝をそのまゝ鵜のみにした記事である。そのことが人形浄瑠璃にとつてどれだけ大きな禍根となるかについては全く無知なのである。特に文楽座を持つ大阪のジャーナリスト、評論家はいつたいなにをしているのかといひたくなる。文楽を研究させて貰うための木戸御免のシャット・アウトをおそれて、相次ぐ新作の問題、つゞいて人形の問題など、正面切つて論じる勇気を失つているというのであろうか。
 東京のジャーナズムは、こと文楽に関する限り滑稽新作〝団平〟に感動したりなんかする批評家がいることでも分る通り、徹底的に無知である。同時に文楽に対する愛情など毛ほどもない。この時にあつて関西のジャーナリストの最近の文楽の動向に対する厳正な批判が聞きたいと思うのは、決してぼくだけではあるまい。ほんまに、たよりにしてまッせ。(8・13)