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【茶谷半次郎 師を語る綱太夫(その一)】
(2016.01.09)
提供者:ね太郎
師を語る綱太夫(その一) 幕間 5巻5號 pp52-54 1950
【『幕間』に続稿は掲載されていない】
綱太夫君は、本名生田巖、大阪の産明治四十四年八歳にて二世豐竹古靱太夫−現山城少掾−に入門し、二世豐竹つばめ太夫を名乘つて以來、師に仕へて四十年になる。昭和十三年四世竹本織太夫を襲名。さらに昭和二十二年八世竹本綱太夫を襲名して現在に至る。本年四十六歳。
−−入口の戸を五六寸横に引くと、横長に廣い部屋のまん中に坐はつて、三味線なしに、小聲で、誰かに淨瑠璃を語つて聽かして、稽古をつけてゐる、太つた巾のある綱太夫君のうしろ姿が見えた。−綱太夫、彌七、松太夫、C友、新三郎、織の太夫、これだけが相部屋−部屋に殘つてゐる二、三人の顔も見えたが、皆ひそやかにしてゐて靜かな中に、綱太夫君の、その、なにを語つてゐるとも判らない低い、が、底力のある聲が部屋を領してゐた。
十月の、或る雨もよいの曇りの日の午後。帝劇の樂屋の二階−−
邪魔しては惡い、と思ひ、こちらを見た同室の人に目で會釋を返し、私はソツとまた戸を閉めた。−−が、薄暗い廊下を引返す私の頭に、うしろ姿ながら、いま見た綱太夫君の、氣輕にちよつと坐はつて稽古をつけてゐたらしいのだが、極まれば自然にさうなる、根が生えたやうに胴を据えて構へたかたちが、しばらく刻まれてゐた。聯想は、ふと私に、三十年も前に大阪で、ただ一度松本長の「求塚」の仕舞を見た時の、手の動き、足の運びや拍子に拘はりなく、凝つて固まつた感じに、腰から上の胴體が動かないものになつてゐた、長の體の備へを想ひ出させた。それは切り込んだ刀の冴えを見せる木彫はせもするものだつた。ずいぶん古いことだが、その時の印象はいまも鮮明に殘つてゐて、長の烈しい舞ひぶりや、押潰したやうにしやがれた、力の籠つた聲を、まざまざと想ひ出すことが出來る。妙によく憶えてゐるが、地は桐谷正治が謠つてゐた。その時の長と、いまの綱太夫君とは、年齡もほぼ似通つてゐるのではなからうか。−−藝格といふものは、すでにその體の備へに讀まれると思ふ。綱太夫君のその日の著流しの稽古の構へに、彼の藝のふてぶてしさが感じられた。
小一時間あいだを措いて、もう一度部屋を覗くと、綱太夫君の姿は見えなかつたが、待つてゐてほしい、といふ綱太夫君の傳言を彌七君が傳へてくれたので、私は靴を脱ぐ。−−彌七君は、窓際の横長い鏡臺の前に、こちらを向いてキチンと坐はつて、ときどき私が咄しかけるのに受答へしながら、しきりにペンを走らせて、なにか古い本から、三味線の譜章をノートに寫し取つてゐる。松太夫君、新三郎君が、少し離れた、それぞれの居どころに默つて坐はつてゐた。−−新三郎君は會釋する時の笑顔の軟かい人である。
忙しさうに、なにかを取りに戻つた容子で綱太夫君が這入つてきて、
−−もう、五分待つとくれやす。すぐ手が空きまつさがい……
立ちながら、さう私にいつて、すぐまた出て行つた。−−文部省の企劃を東寶が引受け、文五郎さんの「妹背門松」の藏前のお染の振りを、山城さんの淨瑠璃、C六さんの三味線でトーキーに撮る咄が遽かに纏り、綱太夫君がそのシナリオに参劃することになつて、二、三日來、急に躰が忙しくなつた咄は、前日に聞いてゐた。−−さきごろの「勸進帳」のトーキーは、舞臺をただそのままに再現しただけのものに過ぎない。こんど撮るなら、それを見れば文樂の雰圍氣がある程度立體的に解るやうなものにしたい。そのために樂屋風景も一部分撮りたい。さうした意圖に沿ふて、必要な部分をとくに强調する行き方をしたい−−そのやうな抱負を語り、彼が今に始めず、手を染めると、そのことに熱中する質であることを感じさせるのだつた。蓋しまた、彼がこうした仕事には、文樂では彼を措いてない適任者であることも事實で、彼は掟どほり大序から修業してきた最後の人であり、しぜん正規のヘ育は受けてゐないが、勉强家で、一廉の智識人らしいヘ養と時代感覺を身につけてゐる。−−いつだつたか、「道明寺」のマクラの氣分を訊いた時、彼はそれを、荘重で、~秘的な中に、一抹の哀愁を帶びた……といふ形容詞を遣つて説明した。生えぬきの文樂人である彼の口から、そのやうな形容詞が聞かれても、彼を識つてゐれば、似つかはしくないやうな感じは些ともしないのである。彼は映畫も新劇もよく見てゐる。−−撮影を一兩日あとに控ヘ、一日二囘の出演のほかを、おほかたそのはうの打合はせに引張り出されてゐる容子である。
