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【 義太夫大鑑 呂太夫芸談 】

 
下巻 p133-153    義太夫大鑑
 
豊竹呂太夫芸談

 

呂太夫氏は著者が東京在住当時の師匠である。本書編述の事を話して意見を徴したるに、喜んで需めに応じ、縷々其の芸術談を聴かして貰ふたのであつた。(附て云、本書附録として添へた『浄瑠璃系統図表』に、氏の名乗り豊竹なるを竹本としたのは全くの誤刷にして、此処に序を以て訂正する。)

 

 私の父は初代鶴澤重造で、後に綱太夫になりました対馬太夫の三味線を弾て居りましたが、十六歳から三十二歳迄此の太夫の三絃を弾いて、夫れから後は他の太夫の三絃を弾きません。後年対馬太夫が東京へ参り興行致しました折は、二代目廣助が三絃を弾きました。

 其の私の父重造が対馬太夫と興行して居りました時、未だ幼少の私をも一座に加へて語らせましたが、何分にも六歳か七歳の私−忘れもしません或時『一ノ谷』の組打を語り、途中でつまつて泣き出しましたら、父重造(おやぢ)がばちで打つ、私は益々泣く、却て聴いて居られるお客さんがふびんがつて、高座に居る私にお菓子を下さると云ふ様な次第……翌日高座へ上る時、弟子共がすかしまして、坊様又泣てはいけませんゼと申しますと、泣た方が余程好い、又お菓子が貰へるからと云つたさうで……そんなものですから父からは愛想をつかされ、歳比になると小僧奉公に出されました。

 十九の歳父に許されて古靭太夫の弟子に入り、歳数を取つて十九太夫と命名されたが太夫稼業の発途でして、其の後呂太夫の弟子となって呂勢太夫と称し、後、新呂太夫、其の後祖太夫と改名し、師匠呂太夫死去の後、其の名前を継承して呂太夫となりました。

 御承知の通り浄瑠璃には西風と東風とあり、竹本が西で豊竹が東−ところが私は西風の語り具合しか出来ませんのに豊竹と名乗て居る様な次第‐語り具合は西風、名乗りは東風……斯様に現今では、西風も東風も区別無く混同して居りまして、素人の御方には到底此の西、東の区別は附きますまいと存じますが、黒人ですら夫々語り分けが出来ない様な次第で……当今では少々位間違た語り風をしましても、聴客にさへ喝釆さるれぱ自然と良い役割も附くと云ふ様な訳で……西風も東風も、三段目も四段目も無い、唯美声を張上げて艶ツぽく語れぱ良いと云ふ風になつて参りまして、真に芸其のものゝ研究を重ぬる人が、段々減少して往きますのは実に残念の至りであります。

 私の記憶して居りますだけでも、彼(か)の住太夫、先代の呂太夫など−古い太夫は孰れも立派な大音で、彼(あ)の御霊の前に絵双紙屋が有りますが、先代呂太夫が語りますと、其の絵双紙屋迄も聞えましたさうで……近来は鳥居どころか芝居の表までも聞える様な太夫は有りません。 先代の津太夫は声が低く聴手は皆聴へぬ/\と申しましたさうですが、現今では其の津太夫位の声で語る者さへ有りません……津太夫は実に名人で、あれにモー少し声が有つたらばと云はれた位でありまして、先代呂太夫は実に大声でした。

 古靭太夫は中々の名人で、今の摂津大掾も及ばなかつた位でした。此の古靭太夫が興行先の東京より帰り文楽座で『加賀見山』の七ツ目を語ります時、越路太夫[今の大掾]にお初の役を割当てましたが、彼の人にお初を語られては具合が悪い、私がお初を語るとて、古靭太夫自身でお初を語られた位の語り人でした。

 其の古靭太夫が文楽座で 『三勝半七』酒屋の段を語られた時 「ホヽ是は/\宗岸様」「オヽそちらに居やるはお園ぢや無か」と云ふ冒頭の詞、此処でモーお客を満足させた……唯今では此の一口の詞位で、聴手を満足させる様な太夫は有りません……

