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【義太夫大鑑 明治の斯界を代表した越路太夫と大隅太夫】

 明治の斯界を代表した越路太夫と大隅太夫

上 p657-690

義太夫大鑑

 

 明治の斯界を代表した越路太夫と大隅太夫

 惟ふに時代は幾多の傑物を輩出する。されど時代を表代し得るものは僅かに群雄中の一、二人である。明治時代の代表人物としては、越路と大隅の両人を数ふべし。

 越路太夫は明治の浄瑠璃史上に於ける最尤者にして、明治十六年竹本実太夫[此の時四代目長門太夫となる] の後を襲ふて文楽座の櫓下の位置に据はり、後年小松宮殿下の御沙汰を拝受して摂津大掾となり[大掾号の御沙汰を拝したるに明治三十五年九月にして、其の改名披露は三十六年五月文楽座に於ける『妹脊山婦女庭訓』の興行の時也] 大正二年四月光栄ある引退興行を済まして文楽の舞台を退くに至る迄、前後三十年、斯界の牛耳を取って嘖々の好評を博し、生来の美調と抜群の伎倆とを以て、其の名を都鄙に轟したのでありし。

 越路太夫の略伝

 越路は幼名吉太郎、天保七年三月[十五日] 大阪順慶町に生る。父は森七三郎、母は久、伊勢屋と呼びし塗物問屋なりし。故あって母の離別となりしより、伴はれて其の実家に入り、五歳の時、釣鐘町上の町大工棟梁二見伊八[屋号大和屋] の養子となって亀次郎と改む。養父伊八は素人浄瑠璃仲間の一人にして、表徳をい文と云ひし。亀次郎十一歳の時、慰みにとて三味線の稽古を始めさせたのであるが[初稽古は竹澤新造の門人なりし新造と云へる素人の稽古屋也] 上達頗る早く次で、鶴澤清七三代目の門に入らしめいよ/\稽古を励ませた。

されど越路の生来の美音は、三絃よりは寧ろ語りの方が相応したりし。一段二段と習ひ進むに從って次第に興味も加はり来り他も賞賛やうになれば己も爾りとおもひ込み、果は太夫として其の身を立てんと養父の許を請ふまでに至つたのでありし。養父伊八も一旦は拒んで見たりしと雖も、決心牢としてなか/\に固く、到底翻すべくもあらずと見えたるより、我を折りて之を許し、改めて三代目野澤吉兵衛の門に入れ、いよ/\黒人仲間の本修業にと懸らせたのでありし。[時年二十歳。]

 明治三十六年十月の浄瑠璃雑誌には、野澤語助[東京在住の三絃の巨頭なりし。三代目吉兵衛の門人、大阪西区の生れ、初め竹澤龍造の門に入り龍作と云ひしが、吉兵衛に就いてより野澤吉之助と改む。山四郎一座に加はり操り芝居に出勤し、其の後暫く京都に住し、江戸に下り、語助と相続改名す。大正二年二月二日歿] の直話として左の如くに記して居る。

 

竹本摂津大掾に就ては、中々面白いお談がムいます、殊に斯人を素人海より太夫に勧めたのは、マア私が取持つたやうなものでございます。

私が師匠吉兵衛と、大阪へ立戻つて居ります頃、上町辺に亀次郎と云ふ素人三味線弾がムいまして、時偶席亭より、黒人の空席に雇はれて居りましたが、私が未だ何んな男だか一向面体を存じませんでした、其の頃京都の富の小路に鍋島家の姫君が御隠居遊ばしましたが、至つて浄瑠璃が、お好きでムいましたに依て、徒然の折柄には、素人連をもお召に相成る事がムいます、私が京へ参りました時に恰当お催しがムいまして、私も図らず廣丸連と云ふ京の素人連中に加はり、都合三名にてお邸へ伺ひました所、大阪よりも十三と云ふ素人太夫と例の亀次郎が参りました。

