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【 安藤鶴夫 芸能インタアヴユウの二 豊竹山城少掾 】
(2023.03.01)
提供者:ね太郎
義太夫のはなし 芸能インタアヴユウの二 豊竹山城少掾
演劇界 (6)11 pp.6-8 1948.11.1
九月に東劇に大阪文楽座が東上した。
引越興行といふ言葉は、文楽座上京の都度使はれたうたひ文句だが今度は『文楽座はづつと東京へ引越してくるのですか』といふ質問を大勢から訊かれたと、東劇支配人の斉藤徹雄氏がいつてゐた。
都民劇場も数回文楽の見学をしたやうだが、可成り若い人達も多く人形浄瑠璃といふものが、よく分り憎いものになつてしまつた模様である。山城少掾は、今度も全員とおなじく、東劇三階の楽屋をホテルに寝起きしてゐた。随つて訪問者も多く、昼夜二役の忙しい中に、楽屋へ寝起きをしてゐるための疲れが濃かつた。
お世辞ツ気の微塵もない人ではあるが、他人への気配り、神経を使ふ点にかけては、気の毒になるやうな人である。だから今度も、僕は随分遠慮をして、数へる程しか逢つてはゐないが、話といへば、いつも極つて義太夫節のことばかりであつた。(安藤鶴夫)
今度は一部に一段、一部が掛け合といふいき方ですが、随分えらいでせう?
○えらいことはえらいですね。やつぱり。昔の太夫も一日になん段も語つてはゐますが、いまのやうな語り方ではなかつたと思ふんです。
といふと、いまの語り方の方が辛いといふわけですか。
○さうでせうな。播磨少掾さんなんかも元文四年の『ひらかな盛衰記』の初演の時には、確か四段語つてをられます。大序の射手明神前と、二段目の切の源太勘当、三段目の切の逆櫓、それから四の切の延寿が自害して源太が出陣する件を語つてをられますね。
いちばん重い語り場ばかりといふわけですね。
○さうです。それを今日のやうな語り方でやられたのでは、とても人間業では出来ないわけだと思ひますな。
さうすると、つまりどういふ語り方だつたんでせう?
○つまり文章を聞かすべくの語り方でせうな。物語るといふ方が強かつたんではないかと思はれます。播磨少掾さんは、御承知のやうに音声のちいさい方でして、情を語る人、なにしろ芝居へ出るのを許されなかつたといふくらゐの人でゐて、義太夫節中興の祖となられた方ですから、大変なお人ですが……
むろん、三味線の手も今日みたいに複雑なものではなかつたんでせうね?
○勿論、今日の三味線のやうに弾き倒すやうないき方ではないし、譜も扇拍子切少し複雑になつたやうなものだつたと思はれます。
それは古浄瑠璃の語り方といふわけになりますね。
○ざうです。この語り方は、わたし共もよく先輩から聞かされたものですが、五代目の竹本春太夫さんで、古浄瑠璃の風はおしまひだと伺つてゐます。
摂津大掾の師匠ですね?
○はア。
山城さんがお聞きになつた明治期の太夫でさういつた古浄瑠璃の風のやゝ残つてゐたと思はれる太夫はゐませんか。
○さうですね、四代目の播磨太夫や綾瀬太夫といふ方達でせうかな。播磨太夫さんなんかは、一寸首を左へかたげる癖のあるお方でしたが、ぴたり正面を向いた侭身体を動かさないお人でした。せいぜい扇を床へ一寸突くぐらゐのことですが、綾瀬太夫さんなんか『国性爺』を語つてゐてもまるで身体を動かしません。昔は一寸首を曲げたゞけでも、あの太夫は行儀が悪いといはれたものです。
しかし、あれだけ体力のいる芸を、釘一つ動かさずに語るといふことは大変なものですね。すると、いまのやうな行儀の悪い語り方にしたのは誰からです?
○行儀の悪い語り方にしたといふのはなんですが、(摂津)大掾さんが語つてゐて身体を動かすといふあたりから、語り方が転換したものでせうな。『中将姫』なんか、あのいゝ声で『はゝさまア』などと、高いところで身体を伸び上つて振ると、わアツと拍手がきたものです。つまり浄瑠璃を売りにいつたんですね。
どうして、春太夫の直系の人がそんなことをするやうになつたんでせう?
