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【 義太夫大鑑 越路太夫芸談 】

 
下巻 p113-133    義太夫大鑑
 

自序

 著者は本書の刊行に際し、越路太夫呂太夫両氏に就いて、親しく其の芸術談を徴し、実際問題としての理諭の応用が、如何に困難であり、深甚の注意を要するものなるかを聴き、録して本書の不備を補ふことゝした。左は其の概要である。

 

竹本越路太夫の芸談

 

 此の芸術談は、著者と越路氏との対談録とも称すべきである。座に呂太夫氏あり、間々其の感想を漏さる。されば時に同氏の談片をも交へられて居る。

 

(著者) 総じて義太夫道(このみち)に限らず、何事にも機(はずみ)があツて変る………ズツ卜修業を積んで往く内に、何かの機会(はずみ)に濶然として悟り、丁度眼の醒めたやうにころりと其の芸が一変する。然るに此の分なら何処まで往くか解らないと思ふて居ると、再(また)たるむ。一寸中よどみの姿となつて停滞する……と云ふ事があるやうですが、御経験は如何。

(越路太夫) 私も師匠大掾に尋ねますと、夫れは芸の上達(あが)り目だと云はれます。即ち芸の立替(たてかへ)になるのでして、大体皆誰も持前が有りまして、上達する程度迄は進むさうですが、其の或る程度より以上に上達するのがなか/\困難な事でして、今で申せば文楽座の源太夫……此の位迄は誰でも進みますが、夫れ以上に上達しますのが難儀な事で……何故かと申ますと、私等の考へますには、源太夫の地位なれば、先づ座長より四枚目…云はゞ序(ついで)に聴いて貰ふと云ふのでありまして、四枚目の人が、幕の代りに聴いて貰ふと云ふと、エライ能く語ると云ふ事になりますけれど、其の人が三枚目に行くと古靱太夫の格で客が聞く、二枚目になると南部太夫の格合(かくあひ)で聴くと云ふやうな次第で、御客さん方から格合を附けて來られますから、段々悪くなつて來る次第で……序に聴いて貰ふて居る間は、一寸と耳障りが良いと、南部太夫よりも源太夫が良いとなりますが、扨其の源太夫を二枚目に廻しますとさツぱり聴かれません−と云ふのは、太夫の方でも俄に其の気分に改まる故(せい)で……文楽座に居りましても、昔は三段目の中を語つて序切、……とかう云ふ具合で……序切と云へば中々重い役で、此の序切を語るやうになれば一人前の太夫で……三段目の中から序切を語る様になる。それより二段目の切、三の切とかう云ふ順序でありまして、三段目の中を語つて居りましても、其の中と切とは格合が違ふ−気前が違つて参りますやうな訳で、中を語つて居た芸が俄に切に代つて参りますのですから、自身の意(こゝろ)が改まつて來る。ところが、切を語るのはかう云ふ具合に語るのだと云ふ呼吸が有れば宜いのですが、夫れが無ひ、夫れが無くて、三段目の中の芸で切を語るから少しも芸が寄らぬ、馴染(なじ)まぬのであります。現今はモー無茶苦茶で……大序なり、序中なり、序切口なり、序切なり、二段目の口なり、二段目の中なり、二段目の切なり、三段目の口なり、皆語り分けがあるのですが、……例へば三段目の中を語つて居るなれば、三段目の切の人に差支へる事は少しも語れぬ。同じ文句がありましても、同じ様な語り風は出來ぬ。さらりして切の太夫に遠慮して語らねばならず、仮に三つ有れば一つに縮めるとか、きつしりした節があつても、其の節の真似をせぬ様にするとか、淡泊(あつさり)と語るとか、さう云ふ様な極(きま)りがあるのですが、今はモー無茶苦茶で、口も切も皆同じ気分で語つて居る。そこで切語りの人が前に語られて仕舞ふてはモー語られません。語ればあくどくなつて参りますから、今度は切語りの方が遠慮して語らねばならぬ事となる。今アー語つたからと自分から遠慮して置くと云ふことになる。夫れ丈今はものが違つて居ります。