何がさて素人連の事でムいますから、何れも鼻を高め居りまして、俺は是が得意だから是非とも語り度い、イヤ俺もそれが得意だから他人には滅多に語らせない抔と、何や角と争ひ出して、役割は容易に極りません、斯く楽屋揉めに時を移しては甚だ恐れ多い事でムいますから、そこで私は亀次郎と相談致し、これぢや迚も果しがないゆゑ、二人で徐々弾語りを演らうぢやないか、語物は

『橋弁慶』が面白い、お前さんは牛若を演んなさい。私が弁慶を受持ちませうと、先づ演り始めました所、私は実に亀次郎の美音なるに舌を巻て驚きました、天性太夫になる者と認ましたに依て、亀さん…三味線弾になつて居るは惜い事だ、お前さんのやうな咽喉は、真実珍らしいから、寧そ太夫になつちやア何うだへと、勧めますと、何分共にお願ひ申しますと云ひますゆゑ、私も何うにもして太夫に取持たうと思ひ、大阪へ戻つて師匠(吉兵衛)に此の事を話しましたら、其の内に折もあらば連中に加へやうと略ぼ納めて呉れました。

間もなく京の七軒町へ行く事になりまして、愈々亀次郎を同道致しました所、当人も大きに喜ました。

扨太夫となるには亀次郎の芸名では、何うも可笑うムいます、そこで師匠と三人にて種々と考へましたが、是と云ふ面白い芸名も出ませんゆゑ、宿屋より国尽しを借受けて、先づ五畿内より見始めましたが、山城は現在山城掾…大和も同じく大和太夫…、斯んな塩梅に大体芸名となつて居りまして残つて居るものは何れも口調が宜しうない、段々奥州の果まで調べました所、師匠が手を拍つて、アヽ好いものを見附けた、何うだ南部と云ふ芸名は…エツ、南部…、ナニモそんなに驚かんでも好いぢやないか、デモ南部の鮭に鼻曲りと云ひますから…延喜でもない馬鹿な事を言ふまい、マア兎も角も芸名に仕やうと、そこで亀次郎が竹本南部太夫と名乗つて、七軒町の興行へ現れました。是が即ち当今の竹本摂津大掾でムいます、其の後師匠に就て頻に稽古致しました、是より越路になり又進んで春太夫になるに就てに、又た面白いお話がムいまして、結局斯人は腹もありますが、一ツに運の好い方で御座います。

 

 越路が太夫として世に立たんといよ/\決心した動機も、吉兵衛の門下に投ずることとなった因縁も、右の実話に由って略ぼ了解されるのである。

 

 亀次郎が師事した野澤吉兵衛は初代越路太夫[三絃弾勝鳳より、太夫に転じ越路と名乗る] の実子にして、初め鶴澤市治郎にて[文三(三代目巴太夫の相方を弾く、一度文蔵四代目となり、又文三に復す)の門人也] 天保五年より芝居に出勤し、同十一年文楽芝居にて父名を継いで勝鳳となり、同十五年 [即ち弘化元年] 正月道頓堀若太夫の芝居にて吉兵衛と相続改名し、[此の時五代目染太夫(後ち竹本越前大掾)の『国性爺』三の切を弾けり] 亀次郎入門の当時は春太夫[五代目] の相三絃を勤めたりし。然るに所存あって之を高弟吉彌[後四代目吉兵衛] に譲ッて自ら座頭となり、門下の太夫、三絃弾を以て素浄瑠璃の一座を組織し、地方興行をと思ひ立つたのであつた。

 察するに吉兵衛の思ひ立は『堀川』なり、『千両幟』なり、『阿古屋琴責』なり、主として三味線もので聴衆を呼び、彼の冴へたる撥音一ツで、一当、当てて見やうとの目論見なりしが如し.されば勢ひ伎倆よりは美音の太夫を必要としたるが如く、彼は亀次郎に囑目し、自ら紹介の労を取って春太夫の弟子となし,近畿より中国、四国と旅興行にと引き連れ出発したのである。[此の時歳二十二]

