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【 義大夫執心録抜書 】

(2022.05.30)
提供者:ね太郎
 
義大夫執心録抜書
    浄瑠璃評判記集成による   【*は日本庶民文化史料集成の翻字と異なる箇所】 【段組は原本と異なる】 
 
扨是迄は古老の物語られしを我等幼年の時聞伝へ古事ながら後の人昔語にも成らんかと記し置也是より左に記せしは見聞し事筆にあらはす覚書
櫓主大夫元 土佐少掾橘正勝
 座本 竹本伊勢大夫
巳正月二日より
新浄留り 古戦場鐘懸の松
  下り
二の切   竹本中大夫
   後に政大夫と成
しのぶ売  竹本岡大夫
   道行
       又兵衛
三の切   竹本紋大夫
       藤兵衛
  初下り
中大夫 源蔵腹切 大当り〳〵
已ノ四月より
仮名手本忠臣蔵
   四段目 紋大夫
   五段目 友大夫
   六段目 伊勢大夫
  七段目 かけ合
   九大夫 折大夫
   おかる 岡大夫
  平右衛門 伊勢大六
  由良の介 友大夫
   道行  岡大夫
大当り 九段目 中大夫
   十段目 紋大夫

文化四卯十月
京都寺町和泉式部にて
  忠臣蔵  津川大吉座
   四段目 政大夫
  五たんめ 美代大夫
   六段目 氏大夫
   七段目
  九大夫  美代大夫
  平右衛門 中大夫
  おかる  内匠大夫
  ゆらの介 氏大夫
  道行   内匠大夫
  九段目  政大夫
  十段目  中大夫
       内匠大夫
宝暦十一巳年中大夫之時江戸にて九段目大当り其後も相かわらず度々の大当りと也文化四卯年京都津川座にて九段目大当り其の間の年数四十七キとかぞゆる也此大夫と云し中政が盧生の夢も五十年筑前はしらす語りし事の残る山しな
 
宝暦十三 未ノ年*
竹本伊勢大夫座ニテ
未正月二日より
新淨るり 奥州安達原
二段目  竹本八義大夫
     竹本岡大夫
三段目
    口 下り 竹本鷲大夫
    中    座元伊勢大夫
    切 下り 竹本春大夫
      下り 竹沢勝次郎
 
四段目 口    竹本折大夫
    中 下り 竹本綱大夫
    切    竹本岡大夫
         野沢久五郎
         同 冨八
安倍貞任 女房袖萩 吉田文三郎
安倍宗任 老女岩手 吉田文吾




四月
ひらかな口  岡大夫
三段目茶のミ 綱大夫
   妻乞  春大夫
   さかろ 伊勢大夫
六月
夏祭りどふぐや 春大夫
   八ツめ  岡大夫
八月
物艸 しやべ*り 岡大夫
   相の山  春大夫
十月
名残 小野道風青柳硯
四段目 かけ合
   駄*六 綱大夫
   五九郎 友大夫
   頼風  八義大夫
   女郎花 岡大夫
   おぬい 春大夫
道行 かけ合
       岡大夫
       春大夫
古今無類之大当り〳〵
さかい丁正月より
豊竹肥前掾座に而も
   春大夫と岡太にゑらひめに出合
安達原
   美名大夫  丹後掾
   友大夫   出雲大夫
   佐大夫   須广大夫

森田座
安達原     是出世ノ始り
一 八幡太郎   中村仲蔵
一 権五郎景政  坂田左十良
一 生駒之助   中村伝蔵
         後に八百蔵
一 傾城恋絹   三条亀太郎
一 あべの貞任  沢村喜十郎
一 うとふ文次  坂東三八
一 同女房と袖はぎ 小佐川常世
一 安倍宗任   中村助五郎
一 岩手御前   中村助五郎
一 浜ゆふ御前  森田勘弥
此狂言大当り 仲蔵 秀鶴
是より追々 評判よろしく日々
江戸の花とは 出世なり
 
宝暦十四申年 操芝居三座
土佐座 座元 竹本伊勢大夫
竹本音大夫
  友大夫
  家大夫
  折大夫
  伊久大夫
  鷲大夫
  元大夫
 
竹本伊勢大夫
三味せん  野澤文五郎
      冨八
      左膳
      岡本弥吉
 
人形    六三郎
      友五郎
      万吉
      重三郎





土佐座 外より大夫が音ツ太
薩摩座 さかい丁中の芝居
大坂筑後大西藤蔵引請ニテ一座不残下リ古今無双大当リ
竹本政大夫
  土佐大夫
  染大夫
  志賀大夫
  住大夫
  三根大夫
  文大夫
  常大夫
竹本錦大夫
三味せん
  大西藤蔵
  鬼市
  吉五郎
  鶴沢文蔵
人形
  吉田文三郎
  文吾
  寛蔵
  才治
  門蔵
中の芝居 外より大夫が政ツ太
肥前掾座 さかゐ丁 新芝居とも云
豊竹駒大夫
  加賀大夫
  出雲大夫
  伊佐大夫
  須广大夫
  房大夫
  梅大夫
豊竹丹後橡
座元 肥前掾
三味せん
  竹澤和七
    吾八
    園次
  鶴沢名八
人形
   清治
   新十郎
   弥市
   音五郎
加賀大夫 忠臣蔵六ツの役 床の中にて古人と成ル
浄留りの出し物に駒ツ太
 
 
浄留理を人形に合せて語始しは薩摩治郎右衛門其後江戸へ下りて専ら流行門葉*多し程経て法躰し浄雲と云
 
大坂にて今播磨といゝし清水利兵衛古今の名人なり後に是も法躰して伴西といふ
 
 扨右名前之通中の芝居は筑後掾一座大西藤蔵引請にて大夫三弦人形道具等迄残らず下り正月二日より姫小松子の日遊初日より大入にて諸見物未明より挑燈にて入込後は内木戸の奥へ〆切を拵中〳〵夜明て行見物は入処なく棧敷も土間も極めの外に金弐百疋も祝儀を遣さねば見物ならずとの評ばん棧敷割元に橘屋庄助と云人頼れしが昔より操芝居はじまって此よふな事は聞もおよばす是前代未聞の咄しの種さて四月より新薄雪物語六月は千本桜暑中もいとはぬ大入にて七月中頃より狐場出大切吉野花櫓忠信と覚範の人形を燈籠にて飾*り付道具一式あかりを照らし舞台一ぱい押出し也見物皆々目を驚かせしと也八月朔日より一座惣名残り浄留理として名月名残の見台とて様々みどりの看板出し十日替り三十日之内三度取かへ未明より人の山をなしされども其頃正月より八月迄出*語りといふは壱人もなし末に至りて三根大夫文大夫両人かんたんのふし事を出語に致さ*れし斗也諸見物余りに群集する故気をうしなふ人も有らんと急に案じ三尺四方も有ける大団扇を拵へ幕の間々に土間切落しの見物衆を芝居もの一同にあふきたる事昔より聞も及ぬ咄しの種成べし宝暦十四申年なれば当文化卯年迄五六十年なるらんが珍ら敷大入也
 其時分は年々新作の浄留理出る大夫三味線人形迄皆々名人数多有けるゆへ諸国共に義大夫節大流行也近来の立もの塩町政大夫石町住大夫此両人出勤せられし間は芝居に貫目も有花の散った跡のよふで今当世の操芝居一軒か二軒の芝居も朝からわざ〳〵行人はなし昼飯過から隙*過て仕方がないから人形でものぞこふなどゝ見物も茶屋の弁当中ぐらい帰りはお茶漬さら〳〵と芝居がゝりの若ひ衆はひやめし腹の立事もおつに請ては居る物の六段目では自腹でも切らねはならぬ勘平がいすかのはしにもかゝらぬ事七段目の掛合も相手の喧嘩もならす第一身分の道行がつまらぬ物と云た所が当分見かけた山斜も風雅でもなくしやれも出ずチト甘口の天川屋男でござるとりきんだ所か伊吾人に笑はれるも十一段めの夜打からおもひ付たる手打蕎麦夜鷹の安もの買出して鼻にかゝりし声はり上けそば大夫さまア大平さまアと寝言をいへは女房がおめへうなされなさったかとゆり起されてさては今のは夢で有たか盧生が夢は五十年我らが毛が三本たらぬも四十七騎じゃれハア今度の狂言は忠臣蔵芝居の世直しカチ〳〵〳〵
 
