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【 豊澤新左衛門追悼 】

鴻池幸武

 二代目豊澤新左衛門の死は、彼がこゝ数年間文楽座に於いて全く不要芸人の如き非法の冷隅を受けてゐたから、文楽座興行の表面に現れたゞけの損害であるかのやうに世間に誤解されるといけないから、故人へ対する追悼の辞を草するとゝもに、彼の紘界に於ける正しい存在意義を徐に考へて見たいと思ふ。

 新左衛門の芸に関して、特に衆人に抜出て素晴らしく従つて一般の三味線弾は勿論、我々批評家が研究すべきことは、その音色とすがたであつた。この二つの中音色は三味線を聞けば誰でも直ちに或程度の判断が出来ることであるから、凡そ普通の音感を持つてゐる人ならば、彼の三味線の音は並々ならぬ妙音であることに気の付かぬものはなかつた筈である。三味線の批評が殆んど出来ない東京の文楽批評家でさえ彼の音色には常に好評を下してゐた。いふまでもなく文楽第一、眞実当代随一であつた。私は私の三味線研究の重要なる一項目として常に彼の音色に耳を欹てゐた。私の微力な耳に感じたところでは、一二三ともに音の大きさは格別で一をハナシた音は義太夫節の三味線として稍軽薄な感があつたが、二の同音は全く他に類を聞かぬ華やかさを備へた妙音の中枢であり、三の同音は雄大にして重味あり(所謂底へぬけ切つた)それに一種の和かさを伴つてゐた。それは単なる天賦のみの音でなく、音に対する長年の研鑽と修行によつて生れた妙音であつた。その証拠として、彼の音色は彼の芸妙の鍵のやうであり、弾かれる各段の曲風と文章の内容とに深く関連してゐた。換言すれば、一つの表現を目標として、彼の音色は演奏技巧と相俟つものがあつた。私が彼の三味線に対しての少なからぬ敬慕の念を抱いてゐた意味はこゝにあつたのである。

 私は久しい間かゝる絶大なる内容を有する音色の根源を究めたいと思つてゐた。まづ高座で彼の使用してゐる三味線を見つめてみたが、我々素人目には案外粗末な三味線の如く見えたに過ぎなかつた。またある時彼に向つて「あなたの音は実に美しいがそれはどういふ訳ですか」と短刀直入的な質問をしたことがあつた。すると彼は「私はそれをいはれるのが一番つろおます」と答へた。なぜかといふと、何時でもよい音をさせなければならぬからといふのであつた。彼のこの種々の意味に於いて味ふべき答弁と、鶴澤道八の「今文楽で三味線の拵へが完全に出来るのは新左衛門だけです」といふ言葉とを結びつけて考へると、彼の音色の出発点に関する疑問の糸口はやゝ判るやうである。要するに彼は常に音を研究し、研究以上に苦しみ、拵への名人にまでなつたといふことは判明する。それについて堀江座で低調子の故二代目春子太夫を弾き、春子太夫の一風変つた陰に籠つた音声の伴奏として、低調子で美しく華やかな音色を研究した時代は、彼の芸術の中で重要視すべき一期間で、彼の拵への技量はこの時代に殆んど大成されたと見てよい。だから結局は拵へが問題になるのであるが、新左衛門程度の妙音になると、拵への常識的手法(といつてもこれが満足に出来てゐる人が一人か二人であるらしい)以外に、音の批判、即ち耳のよさ、自分の演奏技巧の特長(撥と指)即ち手癖と拵への関係に対する見解等にかなり重要な問題が存在してゐるやうに思はれる。こゝによい意味の音色の個性が表れて来て、それの各人の芸風への影響は誠に大きいものである。

 以上のやうな意味で、新左衛門の音色は衆人の研鑽の的とさる可きものであつた。単に音色の点だけに於いても、当今太棹界に於いて、一方鶴澤道八に対して他方の大関であり、その関係は恰も初代義太夫と頼母のそれの如き重要性を持つてゐた。嘗て私は道八の音色を理想的な音、新左衛門の音色を空想的な音色と評したが、三味線弾某はこの私の批評を適評だと評してくれた。

