−−クドキは文五郎がヱゝけど、米炊(こめかし)は榮三のはうがヱゝよつて、兩方のヱゝとこを取ってやつてます、いふてるいふ咄も聞いてまんが、今のお客が、なるほどとそれを見分けてくりやはりまつかな?昔の御靈時代には、皆一杯やりながらジックリと見てくりやはつたもんだすが、今は氣の散るお客ばつかりだんが……。それに型を遣ひ分けるいふよやなことは、よつぽど腕がでけてへんとでけんこッたす。
(「跡には一人政岡が」政岡、打掛を脱いで榮御前の立去つた後を見送り、あたりを見廻はしてから千松の死骸を抱上げやうとして躇ひながら、堪らなくなつて崩れるやうに下にゐて((足拍子))、抱上げ「コレ千松よう死んでくれた出かした/\」と、あたりを憚りながら健氣な吾子の死を讃へ「親子の者が忠心を、~や佛も憫みて」と天を仰ぎ「鶴喜代君の御武運を守らせ給ふか」と上手の一間に向つて辭儀をしてはッ、はッ、はッ、と後に退つて合掌してから死骸に取縋つて泣く。「――毒藥をよう試みてたもつたなう。ヲゝ出かしやつた/\」死骸を撫で「そなたの命は出羽奥州、五十四郡の一家中」右手を翳し「所存の臍を堅めさす」右のマネキ−−手を頭上にかゝげて、掌を返して向ふへ拂ふ型。相手を賞揚したり、勵ましたりする心を持つてゐる−−「誠に國の」で立上つて「礎ぞオ、オゝゝ−−オ」にじり足で進み寄り、右袖を返して前に差出した形で右膝を上げたまゝ、死骸を見下ろしてから、泣き上げる。「君の御爲」からノリの詞で一間に向つて辭儀。「せめて人らしい者の手に懸つても」右の腕マクリ−−二の腕に片方の手を掛けて外に張る型−−「銀兵衞が女房づれの劔にかゝり」入汐が懷劔の血汐を拭いた懷紙を左手に取上げて見て前に投げ出し、立つて右足を入込んで斜に死骸を見下ろした形で「なぶり殺しを」と節に乘つて頭(かしら)を繰つてきて「母が氣はどの様にあらうどうあらう」と下手斜に身を背けて泣く。坐はつて「思い廻せば」右手左手で死骸を指差し立上つて「一年待てどもまだ見えぬ」で下手の後振りとなり、坐はつて「二年待てども」悔恨の情を表す三つざし−−相手のものを二度指差して、後膝を打つ型。−−から吾子の死に及び「千年萬年待つたとて」と段々に感情の昂ぶりを見せて、立ち上らうとして右に倒れ左に倒れ『足拍子』漸く立つて上手へ出て「何のオゝゝ、オゝゝ便りがあろぞいの」と上手後振りで死骸を見返へり「三千世界に子を持つた」と廣い世間を示すやうに兩手を交互に右左に大きく廻し「胴慾非道な母親が」と己が兩の頬をつゞけ様に打ち「武士の胤に生れたが」懷劔を左に握り「果報か因果か」立ちつ居つ((足拍子))「いぢイゝゝらーアしーイゝイーイゝゝ……」立つて右手で懷劔を指差して((足拍子))果ては死骸に取付いて見得もなく泣き入る−−大西重孝氏「人形の演出と、その解説」より−−)
−−「太功記」の操のクドキは、たゞわが夫に意見するいふだけのクドキだす。三味線の間拍子に乘つてやるだけで、べつに申し上げることはおまへん……。婆(ばゞ)が「系圖正しきわが家を」いひまんが、この人はもとは十二の后の一人に出てましてん。東海道の岐阜から三里ほど東へ往つたとこが、この人の出(で)所だす。光秀はなかなか偉い人で、南面山の城圖面も光秀が引いたんだす。光秀に建てさしといて太閤さんが這入つたんだす。……この淨瑠璃はあんまり芸が堅すぎるのんで、色氣を出すために、初菊を拵へたもんだんな。「鎌倉三代記」の時姫、「廿四孝」の八重垣姫、みなさうだす。ほかに「笹屋」を遣ふ振り袖の役の出るとこ一つもおまへんさかいな。