 『質店』−古靱太夫は上手に語られました。彼(あ)の「ハツト目覚(めざめ)て、ハア、夢であつたか」の一句などは、真実今迄眠つて居た者が、目覚た様な感動を与へました位で−『二十四孝』の四段目でも 「お前の忌日命日を吊ふ人も情なや」と云ふ文句が有りますが、此の文句で既に聴客をホロリとさせた位情を含めて語られました。『十種香』を語つて聴客をホロリとさせるなどは、よく/\でなければ出来ぬ芸です。

 天満の座で興行の時、私が湯を汲で居りましたが、古靭太夫の『鳴門』の八ツ目、「とゝ様の名はお弓と申ます」と云ふ絶句……聴客はドツト笑い出す、私は気が気ではありませんでしたが、師匠は落付いたもので 「オヽ其の名まで取り違へるいじらしさ」と泣いて語られましたら、こんどは又非常の喝釆で、一時は之れが流行して、噂の種となりました位……丁度其の頃織太夫の綱太夫と云ふ名人がありましたが、此の人は 『三十三間堂』の語り初めの人で−此の綱太夫が天満の芝居で一座して『三十三間堂』 を語り、次が師匠古靭太夫の『吃又』と云ふ順序で、前の綱太夫はヤンヤ/\と喝釆させてばかに受けて居る。次に出る師匠は『吃又』、あんまりジミな出し物−其の上私には曽て聴いた事の無い語物ですから、気がもめてなりません、其処で師匠に 「何か本を取つて来ませうか」「何んで」「でも今日は吃又ではありませんか」「吃又でよい」「酒屋でも」「かまわん」「でも綱太夫サンはアーしてヤンヤと受けさせて居られますのに、其の後で吃又−出し物を変へはつたら」と申しましたが承知しません。其の内に舞台が廻る。「こゝに土佐の末弟、浮世又平……」と語り出し「薄き紙子の(チン)燧石箱」と続けるとモー吃の所迄語らない内に非常の喝釆、前の綱太夫サンの『三十三間堂』は、どこやら行て仕舞つたと云ふ様な有様……然るに惜むべし夫れ程の名人も、不幸大工の棟梁某に刺されて果れられました。越路さんは他の太夫の弟子とでも一緒になり、一座を立てゝ居られましたが、古靭太夫ばかりは自己の弟子ぎりで、決して他の太夫の弟子は使はず、御霊の芝居を興行致して居られました。

 私の幼少の頃……重造(おやぢ)が芝居に出て弾いて居りました頃の浄瑠璃は、子役でも、女でも、皆地声で語りましたもので、別に女だから子供だからと云ふて、声を変へる様な事はありませんでした。されば父が人さんに稽古を致しますのにも、よく物真似をするな/\と注意して居りました位で……男でも、女でも、子供でも、すべて地声で語つたのですが、夫れが又聴客には男は男の様、女は女の様、小供は小供の様に感じを与へるのですから余程の伎倆が無ければ出来ぬ事で−丁度謡のやうなもの−今日の語り方はつまり物真似をして居るので、男は男、女は女の様な声を発して語る。モー一ツ太しいのになると、芝居の真似までして居る。彼の『忠臣蔵』の四段目でも 「ちかう/\/\」「ハ、ハ、ハ……」 などゝ、何も太夫が芝居の真似をするには及びません、却て役者をして浄瑠璃の真似をさせるやうな見識がなければいけません……

 よく三味線弾があなたは何本の調子ですかなどゝ尋ねることがありますが、調子と云ふもほど/\のもので、朝夕お寺の鐘楼で打つ鐘の音さへ、朝鳴るのと夕鳴るのと其の音が違ふ−同じ撞木で打つてさへかう違ふのですから、況して生物の我々……何時も同じ調子ばかりでは語れません。腹具合により四本のときもあれば五本のときも有ります、美ひ声の出るときも出ないときもあります。三味線も亦さうで、五本と云ふても五本のみでは弾かれますまい、時々刻々に多少の変化はあるものだらうと思ひます。今日はすごい声だと感じたときには直してくれるやうな三味線弾(ひき)でなければ困ります次第で………