一 明和二酉年四月大坂より竹本大和掾野澤喜八郎同道にて下り弟子中江も対面し此度日光御宮へ参詣致心願によって御当地に休足之内伊勢大夫の頼と云又は一昨年弟子春大夫罷下り御江戸中様御贔屓に預りし御礼かた〳〵出勤せらるゝとの評判受領勅免有看板出る其図左に記す
 
竹本大和掾藤原宗貫
 
看板堅木にて長サ五尺斗横はゞ七八寸位生地磨出し文字彫りの内紺じようを差神社江上る額の如ク江戸中尊ら評判取〳〵也出し物左にしるす
 
御目見浄璃理
清和源氏 山伏せつたいの段 シテ  竹本大和掾
              ワキ  門人   若狭大夫
冨士見西行 香爐場            折大夫
ひらかな無間鐘         三弦   野沢喜八
 
右大和掾看板めづらしきとて其評判江戸町々はいふニ及ズ津々浦〳〵のはて迄もどんな上手な大夫じゃと旦那さんがた芸者衆多くの中てこなさんはいゝかしらぬがおらアねつから
         作者 しばらく〳〵此評判も跡にてくわしく此所預り〳〵
 
宝暦十一巳年より寛政のはじめ迄凡三十年余り下り大夫衆中を角力に取組御覧に入候
 
【東】
大関  豊竹駒大夫
関脇    鐘大夫
小結 丹後 舛*大夫
前頭    此大夫
同     岡大夫
同     十七大夫
同     美名大夫
同     麓大夫
同     桐大夫
同     組大夫
前頭    豊竹君大夫
同      和佐大夫
同 清五郎  氏大夫
同      加賀大夫
同      八重大夫
目 藤右衞門 駒大夫
同 理介   越大夫
同      出雲大夫
同      菊大夫
同 古手や  君大夫
前頭    豊竹須广*大夫
同      佐渡大夫
同 四郎兵へ 文字大夫
同      三輪大夫
同      伊左大夫
同      伊久大夫
同      湊大夫
同      伊大夫
同      菅大夫
同 まへカモン 袖大夫
同      大隅大夫
同      町大夫
同      志名大夫
同      越後大夫
同      喜代大夫
同      民大夫
同      兵庫大夫
同      滝大夫
同      妻大夫
同      辰大夫
同      さよ大夫
同      い大夫
同      大和大夫
同      久大夫
同      熊大夫
同      道大夫
同      元大夫
同      鶴大夫
同      冨大夫
同      豊大夫
同      亀大夫
同      年大夫
同      園大夫
同      杢*大夫
竹本大和掾藤原宗貫 有隣 行司
野澤文五郎
竹澤和七
大西藤蔵
野沢喜八郎
鶴沢文蔵
鶴澤名八
野澤冨八
世話人 差添
      竹伊勢寿楽斎
ざこバ高弟 竹本土佐大夫
兵助    竹本友大夫
      豊竹音大夫
後ニ村大夫 竹本八義大夫
土佐少掾橘正勝
薩摩*小平太
豊竹肥前掾
【西】
大関 竹本政大夫
関脇   錦大夫
小結   千賀大夫
前頭   春大夫
同    染大夫
同 藤兵へ 紋大夫
同    中大夫
局    住大夫
同    志賀大夫
同後ニ錦大夫 家大夫
前頭  竹本綱大大
同 次兵へ 紋大夫
同     筆大夫
同 利介  絹大夫
同     内匠大夫
同     百合大夫
同 京*利介 錦大夫
同 糀丁*   友大夫
同 ざこば弟子 喜大夫
同     時大夫
前頭  竹本国大大
同     河内大夫
同     三根大夫
同     佐賀大夫
同     倉大夫
同     鷲大夫
同     折大夫
同     文大夫
同     淀大夫
同     常大夫
同     長門大夫
同     喜代大夫
同     巻大夫
同     伊豆大夫
同     真志大夫
同     雛大夫
同此村や内 舛*大夫
同     出水大夫
同 金兵へ 家大夫
同     浅大夫
同     鹿大夫
同     与大夫
同     難波大夫
同     玉大夫
同 イか  桐大夫
同     狩野大夫
同     千代大夫
同     政子大夫
同     布大夫
同 肴丁  妻大夫
同     式大夫
同     橘大夫
同     婆大夫
同     沢大夫
 
 
ざこば  政大夫
東鏡   鐘大夫
後に丹後 舛*大夫
後に寿楽 伊勢大夫
小嶋三  十七大夫
藤兵へ  紋大夫
文蔵   住大夫
右は三段目語り之部
又兵へ  岡大夫
後に政大夫 中大夫
児源氏  美名大夫
後に錦大夫 家大夫
至而器用之部





うりん  大和掾
類イなし 駒大夫
与兵へ  春大夫
宗左衛門 麓大夫
和介   音大夫
妙音之部
平兵へ  八重大夫
利介   越大夫
古手や  君大夫
流行せし部
久四郎  内匠大夫
ちくこ坐 三根大夫
先の   君大夫
松之介  河内大夫
かつらの部


錦武   錦大夫
幸介   千賀大夫
佐吉   此大夫
源蔵   志賀大夫
源蔵   桐大夫
蘭者待*  組大夫
功者部
六ツメ  加賀大夫
理介   絹大夫
後に若大夫 和佐大夫
天清   氏大夫
藤左衛門 駒大夫
京ノ理介 錦大夫
声よしの部
あふらや 筆大夫
此村や  紋大夫
手取の*部
     菊大夫
四郎兵へ 文字大夫
かんしやく 祖和大夫
後に重大夫 鷲大夫
吉兵へ  三輪大夫
十大郎  時大夫
先に加大夫 崎大夫
たっしゃ之部
ざこば高弟 土佐大夫
兵介    友大夫
後に村大夫 八義大夫
事知り之部
     出雲大夫
かうじ丁 友大夫
ざこぱ弟子 喜大夫
土ばし藤七 袖大夫
たいくつ組
伝法や  染大夫
ひらか  綱大夫
業知り之部
庄二郎  百合大夫
忠三郎  佐渡大夫
ヤツコ藤兵へ 倉大夫
左官   長門大夫
後にいせ大夫 佐賀大夫
本郷   越後大夫
けれん組






角力取組之中より十三品之評判〳〵
 
高名之大夫衆中を町〳〵評判の聞書
一 其頃義大夫の日本一と聞えし大和掾事第一器用なる人にて筆道にも達せられ其外歌俳諧義大夫は四番目の芸と聞及ぶ受領せられし誉れと云第一音声高く声大和と仇名を取られし人おしい哉江戸へ下られしは老年ゆへ音声も噂に聞しより衰へ看板斗大そふであれが江戸中へなびかせし春大夫の師匠とはとんだ茶釜の屋*かんあたまとむちゃくちゃ手合の評判に藤原の何とやら百人一首で見たよふな名だから定めし上手でおもしろかろうと聞てみ*たら誠に感心またぐらへ首を突込ンでぐつと寝入たあれよりは雷蔵が助六にすれば能ったと目くら千人目明キ千人音曲にたづさはる人々は本とふに感心して門徒宗がおふみさまを聴聞するよふに頭を下ケて聞た人も有り素人の先生といゝし松主氏は此時に大和の門人と成られし元は平右衛門嶋大夫の弟子也程なく大和名残にて上方へのぼられし孔子も時に合ず
 
一 座古場十兵衛先生二代目政大夫事筑後一座之惣巻軸前書にいふごとく操芝居へ夜之明ぬ内から挑燈で見物が来ると云事前代未聞の大手柄挑燈*多く有中に丸に木爪の紋所が一番沢山に有たは○印をもつかふにのせて仕切場へ持込とのけんとく也孔明をやられし西の芝居の大入は古今無類の大評ばん姫小松の物語薄雪のはら切千本桜のすしやと狐いづれも大出来見物皆〳〵感心して咳をせくものなかりし也程なく八月よりは惣名残赤松の祈の場で山伏の見物もきもを潰し今度から大峯へ政大夫どのを先ン達ツに頼たいと云くらひ染分手綱の訴訟から舞のあんばいと腹切のうれい又そしよふの場で与惣兵へ定之進に逢ふて縁とはあいやけどしの其矢声向ふの茶屋迄聞えしゆへ茶屋の女房客人江あれ政大夫場サアお早ふおそいと酒を呑すぞへと即席しやれも銭もふけこんな芝居が唐にもあろか二月中比病気之節姫小の赦免状をば弟子住大夫江譲りと成夫より後は住大夫之役場となり住大夫大出来也三味線は大西藤蔵鬼に鉄棒といふ事は政大夫と藤蔵から始りしか物しりに聞べし
 
