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【 竹本土佐太夫 我が身の上 】
(2023.03.01)
提供者:ね太郎
我が身の上
竹本土佐太夫 演芸画報 第22年1号 pp.83-91 1928.1.1
この原稿は談話筆記でなく、土佐太夫師自身執筆されたものであります。右お含みまでに--編輯者
誰でも一通り世路を渡つて、衣食住に事欠かぬほどになれば、過去の己れを顧みて感慨無量、嬉しいことも悲しいことも取交ぜて思ひ出の湧くのが人生の習ひである。而して世の中の大概の人が、一度は必らず悲境に沈み、辛い悲しい思ひをしてこそ目もさめ励みも起り、夫によつて初めて境地が開けるのだ。月並の身の上話し、別に記して置くほどの事はないとも思つたが、去りとて記して置かねば話しが残らぬ、まゝよマア記して置けと、去る文事に長じたお方を頼んで顧問とし、そろ〳〵我が身の上話しを書始めたのが此の一篇である。折ふし渥美先生わざ〳〵お越し下されて、明春の演芸画報には君の出世話しを載せたいから聞かしてくれいとある。別に取立て手柄話しの手前味噌ばかりをよりぬいてもらふよりは、寧[いつ]そみじめな悲境時分から筆を起してお目にかけて置き、猶御所望とあれば引続き跡の話を載せてもらうがよからうと、茲には先づ身の上話しの初段御祝儀宝の入船といふ処をお目にかけます。正月早々宝の入船は何とお目出度いぢやありませんか。
私は本名南馬太郎、文久三年九月十五日を以て土佐国安芸郡安田村に生れた安田村は高知から東方十三里、隣村井の口村は岩崎男爵家の出身地で、又東方一里の隣村田野村は浜口雄幸氏の養家の地、此辺一帯は唐密柑の産地で、他の異[かは]つた密柑を移し植えても、皆な唐密柑になつてしまふ、父は治三郎といひ、母はりきといふ。家政の都合で、父は故村を引払つて高知市に出で、雑商をしてゐたが、生来浄瑠璃が飯よりも好きて、より〳〵稽古をしてゐたが、土地の師匠では満足せず、同好者と謀つて大阪から師匠を迎へることにしたが、土佐は昔しから明治の初年までは、土地の掟として他国ものを入れることを許されなかつたので、窃かに大阪の太夫を連れて来て我家にかくまひ、土蔵の中で稽古をして、折々連中の温習会[おさらへ]をするにも、土蔵の中に高座を設けて聴手もコツソリと来てもらひ、三味線の音の戸外にもれぬやうにして語つたものだ。当時日本一といはれた大阪の内匠太夫などもコツソリ連れて来て稽古をしてもらつたこともあり、現に私の父は忠臣蔵九段目などは四年間もかゝつて内匠太夫に習つたのだ。其の熱心のほど押して知るべし。又私が遂に太夫になつたのにも因由[いはれ]ありといふべしだ。
土地の師匠は香美部岸本村に岩見市といふ盲人の三味線弾がゐて多くは之に就いて學んだのだ。外にも一人あつたが何れも素人だから、十分な稽古は出来なかつた。此の岸本村が東京角砥[すまふ]協会の取締として多年盛名を馳せた友綱貞太郎の生れ故郷である。
高知の市中は昔しから浄瑠璃の盛んにはやる処で、町家で美人の娘で生れたら、必らず浄瑠璃を仕込んで、大会に出すのをみえとしたもので、大阪の素人で、物によつては玄人よりも巧いといはれた高木蟻洞氏(善兵衛)の妻君なども、私が子供時分の花形であつたのを、蟻洞氏が両替の商売用で数次高知へ下られる間に、もらひ受けて夫人とせられたのである。夫人は下地[しもぢ]のお民といつて素人娘義太夫の鏘々たるものであつた。高知の町は上町[かみちよう]、下町[しもちよう]の二派に分れて、何事にも両派が競争をするのであるが、娘の素人義太夫も両派に別れて、上町の師匠は竹本梅駒[ばいこま](今から数年前東京浅草猿屋町で歿した)下町の師匠は竹本福玉[ふくぎよく]、何れも大阪から連れて来たもので、福玉は人形使の名人吉田金四の娘であつた。