−−えらい失禮しました。
軈て戻つてきた綱太夫君は、さういつて座につき、 −−こんな積りやんかつたんですが… …無茶苦茶に忙しなつてからに…… と云ひ譯するやふにいふ。――門弟綱太夫の觀た山城少掾−−私はそれが聽きたい、と手紙の端に書いたのに、この興行中にその時間をつくるといふ約束を、上京前からしてゐてくれたからである。それにしても、そんなに忙しい中を妨げるのは心のないことに思はれたので、私は、次の機會に讓つてもいい、といつたのだが、彼は、時間はおます、といふ。で−−奥役の新玉さんの部屋が、たいてい留守で空いてゐるので、織の君に斷はりに行つて貰ひ、そこを使はして貰ふことにして、綱太夫君と私は、三階のその部屋へ行く−−
これがさいしよで、その後も、綱太夫君の躰の空いてゐる隙を偸むやうにして、二、三度彼と對坐した。
忙しい中だつたけれど−−この興行の三日目に、突然C六さんが山城さんに袂別を申出てから、樂屋の空氣になにか重苦しいものが感じられてゐた折柄だつただけに、語るにも、聽くにも、ひとしほ沁々した山城さんへの親近感が二人にあつたことも書き添えて置く。
−−性格的に山城(ししよう)は、ものを半分しかいはん人でしてな。こんどの事(C六さんの件)にしても、やつぱりそれが崇つてる思ひますな。……若い時は氣むづかして、こつちから訊き返すと、もうええ、いふて二度はいふてくれまへなんだ。冗談はいひまへんし、いつたいが藝人らしくない性格の人です。その癖、附合ひならお花の一つも引いたことも、まんざらないでもないのですが……。さうです……他人(ひと)のことはいひまへんな。いかなる場合でも、酒の上で、藝談に花が咲いて、大いに氣焔のあがつてる時でも、ほかの太夫のことを咄の引合ひにして、批評がましいことをいつたりは、ぜつたいしまへんな。………それから、これは山城(ししよう)の惡い癖や思ひますが、他人(ひと)の氣を汲み過ぎます。都合の惡い時でも、他人には惡い顔をよう見せまへん。さういふたらええのに、とはたで齒痒く思ふことがようありますが、それがいへまへんね。太いやうに見えてて、その實~經質で、氣の弱いとこがありますな。……だいぶん前のことですが、津太夫さん、土佐はんなどと九州へ巡業に行つた時でしたが、ある土地で、晝の三時頃から、山城(ししよう)と弟子だけの内輪で、ふぐ鍋で一杯やつてました。夜の八時ごろまで飲んで、これでおつもりにして、ご飯にしようといつてる矢先へ、土地の大姐さんで、山城(ししよう)を贔負の老妓が二人這入つてきたんです。山城(ししよう)は朝食を食べたきりの空き腹のとこへ相當飲んで、もうだいぶんご機嫌だつたんですから、平たくさういつて飯にすればいいのに、例によつてそれがいへまへん。それからまた二人を相手に杯のやり取りが始まつたわけだす。ところが合憎またその二人が名うての呑ンベえときてたもんですから、いつまでも果てしがありまへん。わたしはいつたい長い酒が嫌ひなとこへ、あすのことも氣遣ひなので、ひとり苦がりきつてると、山城(ししよう)は、もうやめる、といふ意味を、ときどき、わたしに目顔でして見せながら、相變らず相手をしてゐる内に、スッカリとろんこになつて、二人が歸ると、その場へ延びてしまひました。翌あさは、山城(ししよう)は頭があがらん容子で、お早ようをいひに行つても、眼をあけてて返辭をしまへん。飯も食べずに臥てましたが、芝居もあるので、午後の二時ごろには、それでもやつと起きましたので、あらためてお早ようをいひますと、苦笑して、ゆうべはすんまへなんだ、と謝まるんですが、いかにも大儀さうでした。そんなりで、わたしも一緒に芝居へ行つたんですが、津太夫さんも土佐はんも、もう樂屋入をしてはりました。