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【 竹中清助 浄瑠璃本の話 】

(2023.03.01)
提供者:ね太郎
 
浄瑠璃本の話 加島屋 竹中清助  話1(3) pp. 56-91 1933.6
 
 浄瑠璃本は、今、尚、すべて木版刷であります。この忙しい世の中に、相も変らず昔ながらの木版、手刷の伝統を保つてゐるのは、一つの奇観ではありますが、実はこれこそ伝統に生きる浄瑠璃の面目をあらはしてゐると申すものでございませう。浄瑠璃を稽古する人には、生漉半紙に滲みこんだ墨の色が、捨て難い気分を生み出すのであるとさへ云ふ人もございます。
 私共、加島屋は、大阪の版元でありまして、徳川時代以来の家業をそのまゝ受け継いで使用の紙も特に上質の生漉半紙を選んで居ります。これは、由来、浄瑠璃の稽古そのものが、何番も何番も習ひ上るといふより、何か一番でも繰返し〳〵て稽古し、味を出すと云ふ地味なものである為、上質の半紙でないと度々の使用に堪えないからでございませう。生漉半紙は、伊予の大洲半紙、石見の石州半紙などが使はれて居りますが、近頃は生漉半紙の産額が年々に減少するので困つてをります。刷方は、普通の木版と異りませんが仙花紙の大本は、特に二度刷で、一度版木に墨をつけ、刷つた上を、また片面づゝ墨をつけなほして、再度刷り上げると云ふ、これは可成り手間の入つた刷り方であります。また、印刷に用ひられる墨は、製墨家から仕入れた折れ墨を、大きな壺の中で、一年もかゝつて溶かしたものを用ひます。版木はすべて桜の八分板を使ひ、あの丸い変哲な文字は、あれでなか〳〵熟練した版刻でないと彫れないものでございます。かうして作り上げらる浄瑠璃本は、凡そ現代ばなれがしたものであるといふても差支へないやうであります。
 さて浄瑠璃本と一口に云ひましても、院本があり、床本があり、稽古本があります。院本といふのは、通し丸本の事で、正本とも云ひまして、大序より大詰まで、芝居の筋書全部をおさめたもの、謂はば、戯曲の脚本と云つた風のものであります。床本は、太夫が舞台で語るためのものでして、一段宛の分冊となつてをります。それはもと、半紙型のものが使はれてゐたものですが、今では、仙花紙に大きな文字で刷られたものが使はれて居りまする。稽古本は文字通り稽古用のもので、一般に半紙に印刷され、普通浄瑠璃本と云へば、この種のものを云ふのであつて、現今五行のものばかりとなつてゐますから、五行本とも云はれます。昔は、床本と稽古本との相違はなかつたやうで、両方共に半紙型のものでしたが、一段宛の分冊となつてゐる処から、抜本とも呼ばれてをりました。
 床本は七行にかゝれ、床本と稽古本とが今は五行に書かれてをります。床本と稽古本は昔は、六行に書かれたこともございました。その他四行のものもありましたが、之は後に述べますやうに、株仲間の制度によつて、五行や六行の床本の発行が、特定の書肆に限られ、他のものにはその翻刻が許されませんでしたため、やむを得ず行数をかへて発行してゐたのでありまして、京都では最近までこの四行の版木を使つてゐる店が残つて居りました。只今世間一ぱんによく見られる浄瑠璃本は床本と稽古本とであります。院本は、もはや殆ど見ることが出来ません。これは、読みものとしての浄瑠璃が、新しい形の戯曲とか小説などとかいふものに、その読者を奪はれ、第二には、もはやあのむづかしい書体の文字を読むだけの根気をもつ人がなくなつた為でありませう。しかし、私共の家には、今尚、三百余種の院本の版木が伝へられて居ります。三百余種と申しますと、なかなかの大部で、土蔵一棟に一杯つまつてゐるほどでありますが、それが殆ど死蔵せられてゐる有様なのは時世とは申し乍らまことに惜しいことゝと思つて居ります。
 今日すべての出版業が東京に集中せられてしまつてゐる中に、今日も、たゞ浄瑠璃本だけは大阪で作られて居り、東京で使はれてゐる義太夫本でさへ、すべて大阪から行くのであります。浄瑠璃本は、まことに、文楽座と共に郷土的な誇であると云つてよろしいのでございませう。
 では何故、大阪でのみ、而も加島屋と申す一軒の出版業者によつてのみ、現在の浄瑠璃本が作られるかの由来について書いてみませう。
 もと徳川時代に、他の商売と同様に、浄瑠璃本の出版にも株仲間と云ふものがあつて板木株といふものがございました。最初、天満屋玉水源治郎なる者が、諸所の作者家元から浄瑠璃の版権を買ひ集めて、板木株の免許を得たのですが、後に、紙屋与右衛門へその株を譲り渡してしまつた。今、私共には、文政十一年子十一月の日付のある『浄瑠璃本版木大字正本目録帳』と云ふ写本が伝はつてをります。これは即ち天満屋玉水源治郎から紙屋与右衛門へ版木株を譲り渡した時の、珍らしい目録であります。それによつて見ますと当時、玉水源治郎所持の版木株は、正本三百六十五番、五行床本四百七番、六行床本二百五十六番、他に増補五行床本十番とがあり、その中、正本六十二番は版木焼失して、株のみ所持の旨が記されてあります。尚、右の目録には次の如き奥書が付いてをります。 
 『右は此度売渡申し候大字正本竝びに五行抜本版木外題不殘相異無御座候。尤も、我等所持の内此番数に相洩れ候浄瑠璃本一切無御座候。若し此番数の外書き洩れ候版木有之候て、後より相知れ候はば、本文の通り、如何様御取斗被成候共、一言の申分無御座候。以上。
  文政十一子年十一月
          売主 天満屋 源治郎 印
          証人 富松屋次郎兵衛 印
   紙屋与兵衛殿』
 