 さう云ふ次第なればこそ、今では太夫の修業振も変つて参りまして、昔の様な本筋の修業をする人が無い、無暗とハイカラになつて仕舞ふて居りますから、私は自分の弟子にも、他のお方にも、もと/\此の稼業は、未(いま)に角な物を脊負ふて舞台に上り、しかつめらしく語つて居るやうなバンカラの稼業なれば、ハイカラでは困る。此道丈は、バンカラで修業をしなければ不可(いか)ぬと申して居りますやうな次第で……昔は禅坊主に角力取り、それに私共の太夫の三者−同じ修業振で−所が現今ではモー大序ソコ/\の人が金側の時計をさげ、美服を纏ひ、羽織を著て、平常(ふだん)でも暮さうと云ふ様な気分になつて参りまして…それ丈上手な者が出ません。私共の修業した時分の事を話しますと、お前達と私達とは時代が違ふ−などゝ云つて本気には致しません。実に困つたものでありまして、期道の行末が案じられます次第です。

 (著者) 足下(あなた)の浄瑠璃を始められました時分は、随分えらい事でありましたらう。

(越路太夫) 私が教へを受けた人は團七と称し、未だ達者で歳が七十八……此の人が親分になつて呉れられました。其の後今の摂津大掾さんの所へ弟子入りを致しましたのですから、無論大掾さんにも御恩が有りますが、此の團七さんには、非常な御恩を蒙つて居ります。

(著者) 浄瑠璃を語る「こつ」「こきゆう」「急所」とは如何様(どん)な事を云ふのですか。

(越路太夫) 其の「こつ」「こきゆう」は弟子にも譲れません。仮令譲らうとしても先方が会得をして呉れません。「こきゆう」は即ち「こきゆう」で、辞には云ひ尽せません。

(呂太夫) 其の「こきゆう」と云ふ事が無ふて、皆同じ様に語りますれぱ、版(はん)で刷つた様なものが出來上る、夫れでは面白ふありません。「こきゆう」と云ふのが其の中に入る故、同じ太功記を語つても皆夫れ/\違つて参ります。

(越路太夫) 仮令ば「ツン」と三味線が出ます。其の「ツン」の所から声を発(だ)しては可(い)かぬ、反対に発(で)なければなりません。「テン」の所から声を発(だ)したら−「テン」「なにとやらして」−と、コー上に行かぬと云ふと区域が広くない、之が即ち糸に附くので−つまり糸の音から声が発ると区域が狭い、区域が狭いと云ふと糸に圧(おさ)へられて声を充分に使ふ事が出來ない……面白い模様が出て來ません。三味線に附いては可(い)かぬ……所が三味線に附て居るか居らぬかと云ふ事は解りません。一々注意して呉れる人が有りまして、夫は三味線に附て居るのではないかと説明して貰ひませぬと、語つて居る本人に解(わか)らぬのが有ります。夫れも人々に依つて違ひますが、兎に角三味線の音の上から−一ト調子上から出ねば浄瑠璃が狭くなる。上から発ますと広いものが出来る。何所にでも歩いて行ける。容器(うつわ)の内部を辿(たどる)のと外部を辿のとは、広さが違ひます。外部に出て居りますと面白いものが出來ますが、内部では狭苦しくて面白いものが出來ません。私は常に若い者に申しますのに、それが出来ないのは三味線の音を聞て稽古をするからだ、三味の音を聞て稽古をするから可(い)かぬ−と申して居りますが、三味の音を聞て往かねば方法が附かぬ……其処が即ち「こつ」と云ふもので、口では言ふ事が出來ません……太夫は三味の音を聞くなと云ふことになつて居る。太夫が三味を聞ては可かぬ……所が御承知の通り、私の師匠の大掾さんは三味線弾でした、それが太夫になつたのですが、此の人丈は実に声を使ふのが名人で、−長短が上手で−裏声を使つて居るのと表声を使つて居るのとが、聞人(きゝて)には少しも解りませんほどで、つまり息の使ひ方が上手なのでありまして、老年に成つてからは、声の使ひ方も違つて参りましたが、若い時分から長い息だ/\、どこ迄続く息かと人にも言はれました位で「今頃は半七さん、どこにどうして、ござらうぞ」−之れ丈の間に、どれ丈の息が続いであるか解りません位息の続き様が上手でした。人には大抵程度の有るものですが、師匠大掾ばかりは、息を殺して改めて息をすると云ふ事が無い−皆鼻で「フン、フン」と息をして居られるのですが、夫れが聞手には解りません。