 文章の意味をよく/\吟味し、作者を泣かせないやうに語るのは太夫の義務で−明治何年頃か確と記憶しませんが、曾て岩谷一六さんの御贔屓になりまして為に大に益を得た事があります。と云ふのは彼の『勢州鈴鹿合戦』 阿漕の段切「ヘイとヒラとの読み違ひ、声に読む字を訓(よみ)に読み冥途に急ぐ……」と云ふ所……本には 「めいど」と仮名が振つてあり、師匠にも左様教(おそ)はつて居りましたので、其の侭其の通り岩谷さんにお教へいたしましたら 「お前は何の考へもないやうだが、夫れでは作者泣せになる−字では冥途(めいど)と書てあるけれども「よみぢ」に急ぐと云ふので文章の意味が活きて来る−ヒイとヒラとの読み違ひ声に読む字を訓(よみ)に読(よ)みよみぢに急ぐ一文字と言つてこそ掛文句(かけもんく)となつて面白いのだ」と言はれました。成程其の通りで……単に此ればかりでなく、文章の意味にはよく/\注意せねばならぬと非常に感じました。されど其れ位識者の一六サンでも妙なもので、当時の流行言葉(はやりことば)、国言葉と云ふ様なものは御承知が御座ひませんで、彼の『白石噺』の揚屋の 「奥のトロクの御客にも」 と云ふ、其の「トロク」 は何う云ふ意味だとお尋ねが御座りましたやうな次第で……

 『菅原』四段目の寺子屋の 「はしごくて出て来る小供の」 とある其の「ハシゴクテ」の意味−之れは私が芹生(せりふ)の里に行きましたときに、子供達が遊で居りまして「ハシゴクテ倒(こけ)て可(い)かぬ」 と申して居りましたので、成程と思ひ当りまして段々聞き調べてみますと、大阪で申せば 「ケンケン」 東京では 「チンチンモガ/\」 片足を上げて飛び歩くことを、芹生あたりでは「ハシゴクテ」と申して居るのであると解りまして、昔の作者と云ふものは、よくも斯くまで調べて書いたものだと感心致しました。

 所が今出来(いまでき)のものゝ中には、随分不充分なものもありますやうて……彼の『三十三所』壷坂−あれは御承知の通り加古千賀−先代の団平さんの妻女(かない)−此の人が作りましたものださうですが 「三つ違の兄さんと、云て暮して居る内に、情なやこな様は、生れも付かぬ疱瘡で」とあるより見れば、澤市の眼がつぶれたのは、余程年長(とした)けてからの事に相違ないのです。然るに奥になると「初めて拝む日の光り」とある……そこで私は、「再び拝む日の光り」と教へて居りますが、近頃出来た浄瑠璃は、何所かに間の抜けた処がありますやうで………

 彼の『箱根霊験』の蹇でも「紅葉のあるに雪が降る、さぞ寒かつたで−」と云ふて、其の言訳(いひわけ)は何所にしてあるかと云へぱ、奥に「散りしく紅葉」と云ふてある。 成程紅葉の散る時季には箱根山では雪が降る、即ち其の言訳がチヤンと付いて居りますので……『忠臣蔵』の九段目でも 「了簡もあるべきに浅きたくみの塩谷殿」と云ふて、浅野内匠頭と云ふ事を利かせてあるのであります。

 『吃又』の雅楽介の注進に「何んなく姫君奪取(ばいとら)れ」 と云ふ文句があります。私が徳島に参りました時『吃又』を出し、本文通りに語りますと、芸評はよろしく、[少し手前味噌になりますけれど]新聞社のお方も非常に書立てゝ提燈を持て下さいましたけれど、雅楽介の注進の文句に−之れは太夫の欠点では無いが−自分の主人の姫君を預つて居りながら、何んなく奪取られると云ふことは無い、曾て越前掾は 「つひ無く姫君奪取られ」と語つた事がある、「何んなく」はおかしい「つい無く」と語つて欲しいと云ふ批評がありました。−其処で後日岩谷一六さんにお会しましたときに此の事をお尋ねしましたら「それはどんな作意の所か」「将監の邸へ雅楽介と云ふ者が注進に参るのです」「其の雅楽介と云ふのは何んだ」「将監の弟子で画師です、それが姫君を奪取れたからと云ふて注進に来たのです」と申しますとアーさうか、そんなら「何ん無く姫君奪取られ」 の方が宜しい、それは画師の意(こゝろ)を書いたもので、画師と云ふものは、筆を持ては強いが刀を持ては弱い、先方は武士だ、しかも大勢−其の武士が姫君を奪い取りに来たのだから何んなく奪取(ばいと)られた−画師と云ふ意(こゝろ)が出て居る、決して直すで無いと申されました。之れに付けても、先人の書かれたものなどには、一字一点でも、迂闊に手を著くべきものでないと思ひました。