−−(八重垣姫を取上げるが、咄は「廿四孝」の筋の説明に逸脱してゆく)四段目で濡衣が「形見こそ今は仇なれこれなくば」いひまつしやろ。あれは武田の家老の板垣兵部いふ奴がわるい奴で、自分の子と勝ョとを嬰兒(あかご)のうちに取替へておきよる。その取替へ子の勝ョが覺悟の上で村上義清に斬られた血汐のついた片袖で、信玄が兵部を刺した血刀を拭ふと、二人の血がぴつたり合ふ。それで親子やいふことが判りまんねん。濡衣はその身替りの勝ョと契りを結んでたんで、その時の片袖を形見に持つてますのであないいひますねん。……勝ョも芝居では綺麗な男にしとまつけど、ほんまは、いかつい大けな男やつたんやらう思ひます。山本勘助もほんまは川中島の合戰で、車攻めの陣を破ることができいで討死したんだす。その時分に車攻めの陣を破る法を知つてたんは竹中官兵衞ひとりだしてん。それを官兵衞になろといたらよかつたんだつけど、なろてなかつたもんやよつて討死しましてん。謙信いふ人はまた、よつぽど偉い遣ひ手やつたと見えて、一と太刀打下ろすと、受止める信玄の軍配に十二、疵がついたいひまんな。……だいたいがこの四段目は、諏訪法性の兜を武田方から取返しにゆくいふのが重の筋になつてます。「奥庭」の八重垣姫は「兜を取つて頭(かうべ)にかづけば、忽ち姿狐火の、こゝに燃えたち、かしこにも、亂るゝ姿は法性の、兜を守護する不思議の有様」と文句にあるとほり諏訪明~の使はしめの狐が兜に乘り移つてる氣持だす。兜をかづいて、まだ人馬の渡らぬ氷を張りつめた諏訪の湖をスーウと渡つて行くいふ、その氣分でやります。
−−そこに「妹脊山」のお三輪がおましたな。……お三輪は「杉酒屋」では、男を知つたいふもんの、なんせまだ寺屋へ行つてるくらいだつさかい、おぼこい、惚れて恥かしいいふ氣持で遣ひまつけど、道行から四段目の切になると、もうあれは狂亂だんな。遣ひ方が荒(あろ)なりま。金輪の五郎の鱶七に脇腹を突かれて、手負ひながらに一部始終を聞いて、自分の死ぬのんが、戀人の藤原淡海の役に立ついふのんで、悦んで死にまんねやが、私はお三輪の死ぬとこでは、緒環を胸に抱きしめて落入ることにしてます。「白い糸は殿御と定め」だつさかいに、逢ひたい見たい情人(いろおとこ)を抱きしめてる氣持だす。歌舞伎では、どこやそこらへ放つたらかしてしまひまつけどな。……お三輪の人形が背中に掛けてるのんは、襟が髪で汚れんやうに掛ける襟掛けだす。私らの若い時分には、船場のえゝとこの十三、四の孃(いと)は皆あれと、それからスツポリいふて、綺麗なきれで拵えた金時の腹當てみたいな恰好のものを、首から下げて前へ當てゝはりました。天鵞絨で緣がとつとました。おなかゞ冷えんやうに當てたもんらしおま。みな山岡頭巾をかぶつて、女中さんがお供して寺屋へ通(かよ)てはつたもんだす。しとやかなもんだした。十五から大人いふことになつてたんで、十五になると、もうスッポリはしまへなんだ。
−−これは「伊勢音頭」の萬野だんな。萬野は例の「オーイ/\喜助どん」で、三味線の間(ま)に乘つて喜助を追駈けて這入るとこ、あすこだけだんな、遣ひどこは……。あとは根性わるいふとこを見せるだけだす。
(「ドリヤ一走りと」萬野前垂れをたくし上げ帶を締直し、北六の手から「油屋」と書いた提灯を受取つてあたふたと木戸口を出る。褄を引からげておいて、チンチン、ツンツン、/\/\と萬野の追駈けの足取りを聞かせる絃に乘つて「オヽイ/\喜助どん」と遠くへ呼びかけながら、提灯をかゝげ、左手を翳し、心ばかりが焦つてゐて足の進まない振りで「足を早めて」の後にハツ、ハツ……と息切れの様を聞かせて、もう一度精一杯に「キイスケドーン」と呼びながら、やがて下手横幕へ((足拍子))−−。
−−大西氏「人形の演出と、その解説」より−−)
門弟の桐竹紋司君が訪ねてきて、舞臺で馴染の顔を見せる。
−−どないやつた?