 約二箇年の旅興行の後一旦大阪に戻りたる吉兵衛は、更に亀次郎の南部太夫を真打とし、他に其太夫、勝鳳等、彼が門下の太夫三絃弾数名を加へたる一座を組織し、万延元年八月再び江戸興行にと出立したのであった。九月に江戸に著いたが、此時に亡父越路太夫の名を南部太夫に襲がせて二代目越路太夫と改名させた。[時、歳二十五]

  吉兵衛の父初代越路太夫は善光寺参詣の途次江戸に入り、嘉永元年八月病歿した。其の墓は深川雲光院に在り。想ふに吉兵衛が江戸に下りたるは、一つは亡父越路の十三回忌追善のためもありしなるべし。

 

 吉兵衛一座は植木店を初席とし、夫れより順次に各席を打ち廻はつたのであるが、当時の越路の内心の苦みと稽古の辛さとは、到底筆舌で尽し得るやうな生やさしい次第ではなかったのでありし。彼が南部太夫なる名前を得て籍を芸人仲間に置いてから、僅かに三年目の江戸下りなれば、段数とても多くの持ち合せがあると云ふではなし、毎夜/\の出しものにははたと当惑せざるを得なかったのである。[江戸の寄席興行は毎夜出し物をさし替ゆるの慣ひである] 加之其師吉兵衛よりは、此の前春太夫と自分との興行[弘化元年冬五代目春太夫江戸に下り嘉永四年帰阪、三絃吉兵衛也] の折は、八十八文の木戸銭なれば、這回も値段は落されず、一晩二段づゝ語つて埋め合せを付くべしとの難題は提出される。倏忽の間に浄瑠璃の種切れとなる。急稽古に練習ねばならず。吉兵衛の稽古は厳格なり、其時ほど辛らかりし事はなかりしとは、後年彼れ自身の追懐談として伝へられて居る所である。されどかくして辛酸苦痛を耐へ來って、彼の技能はめき/\と上達したのでありし。

 後年越路が人に語りて「自分には大恩ある師匠二人あり、其一人は親しく芸道を仕込んで貰ひし三代目野澤吉兵衛にて、他の一人は竹本春太夫なり」と云ったと聞くが、往時を追懐したら定めて無量の感慨に咽びたるなるべし。

 越路の美調と吉兵衛の手腕とはいたく江戸市中の人気に投じ、其の興行は可なりの成功なりし。江戸に在る事殆ど二箇年に及んだが、文久二年七月其師吉兵衛は仮初めの病より遂に起たず、越路[当時彼は住太夫と改名して居つた] は一行中の勝鳳の三味線にて暫時興行を続け、翌三年六月其太夫、勝鳳等と共に大阪に帰つた。[此時歳二十八]

 当時師匠春太夫は文楽と離れ、京都寺町和泉式部境内の芝居に在りしかば、越路は直に其の下に頼り、一座に加はつた。外題は『五天笠』[四段目まで] 『岸姫松』『天綱島』『八百屋献立』『嫗山姥』と云ふ取り合せにて、越路には『嫗山姥』の御殿の一役が振られた。九月一座は堀江の芝居に出勤の事となり、外題は『忠臣藏』『天綱島』『奴請状』にして、越路は旅路の嫁入の掛合のシテと、生駒太夫の紙治内の口を語った。此に於て彼は大に不平なきを得なかつたのである。

 江戸にて吉兵衛の三味線にて人気を一身に集め、得意満面、心密かに期待する所あつて帰って来た彼は、此の役振りの余りに新参者扱にして、師春太夫の心事の余りに冷酷なるかを疑はざるを得なかったので、嫌気がさし、再び去つて江戸に下らうと決心したのでありし。

 其の事を伝聞した師、春太夫は懇々不心得を諭し、苟も他日の大成を期するものが、席次や、役振りや、些々たる小事に拘々たるべきに非ざるを説き、一意修業の必要なることを懇諭したのであった。此の懇諭に悟つた越路は、爾来翻然覚醒して再た他を思はず、熱誠其の師に仕へていよ/\芸道を励んだのである。爾来北の新地の芝居、堺の芝居、京都、九州等師に伴ふて各所に出勤し、慶応元年三月、春太夫が再び文楽軒芝居に出勤すること〃なるや、彼も亦随ふて此の芝居に入りし。此れ越路が文楽座に出勤した初めである。