 彼の『国姓爺』の正本に 「甘輝公の御帰りと、聞くより雑兵手を上げ……と書てありましたのを、礼式に手を上げると云ふ事はない、之れは作者の誤りだ−と云ふので、今では 「手を下げて」と書変へて語つて居りますがのです、併し丸本にはチヤンと「上げ」 と書てある。研究して見ますと昔は礼式に手を上げたもので、支那は勿論左様でしたさうで……今日ではさう云ふ事も判明して居りますのですが、三百年の昔、それを承知して書かれました近松の博識には、驚くの外は有りません。

 大阪に素人で十三(とざん)と云ふ斯道の達者が有りました。 此の人は『弥作の鎌腹』の先祖で−大隅太夫も此の人に就て『鎌腹』を習ひ、私も習ひに行きました。ところが、弥作が初め山刀を持つて自身の腹を突いて見て、イタイ/\と云ふ、其の情愛がどうしても出来ません。何度繰り返しても出来ません。腹を突くのでなく手でも捻つて居る位な痛さ……毎日/\幾度も/\教へて貰ふても云はれません。歩きながらもイタイ/\の復習−初めは口の中であつたが、我れ知らず大声になつたものと見えまして、或る四辻まで来ますと其所に交番−「コラ/\貴様は最前から大声で、イタイ/\と云ふて居るが、何所が痛いのか」まさか浄瑠璃だとも云へませんから「へー腹が痛ふ御座います」「腹が痛いにせよ、そんな大きな声を出さずに静に歩け」と叱られた事が御座ひました。

 先代の団平さんの所に『腰越状』の稽古に参りました事がありましたが、若い折でありまして三日程聞かして戴きしました。冒頭(まくら)の「酒と云ふ」−そこを語つて見よと云はれましたので、(ヂヤン)「サケー」と一ト口開(あ)きますと「此処は浄瑠璃では無ひ狂言だ、マー考へて置け」と云はれて、ポント三味線を置いて止められます。「サー狂言と云ふたらどんなものだろー」 と思案したが解らない、翌朝出掛けて行つて見台の前に坐はる(ヂヤン)「サケー」と申しますと「イヤ浄瑠璃では無い狂言だ」ポンと止められる。其の又翌朝参りましても、矢張「浄瑠璃では無い狂言だ」とたつた一言−コーともアーとも教へて下さいません。私の宅から団平さんの家(うち)までは十五丁余り−早朝から唯「サケー」と云ふ一句だけを習に行くやうなもの……七日程は辛抱もしましたがモー麻痺(しびれ)がきれる。 こんな六ケ敷ものなら止めだとばかり、少々むかツ腹も立ちましたので、三日程通ふのを止めましたが、残念でたまりません。所が私の宅の近くに能役者が居りました−最も其の時分の能役者などは、実にみじめな暮し方で、余り流行(はやり)りませんから、謡の師匠をしたり能を教へたりして細々(ほそ/\)と暮して居るやうな有様−其所へ私が参りまして、「狂言言葉と普通の言葉とは違ひますか」「夫れは違ひます」「実は斯様/\で、「サケー」 と云ふ一句だけが狂言ださうで……夫れが私には判りませんので、何卒教へを願ひたひ」と申しますと 「そこだけ教へると云ふ訳には参りません」と云ふ次第で、紙数なら五六枚ばかり教へを受け、段々研究に/\を重ねて見て、やう/\会得が行きましたから、七日程経(た)つて、又団平さんの所へ参り、見台の前へ坐り、狂言の節で「サケー」と語り出しますと、團平さんは三味線をピタリと止(と)め 「誰かに教(おそは)つて来たな」 と問はれました。「実は斯様/\で」 と一部始終を打ち開けますと、師匠の曰く「それで宜しい」さうして置きさへすれば、お前一代は忘れ様とて忘れる事は出来ない、私が教へるのはざうさもないことなれど、教へて貰ふたものは忘れ易い、直にも忘れはしまいが、十年二十年と経つ内には忘れて仕舞ふ、「お前は太夫などはモー止め様と思つたであらう」と図星を指されましたので一言もなく、却て其の親切にほだされて男泣きに泣きました……夫れで素人方には斯程までも致しませんが、其の道の者に教へるとなると、昔時はなか/\厳格なもので今日斯様な教へ方を致しましたら、一ケ月と申たひがなか/\、到底十日と続く者は御座りますまい………