一 駒大夫元は伊勢海道之人やらん越前掾の弟子也段々評判よろしく本座で二の切語りとなられ夫より肥前座*へ座元の縁にて都合三度下られしが三度ながら大当り其中でも時頼記*の三ノ*切信仰記三ノ口四の切紅梅箙の三ノ切泉式部の三ノ切其外数多有べし三味線は鶴沢名八なり弾かたたぐひなし駒大夫の調子表六本のてふしにて上はどこ迄も頓着なし其上にドスがきゝ無類の妙音声の一ばんは駒大夫二がなく三が大和掾四もなく五が春麓音太で有ふか扨駒大夫大暑之砌芝居休の時御大名様方又は町人大店向より座敷申来り候節も有難き仕合には存候へども我等之浄瑠理は芝居座*元へ売切置候御贔屓の御方様方は何卒〳〵芝居へ御来駕奉願候御座敷之儀は御免下さるべしと申切られ此気性斗でも誠に無類の稀もの〳〵
 
一 錦大夫は錦武とて拍手*きゝちやりの名人成しが音声少し鼻へかゝりければ薄雪の鍛冶屋と楠のどんぶりこは外には真似する人有まじわしが浄留りはお江戸の衆へはむかぬわゐな古郷へは錦大夫じやは*らば〳〵と五月切に登らるゝ本財木丁五町め酒屋の縁家ゆへぜひ〳〵と留られけれど大坂の芝居も此節無人なれば御暇申と木を切て投出した気性〳〵
 
一 鐘大夫肥前座へ下り目見江が東鑑の元服夫より桜丸はら切其次がひらかなの妻乞ふ大経師の玉が宿名残が鉢の木一方の大将なれども老年ゆへ評判薄く残念〳〵
 
一 大和掾門人幸助千賀大夫是も都合三度下られし其中にも桂川の帯屋あしやの子別れ物狂ひ菊酒屋も評ばんよろしく三度目は中の芝居へ下らるゝと看板斗出しが結城座にて先代萩新浄るり出来て評判宜敷時三味線引両三人名残り狂言時頼記雪のだん此評判大てい〳〵
 
一 舛*大夫是は肥前座の大黒柱いつでも三の切がお定り益〳〵評ばんよく後に丹後掾と受領して舛*の一字を芝のお伝へ譲らるゝ肥前座での大達もの〳〵
 
一 ざこば高弟土佐大夫浄留理一道におゐては古今の事知りにて随分誉人も沢山なれど何をいふも小音にてさして評もなし
 
一 春大夫事宝暦十三未ノ春綱大夫三味線引竹澤*勝次郎鷲大夫など同道にて伊勢大夫芝居へ初下り春より九月末まで当テ通し十月名残に道風の四段目掛合にて役割は前書之通舞台の上迄人の山アレが本の正じんの物を生で見せた土佐其次キの下りが忠臣講訳十太郎場水の出花でぞつとさせ又書置では目をはらさせ女中見物は積をおこし其後下りが妹背山子供も知った大当り駒大夫春大夫両人の様に来る度ひどくあてられては屋根や左官の大当り其頃のはやり歌に
  春さん駒さん中の芝居さんおかげでぬけた土佐
春大夫を見物が与兵衞*大明神さまとほめしが此大明神など*の誉始り也扨またお染の質見世高いもひくいも皆一よふに嬉しがりよだれを流して聞も有り久作と母親の意見の泪*と見物のよろこび泪*で切落しはだふ〳〵と大当り〳〵
 
一 此大夫は左吉とて大坂の小間物屋成しが浄留り執心にて末〳〵受領もするよふな大夫にも成たしと始は西之宮辺の小芝居へ出られ近国より四国九州迄も修行し又大坂へ帰り幸ひと東座へ世話れん中取持にて時大夫と名付出勤有益々評ばんよく其後筑前の元の名を譲られ二代目此大夫と改メ其後肥前座へ下り師匠筑前の語られたる忠臣蔵九だんめ双蝶々引窓泉式部の三ノ中口切が駒大夫にて両人とも評判よく語らるゝ内に二三度づ*つ見物がちりけ元からそっとするといふは此両人の浄留り也後世思ひ出しまする〳〵
 
一 友大夫兵介此人年功之上に浄留理至て人がら能前年伊勢大夫座にて忠臣蔵九だんめ中大夫と掛合由良之介役大当り其外何を語られても不評なる事なし此人の弟子に鑓屋町辺に狩野大夫も評ばんよく古人と成られ又塩留の船宿にて村田屋藤兵へといふ人後にかな大夫と成是も弟子成しが古人となる然るに師匠友大夫事長寿せられ近年迄も評ばん有り九十余歳と聞へし珍重〳〵
 
一 染大夫事大坂伝法の住人にて木綿商内などせられて此大夫と同道にて旅へ出られ段々執行して筑後座へ出勤其節小野道風始て出来役場が三ノ中額彫大当り夫より引続て評判よく程経て江戸江下り中の芝居にて筑後一座惣中下りて古今大入之時也其時染大夫役は姫小ノまた火場千本の四の中名残は大塔宮ノ陣大鼓*恋女房の十段目にて式台の段箱へ爰をくり上け素人請ことの外に評ばんよく其後肥前座へ下られしがぶつ附ケ三の切にて前年の語り口とは違ひ見物之請ケもおもひの外不評ばん染大夫よりは土産につれて来た百合大夫がよひとの評判其時の浄留理が妹背山本床はお定り染大夫にて向ふが百合大夫也竹に雀と両場ながら大当り染大夫口惜しくおもひ出し物が薄雪の三と大塔宮の三也楽屋請感心す又見物にも此道に委しき人は耳を澄してきけどかんじんの金でも遣ふといふ様な見物衆の請よろしからず是非なく浪花へ上られしか又程過て中之芝居へ下られし其時の同道が筆大夫成しが又候佐助になげられたり尤ずつと前に下りし時は上に二三枚もひかへて居るゆへ端場を語られ評判よかりしが其後下られし節は三の切役廻り若輩成語り口ならすと彼是と工夫し語られけれとも迚も埓明まじと思ひ切五月切に登らるゝ積り名残として何がよかろふ江戸の聞人は耳がないハテ団十郎のくせはツガもねへ耳がないから塚もない耳と塚は京の大仏じゃ早ふのぼつて参詣するじやハイお江戸の衆に大仏さん見せたい耳はなふても目が有から驚かするじゃ有ふ何云*たとてあかん事なれど音曲冥加之為じや是なと語てこまそふと名残の浄瑠*理として冥加松出語にせられしが成程上手じやと云た斗入ハ大躰*也其前の狂言は忠臣蔵にて七段目の掛合残らす出語也此時安永五年申ノ春芝居也
  平右衛門  染大夫 菖蒲草*の上下にて布子も同断
  九大夫   崎大夫 柿の上下に大崎之小袖 先に加大夫といゝし
  おかる   和佐大夫 緋の麻の葉鹿の子の上下小袖にかんざしを差て
  由良介   筆大夫 黒羽二重の小袖羽織にて
右いづれも立派*なり尤評判大てい也染大夫事是が三度目の下りにて最初下りよりは十三年め也其時之評判にわしやいぬから跡で何なと勝手な事を城木屋〳〵
 
一 岡大夫又兵衛と云諸人岡又〳〵と云也此人くり上ヶの上手にて小手きゝなり床にて語る時は両方の耳たぶを引はつて語るが癖也当り浄留り数多有中にも祇園女御の二ノ口と四段目京羽二重の力屋取わけて累物語の七ツ目今ても素人の古ひ人は出しまする後年迄捨らぬよふに語り置が上手也其上ちゃりの名人ひらがなの笹引の憂ひくり上げ又どすのきく事妙也はたごやにて権四郎のおかしさ見物余りおかしさにへそをかゝへはらをかゝへ幾度も〳〵へそが茶をわかしたゆへ岡又へそじゃといふわいなア
 