 当時の文楽座には染太夫を櫓下として、湊太夫あり、実太夫あり、咲太夫あり。三絃には団平を筆頭に鶴澤伝吉、野澤吉兵衛[四代目] 豊澤濱右衛門、鶴澤豊造あり、人形には吉川才治[後、吉田玉造] 吉田松江、吉田喜十郎等あり、孰れも鏘々たる面々の顔揃ひなりし。

  春太夫が再び文楽座に入つた時の外題に、前『忠臣藏』切『新板歌祭文』役割に、桃の井屋敷−咲太夫、扇ヶ谷−湊太夫、山科−染太夫、野崎村−春太夫一力の掛合は、由良之助−湊太夫、平右衛門−染太夫、おかる−春太夫にして、越路は桃の井屋敷の口を勤めたでのあるが、咲太夫が僅かに初日を勤めたのみで引籠りたるより、越路は之れが代役を振られ、口より切まで通して語り、好評を取り、中頃師匠春太夫の欠勤の際にも、代役を勤めて『野崎村』を語り、此亦上出来にて、新顔の太夫大に腕前を発揮し、面目を施したのでありし。

 

 爾來数々先輩の代り役をも勤めて譽れを為し、[慶応元年五月(彼が文楽入座後の二回目興行なり)には代役として津賀太夫の持役なりし『彦山』六ッ目須磨の浦、長枝太夫の持場役なりし、『彦山』九ッ目の切を語り、明治三年三月『千本桜』の興行には、川連館の中より切(咲太夫の持場)まで通して語り、而も此の川連館の出来栄え意外にも上評なりしより、出世の縁となり、次興行より切語りとなつた。] 明治三年九月興行よりは切り語りに出世し、『木下蔭狭間合戦』の奥御殿の切を勤め、爾来累進して評判いよ/\高まり、明治十六年四月興行には、長登太夫[実太夫改名] の後を承けて文楽座の櫓下となり、爾来三十年、嘖々の声望と斯界の重任とを隻肩に荷ふて、赫々の名を成したのでありし。

 

 元来浄瑠璃を語ると云ふ事には二つの方面がある。[口+腕]囀玉を転がすが如き美くしい調子で、聴客の音曲的欲望を満足せしむると云ふ事が其の一つである。意味を語り、情を語り、能く作意の本旨を語り活かすと云ふ事が其の一つである。越路の長所は前者にして、大隅の長所は後者なりし。越路の『ひばり山古跡松』『先代萩、御殿』『妹脊山、竹雀』等は古今独歩、他の企及し能はざる程の妙趣を極めたのであるが、大隅の『壺阪寺』『娘景清、日向島』『近頃河原達引』等には、亦一種言ふべからざるの妙味が存じたのでありし。越路独特の品位のある−−美い調子で、『中將姫』『本朝二十四孝』など語り進んで来ると、神韻縹緲−−聴客はたゞ訳もなく其の声に酔はされて仕舞ふたのであるが、大隅が淡々として些の虚飾もなく、衒気もなく、『河原達引』や『壺阪寺』など語り込んで往くと、聴客はいつとはなしに引き入れられて、恍惚として、不知不識、曲中の人と同化して了ふたのでありし。越路と大隅とは実に明治時代に於ける義太夫節浄瑠璃の両面を代表した巨人なりし。

 