 浄瑠璃の文句の中には、たツた一字の差−ホンの一字を上に付けるか下に付けるかの違ひで、作意を殺したり活したりすることがあります。例へぱ『加賀見山』の七ツ目に「待つ間もとけし長廊下……」と云ふ処が有ります。「尾上」の心中はなか/\解(と)けては居ない、今「岩藤」に草履で以て頭を打たれ、辱(はぢ)しめられ、早う己(おの)が部屋に帰つて自殺と思ふ了簡−なか/\解けるどころではありません。 されば其の意味を書いて「待間もどけし長廊下」……然るに「も」の一字を上に付て「待間も、とけし」と語りましては全く作者殺となつて仕舞ますので−もどけしは、もどかしい、じれつたいと云ふ意味−ところが今日多くの人は「待間も、とけし長廊下」 と語る。

 又『播州皿屋敷』に「手許もゆらに汲揚げる」と云ふ所が有ります。之れは 「手許、もゆらに汲揚げる」と語らねばなりません。もゆらと云ふは古語でゆらゆらと云ふ意味−夫れを「も」の一字を上に附け、「手許も、ゆらに」と語つては、何の意味だが解らなくなる−然るに今日多くの人は「手許も、ゆらに」と語つて居る。 大方 「ゆら」と云へぱ 「ゆつくり」と云ふ意味とでも思つて居るのでありませう………

 先日越路さんの話しにもありましたが、浄瑠璃を広く、大きく語る工夫……例へぱ、『中将姫』なれば、(チン/\)三味「ハヽサマ……」 では可けません。 チンチンと鳴ると直に「ハヽ……」と声を出すからわるい−チン/\と鳴つてから「ハヽサマ」と云ふてこそ面白味があるのでして、夫れもチン/\の音から出さずに外の音から出す……何んでも浄瑠璃はテン[三味]と鳴つたらトンと云ふ声を出す−ナントーと云ふ高ひ(こつち)所から此方(こゝ)へ戻つて来ぬことにはいけないので−三絃に附いたらいけません。三絃に附くと自然文句も判らなくなり、聴て居る人も聞き苦しい。彼の『一の谷』の冒頭(まくら)でも、三絃に附いて、(シヤン)「相模はァァ 障ォォ子ィィィ」と斯う語るなれば三絃は不用(いら)ぬ−三絃に附いて云ふて居るのですから三絃は不用−(シヤン)「サガミハー」(テンツン、チントン)……と強味を附けて置て「障子押開き」と語れば、文句も解れば、三絃も引立のです。浄瑠璃と言ふものは語つては不可(いけ)ず、又語らねばならぬものとしてありますが、結局語り了せるものではありません。如何様(どん)なにきばつても、紙の五枚−十枚と語り了せるものではありません。故に語らずに語ると云ふ事を研究しなければならないので、即ち夫れが所謂「術」であります。

 語り具合に就ては私なども常々研究工夫しては居りますのですが、例へぱ『太功記』尼ヶ崎の「ヤアこは母人かしなしたり、残念至極と計にて……」−此の「残念至極」も「母人かしなしたり」も同じ具合−同じ呼吸で語つてのけるが普通でありますが、「こは母人か」 は驚きの意味−「しなしたり」 は失望と悔恨−「残念至極」 で充分切歯して残念がる情を表はさなければなりませんので ……

 『加賀見山』の七ツ目でも、お初の「お宿へ参つて帰ります中、主人の身の上頼み上ます、ドリヤ一走り……」−之れも東風の、昨今流行して居ります語り口でありますと、「主人の身の上」 も「頼み上ます」も、如何にも艶や/\しく語つて居るのですが、後段の一句「頼み上ます」は、どこ迄も心の中にて神々へ祈念する心持ちでなければならぬのです。