義太夫を語る娘には、何れも肩入の若者が大勢ついてゐる。例年師走の十五日には高知から北方一里の一宮[いつく]村に鎮座まします土佐神社の畔にある大黒天のお社へ義太夫を語る娘が着飾つて参詣するのであるが、其時には取まきの若者が手に〳〵娘の名を記した小田原提灯をともし列ねて随行する、そして其の同勢の多いのを誇りとする。大抵どの娘にも四五十人はついてゐるが、人気のよいのになると、七八十人もついてゐる。併し其の若者と娘との間には恋愛沙汰はめつたに起らない。若し色恋をするものがあつたら夫こそ大変、若者は大勢の仲間に叩きのめされ、娘の家はつぶされてしまふ。実に手ひどい制裁を加へるのだ。だから之を恐れて、娘も若者も慎しむのだ。又これが為めには同じ肩入の若者の間に於ても、毎年十月頃に兄弟誓約の盃事をして、決して内規に違反しないといふ誓ひを立てる。此の誓ひをしない者は初手から仲間に入れないのだ。其若者は皆義太夫の趣味を持つ者斗りで有る。
私の妹も十四五歳の時、梅駒の家へ稽古に通つた。どこの娘も下婢があれば下婢、下婢がなければ店の者か兄弟が途中を送る。妹は私が護衛して行く、一つは私が浄瑠璃に熱心であつたからだ。
娘達の浄瑠璃大会を上町組、下町組合併で催すこともあり、各派別々に催すこともある。会場はいつも劇場を用ひ、二日間も三日間もつゞくのだ。そしてどこにもある事だが、いつも顔もめが始まる。或時花形の娘同士の間に顔もめが起つて、どうしても納まらない。これより先私は毎日の様に妹のお伴をして稽古屋へいつては他[ひと]の稽古を聴いて秘かに覚えて戻る。そして自分の家で語つて見る、それが三味線に合はぬといふことはなかつた。それで此時私が口を出して、此の花形二人に籤引をさせて前後の順を定め、そして其へ間に私が飛込んで一段語つてはどうだといつたところ、関係の人々は何れも私が浄瑠璃に熱心なこと、土佐では男の子で浄瑠璃を語るものは私の外には一人もないことを知つてゐるものだから一番語らしたら面白からうといふことになつて、遂に私が飛入りとして忠臣蔵の六つ目を六本の調子で語つた処、自分の口からいふは可笑しいが、非常の大当りで、関係者には喜んでもらつたが、親にはひどく叱られて、大しくじりであつた。
其時分から私は素人仲間の会にも出て語るやうになり、或時の如きは頼母子講の籤引きに遣られた途中から語りにいつて、夜更けて帰宅したものだから召使ひの者や近所の人達が案じて探しに出た事が有る、此時も眼玉が飛出るほど叱られた。
私が十五歳の時、父はこれまでの商売をやめて丸新といふ料理屋を始める私は其料理屋を好まなかつたから下町の山城屋といふ紙屋へ丁稚奉公をして一年半ほどゐたが、此の山城屋の主人も浄瑠璃好で、息子は其頃大阪で有名な六代目綱太夫の弟子になつてゐた。夫れで私は此の山城屋にゐる間も絶えず窃かに浄瑠璃を語りにいつても主人の機嫌を損じたことはなかつた。
私が十六歳の時父は死んだ。七八十人の奉公人を追廻して営業をつゞけることは私には出来ない。幸ひ母の弟が来てくれて、番頭兼取締役をしてくれたから、私は家のことは母と伯父に委ねて、自分は高知市から三里田舎の高岡村の雑貨店富屋へ五年間奉公した。
土地の風習として一月十四日には粥つりと称し、村内の家七軒から米をもらひ集めて、之を粥にしてたべると、悪事災難を遁れ、悪疫にもかゝらぬといふので、どこの家でも米もらひに歩くが、それも唯もらふのではない、各自変装して出かける。それにも私の浄溜璃が役に立つて、毎年私が富屋の店を代表して粥つりに行き、浄瑠璃を語るので評判になつて夫が為め得意も段々と殖へて行く事に成つた。どこの家でも待ちかまへて聴いてくれるのであつた。こんな遊び事をする間にも浄瑠璃研究の念は盛んにもえて、夜寝床に這入つても窃かに節廻しや声使ひの工夫に思ひを凝らした。
