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【 豊竹古靱太夫 文楽の特質 】
(2023.03.13)
提供者:ね太郎
文楽 芸談
文楽の特質
豊竹古靱太夫
演劇 一巻四号 pp.150-152 1932年7月1日
最近文楽の人形浄瑠璃が、復活して参りましたのは、悦ばしい事と思つて居りますが。最近の興行のやり方は、仕打さんの方では、全く芝居の興行を標準にしてやられますので、文楽の特質が随分害なはれてゐると思はれます。春秋二回東京へ参りますが、何時も三日替りで五の替まで出すと云つた、あわたゝしい遣り方で、その出し物も、車引を出して、二十四孝に、太十に沼津に野崎村と云つた式で、あれでは素人浄瑠璃のみどりと変りがありません。尤もすべてが営業から割出してゐるのですから無理もないかも知れませんが文楽の特質は、大序から一つ院本を通して語る処にありますので、近頃では「二十四孝」を出せば、「廻向せうとてお姿を」と云つた四の切りしか出しません。然も勝頼の出から狐火までしか語らないと云つた遣方では、現在の歌舞伎と変りありません。「我民間に育ち」云々と云つても、勝頼と蓑作との関係が分らず、「父御の悪事も露知らずお果てなされたお心を」と濡衣が歎いても何の事だか分りません。どうしてもせめて二の切の取換へ子の悪事と勝頼の切腹から見せねば筋が通りません。昔は必ず大序から二段目の口、切、三段}目、四段目と順序を追つて語つて行つたもので、私の修業時代には、朝暗い内に簾中で、大序を語り、夜がしら〴〵明ける頃「道明寺」の鶏明の段を語つて、夕方まで続けたものでした。文楽は修業場と云はれてゐましたが、今では全く営業本位で、あれでは若い者が芸を修業する事も出頼ません。自然優れた太夫も三味線弾きも少なくなつて行く訳です。五の替まで出すならせめて一回でも、「菅原」なり「千本桜」なり「二十四孝」なり、通して出させて貰ひたいと思つてゐます。又決して不成績な事はないと考へますが……
私は昨年七月「伊勢物語」を東京で初めて語り、此度又「平家女護島」を語りました処、古靱は埋もれた古曲を復活したと大変お褒めに預り恐縮して居りますが、私は古曲を復活して後代に伝へると云つた、そんな大それた考へでなく、唯私は悪声なので、派手な艶のある物は語れませんので、何か自分の柄にあつた物をと思つて、古い物の中から探し出して、手摺にかけて見ました訳で、「平家女護島」の二の切は、明治二十三年十月に二代目竹本長尾太夫が語られまして以来約四十年打絶えて居りましたのを、色々調べて語つたのでございますが、どうも一般の御見物には、陰気過ぎて面白くないと御不評で、いさゝか落胆致して居ります。
通しでなく、一段だけ語りますにも口から初めて、中、切と続けて行つて初めて筋も通り、其一段の情趣も味も伝へる事が出来るのですが、近頃の御見物は、東京はそれ程でもございませんが、初の方などはよくお聞にならず「今頃は半七さん」と来ると、まつてましたとばかり声をかけ、「思へば〳〵この園が」とやると、よう〳〵〳〵と手をたゝくと云つた次第で、又それを得意にしてゐる太夫さんもございますが、是は私が悪声だから負惜みに云ふのではありません、クドキと云ふものは、決して其処だけ特別に艶をつけて派手に唄ふべき性質のものでは決してありません。或る太夫さんが、床を下りたら、弟子が「今日は大層受けましたね」と云つたら、苦りきつて、翌日はクドキで見物が一つも騒がず、しんとして聞入つてゐたので、「今日は一向受けませんね」と不審がつたら大満悦だつたと云ふ話を聞きましたが、私は、声一つ立てずに、しんみり聞入らせる境地まで達したいと思つて居ります。クドキで大向ふに手を拍かせるのは、一口浄瑠璃のやる事で、権威ある文楽の採るべき態度ではなからうと思ひます。
一般に「今頃は半七さん」や「それ見たまへ光秀殿」と云つた処を、サワリと云つて特別扱ひにしますが、あれはクドキと云ふのが本当で、サワリ節と云ふのは別にあります。あれは唄ふべきではなく、やはりお園や操の心になつて語るべきです。(談)