 総じて西風は、前の「残念至極」でも「頼み上ます」でも、心の中で、真から其の残念さ−神み頼みの情愛を表はすと云ふことを眼目とし、語り風として居るのでありますが、東風は、かう云ふ所までも安す/\艶々しく語ります。「語らずして語れ」 と云ふのは、畢竟此処等の呼吸一つであります………

 浄瑠璃を語る呼吸と申しましても、例へぱ『菅原』四段目の「キツト見るより暫くは打守り居たりしが」−此辺(こゝら)は腹充分(はらいつぱい)に語らなければ不可ません所で……「打守り居たりしが」迄は充分腹いつぱいに語り、「テサテ/\そなたは……」は、腹で無く心から云ふ様にして戴きたい‐「勝手にせよと首受取り」 は三味線に附かぬ様に−私が語りますと「勝手にせよと首受取り(テン)玄蕃」とコー口早に語ります。さ様で無く、「ウケートリー」と引きますと、前申した「相模は障子」と同様になりますやうな訳で………

 老爺(おやぢ)を語るには唇(くちびる)を使ふ‐舌や歯を使ては老爺の言葉には聞えません。此点(こゝら)などは、美声の太夫は、さ程にも苦心も致しませんやうですが、私共の様な悪声

家は、如何したら宜いかと種々(いろ/\)研究も致します次第で……例へぱ『伊賀越』の「モシ旦那」−唇を使はずには老爺には聞えません。よく腹から声を出せと教へる師匠が有りますが、声は腹からは出ません、矢張り咽喉から出ます。さればこそ、いかに稽古をして居りましても、咽喉を傷めてからで無いと、美ひ声の出るものでは有りません。

 姫を語るときは言葉の尾(しり)を上げますが、若い下町(したまち)風の娘を語りますときは言葉の尾を下げます。此の様な呼吸はいろ/\ありまして、師匠によつては、秘密秘密として教へませんが、決して秘す可き事ではありません。 斯道の発展の為めには、素人方にも、広く知らせたいと思ひます。身振素振ばかり女子の様子をしても不可ません。見せるのでは無い聞かせるのですから、聞いて居て真に女が居るのだなと感動させるやうでなければいけません。

 姫言葉は歯を用ひて語尾を上げます、「アノもづ屋の煮音は」と尾を上げる。「松風に似しとやら」と一寸と尾を上げますと姫言葉になります。老爺は唇を用ゐますが、若い女子には唇は禁物です。

 摂津大掾は実に美(い)ひ声を出されますが、あれは巧妙に歯を使はれますからで……之れを間違つて真似てる人もあります。大掾が語られますに「我れ民間にそだち」と華美(はなやか)な若者の声で語り「人に面(おもて)を見知られぬを幸ひに」……かやうに唇を使はず語れば、必ず若者になる。是等は秘伝ものでして、最も注意せねばならぬ点であります………

 笑ふときには奥歯の二枚目あたりに舌を曲げて其の先を附ける。而して、「アハヽヽヽヽヽヽヽ」 と笑いますと何時(いつ)迄も笑はれます。左なり右なり、上なり下なり、勝手の宜い方の歯に付けるのですが、私は上歯に付けて笑ひます。之れも声が悪いからかやうな事も研究するのですが、声の美ひ人が研究したら尚一段と善くなるのでありませうに……美声の人は頼んでも研究はして呉れません、其様な苦心をせすとも困りませんからでせう……

 よく自分は声が悪ひから浄瑠璃は語れぬと云はるゝ人が有りますが、声の無い人なら声の発せる方法が幾らもあります。私の門人に、「英(はなぶさ)」と申す者があります、此れは親からして浄瑠璃が非常に好きで−ところが此「英」が又いたツて悪声で、兎ても成就の見込が無いと云はれた位でしたが、私は辛抱さへすればと請負ひました。果せるかな熱心に研究の結果、今日では声の使い具合も大分上手に成つて来ましたやうな訳で……悪声だと申しても、必ず出来ぬと云ふ限りは有りません。

