序
雷霆の轟くやドングワラ/\との響を聞く前に、何だかグツト押される様な妙感がある。剣客渡邊子爵は曰く、上手の人に打たれる時には、打たれる前に先づグツと押へられるやぅな妙感があつて、後からユツクリドンと打たれると。又名画や名工の彫刻を見るも、其作者の名前を知らぬ先きに、其第一に打付けた筆痕や鏨痕に、先づグツと押へられるやうな妙感が迸ばしる。夫は其人が無意識にて後構はずで、破れても砕けても頓著せぬと云ふ、禅的決心で打付けた行為の反応で、其瞬間の妙味が永く幾百年の残骸となつて、後人の耳目にまで伝統せられる。之を芸術と簡単に翻訳するのである。
故に芸術は天地と其揆を一にし、故意もなく、謀計もなき、平易な一呵成の問題であつて、決して飯粒細工で組立てたやうの仕事ではない。修業とは茲に至る心掛けと鍛錬の事である。
天地間の雷霆は旱魃が続いて陽気の積極した時に迸溢して磅[石+薄]する問題で、故意に作製したやうの物ではない。万止むを得ざるに発するが如く、武人の技芸も、永年の修業鍛錬は、無心で居眠りをして居る時に、出し抜けに胸元に鎗で突掛けて来る、夫を一種妙感の前諦に覚醒せられて、万止むを得ず息に応じて平な胸を筋違にハツとかはす、左すれば胸元の皮膚に三分か五分か突き刺した鋒先はカスリ傷で横に外れる。此時は己に戦闘時期に移ることが出来て、勝つか負けるかは是からの格闘、則ち技芸を施し得る境涯に転化するのである。故に永年寝食を忘れての修業は、暗打に突き殺されぬ一刹那に、ユツクリと生命を助かる丈けの瞬間の為めに修業して居るのである。名画伯の筆を下すのも、十分か十五分かで一幅の名画は出来るが、其画が幾百年の後まで珍重されて国家の重宝となるのは、最初の瞬間の気位である。左すれば画工は幾分間の運筆の為めに丹誠を擢んで、幾十年の間を研鑽するのである。義太夫節も芸術中の錚錚たるものである。彼等芸人は、大抵一時間前後の演芸であるが、其開演の瞬間に一種気位の妙感が定まるのである。故に各自此一時間の仕事の為めに、朝から晩まで体の工合や、声の模様や、腹加減やなどを気にして苦労をして居る。其苦労の根元を造るには、幼少の時より心身を拠つて修業をして、漸く五十歳前後になつて一人前の芸術、則ち万止むを得ざるの趣味に浸染する事が出来るか出来ぬかと云ふ事業である。此の如き抜群の苦心をして演奏する一段の義太夫節も、其日の気持や、体の工合では、直に三絃師の方に敲き付られて、段切まで心地好く語られぬことになる。是は三絃の方も亦た同様であつて、角力が立会や仕切に念を入れるのと一般で、ヤツと云ふ時に、少しにても他念に隙かある時は、一番の角力の仕舞まで、不秩序な苦しい目に合はねばならぬ。芸術の神聖とは是の事である。
今の芸術家は、尽く故意捏造の飯粒細工家計りで思はざる死首を拾ふた一度の歓喜の味に迷倒して、終生の光栄ある事業を失ふ山師計りである。ソンナちやんちやら可笑しい魂性で、芸術家などとはお臍が茶を沸かすよりも価値なき事業で、始めから芸術などを思ひ立たぬがよい。如何となれば、是が義太夫節であるから良いやうなものゝ、若し真剣勝負の撃剣であつたなら、直ぐに真ニツに切り付けられて、命は幾ツ有つても足らぬ首なし義太夫である。下手は下手なり、未熟は未熟なりに、根本に此心掛けから修業の道に入ツた者でなければ、一生涯一粒の芸術家にはなれぬのである。