 されど此の両人をして天保、嘉永の名人揃の中に立たせて其の伎を競はしたならば、[天保、嘉永の斯界には、竹本系に、四代目綱太夫あり、五代目染太夫(越前大掾となりし人也)三代目長門太夫あり、初代大隅太夫あり、梶太夫(六代目染太夫なり)あり、津賀太夫あり、六代目内匠太夫あり、豊竹系に、五代目若太夫あり、三代目巴太夫あり、駒太夫あり、岡太夫あり、三光斎あり、八重太夫あり。名人上手群をなして輩出して居るのであるが、就中優れたるは、長門太夫にして、「三段目にても、四段目にても、舎利にせよ、艶物にせよ、巧妙を極めし名人なり」と云はれて居る位の達者である。嘉永、安政、万延を通じて文楽芝居の櫓下の地歩を占め、斯界の人気の大半は彼の双肩に荷はれて居たのであつた。] 果して彼等が明治時代に於て贏ち得たほどの名声を擅にすることを得たであらうか、否は疑問である。

 唄ふ浄瑠璃は聞き飽いた、語る浄瑠璃でなければ……と云ふのは、畢竟斯曲愛好者中の一部の声に過ぎなかったのでありし。一般の聴客には、依然として唄ふ浄瑠璃の方が歓呼され、喝采された。竹本綾之助さへ一時は八町泣かせの綽名さへ贏ち得たほどの時代もあつたのである。越路は実に此等多数党の拍手喝采裡に擁立せられた運命の寵児とも云ふ可し。彼は其の生来の美声が累いして、一時は斯道の破壊者なり、外連浄瑠璃の発頭人なりとまで、悪罵を浴びせられたこともあったのでありし。

 

 左は当時の越路評の一ッである(明治三十五年七月六日浄瑠璃雑誌掲載)

 

 越路談集 大阪泉町 中村商海散史

余の友人横浜一商館にて貿易に従事する者あり。商業整理のため頃日来阪し余を訪問す、次語浄瑠璃談に及ぶや彼曰く、方今義太夫の勢力に比較的に東京にあり、見よ有名なる文楽に於ける太夫名家は払底の時代なり、彼の越路、津、文字、呂、文、南部等熟達の者を除くの外、各世評ある太夫の如きは却つて東京、横浜の素人社会に数多あり、否彼等よりも素人の方能く語るなり、僕は義太夫を以て無上の快楽とす……中略……東海旅行汽車中浜松駅にて始めて越路の野崎村なるを聞く、欣喜雀躍、当地に著するや劈頭第一文楽座に腕車を著し、有無を云はず円金を投じて越路を聞きしが、何んぞ図らん彼の野崎村は語る乎謡ふ乎判明せず、美音美声と云ふ点は別問題として、義太夫語りの価値無く、恰も新内節を聞いたかの感にて一向面白からず、彼れが義太夫を研究する久し、然れども野崎村のみは実に閉口せり、彼の『合邦下の巻』『盛衰記神崎千歳屋の場』『夕霧吉田屋』など自体軽浮の浄瑠璃なるを、軽々しく語りしも幾分乎軽妙の処ありしが這般の野崎村は無論新内節と断言して可なり、僕に敢て彼を攻撃するにあらず、単に僕は僕の研究所見を談ずるのみ、「君に浄瑠璃雑誌百話集と題して、越路に消極的黒人の百人向きを語る云々と云はれしが其は治論胃一班実際研究すると何も語るにあらずして謡ふのである、[最も題物に依るけれど] 君知らずや例の悪口屋野澤語助の曰くに『越路太夫に八方美人的に語るが実に感心のものである、何程お銭を取つてもお客様は黙つて聞ひて御座るが、考えて見ると廉価である、彼が義太夫を研究し分析するとイヤハヤ源氏節もあり、新内節もあり、ウカレ節もあり、乃至に常盤津も祭文も皆包含せられてある云々』併し語助の云ふ点も相違なけれど、這に所謂商売敵と云ふ点多少あれば信用出来ずとするも、兎も角今日の地位は謡ふに相違なし、要するに越路よりも文字太夫の方第一位、将来有望の太夫にて恐らく越路も及ぶまじ、津太夫、彌太夫、呂太夫の如きは、維新以来斯道海の元勲株、音声の低きと悪声は扨置き、彼等が真正の浄るり語り公然太夫の資格を有して居る、呂太夫を代表して文太夫の語る『頼光館の段』音声低く且つは苦しいが、流石文太夫、三人の笑ひなどは失敗も取らず、聴衆を満足させるのは感心なり、文太夫は当地よりも寧ろ東京に信用あり、素人の有名なるは当地の彌生軒なり云々。