○つまり、さういふことでわアツと客席をわかせて喜ばせる。義太夫節が不振になつたのを、それで取り返したといふことなんでせう。しかし、それは越路太夫(二代)を名乗つてゐた時代のことで摂津大掾となつてからは、また元のやうに身体を動かさなくしてゐられました。
すると、大掾といふ人は、さういふ風に動いて喜ばせ乍ら語れもしたし、古浄瑠璃のやうな行儀のいゝ語り方も出来た人なんですね、矢つ張りえらい芸なんだな。
○さうですね、それで一としきりまた義太夫節を盛り返したんです。
もう一つ伺ひますが、古浄瑠璃の語り方の風といふと、あれですか、子供なら子供のやうな声を出したり、婆アなら婆アのやうな声を出すといふ、物真似をしなかつたといふことなんでせうね。
○さうなんです。寿太夫さん迄は物真似の語り方をしてをられません。只今では仮りに『野崎村』の『後に娘は……』といふのは、娘の気分を漂はせて語りますが、寿太夫さん迄の浄瑠璃は太い地声で『あとにむすめは……』とぶツつけるやうな語り口でゐて、それでその間に色気が漂ふといふいき方だつたんですね。つまり物真似をしない地声で語つてゐて、娘は娘、子供は子供に聞えるのがほんたうの太夫とされてゐたのです。
春太夫以前にも、しかし物真似大夫はゐなかつたんでせうか。
○あつたらしいですね。文化五年頃の評判記みたいな本に、この頃の太夫は物質似みたいな浄瑠璃を語つてゐると書いたものがありましたから、そろ〳〵さういふ語り方があつたんでせうな。
さうすると、おなじ義太夫節でも、いまのやうないやらしい語り方でなく、おほどかな品のおい語り方だつたんですね。
○さうです。
そんなら辰野(隆)さんあたりに、あんな悪口をいはれないでも済んだんだな。(笑)
○つまりだん〳〵近世になるに随つて芸品が卑しくなつたんですね、つまり芸を売りにかゝつてきたのでせう。. すると、さつきの播磨少掾が四段も語つたりするのより、山城少掾が今日の語り口で一日に二段語るといふのはづツと体力的にえらい労働といふことになりますね。浄瑠璃史の一頁を飾るわけですね。
○しかし、わたくしはもう昔みたいに、やれどの辺迄声が聞えるかなどと、弟子を客席へ廻らせて声かせたり、自分で前へ廻つて小屋の大きさを調べてみるといつたやうなことはしないことにしました。自分の力一杯だけの浄瑠璃を語るといふ風に心掛けてをります。ですから聞えないお客様はお気の毒ですが、今度聞えるところで聞いて戴くといふ気持ちで語つてをります。
それでなくつては、また堪りませんね、身体が……、それに無理な声を出して、逆らつて語つたんではいゝ芸も出来ますまい。
○まア最近ではそんな風に心掛けてをります。
今度の『忠臣蔵』でも、九段目をお語りにならなかつたけど、どういふわけなんですか。山城少掾にして、九段目はこわいといふわけですか。
○九段目といふ浄瑠璃は、大変むづかしいやうにやかましくいはてをりますが、九段目よりむづかしい浄瑠璃は沢山ありますよ。『忠臣』だけでいつでも、六つ目の勘平切腹なんかヤマもなんにもなくつて、とてもやり憎い語り物です。四段目は泣かされるし、九段目は朝から晩迄のどんけつで、七つ目といふ長丁場が掛合があつて、八つ目の華やかな道行があつて、あとのまた十段目の天川屋は洒落た洗ひ上げた語り場ですから、その中で九段目は独参湯の神様みたいに祭り上げられてゐますが、むづかしいといふ点ではほかにもつとむづかしい浄瑠璃は沢山あります。
では、むづかしいからではないとすると、まだ語つてゐないといふのにはなんかほかにわけがおありですか。
○さうですね、九段目は妙な廻り合はせでしてね、最初に九段目の話のあつたのは、貴田さん(三代越路太夫)が病気になつた時のことでした。わたくしは端場の雪こかしと七つ目の平右衛門を語つてゐました。
三味線は三代目清六時代ですね?