(著者) 浄瑠璃の稽古……就中素人の稽古に就て注意せねばならぬ廉々はどんなものでせうか、第一腹の括(くゝ)り方−どう云ふ所が肝腎かなめの注意すべき所でせうか。

(越路太夫) 稽古をするのに注意すべき要点と申ますと、第一には、日々正本を読んで其の文句を十分腹に入れる事で……昔の人も「皆目(かいもく)知らんでも、浄瑠璃本を六十遍読んだら自然と浄瑠璃は語られるもので、其の間に情愛が解るものだ」と言つて居る位ですが、同じものを六十遍はなか/\読めませぬ……夫れも唯読むのではない、此の人者(じんぶつ)はドー云ふ人者−こゝはかう書てあるから、此の人はかう云ふ年頃の人だと云ふことを考へて読むので、斯して六十遍も読めば、其の内には自然と浄瑠璃が語れる様になるものだと言はれたのであらうと思ひます。

(著者) 節よりは文章の意味ですな。

(越路太夫) 我々の方では、浄瑠璃の文句を語り殺しては可かぬと云ふことになつて居りまして、何程下手(へた)でも文句は明確(はつきり)と解る様にして、お客に満足を与へねばなりません。之れは素人方が娯楽に稽古をせらるゝにしても同様で、浄瑠璃を語つたら可かぬ−文句を明確と解る様にすることを第一と心得ねばなりません、此の事単り浄瑠璃計りでなく、常磐津でも、長唄でも、謡でも文句が解らねば、トント面白いものではありません……

(著者) 浄瑠璃を語るに「ハア」とか「エー」とか種々の引懸(ひつかけ)がある。所謂間投詞とか、助語とか云ふものでせうが、夫れに就ての要点をお話し下さい。

(越路太夫) 其の事ですが、例へば「イヤ」と云ふのと「イーヤ」と云ふのと違ひますやうな訳で……今私は文楽座で「紙治」を語つて居りますが本には「ヤア、ハア」と書てある。此の「ハア」が私にはさつぱり解りませんでしたが、篤と考へて見ますと−つまり治兵衝が小春にうと/\となつて居る−萬一の事があつては困ると云ふので、小春に思切つて呉れと云ふ頼み状を遣る−小春が聞分て表向(おもてむき)愛想づかしを云ふて一去(の)く−おさんが小春の請出(うけだ)されると云ふことを聞いて、「ヤア」と驚き「ハヽアツヽヽヽ」と嘆息する呼吸だなと気付きました…かう云ふ所は。どごうも解釈が致しにくい。されば素人衆に稽古でも仕て上げるときには、余程具合能(よ)く教へて上げませんと、折角作者が妙味を持たせて書いたものでも、太夫の為に語り殺されて仕舞ふことになりますので……こんな所は、語らるゝお方もよく/\注意して活して使はねばなりません。

(著者) 昔は東風西風、又は豊竹派竹本派と、語り方にも夫々一ト風あつたさうですが、今でもさう云ふことが有りませうか。

(越路太夫) それはモー今日は無茶苦茶になつて居ります−と云ふのは、それを語り分けて居る人が少い、唯モー聞き学丈で、………稽古を仕て貰ふても、唯之れは西風だ、東風だと云ふて貰ふ丈で……昔はちやんと之れは東風だ、之れは西風だと云ふて、太夫衆も定(きま)つて居りましたが、現今ではそんな事を申して居たら、全く不自由でなりません。

(著者) 今度の近松の原作の復活はどうで御座いますか。我々好者から云へば洵に結構な事で[此の対話の当時越路太夫は、文楽座にて近松原作『天の網嶋』の興行中なりし。]今迄やつて居ないもので、廃つて居る佳作が沢山有る。夫れ等はドシ/\復活して高座に上ぼせて貰ひたいと思ふのでありますが……聴手(きゝて)の方で聴馴れて居ないので成功如何と案ぜられるのですが、