山城(ししよう)の出し物は「合邦」でしたが、その時ばかりは、頭はガンガン痛む。胸はムカムカする。苦しいのがさきに立つて、はじめの半段ほどは、なにを喋つてゐるのか自分でも判らずに語つたさうです。それでも、語つてる内に宿醉(よひ)が發散するかして、しまひごろにはハッキリしてきたさうですが、部屋へ戻つてきて、こんな苦しい淨瑠璃を語つたん始めてや、いふてました。−−これは勤め氣が過ぎての失敗だつたんですが、若い時はなかなかの豪酒で、酒の上の失敗は相當あつたようです。二十代には、道端の鐵管の中で寝たこともあるいふ咄も聞いてます。一面理性的で、謹嚴そのもののやうな山城(ししよう)に、こんな一面もあるいふのは面白いと思はれませんか……。萬事に几帳面な癖に、なにか書き物とか調べ物を始めると、じぶん時になつても、お膳を横に置いたままで、二時間でも三時間でも.箸を取らずに仕事を續けるので、お菜が冷えて、御寮人がなんべんでも温め直さんならん。それはしじうですな。住吉時代からさうだした。……このごろの酒量ですか?一升瓶が三日か四日いふとこでせうな。しかし、このごろは對組合の問題や、なにやかやで、氣分の面白ない時が多いので、つい酒になりやすいんで、もつとハカのいく時もあるやうだす。酒が這入つて、咄が藝談になると、例外なくご機嫌になるので、こつちもべつに山城(ししよう)の意を迎へるつもりはないのですけど、行くと、ついそれになつてしまひます。そんな時の山城(ししよう)はスッカリ樂しさうで、こないだけいふて暮らされんもんやろかな……と、よういひます。藝一本でとほしてきた山城(ししよう)に、生き甲斐を感じさせるのは、なんといつても藝だけです。−−近ごろは、どうかすると弱音を吐いて、暫く休みたい、といふたりもしましたが、こんどの事で發奮したかして、あれからは、死ぬまで舞臺は罷めん、といつてます。
−−山城(ししよう)に入門したのは八歳の時でした。わたしはそれまでにも、父に御靈の文樂座へ連れて行つて貰つて、舞臺の山城(ししよう)は見て知つてゐました。−−わたしの生れたのは新町のししくひや橋の近くで、父は生田甫善と申しまして、專門にそれで立つてゐたわけではありませんが、書も畫もかきました。もとは九州の延岡の士族で、祖父は藩の御殿醫を勤めてゐたさうです。父は大の義太夫好きで、自分でも語りましたが、母もポツン、ポツンでも三味線を弾きました。産み月に、文樂へいこかいふてる時に、急に産氣づいて、わたしが生れたんやさうです。そんな胎ヘ−(と童顔を綻ばして)があつたせいか、三つぐらいから、三味線の音がすると耳を傾けてたと聞いてます。その後、家が大寶寺町へ轉宅しまして、わたしは小學校は大寶學校へ入學したんですが、二年生の時にまた新町の、こんどは南通三丁目へ移りました。姉が一人、弟が一人−−これは二十五歳で歿くなりましたが、三人きようだいでした。六つぐらいやつた思ひますが、春之助さんといふ年寄りの女義さんに、わたしは義太夫の手ほどきをして貰ひました。サワリぐらいを稽古して貰つたんです。すこし覺えると、父の道樂から色物の寄席へ出て語つたりしました。−−山城(ししよう)ンとこへ行くちよつと前の、その年の正月に、父に連れられて文樂座へ行つた時でしたが、山城(ししよう)が床(ゆか)へ出ると、父はわたしに、この太夫さんは若手やけど、えろなりやはるぜ、ええ太夫になりやはるぜ、三味線のはうはまた、もつとえらいねんぜ、ていふて聞かしました。山城(ししよう)は二世古靱太夫を襲名して三年目、三味線は三世C六さん、役は「木下蔭狹間合戰」の「竹中砦之段」の中の「矢の根」で、切は染太夫さんでした。もう四十年も昔になります。――山城(ししよう)ンとこへ行くことになつたんも、父も好きな道ではありましたが、わたしが太夫になりたいとハッキリいつたからで父の知り合ひのC六さん(三代)の連中さんに連れてつて貰つたんです。そのお人と父に附添はれて、始めて山城(ししよう)の家の敷居を跨いだと憶えてます。−−その前に「柳」を語つて山城(ししよう)に聴いて貰つたことがあるやうな氣もするんですが、前後がハッキリしまへん。−−その日、師弟の盃をして「つばめ」といふ名前を貰つたんですが、そんな、山城(ししよう)の前名だつたよい名前を貰つたのは意外だつたので、父も悦んでくれました。−−父は、わたしの二十一歳の檢査前に歿くなりましたが、母はことし七十九歳で、まだ健在してをります。
