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【 林きむ子 故杉山其日庵主を想ふ 】

(2023.03.01)
提供者:ね太郎
 
林きむ子 故杉山其日庵主を想ふ(一)  浄瑠璃時報 144号 1935.10.1
 去る五月廿日の私の日記の中に「白木屋でお祝物を買つて杉山其日庵主を台華社に訪ふ、只今お休み中と玄関子に払はれさうになつたが辛うじて病床近く通る、大した事はないが頭山翁との祝賀会に出られなくなつてはと面会謝絶にされたのださうだ、昔「オイ桂嘘を吐き居つたな、種はあがつとるおごれ〳〵」などゝ電話で大笑したりした豪放な態はかくれて「今度は俺から訪ねてやる 図を描いて置いとけ」と優しい言 紫野大徳寺の大綱和尚の和歌をひいて其道を説かれた娘時代も思ひ川されて懐しい。病気に障つてはと間もなく辞す一長い間まるで逢はんちやつたな」とは此間頭山様からも聞いた同じ心の同じ言だ、私が自分の浮沈に没頭して恩師を訪はぬ怠は過ぎた年月と共に取返しがつかないと書いた。せめてこれから残された年月を無駄にしない様にと思つて居たがそれも亦なくなつてしまつた。親交の頭山翁を始め多くの知人に囲まれ、家族の人々に護られて汽車の窓でも絶やさない香の煙の中の白布に覆はれた白木の箱の内、遺髪丈かと思はれる其人の名残、見送つて帰つて来た今も真実のやうな気がしないが、夢ではない、十日程前、三年町の自宅の一室に、白朝の紋服に白足袋をはいて直ぐ覚める転寝のやうに寝台に横はつてゐた姿、白絹の顔覆ひを除けて見ると、黒々己秀でた眉、高い鼻、固く一文字に結んだ口元、人のいふ翁などゝいふ名は凡そあてはまらないやつれも見えず皺もない、博物館などで見る昔の人の鎧常人より一まはり以上も大きい人が着たらしい鎧、それも身に合ひさうな、なほ若やかな偉丈夫の面影は今も目に残つて居るが、その立派な豊な亡骸さへ残されては居ないのだ、土の下にかくされてさへ居ないのだ、
 私は九つか十の時から杉山さんを知つてゐた、それは私の里の家を事務所のやうにして居た頭山さんと杉山さんははなれぬ仲だつたから、けれど私が先生のやうに考へはじめたのは、十二才の夏休みの頃からだつた、頭山さんが其頃根津にあつた、たしか神泉亭といつたと思ふ大きな(しかしさびれた)料理店に、幾日か滞在して庭の草花を眺めたり、大きな古池の鯉をあげて調理させたり、のんびりと遊び暮してゐる時だつた、その頃根津はまだ郊外といふ感じがして田舎めいた芝居小屋が広い空地に建つて居たり、夜は近くの権現様に追剥が出たりした、そのころ芝の私の里も庭へ五位鷺や梟が来て啼いた螢も飛んだ、池に啼く蛙をわざ〳〵聞きに来る風流人もあつた程静ではあつたが、朝野の政客がひまもなく訪ねて来るのを頭山さんはうるさがつて根津へしばらく方たがへといふ形だったらしいで毎日のやうに家の者は芝と根津との間を往復した、或日私は女中から根津の鯉は家の鯉よりもつと大きいと聞かされて、行つて見たいとしきりに云つてゐるのをきいて杉山さんが是から行くから俺が預つて連れてゆかうと母の許を得てくれた、その日に根津へ行つた者は、其頃男装で売出した新内詰りの花子さんと名は誰か覚えてゐないが中年増の芸者衆二三人半玉が二三人その中に私の学校のゆきかへりにその家の前を通るとイーと意地悪く唇をつき出して見せるので喧嘩になつたのが縁で友だちにつた龍子といふ人などであつた杉山さんは今思へば卅四五才位だつたがもつと年輩の人のやうに見えた。
 
 故杉山其日庵主を想ふ(二)145号 1935.10.15
 漢詩にでもありさうな(それは後に思ひ合せた事だが)面白い一日を過して、それ〴〵寝室に退いた。私は龍子さんと一しよに寝たが、夜中にまた喧嘩を始めた。隣室から「誰だ喧嘩をしてゐるのは」と杉山さんが大聲でどなる「おきむちやんと龍子さんです」と一室にゐた半玉の人たちや花子さんが云つた「きいてやるから二人がこつちへ来い」と杉山さんは云ふ。龍子さんは直ぐ起きて隣室へ云ひつけに行つた。私は如何しやうかと考へたが、たまらなく家へ帰りたくなつたので一人で広いはしごを下りて行つた。すると杉山さんが後からゆつたり〳〵と来たと思ふと、軽いものを静に摘みあげるやうに(そんな気がした)私を連れて自分の室の龍子さんのそばへいつた「喧嘩をするな」といひながら隣室の私たちのニッ重ねた敷蒲団を軽るげに持つて来て自分の両隣へ分けて一枚づゝ置いて「さあ黙つてそこへねろよ」といふなり自分は横になつて直ぐ眠つた。龍子さんと私は各々その上に直つたが顔を見合せて、しばらく黙つてそのまゝでゐた。私はだん〳〵ひどく帰りたくなるので、また静に出て、はしごを下りていつた。龍子さんは大声で「おきんちやんが帰ります」といつた。杉山さんは静かに後から来て「どうしても帰りたいか」と云つた「えゝ帰りたくなりました」といふと「ぢや俺が送つてゆかう、丁度月もよい」といつて、直に人力車を命じて一しよに乗つて、はる〴〵と芝の日蔭町まで「おきむ、お前も変つた子ぢや、俺か学問をさせやう、喧嘩はするな、怒るものはえらくならん」此の私の意地張に対する言葉はたゞ是丈けだつた。
 不忍池畔を過る頃から、泥の中に咲く清い蓮の花の話、水上に現はれたものよりも、かくれた根の方が長く立派で、そこにこそ、美しい真実の力 生命のひそむといふ蓮の話 これは私の生涯忘られない思出の一つだ。最初に吹きこまれた生命の息のやうなものだ。其時の師弟を乗せて長い道を曳いた車夫は、何処の誰であつたか、其人さへもなつかしく、感謝したい気がする。(つゞく)
  昭和一〇、七、二八
 