 野澤語助曰く、昔は此の浄瑠璃は諸国諸芸の司といつて、有りとあらゆる芸道のうちでも司といはれる丈に、何処の津々浦々、さてはいづくの国々へ行つても威張つたもので、指でもさゝせることではなかつた、……太夫にも名人がありました、長門太夫、若太夫、春太夫はいづれも皆芸がしつとりして居て、一分のすきがありません、あれ等がほんまに義太夫を語つたのですよ、何ンの越路が咽喉が好いの何ンのと言つたところで、足下にも追付くこつちやありません、大阪に参した時、越路が先代萩を文楽でやつて居ます、そこで一日聞きに行きましたが、これぢや三味線弾者が骨の折れる事だと気の毒になりましたよ、それは同じ竹の間で政岡か、悲しさ辛らさ遣る方もなく、さりとて泣くに泣かれず、歯を喰ひしばつて泣ところがありますが其の『くいしばり』とあるのは、情として口惜い悲しいが泣かれないところなんだから、くいしばりと語るのにも、其の心もち則ち其の情を胚ませなければならない、然るに『くひしばり』と調子に乗つて見台の上に延び上つて、見台をドン/\と拍子とつて叩き上げる、これぢやア『くひしばり』くひしばって泣くのぢやない、高吼に吼るので、折角忍んで泣いて居るのに、其の泣声が御殿中に響き渡つて仕舞ふ、それを弾かなければならない、三味線弾者に因果なものである云々。

 

 福田琴月君曰く、越路のお得意は、多くは艶物である。例の三勝の酒屋、朝顔の宿屋、猿廻し、紙治等、其の他、時代物中の艶々しい処では、仙台萩御殿、忠臣藏九段目、中将姫などある。処で、酒屋では

 『あとには園がうきおもひ、かゝれとてしもうば玉の、世のあぢきなさ身一つに、むすぼれとけぬかた糸の、くりかへしたる独言』

から、例の誰でもやる『今頃は』のさはり文句が、最も人の聞かうとする処であるらしい『かへしたる』の五文字を、彼れが、何程だけの声の波動を用ゐるか其は大したものである。朝顔日記の宿屋では琴が這入つて『露の乾ぬ間』をやる、是が此の一段中の聞処だ、又後段、川岸の処で『石になつたる松浦潟、ひれふる山のかなしみも』が大拍子の処だ、猿廻しでは『あの面白さを見る時は』の処。紙治の茶屋場では『南のもとの親方と、こゝとにまだ五年ある年の内』などいふ処だ。其の他、仙台萩御殿の雀の歌、忠九の『鳥類でさへも』中將姫の『あらいたわしの中將姫』から『昨日までも今日までも』の処、これが越路太夫の専門、其の声に接して誰れもかれも溜飲をさげる大高潮の処だ、さてそれが一種の魔力を以て人に美感た与へるには相違ないが、この例のみならで他の文句でも、歌の様にうまく声をふり廻すだけが、これが義太夫の眼目であらうか否や、まさかそんなものではあるまい。例の太功記十段目の光秀、操、さつき。初菊、重次郎と個々別々に躍動さして、其の言々句々は各其の性格を代表さしてこそ、義太夫だらうと考へられる。一体越路は、語るでなく歌ふ様に思はれる、結局技術あって想のなき画家の如きもので、山光水影、身もふるうばかり美くしいが、熟知すれば軽浮此の上もなく、紙背に徹せざる職人画と同様なと私は思ひまする、併しながら相生太夫、播磨太夫など到底お話しにならぬので、横町の隠居が少し修行すればあの位になれるのは何でもない。越路の悪口を云ふた私でも彼等を聞くと。たとへ大瑕はあるにもせよ、越路の妙処を思ひ出されるのである。そこへ行くと彌太夫だ、声もない、節の廻しもさう旨くはないが、聞く中に自から目をふさがれて、其の中に人物が眼の前にあらはれる。つまり団洲芸なので、言語の中に其の感情が含まれるからだ、節をころばして咽喉を聞かすといふ野心の無いだけが、此の道の識者には尊ばれ、不漢者には、隠気なとけなされる所以である。