 摂津大掾さんは裏(うら)声と表(おもて)声とを巧みに継ぎ合せて語られた−其の継目が分らぬ様に巧妙に語ツて居られましたので……例へぱ「主を殺したア天罰の報いは……」−此の文句を大掾さんが語られるのに「主をコロシイータアー……」幾度にも断(き)ツたり継いたりして語られるのですが、聴客には夫れが解りません。彼の太夫さんの声は長いなと云はれますやうな訳で−之れは口で語ツて居ツて鼻で息をする−此の口で語ツて鼻で息をする事が自在に出来る様になればマー一人前ですが、吸ひ入れる息と出す息と両方ですから、なかなか容易には出来ません。浄瑠璃を語るには其の運転が肝腎です。

 浄瑠璃を語るには詞のだれ無いやうに変化させて行くことが肝要で御座いまして、例へば『菅原』四段目の「それがしを庄屋の方へ呼付、時平が家来春藤玄蕃、今一人は菅相丞の御恩をきながら、時平にしたがふ松王丸、こいつ、病耄ながら見分の役と見え、数百人にて追取り巻、汝が方に菅丞相の一子菅秀才、我子としてかくまふ由、訴人有て明白、急ぎ首打て出すや否」とある詞−「時平が家来春藤玄蕃」迄は普通の詞で語り、「今一人は」 からは語気を強める。「玉簾の中の御誕生と薦垂の中で育つたとは、イヤモー似ても似付ず、所詮御運の末成か、いたはしや浅間しや」とある所でも「イヤモー」からは愁(うれい)になる。三味線が入(はい)るからとて、三味線と共に語つては不可ません。愁の所は何所迄も愁で語ると云ふ事に心掛ねばなりませんので、中途から変はツたら浄瑠璃が水臭くなります。三味線が入ツても矢張悲しく、三味を「テーン」ト弾くとすぐ歌の様になツては不可ないのです。即ち『先代萩』の政岡−−「よう死んでたもつた、ヲヽ出かしやつた/\ノ……」と泣く、其の後に 「そなたの命は出羽奥州」とある。「出かしやつた/\/\ノ……」 を三味線で、ワーツト泣くのはよいが、後の「そなたの命は出羽奥州」を普通の詞で語ツては、人形が二人居る様に聞えて不可ないのです……

 松王の「アノ逃隠れもいたさずに」 此所では松王は泣いたら不可ません、少しも泣けぬ所−−源蔵が泣くのです。総じて泣く者は泣いたら不可ません、−−例へぱ子供が屋外(そと)から泣て帰て来る、親爺が夫れを見て「ドーシタ」「何々さんが坊の弄具(おもちや)を持ツてツてしまつた」と、泣かずしてシク/\と云ふたら、それ丈親が感じますが、大声張上げ泣き/\云ふたら、感じが薄らぎます。−−「申付てはおこしたれ共、定めて最期の節、未練な死を致したのでござらふノ」「イヤ若君菅秀才の御身がはりといひ聞したれば、いさぎよふ首さしのべ」「エエ……アノ逃隠れもいたさずにナ」「につこり笑ふて」「ナニにつこりト笑ひました」と云ふ様に………

 よく調子がイヌと云ふ事を申しますが、無論音声は三絃の調子に合体せねば不可ません。例へて申しますれば、或る容器(いれもの)の中に物を充満して蓋をすれば、如何に振ても中の物は動揺致しませんが、若し之れを八分目に入れたとなれば動揺致します。夫れと丁度同じ理窟で、浄瑠璃を語るときも、自己の声一ぱいに語りますと、調子は動揺致しません、調子のイヌと云ふ事もないのですが、一ぱいに出して居ないと動揺します。調子がイニます。夫れ故に調子を上げやうとするときには、其の以前に下げて置かねば不可ませんのでありまして、下げて置かねば上りません。声一ぱいに「今頃は半七サン」と語りましては、次の調子が上手に出ませんのです。此辺の呼吸は、一度や二度御話し申しましたとて、了解の出来るものでは有りませんが、総じて詞でも地合でも、後を大切に語ると云ふ注意が肝腎で、此れは黒人素人に限らず、大事のことでありまして、前に申しました政岡にしても「出かしやった/\ワー………」 と泣き切ツては不可ませんので、後の句の「そなたの命は出羽奥州」と涙声で云はねばならぬ所をも考へて、大切に語らねば、前後の聯絡を失する様になるのであります。