又此義太夫節の衰退して進歩せぬのは、角力の如く、一番毎に上になるか下になるか、素人にも能く分明する丈の勝負が分らぬからである。暗夜仕合の我天狗で、俺は彼よりも甘い、此よりも劣らぬと云ふ天狗心許りの寄合故、全くドン栗の脊比べで、勝敗優劣は永久定める事が出来ぬのである。偶々強弱優劣、上手下手の分明を付けるにしても、各自の納得を見るべきメートル条件は、人気があると無いと、給金が高いと安いとにて番附の優劣が出来ると云ふ一事であるが、是が根本の間違である。人気と云ふものは色々種類もあるが、先大多数を以て標傍する問題である。ソコデ大多数の嗜好に適応しようと云ふて、皆一斉にX(あせ)り廻つて所謂前受けと云ふものを稼ぐ、芸術道にはコンナ項目条件は更にない。随つて修業の標準もないのである。元来が素人の多数は修業をせぬ人で、芸道の分らぬ人計りである。其人の喜ぷ事を演奏するのは、先づ芸術の根本を犠牲にして居るので、別に修業などするの必要はないのである。芸術の神聖を犠牲にするのなら、三段目物や四段目物を、ナゼ浪花節にでも語らぬのぢや。見物を喜ばせて木戸銭を取るのが目的なら、尻振り踊りを仕てもよいのである。義太夫節は芸術中の真剣勝負で、命掛けの芸術である。夫に修業をせぬ素人に、己れの芸術を捨てゝ迎合するのは、芸術を戯れにする、即ち白刃の前で蜻蛉返りをする滑稽劇と同一である。芸術は己れが永年苦心惨憺をして修業した神聖なものを、上手か下手か、為し得る丈けの所行をなして素人の前に演奏し、以て其精神の妙動が、如何に無心の見物に感応して響くかを試むれば夫で良いのである。故に義太夫節の勝負も、矢張り撃剣や角力の如く、慥かにハツキリと上になるか下になるかを証拠立てるが如く分らねばならぬ。贔屓でもなく、偏愛でもなく、虚心坦懐に聴いて居て、慥かにハツキリと善悪の勝敗が分る程芸格が飛び離れねば駄目である。仮りに大阪から帰りて来た人が「今度大阪にて文楽に行き、越路太夫を聴いて来た」と咄す。其の時に「何を聴いて来たか」と尋ねても、「左様何やらであつた」と口籠り、暫く考へて「何でも酒屋であつた」と答へて、夫が古靭太夫の語り物と間違ふて居たならば、慥かに芸は下でも古靭の方が芸が一杯になつて居て、素人の見物に妙感と成つて成効して居るので、角力の勝負には確かに勝つたのである。越路太夫は芸の抜群なるが如く、見物に与ふる妙感も亦た抜群に著るしからねばならぬ。元々義太夫節は聴くが本旨の物故、聴いた人が永く覚えて居る程芸術の反応が著るしからねば、修業も研究も駄目である。そこで平生の鍛錬、即ち万止むを得ざるの境涯、故意でなく捏造でない満身修業の流露が一大事である。
と庵主が息継ぎもなく法螺丸の本性を現はして饒舌り立てたのは、南満洲鐵道会社の社員秋山木芳君を前に置いての談話であつた。処が秋山君はニコ/\笑ひながら、傍らの風呂敷包を解いて、凡六七百頁も有るべく見ゆる草稿摺の印刷物を取出し、今日は其日庵先生に此本の序文を頼む積りで来たのだと差出された。庵主は怪訝な顔をして之を手に取り、サラ/\と繰り広げて見たれば、可驚可畏、コワ/\如何に、我日本帝国に義太夫節と云ふ物の起つた始源より、世態の汚隆に伴ふ斯道の盛衰より、歴史系統は申に及ばず、アラユル方面の調査を遂げた、義太夫節のヱンサイクロペヂアーである。又次なる一巻を見れば、斯道の修業より、芸術観の批評に至るまで、細大漏す処なき論評である。之を一閲すると同時に、平生鬼にも負けぬ覚悟を持て、明治大正の天地を恐れ気もなく横行闊歩して来た庵主の両脇より、ゾーツと冷汗の滴るのを禁じ得なかつた。吐くも苦しき息を絞り出して、君はドウしてコンナ可畏一大著述を仕たのかと問へぱ、ナーニ職務の余暇にボツボツと筆を馳せて、二三年にして是丈の章をなしたのだと平気で答へる。庵主には兎ても此本の序文などはと云はんとすれば、秋山君一声大喝、書くの、書かぬのは皆まで云はせぬ。今まで僕の面前て饒舌つた丈けの、対義太夫の法螺咄を其の侭に書き玉へ。但しは僕が筆記しようか、サア/\/\/\何とでゴンス法螺丸殿と詰め寄せられて今は早や流石の庵主もグゥーーー、悔し涙に暮れながら、聊以て序となすと爾云。
大正丁巳の晩秋
其日庵法螺丸稿