一 紋大夫藤兵衛古戦場之時下られ三の切忠臣蔵にて四段め十段めとも評判大てい銀座弐町目の東側に居られし也明ル午の夏芝居仙台江*行古人と成られしと聞サテ気の毒ナ紋太
 
一 十七大夫此人大妙音にて十七才にて三ノ切をかたれしより十七大夫と云也江戸江下り蛭小嶋*の三ノ切其外の評判もなき内登らるゝとはおしい〳〵
 
一 中大夫藤本理兵衞後に三代目政大夫と成ル近来迄長寿有し塩町の親父是也始て土佐座へ下られ古戦場源蔵はら切大当り江戸中大評判にて中〳〵と中〳〵おしわけられぬ大入也二ノ替りが例の九段め大当り其後菅原ノ二之切り四ノ口紙治の茶屋千本の狐篠原の百万遍楠の端午の段鬼一之菊畑其外数〳〵の大当り第一声がらと云上品なる語り口位ひ事よし地合節のこまかき事三ケ津の稀人也其時にあらされば受領もあらず残念也誠に何一ツとして抜ケ目のなき人どふした事か政大夫にも似寄ぬ寄せ浄留りへ出られし事操芝居の衰微也定めて何ぞ訳もあらんが情なき評判は城木屋を語られし時是は筆大夫古今大当りの場也夫を語られし時ソリヤ聞へません政太さんお前と筆太の其段違ひはきのふや京大坂での事かいなアとの評執取られし事筆大夫大当り手柄致されし場也たとへ城木やで政大夫評判よき迚手柄にも成まじ是は大かた武助殿ノ頼まてぜひなく語られし物か第一自身舞台にて長口上いはれし事又出語り勤ながら棧敷土間の見物を見積るが此人の得手物是年功と業の叶ひし余りと申せし政大夫実の弟播广*屋治兵衛と申人備前岡山栄町にて生薬や生花茶道に達せし人との事いづれおろかはなからんが長寿の内には少しは不評も有物也近来江戸の大稀もの高麗屋の親父でも老年にしたがひ人も嬉しがらず此塩町先生はもちっと生カして聞タかった何はとも有れ中古の稀人浄留理の花が散たよふじゃぞ今一度聞たい親父さん〳〵
 
一 此道にて老年迄芝居へ出勤せられし分爰にしるす
越前少掾  春大夫 塩町政大夫 麓大夫
      友大夫   住大夫 重大夫
 
一 美名大夫下られし時相生源氏三段目評判よく第一きよふなる語り口声がらよろしく素人請殊の外宜敷末頼母敷おもひし所役もめが出来しやら半度に登られしはおしい〳〵
 
一 麓大夫先に下られし時は和田合戦二の切評判よく其後下りは十六七年間有て中の芝居へ下られし時住大夫音大夫なども同座也目見江浄るりが鎌倉三代記七ツ目出語にて男振は四代目団十郎に其儘だが浄るりの語り口笛を吹よふだと悪評也其次キさま〳〵と取替出さるゝといへども評判わるく住大夫のよふに生根があればよいが聞くらべては三ノ切語りはどふでも住大夫麓は四の切物だ大切では大将と呼ぶ人でも有ふが是が麓なれは重畳迄も余程間が有ふ早く登るがよかろふ*五月切〳〵
 
一 住大夫田中文蔵とて住吉之丸屋が親元也宝暦十四申ノ春堺町中の芝居へ大坂筑後一座残らず其時姫小松三ノ四千本桜渡海屋と評ばんよし姫小のぱら〳〵は政大夫の代役大当りすぐに本役と成其後一座名残之十日替り冨士見身売場袖をしほらせ長吉殺しの憂ひで鉢巻の手掛で泪*をふかせ酒買でおじやつたかの詞は諸見物一同に感心〳〵三度目が薄雪の鍛治屋場鶴澤文蔵の三味線にて大当り其後明和半バに下られ矢口新浄留り三四とも大当り次が糸桜の四ツめかゞ見山七ツめ花上野志渡寺忠臣蔵四段目つゞれの土手場いづれも評判よく扨又天明三の頃大坂筑後座再興に付住大夫上坂が十三年目也江戸土産旧錦絵と名題の看板かゝみ山七ツ目大坂に近来めづらしき大入其次が矢口渡益〳〵大当り今にも抜本にて御存じ住大夫大手柄なり同五巳年に江戸中の芝居へ下られ小栗の毒酒三味線野澤八兵へ人形は文吾藤九郎大入也寛政元酉年大坂より度々状通にて登られ出勤間もなく病気にて久々相休み程なく江戸へ下り紅梅箙三段目大当り其夏休之内牛込辺の茶屋両人来りて芝居休中寄せ浄留理に頼度と前金持参ニ而達て相頼けれは住大夫申けるは大暑之砌態々御出被下候段いか斗有がたしと種々馳走を出し御贔屓と有て千万祝至私身に取て面目に候得ども是迄も度々外様より御すゝめござ候へ共御府内にて芝居の外御座敷は格別寄世*場浄るり決して御断申上候と今*子も其儘帰しけると其時稽古に居合しれん中物語也一体気性大よふにてこせ付ず御大家様がた御贔屓被遊芝居休中は毎度御召被遊有がたき仕合也と自身も不断咄されし浄るり語り口も気性のごとく大ようなり石町の親玉〳〵
 
一 志賀大夫源蔵是も筑後一座にて下られ姫小松序切其後名残之節出勤なければ跡に残り肥前掾座にて和田合戦三ノ切大入也其時之二ノ切麓大夫四ノ切駒大夫也其後川中嶋*三ノ切よろしく一躰*此志賀大夫は上手名人の有中でも浄留りの虫と迄云れし人なれども持病有て度々不勤也其後十七八年振にて又〳〵結城座へ下られ国性爺紅流し大出来〳〵おすわの身替りも大当り其後京都にて木津忠おすわを語られしか塩町によく移りました大坂には素人で上手が多くぬし彦福市水長などゝ数多あれど追込んでは医者殿でもこまりもの此志賀大夫も持病がなくば遖の大将ならんおし日*事〳〵
 
一 音大夫和介宝暦十二午ノ春下り那須の与市三ノ切評判よく其次ギか妹背のあづまからげと云新浄るり其後亀山染之八ツ目大当り扨また格別之出来は時頼記の雪は昔の先生に越前掾はいざしらず是迄も名高ひ大夫も語られしが音大夫のは別段で今にも雪が降よふだ茶屋の男に手あぶりを持て来い帰りは鮟鱇の味噌ずか湯豆腐にしてほしいと見物か望むも尤いづれ其頃は音大夫斗にも限らず二の切から上ノ大夫は皆夫〳〵に妙か有たと申也
 
一 桐大夫信仰記の迷ひ子感心組大夫蘭奢待の三妹背山向ふ床評判よし
 
一 家大夫東からげ中之巻評判よし錦大夫と改名直に登らるゝ此三人の大夫評判も宜しかりしが馴染贔屓もなき内帰られし
 
一 綱大夫ひら嘉とて手取の業物近江源氏新浄留りの時染大夫と威勢あらそひ役もめも有しと承る扨下られしは宝暦十三未ノ春安達原四ノ中其外色々の中にてひらかなの三ノ中は格別よくあんな茶呑ミが宇治にも有かと打寄と年寄衆中が茶呑咄し綱大夫の茶呑〳〵ともてはやすひら嘉はじめし霊地とかや
 
一 伊勢大夫寿楽昔下られしは寛延三四の頃春芝居布引滝三の切大当り夫より直に座元となられ時に取ての大鳥物也時と鳥と重ねる読声時鳥の八千八声伊勢大夫の矢声は毎度とも数がしれず伊勢だから大方一万度ぐらひで有ふか其年二月六日の類焼に大夫其外一同におはらひがなかりしと聞しが伊勢の大夫におはらひとくじらひぢきのないは御贔屓御連中様がた何ぼ伊勢子正直と申迚も此申ひらきの出来るまでお江戸を例の矢声しておいらん国へ隠居〳〵
 
一 君大夫下り明和半バ亀山染八ツ目語られしが四五日立と登らるゝ
 
一 和佐大夫幾竹屋庄蔵明和之末下られ三勝の書置おそのゝ出をハリぶしにてサワリを江戸風に語られ第一声がらよろしく弓勢の二ノ切小田館七ツ目次が八百屋の献立其後先代萩御殿三味線床次郎にて大当り其前に嶋*大夫と改名間もなく若大夫と成てさて此幾竹やは何と庄蔵と心通ぜしか芝口初*台*といふ水茶屋へ吉兵へ三輪太を口語にして夜分出勤せられしが始り芝居で二の切位之大夫が寄世*へ出らるゝと云事昔よりなかりし此幾竹屋が始り也其後より寄せ場数多出来操座の大けんぴき大夫の代りに按摩へ抱へ三味線の代りに手引を頼み迚もの事気を揉療治の看板を出し名題はかた気打寄人の輩と云夫に付ても住大夫宮戸の両人斗寄世*といふは出られなんだがそんな事はよせと云やしたサア〳〵夫よりはこちの紋太はどふじや〳〵イヤ〳〵油屋をなぜ出さぬ但しは結びに出す気かしやれて居ずと待て居る天満屋はどふでヱス〳〵東西〳〵天満此村幾竹油屋此四人はいづれあやめと杜若其内にも若大夫と申名が東座での親玉株しかも平右衞門先生とは縁者と云当時音声大丈夫なり三四と両場勤られてもいたむ気遣ひがなしきれへでうれいもよくきく也コレデワコトヤンマを指し給はば四人の中での親玉尾張俵と同じ事入が有て遣ひでが御座り升サア〳〵跡は〳〵
 