 総じて黒人素人に限らず、本を開けましたら、其処の一枚を丁寧に語ると云ふ事の覚悟が肝要でありまして、其の開いた一枚/\を、熱心−−丁寧に語りさへすれば、一段全部が上手に−−完全に語られる訳で……次の次迄も頭に考へて居る様では、其の開いた紙の所が疎(おろそか)になり、完全に語れるものでは有りません。丁度今から歳の暮の事を考へて居る様なもので………

 浄瑠璃にはイミ(忌み)言葉と云ふものがあります。侍方言(さむらいなまり)では「なかりしが」を「なかツしが」と語ります、何々はとあるを何々なと語る所があります。 又奴言葉と云ひまして「筆助でござります」と云ふ所を「筆助めでごわります」と申します。

 之れ等はアイウエオ−−ナニヌネノ−−の使い分けでありましてアをナに、オをノに変化させるのです。 夫れに付て可笑な話が御座りますが、例の『兜軍記』の「こりややい阿古屋」を「こりややいなこや」と語つた人が有るさうですが、「あこや」 は、矢張り「あこや」で……

 序(ついで)に唇と舌及歯の使い分をお話し致しますが、黒人では之れをサワラワカワと申して居ります。サワは歯を使ふて語る。ラワは唇を使ふ。カワは舌を使ふて語るのです。サワと言ふにはどうしても舌や唇では言はれません、歯を少し閉ぢてサワと申しますと優しい声が出ます、故に若い者や女などを語るには此のサワを使います。老爺(おやぢ)を語るには唇を使います、舌や歯を使いましては老爺の声は出せません、「ラワ」と唇で言いますと丁度歯の無い老人の声に出来ます、故に老爺を語るにはラワを使います。

 侍言葉にはカワを使います、之れは唇や歯を使ふても出ません、舌の先きを上頤(うはあご)へ附る心持ちで 「カワ」 と言ふと侍らしき声になります。

   サワ……歯……女、若き人

   ラワ……唇……老爺

   カワ……舌……侍

とかう云ふ次第で、平素から心懸けて練習せねばなりません。亡くなられた市川団十郎さんは実に芸界の名人と思いました。 私は団州サンの『後藤』を見物して、今迄自分が語つて居ったのは間違であつたと感じた事が有ります。団州さんの又兵衛は、初から終り迄酔ふて居りますが、私共が語ります後藤は、空鉄砲一発で大抵酔が覚めて仕舞ひます。併し鉄砲玉一発の音位で酔が覚める又兵衛では、一方の勇者とは云はれません。大抵の役者が致しましても泉三郎の空鉄砲一発で「今撃ちし鉄砲は…………」と、酔が覚めたところで無く、大きな眼を剥出して居りますが、後藤又兵衛ともあらう豪傑が、そんなことがある筈はありません。

 

 明治前後の浄瑠璃芝居

 

 お尋ですから私の記臆して居るだけのお話しを致しますが、今の弁天座の所に竹田座が有りました。其後大江橋の北詰に出来、夫れが潰れ、日本橋に澤の席が出来、又夫れが潰れて、初めて博労町の稲荷神社の所に彦六座が西向に建てられました。此彦六座は灘の酒商で、通称灘屋と称する灘屋藤八と云ふ人が座元となつて、建設したものです。 其後彦六座が無くなり、堀江の市の側に堀江座が出来ました。併し今の堀江座とは全く別物です。其堀江座が無くなり、今の佐野屋橋の南詰に、大隅大夫を座主として近松座が建てられました。一方文楽座は最初御池橋附近に有りましたさうですが、私は存じません、私共が知りましたときはモー稲荷社内に移転して居りました。夫れは彦六座の出来る以前です。其の文楽座が松島へ移転して、今の八千代座が出来たので、今の八千代座は以前は文楽座と称しました。 其後彦六座が稲荷の旧の文楽座の隣に建てられたのです。 文楽座が今の八千代座より移転して御霊社内に建設せられたのは明治十八年頃と記憶致して居ります

 夫れから曾根崎の蜆橋にも座がありました。 又確に記憶は致しませんが、天満の天神の社内にも二箇所有りました。云々

越路、呂太夫両氏の談るところ右の如し、孰れも斯道の好者に取りて、得難き教訓の数々を含んで居るのである。仔細に味ひ熟慮勘考するところあらば、得る所蓋し少からざるべし。