 次に論ず可きは新左衛門が弾いたすがたである。これに関しても私は一つの疑問を懐いてゐる。それは彼の撥遣ひは千変万化といふ程の変化はなかつたにかゝはらずすがたが非常によく弾けてゐたことであつた。これは長年の間清水町団平をはじめとして諸名人の名演奏をきゝ研鑽した賜物であらう。嘗て文楽座で「日吉丸三段目」を弾いたとき(太夫は呂太夫であつたと思ふ)段切の「虎の助はにこにこ顔」以下の早間のノリ地をすら/\と弾く間に、虎の助、二人の手負、ばゞ、茂助、久吉等数人の人物のすがたを何の苦もなく弾き表はし我々を驚嘆せしめたことがあつた。そのとき私は彼に向つて「すがたがよく出てゐて結構でした」といつたら、彼は「それを弾かうと苦心してまんねん」と即答した。又彼は嘗て私に「三味線は枕一枚でその段の舞台を弾き定めてしまはんといきまへん。太夫は文章を語り出しますけど、これだけは三味線弾の逃れん役目だす」と語つた。その他数多き彼の名演奏−中でも今に私の耳に残つてゐる、「先代萩御殿」、「廿四孝四段目」、「酒屋」の枕と妹背川の終りから半七の出にかけて、「野崎村」の枕、「明烏」の段切、「茶筌酒」、「新口村」の枕、「宝引」の枕、「河庄」の小春のクドキ、「杉酒屋」のおみわのクドキと段切、「金殿」の枕、「茶屋場」等を思ひ浮べると彼の目標は常にすがたを弾き表すといふことにあつたのである。

 これは一人新左衛門に限らず、義太夫節の三味線弾たる者はこの心掛けを第一とすべきであるが、心掛けは兎も角、それが実地に完成してゐるものは新左衛門の外二名か三名を数ふるのみである。其他は全部落第で、撥が絃に触れる爲に絃が振動して音響を発するといふ一物理的現象に止まり、本質的に芸とは別個のもので、素人でも玄人でも巧拙の程度問題に過ぎないのである。我邦で義太夫節の三味線弾が五名を数へぬ折柄、その中の一人であつた新左衛門の存在価値は実に重大であつた。

 次に私は彼の「ノリ間」のことに関して論じたい。これは彼の芸風の一つの著しい特徴であり、文楽座の三味線弾の大多数が彼を蔑視した一因であつたやうである。それが言語道断であることはいふに及ばぬことであつて私にいはしむれば、義太夫節三味線には必要なる一要素である「具合」を解し得ず、従つてそれとノリとの関係(新左衛門の場合最も密接であつた)を究め得ない者共の低級なる考へであつたのである。事実私も彼のノリに対してはかなり久しい間一種の疑ひを懐いてゐたのであるが、腹が完全に座つてゐる彼に本質的に「駕かき間」に類す可き腹ノリでない身体ノリの如きがある筈はなかつた。腹が十分座つてゐたからスネた間が完全にしつくりと弾けて、それと反対の技巧であるノリ(腹ノリ、間ノリ以下これに準ず)が際立つて、その二つの技巧の運び方によつて具合を弾き、より高き表現手段を試みるのが彼の目算であつたと私は解釈してゐる。唯彼の場合ノリ間に稍重点を置き過ぎた感があり、従つてそれが稍強く表面化してゐたことは事実であつたが、これは彼の性来の手はむしろそれと反対の律動の少いもので、それでは具合を弾くことは到底覚束ないことを彼はよく自覚してゐて特にノリ間を大切に弾くことを長年心掛けて来てその習が性となつたのではないかと私は臆測してゐる。換言すれば、彼のノリは具合乃至高度の表現の安全栓であつたのである。そして彼の目標とした具合乃至表現はいふまでもなく清水町団平を頭としてそれに続く彼が師匠松太郎等であつたことは明白である。

 次に私は彼の息と間の激しさについて少し述べたい。それは激しかるべき所の彼の息と間は、若手の健腕の者共のそれより遙に激しかつたといふことである。この私の説は一見誤つてゐるやうに考へられるであらうが、息の激しさ、間の激しさ、撥の激しさは腕の強さとは別のものであるといふ原則から考へれば容易に解ることで、健腕ではなかつた新左衛門にも息、間、撥の激しさの修行は彼なりに出来てゐたので、この点にも彼の修行の筋目の正しさ、即ちやらなければならぬ修行は出来てゐたことが表れてゐたのであつて、若手連中のよく反省せねばならぬところである。

 その他新左衛門の芸に関して思ひ出したことを附記すれば、彼は自己の力量を非常によく識つてゐて、力以上の芸を避けられるところは避けてゐたゝめ、終りまでボロが出なくて非常に美しかつたと思ふ。尤もこれは晩年のみのことかとも思ふ。