○さうです。いまの清八君が連れを弾いてをりました。貴田さんが病気で休んだのです。さういふ場合、端場を語つてゐる者が代役をするのは憲法なのですから、わたくしに九段目が廻つてくる筈でしたが、わたくしの上に、まだ九段目を語つてゐない者が二三人をりましてね、これが文句をいつてゐるといふことを一寸小耳に挟んだのでいやになりまし。恰度、表の方からも道行迄にして九段目の代りに『堀川』を語れといふんで、『堀川』を語りましたが、この時が『堀川』の初役です。大正十年ですから、四十四歳の時です。二度目に九段目がきた時は、清六さんが病気だつたので、代りの三味線で語るのもいやなので、『良弁杉』を語りました。三度目に話のあつた時は、もう抜き飛ばした『忠臣蔵』になつてゐましたが、この時も確か清六さんが病気で駄目でした。
すると、四度目の九段目の話は今年の四月から五月へかけて五十日の興行をした『忠臣蔵』の時といふことになるんですか。
○さうです。考へまツさといつてゐたのですが、三月に九州へ巡業をするので、そのまへに役割を出さなくつてはならなかつたんです。この旅は恰度二十四日間もあつたんで、その途中で清六君(現四代目)と毎日稽古が出来ると思つてゐたのですが、清六君がお腹の中へ虫がわきましてね、稽古も出来ない。そのうちに役割を決めなくてはならなくなつたんで、まア待つてくれといつてゐるうちに、六段目と七つ目の由良助を持つてきたので、またやらないといふことになりました。やらないでよござんした、よつ程九段目には縁がないんですね。
一度も語つたことはないんですか。
〇十四、五の子供の時分には語つてゐます。
寄席に出てゐた時分ですか。
○えゝ、それにお座敷とかなんかでね。
去年の二段語りでは途中で声を痛めたけど今年は大変快調でしたね。
○自分の気で声を潰してゐたと思ひますね、いま迄は……、聞えるか聞えないかといつた神経を病んで、自分から痛めてゐたんでせうね。さうかといつて、神経を病まないでは舞台が勤まらず、むづかしいところです。
なんかの動機でさとつたんですか。
○別にさとつたといふ程のこともありませんが、よく自分勝手に声を潰すといふことを昔から聞いてゐました。ぎばらないでもいゝところをきばつたりしてね。あたしなんか、『堀川』の『かう歌ひなされや、あゝい』といふ、その『ああい』一と言がづつと永い間いへなかつたもんです。清六さん(三代)に弾いて貰つてゐた時代ですか……
どうしてなんです。いへないといふのは?