私が廿一歳の時富屋はつぶれてしまつたので、高知へ舞ひ戻つたが、其頃は私の店もつぶれてゐたので、母親と二人で水道町五丁目にさゝやかな家をかりて詫住居をした。妹はよい伝子[つて]があつて既に東京へ登つてゐた。そして私は差当り遣らうと思ふ仕事がないので、心ならずもぶら〳〵と遊んでゐたが、同好者がやつて来ては引張り出すので、相変らず浄瑠璃には熱心であつた。
私の住んでゐた高知の上町は、紙の名産地である丈に紙屑屋と紙屋とが多い。その紙屑屋(といつても東京や大阪の紙屑屋とは違つて決して賎しい商売ではない)には浄瑠璃を語るものが多いので、自づと私が其の牛耳をとつてゐた。そして其時代に於て上町下町の同好者の主なるもの十二名が発起となり、一個の組合を設けて大阪の浄瑠璃屋の因講(現今は因会といふ)に倣ひ、高知の因会といふのを創立し、毎年春秋二回宛浄瑠璃大会を開いて競演を為し出世番付を編製することになつたのだが、今に至るまで四十年間継続して、都合八十回の競演を重ねて来たのだ。 土佐には土佐狂句といふものがある。川柳の様な隠語の諷刺を用ひる平民文学で、これが我々の仲間に流行した。毎年師走には餅搗きの会と称して此の土佐狂句の大よせを催し、優秀者には糯米一斗に砂糖をつけて贈るなどの催しであつた。私が遊んでゐる時にも『公卿[くげ]の分散』といふ題で此催しがあつたたので、私は『かき入れにした三笠山もつき切れ』といふのを出したところ、首尾よく第一等に当選して、件の賞品をもらつたから、早速持つてかへると、赤貧洗ふが如き折柄とて、母親は嬉し泣にないたのを、今でも思ひ出しては感慨に打たれるのだ。
其頃私は家号の、丸新といふのを、俳号に用ひて、浄瑠璃を語るにも此の名を用ゐてゐた。
是より先、東京へ上つた妹は伯爵後藤象次郎氏夫人の弟井上竹二郎とて、蠣殼町では井ノ竹といふて名高かつた後には木挽町の歌舞伎座の社長をした人の妻となつてゐたが、私が為すこともなく遊んでゐるのを知つて、東京へ来よと井上から勧めて来た。時に明治二十年、私は生来浄瑠璃を好んで、絶えず之を研究してはゐたが一面には他に期する所があつて、窃かに機運の熟するのを待つてゐたから、時こそ来れと雀躍[こをどり]して早速井上からの勧めに応じて上京した。これが私の二十五歳の時である。上京すると差当り井上の指図によつて、芝区高輪南町の後藤伯爵邸へ引とつてもらひ、伯爵の甥渋谷某(土佐高知の政治団体で有名な立志社の出身)の経営する向島小梅村の鉄工所へ事務員として通勤する事になり、毎日高輪からテク〳〵と弁当持で通つてゐた。
後藤夫人の姉なる人は尾崎みね子といひ現に尾崎兄弟商会経営、此婦人の娘が小説家村井弦斎氏に迎へられ、井上竹二郎が親許となつて嫁せしめた。又みね子の妹はぬひ子といひ、堺市の素封家葛村安次郎の妻となつたが、此の安次郎は同地出身の五代目竹本春太夫の甥に当る。これも亦私にとつては深い因縁である。
其頃後藤伯は大同団結の政社を起され、其の麾下には大石正己、犬養毅、尾崎行雄、吉田正春、宮地茂春、井上角五郎諸氏などいふ政客が馳せ参じ、京橋区日吉町に政論社といふを設けて、機関雑誌『政論』を発行し、盛んに政界の革新運動をしてゐられた。中にも井上角五郎氏は後藤家の執事格で、常に伯爵に近侍して用務を処理してゐられ、私は坂崎斌(紫瀾)宮地茂春の二氏と共に邸内の『花月』と号する別館に起臥してゐた。坂崎氏は有名なる文士で、初め土佐の土陽新聞にあつて『汗血千里の駒』と題する坂本龍馬の伝をかいて世に知られ、後小室信介氏の主宰する『自由燈[じいうのともしび]』(東京朝日新聞の前身)に入社して河井継之助の伝を草した。宮地氏は板垣退助伯の養子となつた人である。