−−その時分、山城(ししよう)の家は大川筋の湊橋の南詰を東へ入つた南側にありました−−それから靱の太~宮さんの近くへ替つて、新町はそのあとです。−−湊橋の家には、山城(ししよう)に、太郎さんに、二郎さん。それに山城(ししよう)のお姉ヱさんと、連れ合ひの安場さんのお二人が同居してゐられて、山城(ししよう)の二度目の奥さんはまだ見えてませんでした。−−その時分には、連中さんが四十人ぐらい山城(ししよう)ンとこへ見えてましたやろ。ある時も父がお姉ヱさんにそれを、結構ですな、といひましたら、結構やないのですよ。文樂だけで立つて行けるやうでないとあきません、といはれたさうです。連中さんはざこばがおもでしたが、天滿からも見えてました。連中さんには、山城(ししよう)は自分で三味線を彈いて稽古してました。山城(ししよう)はあれで、三味線も上手に彈きますよ。−−連中さんの大會の時などには、C六さんが彈いてられました。−−毎日、學校からすぐ山城(ししよう)ンとこへ廻はりまして、山城(ししよう)が役をすまして歸つてきて、夕方、連中さんの稽古が始まる前に、一くさりづつ稽古して貰ひました。その時分山城(ししよう)は門弟にも連中さんにも、相當きびしい稽古をしました。今の若い門弟は、山城(ししよう)のそんなきびしい稽古は知りまへん。−−始めて稽古をして貰ふ時に、わたしが著物の裾をはねて坐つて叱られた咄は、山城(ししよう)もようしますが、大阪の落語家(はなしか)はみなあれをやりますね。前に手摺りがあつて見えんので、著物がいたまんんやうにさうするのを、寄席へ出てた時見てまして、子供こころに、そないして坐はるもんや思てたんです。−−そんわけで、山城(ししよう)の顔は行く前から知つてましたが、その頃の壮年の山城(ししよう)は、まつたく上品な、ええ男だした。それだけになほ威嚴に押されて、稽古のほかは、べつだん矢釜しいこともいはない山城(ししよう)が、やつぱりなんや怖(こを)ました。それに、その時分は酒癖もようおまへなんだ。ひとつ、こじれると、連中さんの用意に座敷に竝べてある座蒲團を、こんなもん敷いとかいでもええ、いふて、はね除けたりしました。「聞書」にもあるやうに、フラッと家を出て行つたり――そんなことをした時代だした。修業盛りに、鬱勃とするものを押さへて、生計のために辛氣臭いお素人の稽古をせんならん。それで時々イライラもするその鬱憤も、飲むと出たんだと思ひます。−−入門當時には兄弟子か二三人ゐました。古C(こせ)太夫に光(みつ)太夫、それから豆太夫いふのもゐました。古C太夫も豆太夫も大序にゐましたが、古C太夫は、じつに忠實に山城(ししよう)の雜用をしてた人でした。だいぶん前に罷めて、いまは京都で須田祥雲といつて茶碗屋をしてゐます。これも罷めましたが、光太夫は素人からなつた人でしたが、當時二段目の口ぐらいの格式になつてました。わたしはまだ子供で、重たいもんは持てまへんので、雜用はせずにすみました。−−成人した時分には後輩が出來てゐて、それがやつてくれましたので、わたしは雜用の苦勞だけは知らずじまひです。旅へ出た時などに宿で、女中にさわらすのを厭がりますので、山城(ししよう)の著物を疊むぐらいの用しかしてまへん−−弟子入して間のない頃、山城(ししよう)の家でやる連中さんの勉强會の日に、夜になつて、どうにも持ちきれなくなつて、二階へあがつて子供さんたちの横で寝込んでしまつたことがおました。あとで山城(ししよう)もあがつてきてその體を見て、太郎に、巖に、二郎やなア…と笑ひながらいつてたさうで、わたしのことも、子供さんたちとおんなじに考へててくれたんや思ひます。齡順は太郎さんがわたしより一つ上、二郎さんが一つ下でした。二人共住吉で歿くなりましたが……。――新町へ移つてからは山城(ししよう)の家が、私の家から三丁ほどの近所になりましたんで、毎日稽古してもろてました。(つづく)