○つまり、『あゝい』を子供らしく聞かしたいちゆな料簡で駄目だつたんですな。その『あゝい』をいはうとすると、お腹がへつこんで腹巻(太夫の締める腹帯)が上へ上つちやつた。腹ヘ力を入れゝばいゝものを逆にやつてゐるからそんなことになるんですね。
今度の七段目の由良助では、あの長丁場を一度も降りないで、坐りつきりですが、あれは降りてはいけないといつた憲法があつてのことなんですか。
○そんなことはありません。まアわたくしぐらゐのものでせう。舞台へ上つたり降りたりするのは、お客様にもうるさいでせうし、いやなもんですからづつと坐つてをります。
相変らずいやな入れ事が、一と言もなくつて清潔な由良助でした。
○よくわたくしの語る浄瑠璃の文句は違つてゐるといはれるんですが、わたくしは原本通り語つてゐるので、ほかの入れ事やなんかのある方を大勢が語つてゐるので、そんなことをいはれるのでせう。六段目でもこの間数へてみたら『金』といふ字が四十七ケ所使つてあります。身売りの間に二十ヶ所あとで二十七ヶ所ですね。
それは山城さんの発見なんですか。
○いえ、子供の頃誰かから聞いてゐたのを思ひ出して一寸数へてみたのです。つまりこれは作者が、矢つ張りそこ迄考へて四十七ヶ所に使つたんでせうから、『金は女房を売つた金』といはなくてはいけないと思ふんです。大抵。『金は、金は女房を……』と語つてゐますが、さうなると金といふ字が四十八になつてしまひます。ですからとにかく入れ事はしないに限ると思ひますな。
聞いてゐては金が四十七ヶ所もあるなんて気がつきませんね。
○つまりその気にならない使ひ方をしてゐるところなんかでも名作なんでせうな。そこへいくと『良弁杉』の、なになに『し給ひ』なんていふのは語つてゐてうんざりする程気になります。
なる程、あれは『し給ひ』し給いと敬語だらけの浄瑠璃だ。
○『先代萩』の御殿でも『けうといことのう』と五行本にはありますが、院本には『けうといことぢやわ』と書いてあります。ですから、わたくしはそれで語つてゐます。それから『さア〳〵御前』といつてゐますが、あれも『さアさア御膳』がほんたうです、なんといつても作者の意志をついで原本通りに語らなくてはならないと思ひますね。
どうです、浄璃文献はまた集まりはじめましたか、僕があんなに疎開おしなさいといつてゐたのに、いまになると惜しいでせう?
○またぼつ〳〵集めはじめましたが、駄目ですね、とても。わたしは自分の説なんてことはいつでもいはないで、どんな質問をされても、みんな昔の文献から引例してお伝へしてゐました。ですから、 一時東京の義太夫雑誌でうるさく議論されたランナ、ウンナみなんて問題も、昔の本をみればちやんと書いてあつたんです。それがどうも、本を焼いちまつたので駄目になつちやいました。
文楽座は余り入りがよくないといふ話ですが、どうなんです?今年の春頃かな、九人しかゐなかつたなんていふ話を聞きましたが……
○そんなことはありません。いくらり入りが悪いといつても、百人以下といふやうなことはありません。
歌舞伎が亡びるといふ説は、秋山安三郎氏の調査に依ると、七年目ぐらゐに周期的にくるといふことなんですが、文楽の亡びるといふ説も久しいものですね。
○文楽の方はのべつに亡びる〳〵といはれてゐますよ。あたくしなんかが文楽へ入座した当時から、あんなにえらい人達が大勢群がつてゐて、もういまにも亡びるやうなことをいはれてゐたものです。第一、よくわたくしはいふのですが。『太功記』がはじめて出来た時ね、あの時の辻ピラを持つてゐましたが、それに毎日先着百名様かに法楽にてお入れ申しますと書いてありました。
無料で入れたわけですね?
○さうなんですな。
あれは御霊でしたね、当時のちいさい小屋で百人も無料で入れるといふのは大変なごとでせう。
○それが麓太夫さんがゐる芝居なんですからね、だからもう文化の頃からいけなくなつてゐるわけでせう。ですから、文楽が亡ひる亡びるといふことには神経を病まないことにしてゐます。
しかしみんな苦しいやうですね。たうとう文楽座も日映演といふ組合に入つちまいましたけど。
○わたくしはいくら苦しくつても給金と役の文句はいはないごとにしで今日迄やつてきました。
松竹は外国人がくると文楽を国宝芸術だといつてみせたり、天皇陛下におゐでを願つたりして、いい時だけ文楽を看板にしてゐるけれども、もう少し人間並みの待遇は出来ないのですかね。一体、松竹には文楽に対する愛情があるんでせうか。
○わたくしは愛情はあるんだと思ひますれ、明治四十二年の四月興行から、文楽座は松竹さんの手に移つたのですが、その時津葉芽太夫から二代古靱太夫と改名したので、よく覚えてゐますが、白井会長がみんなを集めて『文楽座はわたしの隠居所として経営する』といはれました。白井さんはその言葉を忘れてはをられまいといまでもわたくしは思つてゐます。
贅沢でなく、とにかくお相撲並みに食料の入る芸ですからね、なんとかもう少しみんなの生活を考へて貰ひたいと思ひます。これアどうも
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