私が暇ある毎に一口浄瑠璃を口吟[くちずさ]むのをくせとしてゐるのを聞いて坂崎氏は、そんな卑しいものをといはぬばかりにいはれたので、私は浄瑠璃の文章の巧妙なるを説き、マアこれをよんでごらんと、机上に在合せた近松半二、三好松洛等合作の『妹脊山』川の段の五行本をとつて、見せた社と、坂崎氏は四五枚読み進むや、忽ち案を打つて嘆賞し『へー、浄瑠璃の文章はどれでもこんなにうまく出来てゐるのかねえ』といつて夫から手当り次第に義太夫本を取よせては耽読せられる様になつた。そしてそれが大いに文章を作る上に於て為になるといつて喜んでゐられた。
後藤伯が政界の革新運動を起し、大同団結の宣伝をせられる様になつてからは、常に多くの政論家がお屋敷に出入をしたが、一面には反対党の走狗となつて内情を探ぐりに来る者もあり、中には政見を聞きに来て駁論を試みる者もあり、甚だしいのになると、短刀を懐中にしてゐて脅迫するものもあり、危険先万な事も多いので、我々は伯に勧めて、得体の知れない者にはお会ひにならぬ様にしようとしたが、伯は又どんな者にもおめず怯せず面会して、一々之を説破するのを得意とせられたので油断が出来ない。そこで私等二三の者は断えず玄関に詰切て窃かに短刀短銃[ピストル]を用意して余所ながら応接室を警戒する様になつた。夫が為め私はいつとはなしに鉄工所へは往かなくなつた。
伯爵が政論家を引見せられる時には、私はいつでも応接室に近い所で、伯の弁論を聞いてゐたが其の声量の豊富にして弁舌の流暢なのには驚いた。然も平然として事もなげに遣つて退けられ、少しもうるさいと思はれる様な口吻がなかつた。或時は刺客に相違ない怪漢が遣つて来たので、我々は堅唾をのんで控へてゐたが、伯も之を知つて圧倒的に之を説破し、寸分の間隙も与へられなんだので、遂に事なく了つたが、此時などは随分肝を冷やしたのだ。
伯爵はよほど浄瑠璃がお好きで、摂津大掾が上京中は絶えず召されてお座敷を勤めさせられ、部下の政客なども多く陪聴せしめられた。それゆゑ私が浄瑠璃を語ることを知つて、慰みに語らして見やといふ内意をもらされ、私も内心うまく語つて驚かせたいといふ野心があつた。処で或時伯から其話しがあつたので、『土佐浄瑠璃の事だから、何れお耳まだるい所はありませうが、併し私は三味線がよくないと語れません』と大きくかまへ、当時上京中の大隅太夫団平一座にあつて竹本源太夫を弾いてゐた鶴沢寛三郎(後に仲助と改め、杉山茂丸氏に愛せられ東京で終つた)をよんで貰ひ其頃得意としてゐた酒屋を語つたところ、殊の外御意に叶ひ『此位の美音をもち、此の位の技能をもつてゐて、太夫にならぬのは嘘ぢや、早く太夫になつて日本一の大家になれ、幸ひ越路太夫(大掾の事)は入魂であるから、越路の弟子になつたがよからう』といはれる。私の曰く『イや私は太夫になるつもりで上京したのではありません、太夫になる位なら何も東京まで踏み出さなくても、本場の大阪へ行けばよいのです、大阪へは行かずして、遠く東京まで踏み出したには、秘かに期する所があつての事です、どうかさう仰しやらずに今姑くお手許に置いて見て頂きたい』と抗弁を試みたが、伯はスツカリ私の芸に打ち込まれたものと見え『イヤ〳〵それは考へ違ひぢや、どういふ目的であるか知らぬが、何しろお前の天分は浄瑠璃にある、之を除いては恐らく外に成功するものはあるまい、此の恵まれた芸術を捨て他へ走るのは不賛成ぢや。太夫といつても卑しい業ではない、天晴天下の芸術家だ、現に越路太夫の如き、三十分間ほどのお座敷浄瑠璃を語つて五十円もとるではないか、三十分間に五十円もとる大臣が壱人でも有るか』と飽まで慫慂せられ、将来の事まで親切にいふて下さる。寛三郎も傍に聴いてゐて『全く伯爵のいはれる通りぢや、お前さんほどの美音と技能とをもつてゐて、太夫にならぬのは可惜[あつたら]宝の持腐れぢや』と此の人も実意を籠めて勧めてくれる。けれども私は予ての考へとはよほどの距離があるので即答が出来ない、マア三四日考へさせてもらひますといつて其場を退いた。