一 紋大夫此むらや次兵へ上総掾から三代目安永七戌ノ春肥前座へ下られ目見へ菅原三ノ切茶せん酒より切迄此評判大躰*成しが其後中の芝居で白石の五ツ目と七ツ目*ヲヽホヽでどつと嬉がらせサハリから惣六の異見迄近来稀成大評判其時之隣芝居は大夫揃ひ住筆氏内匠と*下り伊大夫なれとも紋大にひしぎ付ケられて春より五月節句迄名題看板が五度替りしと云さて其次が累の土橋花上野品川いづれも評判よかりし其後結城座にては女護島二の切も至極よろしく尾張へ下られしが彼地にて屋張此世の名古屋にておしき紋太〳〵
 
一 氏大夫天満屋清五郎安永五申ノ春肥前座へ下られ夏祭り焼かね評ばんよく其次が忠臣蔵九だんめ大てい其次が高野山近年稀成大評ばん参詣群集して棧敷も土間も居所なく女人禁制の高山だけ床のうしろには本を持てよい節づけを取盛の娘がのぼれば其上へと若ひ男がのぼるゆへ御山がけがれ打出しの大鼓*の音を震動雷電かと思れて今顔をふいた紙屋の宿をさがすやらいたはしや石どふ丸と子供にはぐれたかゝ*さまはわたしも〳〵アレわしもとどや〳〵出る其姿は女護の嶋*へ歌舞妓役者が吹流されし如く也それはしやれじゃか其跡が女護の島二ノ切又々大入にて冬の事と云ながら春にも増りし操芝居の大当り春太のお縫と筆大夫お駒此氏大夫の御山は古今無類の三幅対扨また迎駕籠で小梅のうら声ソリヤマアなぜにやは平右衛門先生の通り外にまねする人はなし其次伊達競七ツ目大鳥村などは常体の評也名残が蘭奢待四段め二度目の下りがかしく新屋敷成しが其五月是も古人と成おしい〳〵
 
一 筆大夫 油屋佐介安永二巳年下り亀山染九ツ目評判よし其時は何だかおつに引ぱる大夫だと評する間もなふ登られましたが二度目の下りが同四年未の春染大夫と一所に中の芝居江下り源七丈は五月切に登り其跡八月頃迄休み漸々と八月中頃恋娘昔八丈新浄るり出筆大夫城木屋にて中の芝居の大入は矢口此かたの評ばん明ル申ノ五月迄年を越しての大当りなり其昔国性爺時頼記など三年越に致せしとあれと其比は作者は近松門左衛門大夫は受領の名人達三味線は喜八友次郎などゝ稀人のより合此お駒は油屋壱人和佐大夫有といへども一向にさたもなくそこでも爰でも才三さんと江戸中は申におよばず近国在々浦〳〵迄ソリヤ聞へませぬが流行して其時分には聾の事をも才三さん又お駒染お駒飴抜キ本の出来ぬ内に中山佐七と云かし本や床本をかりて其夜の内に写し夫を早束抜本とし紙数十五枚を壱匁宛に売出し銭設けせしと其後は本町育小石川の名古屋帯伊達くらべの羽生村ひよく塚花川戸塩飽七嶋*三の口いづれも無類の大当り其後筆大夫花会之節は昔より見聞もせざりし集り高黄金の山の大会成し所々に花会有しかども油屋程のはなかりし也前年今のかゞ屋歌右衛門大坂登り賤別も近来めづらしき事実や*お江戸の花くらべとても他国に真似も成まじ今でも油屋のよふな出物があらば操芝居も繁昌すべしと噂も手向の心ざし枯たる木にも花川戸累〳〵の大入は昔小石川ないかひなひい*きれん中芝居迄小糸いふたとてどふしてアノ世ヘソリヤ聞へませぬこふなはれ〳〵仏檀へ油屋をついで外の事は岩附町たゝ手を合せて佐助たまへ〳〵
弘法も筆のあやまり筆大夫
  一生の内是は筆かし
筆はなくとも爪先キを筆の替り
  是は親駒大夫に留まりし
 
おこま 菊之丞  六郎右衛門 仲蔵
オ三郎 三五郎  庄兵へ女房 金作
丈八  友右衛門 城木屋庄兵へ 団蔵
中村座二而此狂言大当り也
 
一 絹大夫理介明和七年に下られ矢口渡二の切と四の中大出来で其後七段目のかけ合平右衛門評判よろしく
 
一 内匠大夫久四郎安永五年申ノ春中之芝居へ下られ目見江に小野道風法輪場三味線野澤藤三郎にて評判よく其次本町育屋敷のだん妹背山にて万才と山の本床大出来にて夫より肥前座へ出勤にて現在鱗鐘入を名残として登られけるが又寛政七卯年土佐座へ下り博多小女郎評判よく其後名残に
      重忠  政大夫 近年之大入 外に名残として夕ぎり 内匠大夫
 三曲掛合 あこや 内匠大夫
      岩永  住大夫    三味せん清七
 
一 加賀大夫明和二酉年肥前座へ下り能声じゃとの評判成しが忠臣蔵六ツ目のはら切が此世の名残床の内にて古人となる 近年の与兵へ組大夫も八月十二日糀町寄世浄るりが名残也
 
一 八重大夫平兵へ安永九子ノ春中の芝居へ下り恋飛脚新口むら流行しました此名白石では紋大夫場五ツ団七ツめ是又大当り其後天明二ノ春同座へ下り此時おしゅん伝兵へ猿廻し又大当り三味線は二度ながら塩河岸なり勿論此時住大夫かゝ見山大当り二度ながら拍子の能時に下り合せて八重にもふけて登られ八重〳〵仕合のよい人夫といふも平兵への心掛がよいから〳〵
 
一 八義大夫中村源治郎後に村大夫宝暦十辰年下り五厂*金呉服屋評判よし未年上方へ登らるゝ其前方は大坂にて筆墨商内をせられしが佐吉源七と三人連にて思ひ立西の宮より四国九州辺迄も執行して大坂より江戸へ下り当流大出来にて又扇の富士かるかや三の中毎日〳〵じゃ〳〵が出て三の切の迷惑もの夫より矢口三の中と道行とも評判よく高野山でも評判よく塩河岸の和七先生か此源治郎殿は何を語られてもちつと長ひと申せとも声がよくて遣ひ廻しが上手也
 
一 二代目駒大夫藤右衛門先ン駒大夫実子也前々より親の名を実子で継といふ大夫は江戸で三平ラ安右衛門及大坂では道嶋*贔屓之仏檀今は加賀大夫昔より今に至る迄江戸と難波でたった三人其一人を親に持たる駒大夫三度目の下りはお妻八郎兵へに当付られ口惜しや残念や駒ッ太事じゃと贔屓れん中悔ムを聞に大坂で我等が付添居るならば仕様もよふも有べきと三味線名八が手をさすりくやしがるのも尤也其前方生駒を改駒大夫と親の名で中の芝居へ下られ琴責出語り三味線名八とも両人大当りなり其時の立浄る理が忠臣蔵七段目かけ合が平右衛門紋大夫おかる駒大夫由良の介住大夫此中にておかる大当りなり九段目駒大夫役場成しが類焼にて山科出ず残念〳〵
 
一 越大夫理介安永の末に下られ差たる料理あんばいもなかりし所阿波の鳴門を越太ル鯛が三味線のまなばしで料理直して見物へ出しけれは岸打波を越大夫順礼はうまひ物じやと大評ばん夫から段々繁昌して其後ゑな十下られて理介主の暮し方に恐れ入しと也鳴門の文句はでつちの長吉が三吉に馬追させ高野山へ尋て行といふあんばい其後土佐座へ下られし時浄留りが今一段此前よりは越太〳〵との評判なりコレナ申わたしやアノナ京都から来て駿河丁に此頃滞留してナ今上京するがこちの理介さんはなぜ出さぬぞへ此寒ひに跡へも先へも行れぬハイ評者御尤でござり升是より十八町ほどあなたに山本と申てよい茶屋がアヽコレしやれずと贔屓の冨ン床*ぼたい先キへ唱て下されとふじや〳〵
 