顔見るなり文五郎さんは訊く。その前日かに行はれた、文樂勞組と松竹との會見の結果を尋ねるのである。文五郎さんは始めから組合に加入してゐないのであるが、交渉の經過を非常に氣にしてゐる。紋司君手短に、容易に咄の纏りさうもない形勢を傳へる。
−−紋司と申します。なんでも、よう遣ひまつけど、わけて子供を上手に遣ひまんので、陛下がお成りになつた時も「戀十」の三吉はこれが遣ひましてん。
と、文五郎さんは、ちよつとあらたまつた口調で、事新らしく紋司君を私に紹介する。
咄の切れ間に訊くと、紋司君はことし三十九歳で、斯道(このみち)へ這入つて二十五年になるといふ。その紋司君にして、本當の修業はこれからといふことになると、つくづく人形遣ひの修業も容易でないと思ふ。
暫くゐて紋同君は歸つて行く。
−−また様子きかしてや。
襖のそとで、
−−へ。
と紋司君の返辭。
−−えらい行儀わるおまつけど……
文五郎さんは尻敷を外して、右の足を机の下へ伸ばす。また一としきり勞組の咄があつて、
−−私が明治十六年に十五で松島の文樂座へ這入つて、はじめて貰ふたお手當が十五日間で二十錢で、文錢で貰ひました。そのかはりまた、風呂が一厘、豆腐が二厘、燒豆腐が五厘、おからの玉が一つ一厘で、それで五人や六人食べられました。お米が一升六錢、三錢あると姫買いがでけた時分だした。……三年ほど「小道具納め」をやらされてるあいだそれで、後に手の一つも突込むやうになつて、お給銀が十五日で三圓だした。そんなもんだしてん。役者になるのんには金がかゝりましたけど、人形遣ひになるのんには金がいらなんだもんだつさかい、みんな人形遣ひになつたもんだす。なんせこれ(胴串(どぐし)を持つ恰好に左掌をあげて指を動かして見せる)だけが資本(もと)だつさかいな。そのかはりもともと金にはならん稼業(しようばい)だす。
−−昔のお人の咄をすると、私がさいしよに入門したのが、初代吉田玉造はんの息子はんの初代の玉助はん、そのお母はんいふのんは、もとは初代門十郎はんの嫁はんやつたのが、子供一人ある仲を門十郎はんと別れて、親玉(初代玉造)のとこへきやはつたんで、それからでけたのが、この玉助はんだしてん。そんないきさつのある門十郎はんが、松島の文樂座へ這入りやはつて、舞臺で親玉と顔を合はしたんは「遠州浮木龜山」(?)の宿屋の場のもめん仕合(?)だしてん。門十郎はんの水右衞門が二階から下りてきて門口へ出やうとして、水右衞門を敵と狙ふ玉造はんの兵助とばつたり出遇ふ。互に顔を見合はして、兵助が「待てッ」といふ、水右衞門はピシヤツと戸を閉めて、内そとで睨み合ふ。この時の双方の意氣込みの凄かつたことは身の毛がよだつやうやつたいひま。お仕打の植村はんがその舞臺を見てゝ「門十郎はこゝにゐよれへんやろ」いやはつたさうだすが、じつさいまた門十郎はんは、それ一と芝居だけで文樂を出てしまやはりました。植村のたいしよの眼力も偉いもんやおまへんか。……後に門十郎はんの息子はんの門十郎はんが文樂座へ這入りやはるについて、以前のいきさつから親玉が「門」やつたらいかんと故障いやはつたんで「紋」に改めて、初代桐竹紋十郎になりやはつたんだす。私の師匠の玉助はんとは胤ちがひやが、同腹の兄弟やつたわけだす。……玉助はんはなんせ二十から、ほかで座頭をしてはつたくらい腕の立つた、親まさりやいはれた名人だしたんやが、惜しいことに若死しやはりました。三十三だした。それまでも私は師匠が二人あるやうなもんだしたが、若師匠が歿くなつてからは親玉の弟子分になつたんだす。……文樂座が松島から御靈さんへ移つてからも、私は暫く勤めてをりましたが、それから出て堀江座へ行きましてん。文樂座へ復歸したんは大正四年の一月で、石割さんが書いてはりますが、この時の私の月給が三十圓だした。