(越路太夫)悦ばれる御客もありますが先づ七三……七三も六ヶ敷いでせう。世間でやつて居る方を悦ばれる方が七分で、モー種々(いろ/\)聴き尽した、原作でも聴きたいなと云ふ、極く熱心な方が三分位……之れも彼所此所(あちこち)で語る様にでもなつたら流行の時代も参りませうが、一寸文楽座で、三十日か四十日興行したからとて可(い)けますまい。近松さんの作は地色が多い−最も其時代の三味線弾の気分にも依りませうが−太夫でも三絃でも、此の地色が語れたり、弾けたりするやうでなければ可けませんので………

それ故に「詞」も大切で有るが「節」を余程巧妙に語り廻さねば聞かれません……所が自己にそれ丈の術が無いから能く行かぬ……どうしても前から喝釆される様な「節」を附けてやらねば可かぬことゝなる。今度の文楽座の『紙治』の道行などにも、何とも言はれぬ名文句がある。されば之れ丈は保存したい、一枚も抜かず、原作通りに語らし度いと思ふのでありますが、道行となれば三人なり五人なり、高座に竝んで語らねば道行らしくないと云ふので……曾根崎新地からズーツト大長寺まで−大長寺に著てから心中場となる。小春と治兵衛との愁嘆になる。そこの文句が非常な妙文ですけれど、何分にも二人限(ぎ)りのクドキですから寂莫(さびし)くなつて仕舞ふ……折角の名文句は名文句ですけれど、賑かな後にさう云ふ陰気なものでは飽きが來ると云ふ次第で、遂い可惜(あつたら)名文句も捨て仕舞はねばならぬ事となりますのです。

(著者) 語物を大体に区別すれば時代物と世話物と世話時代物との三通りに成りませうが、真剣に語るとなると、世話物よりも時代物の方が、却て六ヶ敷いと云ふやうな訳ではありますまいか………

(越路太夫) それはやはり世話物の方が六ヶ敷ふ御座いますな−と云ふのは、世話物は日常目前の事を語るのですから六ヶ敷い−何んでも夫れ丈の情愛を写さねばなりません……尤も時代物でも、仮へば『忠臣藏』で−由良之助の気分になると申しましても、其の時分の人の実際の事は解りませんのですから、六ヶ敷には六ケ敷ですが、矢張世語物の方が六ヶ敷御座います。

(著者) 時代物の方が何故六ヶ敷からうと考へたかと云ふと、つまり今御話の通り、世話物は日常目前の事で、太夫自身が其様な場合に遭遇する事も多いから、人形の情愛にも成り容易(やす)いでせうが、時代物の方は文章は極く簡単で、モー一つ突込んで書て無い……其の突込んで書てないのを此方(こちら)で工夫勘考して、情を写して語らねばなりませんのですから、却て時代物の方が六ヶ敷からうと思ふて居ります訳ですが……

(呂太夫) 時代物なれば其の歴史から調べて來ねば其の情が出ない、それで六ヶ敷いと御考へになるのでせうが、併し時代物なれば……芝居を見てもさうです、金ぴか物で見せれば見せ易いが世話物はさうは参りません。丁度座敷の床間にしましても、種々装飾がして有れば立派に見える、若し何にも飾りが無い所を立派に見せやうとすれば、それは六ヶ敷いと同様に、時代物には種々の飾が有ります、例へば熊谷でも、「その方は此処に何にしに來た」とコー申しますと、熊谷で無くとも熊谷の様に見えますやうな訳で……世話物は唯平凡に語つて居りまして、其の人に成り得ると云ふ事が六ヶ敷い−と言はるゝのが越路さんの論では無いかと思ひます、丁度此所に有ります茶碗にしても、金模様か何にかゞ画いてあれば立派に見える、又直に気も附きますが、若し之れが何の飾りも御座りませんければ、手に持て居ながら、遂ひ気が附かぬと云ふ様な理窟で……

(著者) 所が字を書くのにも、草書のくずした字の方が容易くて楷書の方が六ヶ敷い、六ヶ敷い書家になると行書を教へない、行草は自己の力で研究してくづして書けと教へますさうで……