 私が聞いた時代の彼の相手の太夫は錣太夫が最も長く後は古靱太夫、呂太夫と文字(今の住)太夫が少し、その他は臨時か掛合であつたが、語る本人に取つての都合はどうか知らぬが、私の感じたところでは総てよき女房役であつたやうである。特に錣太夫等の場合は一段中数回の脱線を救つた上、夫々の箇所の規約に仕立て、それに彼自身の特有の妙音で湿ひを添へてゐた。而して語らすところは太夫に十分語らせてやつてゐた。即ち締めるべきところで十分締めて置いて、太夫に、さあこれからはいひたいやうにいへ、とポイと渡してやるといふやうなことがよくあつた。それが証拠には新左衛門に別れてからの錣太夫は、期間も短かつたが、実に放蕩の限りを尽した芸であつた。又文字太夫の相三味線時代は錣太夫の場合と違つた意味で賢妻ぶりを示してゐた。即ち文字太夫は錣太夫と違つて女房役にしながら同時に彼を師と仰ぎかなり稽古をして貰つた上床へ表れたらしく、従つて文字太夫の芸が一変して、極言すれば新左衛門を相三味線に得て初めて本格的な義太夫節が語れたのであつた。そして当時文字太夫は一図に新左衛門の指導に従つて語つてゐたから、肉体的にはえらかつたらうが、義太夫節は面白く、その中に新左衛門の義太夫節に対する見解をきくことが出来て、我々としても非常に参考になつた。「寺小屋」、「東大寺」、「夕顔棚」、「酒屋」そして放送の「夏祭六つ目」など今でも耳に残つてゐる。殊に「寺小屋」のとき、丁度入場したら「源藏戻り」の終り頃で、一語二語聞く中、「これは文字太夫か知ら」と疑つた程で音は遣つてゐなかつたが、息と間が一杯で激しく、「駕」までゞあつたが、流汗淋漓の大熱演であつた。それから私は今一度これをきゝ直して後、楽屋に新左衛門を訪ね「文字太夫がすつかり変つて来ましたが、大成する見込はありますか」とたづねたら、彼は「今一生懸命で喜んで稽古をしてゐます。この秋には盲の住さんの名を継ぎますのや」といつてゐた。摂津大掾、大隅太夫に優るとも劣らぬ名人で、劇界の団菊に対する芝翫彦三郎に相当すべき住太夫の名跡を譲り受けるとは並々ならぬことであるが、このまゝで行けば住太夫の名を辛うじて辱めぬ程度の芸を存続出来るであらうと想像し、襲名狂言は多分「沼津」であらうから、数少い撥と特種な足取で表現されなければならぬ「沼津」の情景を新左衛門が如何に巧みに弾くかを私はそのときより楽しみにしてゐたのであるが、襲名披露の興行から相三味線が喜代之助に替つたのを知つた時は全く木から落つた猿の如く情なかつた(尤もこれは文字太夫の発意ではなかつたらしいが)それから後の新左衛門に対する文楽座奥役の待遇は実に非人道的で、恰も米国の邦人虐待の如く、若し芸術擁護のための刑法が存するならばその罪は万死に値すると私は断言する。

 以上私は甚だ不完全ながらも新左衛門の芸界に於ける存在価値を二三の方面から説いて来たのであるが、これを要約すれば、彼は現今の斯界に恐らく絶後的な颯爽たる芸風を以つて泰然と臨んでゐたもので、新左衛門風の芸は何時の時代にも斯道には不可欠の存在であつたのである。従つて彼の死は三業を通じて昭和十一年の豊澤松太郎の死以来の大損害であると私は惜しみて止まない。

「浄瑠璃雑誌」第四一九号(昭18・5)23-27

(「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵 二世豊澤新左衛門朱入り浄瑠璃本目録」にも掲載)


目録 ニ 11 557 蝉丸 逢阪山道行

昭和年十月廿七日
大阪天王寺南門超願寺ニ於て
竹本義太夫師弐百廿年忌ニ相勤候
蝉丸 逢坂山道行
津太夫 土佐太夫 古靱太夫 錣太夫
友治郎 新左衛門 吉兵衛 綱造 清六

写真は 「竹本義太夫 二百二十年忌追善会」より

 

参考:此君帖2巻

参考:道八芸談

提供者:ね太郎(2005.10.10)
     補訂(2011.04.23)