一 先お静に成され升さて百合大夫富田屋庄次郎染大夫殿と同道にて肥前座へ始て下られ染大夫とかけ合向ふ床評判よく竹に雀の語り口殊之外素人請よく是が誠に百合こぼれるとの大入又国性爺三ノ口もよく其後取分て恋娘の鈴ヶ森見物が嬉しがり涙をこぼす涙僑冨*ン田大当り〳〵
 
一 錦大夫利介是は三代目京織錦なり寛政四子年中の芝居へ下られ目見江が時頼記雪のだん君太の古手屋と引張て語分*れ両方とも大当り男ふりと行義のよさ古手物より京織之錦しかし其後ちよぼで出語をせられしはこりやもしどふでアリンス国唐の錦かしらねども京がさめた〳〵
 
一 出雲大夫友大夫両人喜大夫袖大夫四人とも古兵なれども気がよわ物の追込中間聞人あくびまじくらで笑われもせず泣もせす沖にたゞよふ船のごとく山がみへぬ〳〵
 
一 二代め君大夫駒大夫と同道で肥前座へ下られ人もしらぬ大夫じやとおもふし所三味線は八兵衛で古手屋の大当り古着之中から渡りもの掘出し物と江戸中で近来稀成評判にて中頃は駒太よりも乗越して君太贔屓は嬉しがりイヽ君太〳〵
 
一 時大夫十太郎是は寛政のはじめ二度目の下り肥前座にて妹背の門松質見世の段大出来にて三味線は藤三郎当座之内しつかりもふけて定めしよろ昆布屋〳〵
 
一 菊大夫肥前座にてひらかな勘当場大出来国大夫中之芝居にて隅田川三の切請よろしくどふした事やら夫切に不勤也
 
一 須广*大夫いつも肥前で評判よく伊佐大夫もひぜん〳〵と評ばんよし
 
一 川内大夫高松屋松之助京の糸店もすてゝ浄留り執心にて西国江行右柳軒と改夫より江戸江下られ川内大夫と名乗り土佐座の目見へ金兵衛家大夫座元にてはで姿縁切場第一声がら美しく女の見物嬉しがり素人請の大評判其後累物語七ツめクリ上ケ岡又はだしと云評ばん今度も道行それ道行夕ぎりよし田屋声よし田屋江戸の道具ともてはやし殿様などゝ仇名を付ケ後々遊湖斎と改名し十軒店に扇屋をひらひて柳屋になびき柳よ〳〵直ぐ成柳屋の主じとなられ京ては帰りを松之助江戸出生の娘をは京へのぼして古郷と江戸との縁を組糸や〳〵
 
一 佐渡大夫忠三郎千賀大夫之世*話にて中の芝居が初舞台目見へ浄留り艶姿縁切大出来〳〵其後花襷の八ツ目に由良の湊三ノ口其外評ばん大てい〳〵どふでも雪国越後のはて佐渡寒かろふ忠三さん
 
一 佐賀大夫とて肥前座へ出勤其前は山下町新道にて芳大夫とて森田座へちよほに出られ其後佐賀大夫と改又伊勢大夫と名乗り伊勢の御師の仮宿多き古*内町辺へ住居を定られ弟子数多取られけるが其内に女の弟子に伊勢喜などと*云上手も出来て益々流行致さるゝ元より伊勢大夫けれん上手にて素人請能き大夫なれは帳元吉兵衛殿も随分引立遣はれけり程過て松主と一組にて所々の寄世*浄留り江も出られける其前にかゞ見山草履打此人一代当りはじめの終り也
 
一 文字大夫四郎兵へ中の座へ下られ目見へが寿門松新町也随分上手に語られしが何をいふにもかんじんの吾妻の色気が薄ひとの評判後組大夫と改め次第に評判よく一躰*が語り口こまかに実性成大鳥ばた三の切は大丈夫と見物楽しみ居る内に古人とはおしい〳〵
 
一 三根大夫かんたんの評判よし崎大夫鎌倉山のちやり評よし
 
一 鷲大夫弥兵へ宝暦十三年春大夫同道にて下り七大夫と成り又重大夫と改名此人宗玄の庵室は評よし七大夫名をかつら師十次郎へ譲らるゝ筑地の原鉄は此人の弟子也
 
一 祖和大夫是は大疳癩持ゆへ角力へは入れずといへども浄瑠理達者成事妙也去ながら門弟と度々あらそひし事夫故に京橋大根がしを始メ所々へ住居をかへるがくせなりなれども市次郎が弟子の喜太郎程ではなし先代萩にてあてられし若大夫は元祖和太が弟*じゃげな何はともあれ古狸鷲太祖和太は兵物〳〵
 
一 奴倉大夫藤兵衛三輪大夫左兵衛両人とも肥前座へ始ての下り倉大夫娘景清三ノ口三輪大夫山姥しやへり日増〳〵に評判よく二の切は今の間と思ふ内古人と成残念〳〵
 
一 三代め長門大夫左官也ひらがな笹引大てい其後も評なし越後大夫本郷辺也此人けれんいつわりなし結城座妹背山之折筆大夫の代役酒屋を語られし其功によって爰に記す
  左の両人之衆は角力取組になき江戸の花か
 
一 先ン頼母大夫其後祖大夫平松町結城の座元の時が初舞台也目見へが鬼一の二ノ切歟*座元も堀出し物と悦び夫より日増に評判よし時々ちょほに出られし事不印也其比は青*木町辺にも居られし噂第一が器用にて誰が場を語られても扨〳〵うまひ物にて取り分て矢口の三ノ切身替り音頭大出来〳〵芝の八郎を祖大夫を譲り自身住大夫と改名有しは文句の頼まれしか但しは先生手の有人にて足の八本ある名所の御贔屓れん中のおせ話成しか親玉株に成られし事は珍重〳〵しかし住大夫に成ての寄せは不出来也
 
一 宮戸大夫実のなる木は花からしれると七才の時より七ナ大夫とて古人新大夫の座へ出勤し十八九歳之時は座元新大夫となり若年より此道に心を尽されし程有て諸人の耳へも通じ伝法屋と此むらやがよく移り次第〳〵に評判よく其後文化四卯十月理兵へ政大夫京都泉式部津川座へ出勤之節度々書状を以て宮戸大夫を招るゝに付其年より京都へ登り先目見江が信仰記の二の切是はさのみ評判もなかりしが次第に気請よろしく去春の芝居は菅原伝授三の切宮戸大夫四の切か江戸登り土佐大夫との役割也宮戸どの大坂で三の切ならは先義大夫での大関成り生が江戸ツ子なればなまりがあろふヲケイヤイ〳〵東マの大根どなひ物じやとわめく人なく耳を澄して聞けるは江戸者が大坂江行評判よく久々住居し弟子多く出来しと云事は和藤内が唐へ渡て唐人を野郎にしたと同じ事宮戸大夫の本望江戸ツ子の花也昔よりあづまでよしを難波ではあしともいわず江戸桜が難波でひらく大当りは
玉川の水でさらして難波津の藍に染なす江戸ツ子紋がた
 
一 サテ土佐大夫播磨の大掾と江戸で受領の看板出しが大坂ではやつはり元の土佐大夫との番附なりコリヤそふ有そうな物じゃ軽々敷成ふ事なら政大夫などははるか前方にもならるへし受領と申は有がたくも内裏又は将軍様へ御召出さるゝ時は平服にて相成ざるゆへ烏帽子将束にて御庭上に手を突て無本にて景事を語り相勤と云夫を平人に聞すに何之受領が入べきか誠に麓をさし置峯へ登るよふな物大坂には親父達が沢山あればたとへあたまを播广*わされても大掾なひからおとなしくしてござれどふしても土佐節のほふが聞がよし当時の親玉〳〵
 
一 音曲と申内にも義大夫節は元大坂の生立なれは音声此国の*上越す事有べからすたとへ他国の人成共大坂で稽古すれば自然と聞よしされはとて大坂にも下手もあれば他国にても名人出ぬといふ事もなし近年の宮戸大夫芝桝*おでんこれらは江戸の稀物也内匠大夫も受領の出来ぬ事を弁へてや後に有鱗軒と云
 
 扨右名人上手あまたにて当り浄留りおほき中にて
○ 声和佐太しよふず紋太にふし筆太大将住太村太ことしり
 右五人の大夫いつれもおろかなかりし印し抜本の売れる事多し是流行と云なから今に替る事なし
 