さて此時の私の胸奥には或る一種の信念によって醸成された目的があつたので、今更之を打破して放棄するのは余りに悩ましい苦痛であつた。けれども又退いて考ふれば、恵れたる天与の芸才。ちと自惚めくが……は自分でもどうやら頼みにならぬ事もない様に想はれ、之によつて身を立つるのは、今自分が進まんとして選んでゐる幾つかの路に於て、一番手堅い、一番踏外しのない、一番安易なものに相違ない。のみならず、伯爵の身に余つたる光庇はあり、斯道の名匠たる越路太夫へ交渉の便誼はあり、機亦逸すべからず、断茲にありと思つたので、遂に意を決して、伯爵のお傍へ行き、御意見に従ふべき旨を答へたのだ。
伯爵も御機嫌斜めならず、早速大阪の越路太夫へ手紙を出して私を入門させたいと申し込まれた。処が越路は諸事つゝましやかな人であるから、『一方ならぬ恩誼を蒙むる御贔屓先殊に貴族さんから頼まれた弟子とあつては、無遠慮に叱りもならず、幸ひ本人の天分芸能に欠くる事なくして、すら〳〵と発達すればよいが、左もない時は双方とも都合がわるい、これはマア断はるのがよからう』と大事をとつて体よく之を断はつた。伯爵も再度頼んで見られたが、どうもハツキリした返事がないので、強て頼んでは、アノ温厚な人を困らせるやうになると、伯爵も遠慮して其侭に成つて居た。
明治二十一年の事であつた越路太夫の文楽派とは商売上の敵派に属する彦六座の巨頭竹本大隅太夫、豊沢団平一座が上京した。茲に於て私は時なる哉と欣んで、伯爵には相談せず、早速浅草区新福井町の旅人宿兼料理屋の福清に泊つてゐる大隅太夫の許へ推参して直接入門の事を頼み込んだ。此処には団平師も一緒に泊つてゐたが私の素質については彼の寛三郎から十分両師匠に通報してあつたものだから、両師匠は直ぐに私を引見してくれた。そこで『果して太夫になるかどうかは分らぬが、何しろ外ならぬ、御贔屓先後藤伯の息のかゝつてゐる人ゆゑ兎も角引受けませう』といふ事で、二人から月並式の警告を与へられた。妹聟の井上竹二郎とも二人は懇意な間柄ゆゑ、夫に対しても断はりにくいといふ事であつた。茲で一寸断つて置くが、私が日本一の越路太夫への入門を思ひ切つて独断で大隅太夫へ入門したのはかういふ理由である。越路の方には一騎当千の門人がタントあるが大隅の方にはそれが少ない。殊に大隅には斯道の神といはれる団平師がついてゐるので、自然と稽古にも親切にしてもらひ、得る処も多からうと思へたのだ。
そこで私は其の翌日から大隅師匠の許へ通つて万事を見習ひ、出演先の寄席へも随行して、一座の芸を聴き習ふ事になつたが、幸ひにも私の親戚に当る高知出身の岡村安吉といふ人が、福清の隣町なる茅町に住んでゐたので、同家へ頼んで置いてもらつた。此人は後年劇通及び作劇家として世に知られた岡村柿紅氏の厳父である。こんなよい寄食所があつたのも、全く自分に対して『太夫になれ』といふ天の指図かも知れないと自づと心が勇まれた。
第一着に大隅師匠が私に稽古をつけてくれたのは白石の揚屋であつた。稽古がむづかしいので骨が折れ、隣町から通ふ路々も、白石の文句を我を忘れて声に出して通ることもあつたので、其の道筋の店の人がクス〳〵笑ふ声を聴いて、ハツと思つて我に返つたこともあつた。私がいつも信夫の言葉の『おん女郎達』といふのを繰返していふ処から、店の者は『ソレ今おん女郎達が通つたよ』といつて其時刻の來たのを知るやうになつた。