(越路太夫) ドーも私共の研究が未だ足らないのかも存じませんが、九段目を語つても−日向島を語つても−時代物で有れば、半月語れば大抵モー文句が腹に入りますけれど、今私が文楽座で語つて居る「紙治」の如きは、既に半箇月も語つて居りますが、未だに其の文句が腹に入りません−と云ふのは捕(と)らまい所が無い−時代物は「キユツ」と一つ握つて根強くやると、ドーでも語れますが世話物の方は左様には参りません。之れは研究の仕様が違ふのかも知れませんが、此の両者を研究するには、非常に我々の頭が違ひます。世話物を語れば、道路を歩行いて居ましても疎(おろそか)にも歩かれません、日々人の言ふて居る−仕て居る事が皆浄瑠璃の中に書て有る……人が何を話して居ても迂闊(うかつ)に聞き流すことは出來ません。私の師匠の二見の今のお婆さんがまだ若い時の事、姑に呵られては日々泣の涙で、夜分師匠が芝居から帰宅致しますと、寝物語りに「今日はかう云ふ事があつた」「アー云ふ事があつた」と泣いて師匠へ話しをする。すると師匠はフン/\と聞いて居つて、夫れで『帯屋』を語るとき「おきぬ」の呼吸を漸く会得されましたさうで……後日、其の話をして大笑をしたと能う話して聴かされましたが、何事もさう云ふ実際の事からして研究して懸らなければ可けませんので……過日も『浜松』の口を語るのに、笑薬を売つて居る所が有る。それに就て静太夫が「お師匠さん之れはドー云ふ風に語るのですか」と尋ねますから「私は其の時分の事は知らぬけれど、併し夫れを語らうと思ふのなら、縁日の晩に、錆落(さびおと)しの薬や、鉛筆などの効能を述べながら売つて居る者がある、夫れを聞て研究をなさい、アノ通りやつたら可(よ)いのだ」と申しましたやうな次第で……日々門前に來る物売りにでも浄瑠璃の呼吸がある−道路を歩いて居つても、少しも油断は出來ませんやうな訳−然るに時代物の方には夫れが無い、それで私共には時代物の方が語り易ふ御座いますが、元來私は世話物の方は余り可けません方で、大抵時代物計り−どちらかと言へば世話物の方は口の重い方でして……

(著者) 声の使ひ方に就て苦心をなされた様な話を承りたい。

(越路太夫) 私は十九から二十才位の声の変り目に非常に苦心を致しました。どうしたら此の声が使へるであらう−どうしたら此の声が癒るであらうと、当時なかなか苦心致しました。元來私は子供の時分から、師匠の前で改めて稽古をして貰ふたと云ふことは御座りませんので……初の師匠の團七さんが堺で稽古をして居られた時分でも、連中が多いから稽古をして貰ふ閑暇(ひま)がありません、十人なり二十人なりの連中が朝から終日習ふて居る、其の人達に師匠が教へらるるの聴て居て独りで覚えますので……人の杜絶(とぎれ)た折に師匠の前に出て語つて見る、それが稽古で……今の師匠の大掾さんでも矢張り其の通りでして、師匠が夜分帰つて一杯飲(やら)れて、用事が済みますと、私は玄關へ下がつて扇子を叩て語つて見る−すると師匠が、それはさうでない、かうだと云ふて直して呉れられましたので……それで私は今の若い者にもさう申しますのです、改めて見台の前に坐らねば稽古が出来ぬ様に思ふては大変な間違で、そんな事では可かぬ−日々歴乎とした人が皆舞台で語つて居られる、下手上手に拘らず孰れも命掛で語つて居られるのだから、それを聞いて覚えぬ事には可かぬ−見台の前に座つてやる稽古は、稽古をする人の都合で出來不出來がある。日に依つて稽古に甲、乙が出て來る。それよりも舞台に上つて、長くても短くても一生懸命に語つて居る、それを聴て研究をせねば可かぬと申しますのですが−ドーも今の人は、矢張り見台の前に廻つて、口移しをして貰はねば、稽古が出來ぬ様に思つて居ます。つまり先方のものを買つて來てやるから可かないので、先づ自己の持前の物を出し、夫れに人の長所を採つて來て一所に混ぜる−自分のはかう云ふ所が可かぬ、其の可かぬ所は棄てゝ仕舞まして、たれかの良い所を取つて来てこゝに入れる……と云ふ風に語らねばなりません、夫れが仮令拙劣(へた)でも差支はない……なぜかう云ふ風にして研究をせぬかと言ふて居りますのです。