更に、この株は、天保年間に至つて、紙屋与右衛門の手から、私共加島屋清助に売渡されました。先づ、天保九年十二月に半株、其の後、翌十年二月に残りの半株が譲渡されて居ります。また天保九年には、版木半株代銀として、銀百二十五貫目、翌十年には残り半株代銀に家屋敷の代銀を加へて、百八十貫目が支払はれてをります。この家屋敷と云ふのは土佐堀にあつたもので、後に梅花女学校になつたと云ふ事であります。第一回目と第二回目との代銀の差額、銀五十五貫目がこの大きな家屋敷の代銀に相当するのでありますから、版木株の価格は非常に大きなものであつたと見ることが出来ませう。
 この時の版木株の物は、文政年間と略ぼ相異がござりません。即ち、私共に伝はつてゐる証文には次の様に記されてあります。
  『永代売渡し申候板木之事
 一、竹本豊竹陸竹座都合浄瑠璃大字七行正本三百六十五品半株
 一、五行抜本 四百四品半株
 一、6行抜本 二百五十六品半株
    (中略)
 右の通り板木半株代銀百二十五貫目に相定め其元え永代売渡代銀慥に請取申す処実証也。然る上者右板木株につき他より違乱申者一切無御座候。為後日板木竝に株売渡証文依而如件。
   天保九年戊十二月
            紙屋与右衛門 印
         証人 桝屋 藤兵衛 印
 加島清助殿』
 
 当時、全国に於いて、種々、浄瑠璃本の発行が企てられてゐたのでありました。事実上は紙屋与右衛門の独占であつたらしく、正本は勿論の事、特に五行床本については、他の翻刻を許さなかつたやうに見うけられます。また、六行本を許す場合にも、一定の板賃銀を徴してゐたやうであります。これらの事情は、紙屋与右衛門から、前代より加島屋清助へ渡した次の一札によつてもうかゞふことが出来ます。
 『一札之事
一、此度我等所持之浄瑠璃本板木株不残其許殿え本紙証文通り売渡候に付き別紙目録書之外浄瑠璃本に相抱り候板木類古板重板迄、残不売渡申す上者、此外我等所持の浄瑠璃本板木等者申すに及ばず、株式に差構ひ品候もの書物等は一切無御座候。勿論、何事によらず隠し置き後より相顕れ候はば、此一札を以て不残御引取り被成如何様に御取計ひ被成候共一言之申分無御座候。
一、先年より於諸国紛は敷板木出来候に付き、別紙廉々証文之通り、済方致有之候処、此度浄瑠璃本板木一式売渡候に付右出入証文相渡可申候、且又、尾州表之儀者対談之上、六行丈け差許し、万事証文面之通り、取究め、年々為板賃銀我等方え受取り来候え共、向後は其許殿え御受取可被成候。将又京都之儀は五行に差障り不申候様字並に寸法を相定め、六行丈け差免し有之候に付其の砌右ひな形も仲間中に有之候事に御座候。右之外是迄我等所持の内重板之出入無之候。勿論我等所持之株内より何品によらず、外方へ差免し有之候板木類一切無御座候。万一此後我等所持の内に相抱り申候板木出候て、先年より対談を以て仕来有之候抔紛は敷儀申出候出入等出来候はば、我等何方迄も罷出急度埒明少も御難儀相掛申間敷候。為後日相改書入申一札依而如件。
  天保十亥年二月
     紙屋与右衛門 印
加島屋清助殿』
 
右の文中、京都の儀は云々と云つてゐますのは、後に四行の稽古本を発してゐた店のことをいつてをるのであります。
 其の後、凡そ九十六年間、私共でこの業を一手に受継いで来たのであります。  しかし、その間に六行本は、全くなくなつてしまひ、全部五行本となつてをります。
 尚、院本も明治の中頃迄は、私共の手で刷つてゐたのでありますが、其の後は、全く印刷を中止してしまひました。其の頃、院本の予約出版の企てられたこともありました、が惜しいことにはその計画も実現せずに終りました。
 明治初年に既刻浄瑠璃本の版権下付を願ひ出たことがございます。この時、世話物は卑猥であるとの理由から、時代物は、史上の時代や人物が事実に反してゐるとの理由から、許可されませんでした。時代物については、史実通りに原作を変更すれば、許可しようとのことでありましたが、漸く文明開化に向つた時代の当局者の政策が窺はれてまことに面白いと思はれます。