明くれば明治二十二年八月の事である。大隅、団平一座は一時東京の寄席興行を打切つて、北海道函館と越後新潟とへ行くことになり私も同行した。まだ私は床へ出してもらう処ではない。師匠の宿屋に詰切つて師匠の身の廻りを処理する女房役ならまだよいが、丁稚相当の役目を承はり、衣類の出入れから履物までも掌どつてゐる。随分辛い役廻りであつた。処で函館では時候がわるかつたので忽ち水に中られて脚気になり、食気は振はず、足は重く、果は心臓が鼓動して、衝心しはせまいかと心配する様になつた。それで医師に診てもらはうと思つて大隅師匠に薬価を頂きたいと頼んだ処『何だ脚気位で医師にかかるに及ぶものか、ナニそれなら売薬でも服みたいと、コレ贅沢なことをいふな、貴様はまだ一人前の芸人になつてゐないぢやないか』と剣もホロヽに叱りつけられた。それでも猶折入つて『若し衝心したらいけませんから、どうぞ薬代丈け願ひます』といつて見たが『貴様など死んでも構はない、一銭も遣ることは出来ぬ』とはねつけられた。そこで今度は一座の頭取木津名吉兵衛に縋つて見た。此人は後に親の名を継いで木津名吉兵衛となり、堀江座の浄瑠璃を経営した人(大隅の弟子小隅太夫)の父親であるが、此人も随分訳の分らぬ人で『馬やん何をいふのぢや』と皆まで聞かずに蹴つてしまつた。芸人社会といつても皆が皆までかう不人情でもあるまいがこれは又どうした事ぢやと余りの事にあきれ果て、此時は私も思慮が足りなかつたから、只管[ひたすら]師匠の歿義道を怨むの外はなかつたのだが、後になつて考ふれば師匠がこれほどにむごう当つてくれたればこそ他日の出世も出来たのだ。物はとりようによる、怨んだのは間違であつたと悟つた。そして師匠が弟子を酷待するのも満更意義のない事ではないとも思つたのだ。
とつおいつ思案の末函館の或る医師の許へ行き、あらましの話をして『私が東京へ帰り次第、親戚に頼んでもお金を送りますから、どうか助けると思つて脚気のお薬をこしらへて頂きたい』と頼んで見ると此の先生至つて温良らしい風采の人で『イヤよろしい、心配しなさんな、無料で診て進ぜる、薬価も入りません、幾日でもよい通つて来なさい。イヤ〳〵遠慮することはない』と気軽に心よく引受けて、早速診てくれ薬もくれた、生涯を通じて、こんな情けない事もなければ、嬉しかつた事もない。といつてもよからう。
間もなく函館を打上げ、一行は新潟へ往くことになつたが、其内源太夫、寛三郎以下は函館から海路をとり、大隅、団平、朝太夫、源吉(後に三代目団平)及び頭取木津名と銘名の付添人等は秋田県の土崎浜まで舟、夫より陸路、秋田の町を経て行くのであつたが、私は脚気患者だから船に乗せるは衝心の恐れがあるといふので、師匠の陸行隊に編入されたはよいが、時は八月、焼けるが如き炎天に駄馬の荷鞍に荷物の葛籠や行李と一緒に載せられて行くのだから、随分苦しい旅行であつた。蝙蝠傘も与へてくれなんだ。
頓て秋田の町へ入り込んで宿をとり、頭取木津名には興行上の知人があつて、そこへ挨拶に立寄ると『折角天下知名の芸人が来られたのに、之を素通りにさせたとあつては土地の名折れになる、コリヤどうしても一興行してもらはねばならぬ』と意気込んで、頼まるゝまゝ遂に同地の栄太楼といふ菓子屋の持つてゐる寄席に於て二日間興行することになつた。処が太夫といふは大隅師匠と朝太夫の二人、これでは太夫の数が足らぬといふので、木津名は大隅師匠と相談の上、差詰間に合せに『馬太郎』の私を三枚目朝太夫の前に出すことにきめたのだ。処がどつこい私は承知しない。『函館では脚気にかゝつて苦しんでゐるのを見殺しにして、小遣ひはさて置き、薬代さへもしぶつて置きながら、己れ等が困る時には勝手に高座を働けつていふ、ヘン馬鹿々々しい、そんな道理かあるものか』と、少しつもじを曲げて居直つて遣つた。
頭取木津名が持余して此の趣きを大隅師匠と団平師匠とへ注進すると、団平師匠は物の分つた人ゆゑ『成る程な馬やんのいふのが尤もぢや、コリヤ何か土産をつけて頼まねばなるまいが、彼[あ]の男には将来の見込みがあるから、いつそ此処で何かよい芸名をつけて、励ましてやつたがよからう』といはれると、大隅師匠も『サア私も予々[かね〴〵]其のつもりではゐたのだが』との事で二人相談の上、大隅家では由緒ある伊達太夫といふ名を私に継がせて、更めて三代目伊達太夫(二代目伊達太夫は二代目大隅太夫に成りし人)を名乗らせ、此褒美を与へる代りに文句をいはずに出演せよといふ事になつた。