(著者) あなたが今日の位置になられるまでには、随分辛ひ修業もなされたでせうが、其のお話を……

(越路太夫) 私は八歳の暮れ比から堺の女太夫に就いてポツ/\手解(てほどき)をやつて貰ひましたので−私の兄が三味線を弾て居て、近所の若者が多勢三味線の稽古に参りましたが、右の女太夫も亦兄に教へて貰ふて居りました其の縁から……初めて教へられたのは『忠臣藏』の三段目−所が私は兄弟の数が少なう御座いまして唯(たつた)二人−それで私の親は、兄弟が少ないのにかう云ふ事を教へて居ては可かぬと云ふので、奉公に出されました。所がなか/\勤まりません、直に戻される。学校は嫌ひ、どうにも始末が附きません所から、とう/\終(しまひ)に寺へ小僧に遣られました、半期程居りましたが−其の寺の坊さんと云ふのは他人では無い、私の祖父が世話をしたことの有る坊さんなので、其の坊さんが「此の子の祖父さんには御恩が有るのだから、マー私の寺へお遣(よこ)しなさい、お世話を致しますから」と言ふやうな訳で−お寺へは参りましたものゝ、朝も早くは起きられない、御経は習はぬと云ふので、とう/\其の寺からも戻されて仕舞ひ、幾軒奉公に行つても長くは続かない−親父も呆れまして、モーお前の様なものは、どうとも勝手にせいと云ふので、夫れから團七さんの所へ通勤(かよふ)ことになりましたので……「かう云ふ人間ですから、足下(あなた)にお委任(まかせ)しますから、焼て食ふなり、煮て食ふなり、ドーとも好(よ)い様にして下さい」「それなら私(わし)に一切委任(まか)すか」「どんな事をなされても一切苦情は申しません」と云ふ様な事で……所が此團七と云ふ人の稽古振(ぶり)がなか/\嚴(きび)しう御座りまして、少し覚えが悪いと直にどやし付けると云ふ様な次第−夫れが為め團七さんの妻女が大変気遣はれて「お前さんソー惨酷にして傷でも附けては親達に言訳が有りません、何んぼ預つて居るとは云ふものゝ他人の子です、若しもの事が有つてはなりません」と言ふと「なに私が預つた限りには一人前の人間にせねばならぬ、私の稽古振の嚴しいのを見るのが否やなら此家を出て行け、何時でも離縁(ひま)をやる」と幾度夫婦争をせられたか分りません。夫れ程にして仕込んで貰ひましたので……或日私が朝宅を出で團七さんの所へ行つた限り、夕刻になりましても宅へ戻りません、親父も心配して團七さんの所へ参り「今日伜が参りましたか、未だ宅へは帰りませんが」「アー未だこちらに居る」「どつかへ使にでも行きましたか」「イヤ裏に居る」「アー左様ですか」と、裏の障子を開けると庭の正面に松の木がある、其松の木に、終日飯も食はされずにヒッくゝられて居る。「親爺(おやぢ)あれを見てお前何んとぞ思ふて居るか」「否ヤ何んにも思ふて居りませぬ」「わしは預つて居るのだから己(おれ)の思ふ様にするのだが、若しお前が夫れを見るのが辛(つら)ければ、何時でも連れて帰れ」と言はれまして、親爺も涙の一滴も出ましたらうが、あんまりと云ふ事も云はれませず、其の儘に引取る−さう云ふことは度々で……稽古は二階でしますので、間々二階から蹴落されたことなどもありました。