 扱又御当地におひて抜本屋の始は大坂屋秀八西宮新六五行本をはじめたるは浅草かや丁岩戸屋源八成しが今は其板行大坂玉水源次郎に有新六行を始しは目白浜松屋と本材木丁壱丁め木戸際の大坂屋源八と両板也其後に多田屋理兵衛桧*物町中程たゞ利徳より筆工と彫に気を付給へ昔寛延之頃迄は抜本といふ物なし景事道行もの斗にて段物稽古之衆は皆丸本にて夫ゆへに教ゆる人も程*心成者には先ツ九本は置て抜本のあしかりやぬるまのみおしへ来りし也近頃は抜本自由にて忠臣蔵も十一段目迄より取見取御勝手次第習ふ人もむちゃくちゃ仲間初てつへんから妹背山いにしへもあんまり口元俊寛の嶋*物語実盛熊谷夫御座れ塩町の九段目がよかろふなどと*望れて師匠も太郎兵衛一ツ釜しよふ事なしの山しなも風雅でもなくしゃれて来てまだ文句さへよふ〳〵に読んどしから*んどし目くら仙人大仙人節も地合ものけて桜丸の念仏では大きに骨が折れた後藤の生酔でどふか一盃きめたく成た道具流しは手こずった白石の七ツ目で田舎ぞめきの調子がはづれ近年にない大うたせ商内にしよふではなしもふ今日は是切と糸目のきれたたこ連中やかんでうでた赤ツつら青く成り黒あせのかいた恥をも恥とせず千枚ばりの出語り素人上下モ見臺鼻付も高く留つた床の中東西〳〵
 
 遊芸音曲といふ内にも義大夫丸一ツ冊の忠孝善悪五常の教へ下モ〳〵渡世に暇なく中〳〵学文およびもよらず此一冊に心を付て読物ならば大学論語のひらがな本と正徳之頃より御免有て正本之奥書へ年号を起ス事とはなりぬ其ことはりも作者のはらも弁へずうなりわめけば浄るりとこけおどしの仙人が今は万人にも過ぬべし雲に乗って下を見れば方図がなひとは市太郎先生の名言也去年両国近辺に江戸中素人浄留理といふ看板を出し壱人前御茶代廿八銅と也じよふだんかひょうたんかとぶら〳〵足を留て見れば内に聞人は八九人高料がクツ〳〵と笑ひしのんで帰りし也前々は素人にては江戸一人と云れし松主先生鯉徳に四郎兵へ組大夫などゝ此衆之内両人出勤せられて座料三拾六銅宛尤此時の高料と申其頃大坂之福市谷三両人とも松主には手を置て帰られし其又昔は講釈夜浄留とも座料六銅ヅゝと也昔の質素おもひやるべし講師は成田寿仙真田魚淵馬谷なんどなり浄るりは時大夫奥大夫樽大夫其外いづれも右に順じ下直成事夫に何ぞや今時は銘々家業も有つらんに職分にせらる大夫衆の手前も有ぞ江戸中素人浄留理とは他国へ聞江ても江戸の恥たしなみ成れ連中さんイヤそもじこそ今時の人気もしらぬ昔人団十郎も所作て当るヤボ〳〵
 
江戸古き素人衆職衆 次第不同
水茂
金曲
津源
香林
権蔵
出嶋*
志間
夕樹
八義
十竜*
三乙
住竹
三平
中井
表具
花甲
民谷




和流
石久
子々
むら八
山手
村半
和水
八調
山半
亀平
岩平
文丁
のろ
上嘉
文里
油太
飴清
花実
やつこ


大源
天忠
サ夕
鹿遊
住藤
亀鶴
住幸
閑平
真木
土橋
厳下
丸藤
可迪
路考
紫文*
鎌八
十十
近江
鑓銕
切吉
久屋
竹賀
文秀
三姉
源庄
アハ 流右衛門
 
三味線
座へ不出
小太郎
二橋
猪八
米忠
ぬか万
千里
ぬし八
庄九郎
目亀
竹藤
是は小三太力


山巳之  新肴丁
村藤   汐留船宿
道宗   ぞうりとも云
香蝶   もぐさや
久間   中橋左官
以手紙  舞師
烟艸   築地
弥太郎  元ト三弦引
小四郎  よしずや
長工   神田
道幸   芝ノ道具や
壼小   そばや
糸重   かづらし
舛*嘉   鼻紙袋や
呉竹*   元すきや丁
ヤツユ  八丁ぼり





房太夫  親駒*大夫代り勤られし
加奈大夫 兵介友大夫の弟子
織大夫  肥前掾弟子
利久大夫 房州の住人
年大夫  弥左衛門丁 名次郎吉
枝大夫  内匠弟子 北さや丁
弦大夫  後に筆太夫と名乗られし浄るり古今の上手也
ひれ大夫 此むらや弟子
三根大夫 住大夫の弟子
すり大夫 紋大夫の弟子
直大夫  新宿二而新内ぶしと成
七大夫  重大夫の弟子
升大夫  ひら嘉の弟子
入大夫  水戸文五郎の伜
三*の大夫 芝七まがり茶や


松主 元は泉州に仕へし人名は和泉屋音次郎
如竹 元は大津の産   名は水野清五郎

此外に数多あらんか近年の事は記さす
 
文政二卯年迄義太夫祖師並に高名の*太夫法名
正徳四午九月十日
釈道喜
竹本義太夫ノ元祖
行年六拾四歳
摂州天王寺 俗名 五郎兵衞
受領 竹本筑後掾 年数百六十年ニナル

明和元申九月十三日
一音院真学隆信日重
豊竹座ノ元祖
行年八拾四歳
受領 豊竹越前少掾
大阪船場 俗名 采女
年数五十六年ニナル

延享二丑七月廿五日
不聞院雄外孤雲居士
竹本政大夫ノ元祖 二代目義大夫
行年五十四歳
大阪中ウ紅屋 俗名 長四郎
年数 七十六年ニナル

享保九辰十一月廿二日
阿耨院穆矣x足居士
 元京都にて杉本某と云しが中頃禅門になられ其後作者と成
行年七十五歳
明和二酉七月十日
聲譽雲外冝乾居士
俗名 大阪ざこば十兵衛卜云
二代目 政大夫トナレ
行年五十六歳

文化八未七月十四日
播翁院亮喜居士
三代目 竹本政大夫
俗名 藤本利兵衛
寺は 浅草安部川町 密*蔵院也

文化七午三月十九日
釈道学*信士
堺住吉ノ座也
元租 竹本住大夫
俗名 田中文蔵
寺は 築地寺内 妙延寺 

文化十三子五月廿七日
妙音院声誉芝桝*大姉
俗名おでん 芝桝*
婦人の稀人
寺は浅草三谷 千念寺
 
雁金文七 鯉徳
元は魚問屋江戸ツ子のはへ抜き素人浄留理の親かたいづれなまぐさき名高き人もありときく
極印千右衞門 土城
上手といふに啌*もない本八町堀此人に稽古した大夫芝居で二の切迄語りしと有手取の親かた
安この平兵へ 桃賀
是は大夫も恐れこんな浄るりが唐にもあろか本町の御大将近甚としてうごきなき仲介先生も桃賀九ツまで大将軍のかげながらも聞たがる人はあれども金銀づくでもきく事ならぬおとめ筆御家流だけしつかりした店
かみなり庄九郎 喜閑
トモともいふ八町堀矢場の先生滝本流の能筆なり琴三味線迄一ツとして今の重五郎三七といゝし時は此先生の弟子ときく後に藤三の門弟と成今では大鳥也
布袋市右衞門 巴升*
ちゃりの名人其内でも夜鷹むけん自作のいもへ山おかしい事が箱屋さん堅地のさし物お武家様にがひにが虫喰右衛門もこたへかねて我しらず神田からと打笑ふ
 