 故杉山其日庵主を想ふ(三)147号 1935.11.15
 そんな事があつてから、蓮の花は私の大好きな花になつた、兄にせびつて不忍まで、またはる〴〵と人力車で、暁に開く花の幽な音を聴きに連れて行つて貰つたのもそれからの事であつた。十四才の時、蓮の歌と題して「我濁江に水ごもりて、菱藻、ねぬなは、くさぐさの藻くづが中に交りつゝ、わかちもやらで、しのびしか。乾び黒みし去年の茎、はかなく残る破れ葉に音づれたえぬ、寒風はなほたゆるやと囁きつ浮葉むなしき水の面に、さゞなみ織りて過るなり。(下略)」などゝ、長い歌のやうなものを作ったりした。
 杉山さんに見せると、中々やりをるが、和歌にまとまらんけりやいかんと云つて、昔杉山さんが教へられたといふ、京都紫野大徳寺の大綱和尚の歌
 曳く人もひかるゝ人も水の上のうきよなりけり淀の川舟
 といふのをひいて「おまや、未だわかるまいが、かういふのがよい歌だ。習ひたければ教へてやるが何事も、一心になつてかゝらんとものにならんぞ」傍の硯箱をひきよせて、巻紙にさら〳〵と書いて渡された歌はかうだつた。
 何事も思ひそめ川浅くてはなみならぬ身のいかでたつべき
 私は本で読んだ小式部内侍のやうに、すぐに返歌をしたいと思つたが気ばかりあせつて、まとまらなかつた。自分の部屋へかへつて、机に向つて書いては消し、書いては消し、長くかゝつてやつと
 なみならぬ身はよるべさへなかりけり思ひそめ川よしふかくとも
 と、よんで、杉山さんの室へ持つて行つた、杉山さんは二、三回節をつけてよんで見て、「よく出来た是から成丈多くよめ、俺が直してやる」と云はれた。それから私は杉山さんを腰折ぜめにした、杉山さんは、また「お前の歌のよいのをとつて置いて、大きくなつたら歌集をこしらへてやらう。朱の丸のついたの丈を書いておけ」と折子本を下さつた。表紙には「砕露帖」と美事な筆跡で書いてあつたその頃から詠み始めて、今日までの歌の数、近くすつかり整理して公にする時は、この師の君に捧げやうと思つて居たのに……今は最後の日となつた病床での話の時にも「よし、見てやらう、其歌集には俺が題字をかいてやる」と云はれたが……繰返して思へば思ふほど惜い名残と思出は尽きない、それにつけても惜いのは、先頃失した故人の形見だ、それは私が廿才を越して間もない頃の事だつた、一日台華社を訪ふと、応接間の床に、いたづらがきのやうな、変な人形の画をかけて、杉山さんと外二、三の客とで、それを指して笑つてゐる所だつた。その人形といふのは、只まるい顔にチヨボ〳〵と目鼻を描いて、胴体はぐるりと筆を廻した丈のまる裸 お腹の辺に、おへそをチヨンと点でうつて足は二本ついてゐるといふ丈で、指の数も何もあつたものではない手は鳥のやうなのが、ひぢの辺から、かぎに曲つて、一本は天を一本は地を指してゐる その上に何ともいはれぬよい字が書いてあつた、勿論杉山さんの自画自讃である。今忘れたが、何でも「吾に高才大器の相あり。何ぞ憂ん(二字思出ず)勿忙に処するを乾坤一転壺中の夢、破楚の将軍は鉾を取る郎」と読んだやうに記臆する、それがほしくて〳〵ならないので、強つてねだつて、遂に私が貰つてしまつた。それから私は荒い浮世の波風にもまれて、杉山さんにも長く〳〵御無沙汰をしたが、その画に向ふと、何時も師の君と離れずにゐる気がして居た。その大切な私の宝が、今から四年ばかり前に紛失した。血眼になつて家中探したが、終に発見出来なかつた、盗難に罹つたとすれば、今は誰かの手に移つて、何処かの床を飾つてゐるだらう、禅者の室か、茶人の庵か、どこにあつても、あの人形は元の侭に威張つてゐるだらうしかし、私の所に、今の私の所にあるほど、なつかしがられ、ほしがられてゐるだらうか。
 杉山さんには現では、もう会はれない、があのチヨボ〳〵目の鳥人は、どこかに居る、何処かに居るとしたら、どうかして今一度めぐりあひたい、あのおどけた鳥人の大きなお腹には、故杉山其日庵主の魂がこもつてゐる。私は自分を忘れない限り、杉山さんを忘れないだらう、杉山さんを忘れない限り、鳥人の事も忘れられない。(終)