一番辛かつたのは十九の歳−当時私は大変に声が悪く、障子の破れの様な声が発(で)ました頃で…和泉の佐野の在に日根野と云ふ所がある。其所へ十日間買はれて行きましたが、其の比の私の出物と云ふたら、三ッか五ツしか無い−然るに師匠團七さんは一人前の給金を請取つて居る−「おいだき」の太夫なれ『忠臣藏』を出せば四段目か九段目、妹脊山を出せば三段目の片山は持たねばなりませんのに、子供の割合に余り給金を請け過ぎて居る。−私の十八九歳の時分で十日間で八十円と申せば大した給金です−先方は高いと思つては居るけれど、團七さんがさう言はれるものですから、要求通りの金を出して居る。所が先方の註文の出物(だしもの)は私には有りません。無いからとて給金の手前さうは言はれませんから「明日はドーしませう」と師匠に尋ねますと「黒人で何を知らぬ、彼を知らぬと言はれるかーヨシ/\マー本を以て來い、教へてやらう」と云はれて本読みに掛る。所が團七師匠は一遍語つて呉れられますと、モー二度目には手離して、三度目に間違ふた位なら頭を擲られる。かうして毎日/\新規のもの計り苦んで居るのですから、中々声が癒(なほ)りません。人形遣(てすり)の方では「なんだ彼(あ)の小僧、塩辛声を発(だ)しやがつて」と言ッて居るのが耳に聞えます、宿へ帰ると團七師匠が立腹して「今日も恥を掻かせやがつてしつかりしろ」と叱かられる。「明日は何んです」と問へば「一の谷の三段目だ」「知りません」「そんな物を知らぬと云ふことが言へるか」と呵かられては前の通り……非常に艱難を致しました。旅宿ではマーどうかかうか稽古を済ましましても、肝腎の舞台へ出るとウンともスンとも言へぬ様に成つて仕舞ふ。夫れで余り辛いものですから−稽古を終ると師匠は風呂に入つて寝て仕舞はれる。私はモー師匠が寝たなと思ふ時分に身体(からだ)を撫で/\、其所から三里程離れて居る犬鳴山の不動さんに毎夜/\通ひました。師匠の朝起きる時分迄には帰つて来る。声の癒りさうな事は無いのですけれど、出來無いのが辛いので……不動さんに参詣しては、其所の瀧に打れて旅宿に帰り、寝て居た様な顔をして又其の日の語り物を復習へて貰ふ……かう苦しんでは声の出さうなことは無い、師匠からは声の遣ひ様が悪ひとか何んとか云はれては擲られる。此種(こんな)事を繰り返し/\一生懸命、声の遣ひ方なり種々のことを研究致しました。

(呂太夫) それ丈辛抱の仕甲斐が有られたと云ふもので……其の時分と今とは非常な違ひで、現今(いまどき)そんな事でもしたら、直に門弟は飛び帰つて仕舞ひます。

(越路太夫) 現今は手の一ツも触たり、チヨツと荒い言葉でも使はふものなら、モー参りません。私も宅の若い者には、声の遣ひ方なりと教へて遣り度いとは思ひますけれど、教へ始めたら一人計りと云ふ訳にも参りませず、と云ふて大勢ある弟子全部を一々教へて居りましては私の本職が疎(おろそか)になりますので……そこで宅の若い者にも、電車賃を与るから堺にでも行つて声の遣ひ方でも教へて貰ふて來ひと申しましたのですが、唯一人として行くものがありませんでした。

私は実(まこと)に順序能(よ)く行つて居ります−と云ふのは、團七さんから声の遣ひ方を教へて貰ひましたのと、大掾さんの声の遣ひ様の上手(うま)い−其使ひ方を教へて貰ひましたのが非常に私の幸福となりましたので……同ひじ声の遣ひ方でも、大掾さんと堺の團七さんとは其の遣ひ方が一寸違ひます。今迄にも時々お世辞かも知れませんが、お前の声は大掾に似て居るとか、そつくりだとか、言はるゝお人も有りますのですが、ソー言はれましても、余り嬉しくも感じません−と云ふのは、孰れ似て居ると言はれる所は良い所は似ない、悪い所が似て居るのだと考へますので……総て他人に似せ様と思ふと必ず悪い所が似る。其の人の癖の有る所は似ますけれど、良い所は似無いもので……夫れが為め、能く似て居ると云はれますと、之れは悪い所が似て居るのでは無いかと思ふて、篤と其の点を研究致して居りますやうな訳で……