−−私が文樂座へ入座した時分の人形のはうの大將株は、文樂座では玉造はん。それから紋十郎はん。彦六では才治さん。辰五郎はん。才治さんは八十三までいやはりました。そのほかにヱライ人がなんぼでもゐやはりました。今はちよつともそんなことはおまへんが、その時分は、なんせそんなヱライ人ばつかりの中へ飛び込んでやりまんので、向ふも肚ん中であいつどない遣ひよるやろ思て見てやはるし、こつちもお客より幕内の眼が怖(こわ)いのでえろました。……太夫さんでは大掾さん、法善寺の津太夫さん、大隅さん、彌太夫さん、盲の住太夫さん、はらはら屋の呂太夫さん、そこらの顔が揃てはりました。……はらはら屋はんとこのくすりいうのんは、その時分「紀州和歌の浦、虫おさへはらはらぐすり−−」いふて市中を賣つて歩いてましてん。……松島の文樂座が開場してからことしで恰度七十八年になりまんが、私はその内を六十五年これで(また左の掌をあげて指を動かして見せる)やつてきたわけだす。まア觸はつてみとくなアれ……(掌を擴げて差出す。觸はると、てのひらの胴串のあたるところは固くなつてしまつてゐる。指の節ぶしにもタコが出來ている)
−−さうだんな。人形遣ひのはうからいふて遣ひやすかつたんは、なにいふてもやつぱり攝津大掾はんが一番だした。近頃のお人では濱太夫のお父つあんの津太夫さんが遣ひやすおました。ちよつとも崩しやはりまへなんださかいなア。山城はんだつたか? モノによりまつけど、どないしても、あゝいう澁い語り口だつさかい人形のアテるとこはすくのなりまんな。「太十」の「現在母御を手にかけて」でも「てヱ−−」でしまひだつさかいなア。しかし、床(ゆか)へ出て見台を横へやつてお辭儀するだけでお客が鎭まるいふのんは、今ではあの人ひとりで、はたではさうはいきまへん。貫祿いうもんは偉いもんや思ひま。
−−人形のはうは足數がきまつてまんが、太夫の息の長い短いで足數を替えんならん時もおます。ツツン、シヤン……これが人形の間(ま)だつけど、これも三味線の間(ま)しだいで、ツツーン……シヤン、いふ間やつたら、それに合はして延ばしてゆかんなりまへん。すべて人形は、太夫三味線について行かんなりまへん。人形がものがいへんのが悲しおま。これでも、いへいはれてもいへまへんけど、淨瑠璃の文句やつたら肚のなかに一萬ぐらいは這入つてまつさかい、短い長いはいへま。……人形のはうも肚の强い太夫にかぎりまんねやが、それがこの頃は五月の鯉で、見台持つて口先ばつかりで語つてるのが多ふて、肚から語る太夫があんまりゐまへん。昔は三段目なら大つきな聲でやるいふやうに、聲に語り場の格合がチヤンとあつたもんだした。
−−人形の體の柔味は、けつきよく元がこゝに(人形に手を突ッ込む形に左の肘を曲げて見せて)おまんな。(肘を横に振つて)こななるとあきまへん。色氣は肩の遣ひやうだす。眼と手がどないなつてるか、人形がまア前にあるか横へ行つてるか、肘が延びてるか延びてヱへんか。それをこんどから氣イつけて見やはつたら人形のよしあしはよう判りま。躰を動かしたらあきまへん。それがなかには、遣(つこ)てるもんの躰ばつかり動いてゝ、人形がかいもく動いてへんいうのもおまつせ。
−−これで私は舞台を勤めてるのでよろしねん。らくしたら早よいきま。内にゐてゝもちよつともジッとしてしまへん。二階にねまがいつでも敷いとまんので、仕方がない時はそこへ這入つてまつけどな。……あんたらまだお若いけど、人間はなんだつせ、長生きする、いふ氣持でゐなあきまへんぜ。壽命はこら別だんがな、私でも、八十になつたんやいふやうなことは考えんことにしとります。
……長座を謝して辭去−−昭和二十三年十一月
【紋司は現在は玉五郎を名乘つている】