はし詰メへ出るにおよばぬ浄留理も
江戸ツ子の腹きものふと 掉
 
一 芝桝おでん幼少之頃稽古に取られしは宝暦四戌の年其頃銀座四町目に川内大夫と云老人なり古人となられし後舛*大夫門人と成舛*大夫は丹後掾と受領し舛*の字は弟子おでん江譲り芝口と云地名を取て芝桝*と改しと也元来せんだんは二葉町生れ也稚*き時よりかふやく屋のおでん〳〵とあんばひよく次第に上達女浄留理の元祖三味線も男ならば三ノ切でも引かねぬ上手御殿がたは勿論どこへ行にも定駕也観音様信仰にて歩行で行れし斗との評ばん音曲の道広き事江戸近国はいふもさらなり大坂にても山吹の花を集て高野参り四こく中国津々浦〳〵迄江戸紫ともてはやす此芝桝*におゐては芝居にて二の切語る大夫衆中又歌舞妓の千両役者菊之丞宗十郎門之助よし原の花扇丁山とて其頃*のおいらんも芝桝*事を姉さん〳〵といわれし御殿方へ召れ帰りは駒*台にて戴もの送らるゝ前代未聞の芸者也又其頃文字久といふ流行芸者芝桝*とまけず取組でもなげられ勝との評判なり功なり名とげて身しりぞくとお江戸の花のちりぬるをいとゐ弟子升吉へ芝桝*を譲り身は芝閑も閑〳〵と褥かさねし其上に繰返したる数珠の玉明れば文化十三の五月の雨と諸共に露と消しそ哀なり昔より柏莚と芝桝*にくらべるものは三日月の片われでどこを尋ても有まじ柏莚の狂歌に
 おしまるゝ時ちりてこそ世の中の花も華なり人も人なり
よミ人不知
 老ぬれば麟麟も土場の浄るりと下らぬ内にヲクリ三重
 
 或時塩町親父芝桝*の宅江参られ内の暮し方など見て申さるは浦山しや男の身でも百三十里海山越て江戸江抱られ我等が身は主持同前女におとった身の上じゃナア
 
一 伊勢喜稚名おみよ明和の末桶町髪結之娘にて清右衛門伊勢大夫門弟浄留りは小音じゃが功者な物じゃむまいもんじや是は元なりの唐茄子でチイサクテうまひぞ〳〵唐茄子め〳〵〳〵ととふ〳〵唐茄子と異名を付たが京町の大文字屋の娘か
 
一 浜美代是も明和末之頃南八町堀浜松屋と云船宿の娘也浜松屋の御代はざゝんざめでたきみよと浜美代の浄るり至極評判にて三味線の音羽の滝やねじめよし後に晴里トナル
 
一 文匂元は西久保仕立屋の娘お梅とて住大夫弟子也天明のはじめ師匠文蔵の一字をもらひ文匂と名弘める*水谷町伊勢屋勝介宅にて近江源氏の九ツ目美しい振袖とはおもはれぬ語り口夫より段々評判よく母親と同道して大坂へ登られ住大夫之弟子なれば贔屓もよし請もよく夫より又〳〵江戸へ下り師匠老年に及びしゆへ介抱人旁田所町へ引移り師匠古人と成し後文匂寄世*場へ出勤は師匠の心にもどく道理と心有るれん中は笑って損の行ぬ事とて祖大夫に住大夫を譲られしも後室さまのおぼし召チトおそ巻の唐がらしひりゝと実入も有まじと御気之毒にそんし参らせ候
 
一 八重太はじめおせい筑波町の河岸に高田といふ灸点の娘平兵へ八重大夫の門人也師匠の名をもらひ八重太と改御屋敷様方其外歴々衆座敷も沢山にて評判よく弟子多クして殊之外繁昌なり元ト二代目芝桝*もはじめは八重太に稽古しける其後八重太芝辺の御屋敷へ御奉公に上りしとの事一躰*灸点の娘なれば一度腰をすへては格別心持がよいかして何を語られても皆よく聞そふで益々御意に入られ三味から老女に成られしならん
 
一 おすて是は宝暦末之頃筑波町時大夫の娘にて評判もよろしく器量もよしと両方揃ひしとんびが鷹一つかみにして雲の上霞ケ関辺の御屋敷へ飛ンで行れし
 
一 お十是は河内大夫随湖斎の弟子にて盲人の娘也浄留りも評ばん親は目がなくても娘は手の有上手者下谷辺の御屋敷江上られし
 
一 万喜重是は木挽町采女ケ原矢場の娘原鉄と云近来之上手成師匠は鷲の古兵者さて此おてつ稽古はじめは安永の末成らんか次第に上達評ばんよく天明八年之頃三味線師匠万三郎納会に千本のすしや大当り矢場の娘当りました
 
一 二代目芝桝*おてつ山城町鍛治屋の娘ゆへかぢ鉄とも云此人師匠の芝桝*と一所に度々寄江も出られし其時は名は桝*吉とて益〳〵*評判よし此稽古は岡崎から池鯉鮒は上手に鳴海がたソレ宮しやんせ渡しや稽古にい桑名四日市日チあるひたら坂の下から土山の高き御恩も水ナ口〴〵追分られぬ弟子の中鍛治屋〳〵と湯かげんを伝授の一巻取添て師匠隠居のあと釜を二代目芝桝*と成高名草津の露の御たまもの神の恵みに大坂や京ぞはる〳〵出勤の当り浄留り多き中忠臣蔵の大評判芝桝*を爰にて見せ申さんお手柄〳〵
 
 作者曰右聞覚へ見覚の其有増を書そへて拙き筆のあとや先キ参らせ候ではか取らずよその事をば頭痛にやむと定めし上から見おろし給はゝ夜目遠目なり素性もおぼろおもひ付たるしやれかゞみ出して移して書とる文章もし差障も御座候はゝ取にたらぬと御用捨下さるへし御めん候へたわい〳〵 o男浄るり斗評判に御ざ候へとも右之婦人達格別の稀物なれば此処江加ふ
 
一 大和掾を始とし其外名高き衆中多く下られしかど老年の大夫故不残不評元より陰声音曲なれバ年よりのひや水も程をしらねば身が立ぬよくは堪忍御万歳とは誠にめでたい宮戸さん今がよい隠居時〳〵
 
元祖名人無類稀人 名寄の見台
万物何によらず上には又其上有りしかれども其名顕れざる時ハ先ハなきがごとし爰に乗せし芸者の外間じきか
 
 
小野お通 浄留理といふものゝ元祖
 
角沢検校 三味線と云ものはじめて引し元祖
竹本此大夫 ひく調子ふしこまかく語りし元祖
清水利兵衛 素人の元祖今ハリマト云し名人也
後二伴西卜云
亀や市郎左衛門 三味せんを猫のかわではりし元祖
石村
上村百大夫 人形遣ひ始し元祖御倫旨アリ
薩广治郎左衛門 人形に合せ語り始の元祖
後浄雲と云
 
竹本義大夫 義大夫ふし一流語り弘し元祖
近松門左衛門 義大夫本作り始し元祖名人
 
吉田文三郎 此人の頃より人形手事むつかしくナル
豊竹駒大夫 表十一本といふ調子ハ外になし
 
おでん元祖芝桝* 女儀大夫の無類もの外になし
 
扨又二代目義大夫後ニ播广*少掾音曲長崎沈香亭といふ文章に此義大夫を聞たしといふ心を作り播广*弟子喜大夫といふもの長崎滞留之内送ルと有其唐人の自筆早々師匠はりま方へ急飛脚にて送来る右喜大夫の語ル浄るりを沈香*亭かんしんして此師匠ならば播广*と申人いか成名人やらんと日本乃*芸能を恐れ又*右礼の文章は播广*方ニ有りとなん
近頃伊左衛門といゝし蟻鳳播摩大夫と成三味線ハよして浄る理を語らるゝ寄勢*場などへも折〳〵出席有事とんだ茶釜がやかんの子じゃ物と人に笑ハれそしられても高く留つた御堂のからすカア〳〵
 
 此愚筆老眼にじり書定めし落字仮名違ひ浄留理ぎらひ乃*御方さまお笑ひもあらんなれども難波乃*あしもよしとやら浄瑠理上戸乃*方〳〵は面白狸乃*はらづゝみホン〳〵はけふ此頃引込思案乃*昔贔屓谷風と小野川の咄しが出て若ひ衆はアゝねむい〳〵
文政二卯神な月 東都住人 竹本屋
             豊右衛門写之
 
一 寛政九巳七月大坂にて出坂之音曲花毛ぬきとか申書に義大夫節始りしより凡弐百年と記あれど元祖五郎兵へ先生義大夫と改名せられしハ貞享始にて其後筑後掾となられ程経て正徳四午六拾四歳にて古人と成し其年より文政二卯とし迄が百六年となりぬ義大夫先生出生としより当年迄百七拾歳成べし但し義大夫と云高名を立られしハ貞享年中と承ル正徳四午年迄筑後掾芝居出勤迄凡三拾年也
○是から跡に二三枚明地が有から何ぞ書たい記したい*云たい見たい逢たいハ塩町の親父さん芝桝*のばアさん
流行におくれぬといふ其口が
おらアよハぬと生酔乃癖せ