夫れですから他人の真似を仕掛ますと、自己の良い所を棄てゝ、他人のものを請取つて來て語ると云ふ様なことになります。他人の品物も自己の品物として磨き出すと人が買ふて呉れますが、他人から受取て來た計りでは自己の物がお留守になつて仕舞ふ。夫れでは面自く無いものが出來る。稽古をするにしても其の点を能く、心得なけれぱなりません。どんな不器用な太夫でも−素人のお方でも、夫れ/\自己の特色があります。先達津太夫が文楽で一の谷の三段目を語つて居ります時に、殿村兵衛門さんが聴にお出になりまして「どうぢや、わしの熊谷が良からう」と言はれましたが、成程お素人のことですから、「節」でも何んでも拙劣(うづう)は御座いますけれど、ジツト噛分(かみわけ)て聞いて見ますと自然にそれ丈の貫目と云ふものが備つて熊谷になつて居る。こちらは浄瑠璃は知つて居るけれど貫目が無い、之れはモー云ふに言はれぬ人々の持前で、品格の有る人が語つて居られると、夫れ丈の格が具つて熊谷になる。それから又其の翌日、土居さんが見えまして「どうぢや私の熊谷の方が良からう」と言はれた。成程考へて見ますと、矢張り自然の貫目と云ふものが備つて居る……大分以前のことですが、彦六座の組太夫−此の人が『忠臣藏』の平右衛門を語り、一方文楽座の方では先代の呂太夫のの平右衛門−どちらかと申しますと組太夫の方が浄瑠璃は上手ですが、呂太夫の方にはどことも云はれぬ品(しな)が有りました。同じ『一の谷』を語りましても、組太夫よりも、呂太夫の方が品格がある−浄瑠璃を語るには、第一此の品格と云ふことを考へねぱなりませんので……ところが之れは人々の持前で−真似の出來ぬもので−上手も下手もありません、持つて生れたものですから……

黒人でも素人でも其の人々に依つて必ず一ツは特色がある。其の自己の特色を棄て置て、他人のものを採りに行かふとするから附焼刃の様なものが出来上る。ところが其の附焼刃も次第/\に剥て來る−剥て來ても己れの研究して居る持前が出て來ないから可笑(おかし)なものに成りますので……自己の特色を一ツ現はして置て、之れに磨きを掛け、而(そ)して後に他人(ひと)のものを採つて來て装飾(かざり)を附けましたら能いのですが……もと/\自己のかう云ふ所に、他人のアー云ふ所を採つて附けたら良いと云ふ土台の研究がして無い−唯先方のものを買つて來て、其の儘持つて居るのですから、所謂附焼刃になる、自然/\に剥て來る……夫れも大体常々の稽古が足らないからでありまして、常々の稽古と申しますのは、唯モー日々の出來事を考へまして、他人(ひと)さんが対話(はなし)をして居られましても成程アー云ふ呼吸のものだ−物を売つて居る人を見ましても、成程アー云ふ様なものか−と実地に深く研究する、之れが即ち常々の稽古で−彼の『堀川』に鐘もあわれなり」と云ふ「ヲクリ」がある。此の声はどこから発るのかと先代團平さんに尋ねたら、團平さんは「それは廓(くるわ)の火の用心と云ふ音(おん)である−其の音で語れ」と申されたさうで、三味線の音色(ねいろ)にも皆此の日々の出來事がこもつて居りますやうな訳で……「無冠の太夫敦盛は途にて敵を見うしない−御座船に」と云ふ文句が有りますが、此の文句の三味線の音(ね)を聞くと、実に其の通りで−須磨の大掾さんの別荘から浦(うら)を眺めますと、其の浪の音が三味線の「間」と違ひません−之れは浪の音を採つて三味線の「間(ま)」を作つたものださうでして……成程三味線の手と云ふものは能(よ)う附けたものだと感心致しました。日々の風の音でも三味線の中に入つて居ります。『忠臣蔵』の三段目に「脇能過ぎて音楽や」と云ふことがある。大鼓をドン/\と叩て居る音と、三味線の音と、同じ間合に叩いて居るのですが、三味線の音が自然とソー云ふ様に聞へる−能く附けたもので、静にジツト考へて居りますと皆夫れが現はれて参ります。さう云ふ様な所を考へますと、なか/\油断をしては居られません。研究と云ふのはかう云ふ事が総て研究です………