彌太夫と対立して、殆んど語り口も似てゐて、今一層声が低いのは津太夫である、素より技量に至つては越路以上の者だが、何分あまり声の小さいで、大向ふへは少しも聞えぬから、さしたる評判もないが、彌太夫と共に、浪花の二老大家である。

大物では、例の豊竹呂太夫、竹本七五三太夫、チヤリの名手は南部太夫、先づ方今他にはあるまい。

其の他若手では、さの太夫改文字太夫だ、あれには越路の声があつて、其の上に言葉は越路よりも能い、まづ美術界での武内棲鳳[不偏な比較だがだ] 今十年も経たら大したもので、実に将来有望の太夫である。

 

 

されど這は余りに酷評である。彼が壮年時代より五十前後迄の浄瑠璃には「語るでなく唄ふ様に思はれる」感なきにしもあらずであつた。雖然、彼が両鬢の霜やうやく多きを加へ来るに従ふて、彼の芸風はます/\練熟し、其の声、其の情、併せ兼ねたる妙境に入り、真に斯界の偉人たるに背かざるの眞価を発揮し来たッたのでありし。念ふに彼をして外連浄瑠璃の発頭人など、余りに痛酷に失するほどの悪評を招くに至らしめたと云ふのも、畢竟は、越路の貫目もなく、伎倆もない、煎餅乎たる薄ぺらな門弟共が、形を学んで真を得ざるよた浄瑠璃を振り廻はし、滔々として斯界の風儀を崩し掛けて来たので、爰に痛棒三十的の批評ともなり、警告的の痛罵ともなり、延いて其の師に累ひするに至りたるものにして、之を以て直ちに越路太夫の眞価を上下するには足らないのである。

 

 大隅が人気を博した二ツの原因

大隅太夫が淡々菜ツ葉を噛むが如き芸風を以て、濃調嬌艶の越路と相対し、殆ど遜色なきまでの人気を博し得て居たと云ふには二つの原因がある。一つは余りに声に趨りて情に疎なるの感なきを得ざりし越路の芸風に対する時人の反感的迎合で、今一つは義太夫節浄瑠璃の真意義に対する時人の理解力の増進したことである。越路の芸風に嫌厭たりし真面目なる斯道の愛好者は、津太夫を歓呼し、呂太夫を歓呼し、彌太夫を歓呼し、住太夫を歓呼し、大隅太夫を歓呼した。就中大隅の淡々一点の衒気なき語り口の中に、えも云はれぬ情味を藏し譜節に捕はれずして譜節に活き、格に拘らずして格に入り、直に個性の機微と相触るゝ底の芸風には、心よりして謳歌的喝采を禁ぜなかつたのでありし。加之、明治の中期に入り、泰西文芸の研究やうやく盛んとなるに至りてよりは、劇にあれ、歌曲にあれ、一般に、形に捉はれずして真に活くるの芸風が理解され、鼓吹さることゝなり、中村芝翫や、市川九藏の、余りに形に趨り過ぎた芸風が漸次に人気を失墜すれば、団十郎の滋味ある芸風や、菊五郎の活々とした芸風が、次第に声望を高め来ると云ふ風潮となり、声に趨り過ぎた越路も面白からざれば、旧式故型に拘はり過ぎた津太夫、呂太夫彌太夫にも申し分があると云ふ次第となり、はては大隅太夫の淡々菜ツ葉を噛むが如き芸風が、いたく時人の歓呼喝采を博し、声望を盛んにするに至ったと云ふ訳合なりし。

 
提供者:ね太郎(2005.09.18)