之を聞いて、どうやら私の溜飲も下つたので、そんなら出ませうと頷づき、更めて両師匠にはお礼を述べ、団平師匠の付添人であつた団勇といふ人に弾いてもらつて、二日間とも八陣の八ツ目を語つたが、何分脚気で心臓が躍り、長いことは語れぬので、ホンのちよつぴり『鼠となつて遁げ去りけり』まで語つたが、それが不思議に評判になつて、秋田の魁新聞に『将来有望な太夫ぢや』と称賛してもらつたのが、何ともいへぬ嬉しさであつた。実に秋田は私の為めには其の畢生をかざる伊達太夫といふ名の定まつた記念地であつて、忘るゝことの出来ない印象を留めたのだ。故に後年梢や出世をした後には、わざ〳〵同地を訪ふて心祝ひをしたこともあつたのだ。又当時私の三味線を弾いた団勇は後に勇太夫となつて堀江の明楽座へ出たが間もなく世を去った。
新潟を打つて東京へ帰り、伊達太夫襲名の事を高輪のお屋敷へいつて後藤伯に報告すると、伯爵も喜ばれ改めて後藤伯爵から大隅団平の両師へ私を弟子にたのまれて其式をすました。此事を御新類の岩崎家へもお話しがあつた所から、本郷区切通しのお邸に御座る岩崎弥太郎氏の母堂にお聞かせする為め此母堂は至つて義太夫好のお方であつた。大隅太夫、団平等を召されてお座敷浄瑠璃の催しがあつて、其の露払ひに私が師匠におそはつた白石の揚屋を語り、朝太夫は柳、大隅は猿廻しを語つて団平の三味線をお耳に入れた事があつた。之を御縁の始まりとして、引続き私は岩崎家へお出入りをする様になり、永らく御贔負を蒙むる様になつたのだ。
矢張同じ頃の事であつた。高輪のお屋敷でも伊藤博文公、井上馨侯などの貴紳顕官を招待して、浄瑠璃をお聞かせ申し、私は酒屋、大隅は合邦を語つた。此時伊藤公は初めて浄瑠璃といふものを聞かれたのであつたさうなが、実に面白いものだと感服せられ、取分け団平の三味線に心耳をすまして聞き惚れ、『古今の名人といふは此人などをいふのであらう、芸苑の総理大臣ともいふべきだ』と評されたので、或る人が『然らば大隅は何官に当りませ』と尋ねると『さうさなア、マア次官ところであらう』と評されたといふ。私は之を聞いて実にもと思ひ、後藤伯に向つて『伊藤公は初めて浄瑠璃を聞かれたといふのに、大隅太夫の浄瑠璃よりも団平の三味線を専ぱらに聴かれたとは不思議ですなア』と尋ねた処『そこが鑑識の明らかな処だ、頭脳のよいものは何事でも超脱した処がある』といはれた。これは又大隅一座が花川戸の東京亭にかゝつてゐた時の事である。私は毎夕御簾内を語らされたが、其時は廿四孝の四段目、十種香を稽古してゐたので毎日〳〵十種香ばかりを語つてゐた。すると毎日四五人盲人が遣つて来て、私の出るのを待ちかまへて拍手してくれる。そしてすんだ時も声を揃へて喝采してくれる。毎日〳〵同じものを語つて、自分でも愛想がつきる事もあるのに、アヽして毎日早くから来て聞いてくれるのは、第一有難いことでもあるが、何ぞ外に考へがあつての事ではあるまいかとフト心づいたので、私は此の盲人達の集まつてゐる処へ挨拶にいつて、どうして毎日聞いてくれるかと尋ねた処『お前さんが毎日同じ事を語つてゐるうちに、何処か一ヶ所か二ヶ所宛、毎日佳い所が殖ゑて来る、そして其の進歩が著るしい、それが面白いので、我々は毎日早くから来のです、お前さんも如才はあるまいが、何でも根限り精出して名人になんなさい、我々も楽しんで待つてゐます』といふてくれたので、私は感極まつて思はずホロ〳〵と涙を落して悦んだ。
土佐太夫師の身の上談は、未だ出世の第一階段までにしか達せぬうちに、紙数と期日に制せられて一先づ打切られました。これから先は近く機会を得て御執筆を願ふつもりです。