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【茶谷半次郎 山城少掾をおくる】

(2016.01.05)
提供者:ね太郎
 
 
  山城少掾をおくる 幕間 14巻1号 (1959.1) pp88-89
 
 山城少掾の舞台引退についてのわたくしの感想は「寂しい」の一語に尽きます。軈ては来たるべきことと予期してもいましたが、いよいよとなってみると、あらためて寂しさを抑えきれない気持がします。
 一語に尽きる、というものの、その寂しさにはいろいろの感想が含まれています。山城さんが文楽で古匠の悌を残す最期の太夫であり、今後あれだけにスケールの大きい浄瑠璃を聴くことが出来なくなるという、言葉を替えれば山城さんの引退によって劃される過去の時代へのそぞろな惜別感もあれば、肉体的な条件の支配を免かれることが出来ない芸能というものの宿命の寂しさも強く胸をうつのです。これはしかし、なにも山城さんの場合にかぎらないことでしょうが、わたくしの脳裡に重ねられている、曽ての魂を揺ぶられたかずかずの山城さんの床の記憶にかてて、この十数年来得てきている個人的な知遇は、この感をひとしお痛切なものにするのです。
 舞台以外で始めて遇ったのは、終戦後間もない或る日、戦時中から文楽が興行していた大阪の朝日会館の楽屋ででした。それから疎開先から引揚げてこられたばかりの京都の木屋町の仮寓を足繁く訪うようになりました。
 その頃は閑さえあれば院本や義太夫に関した古文書を机上に積み重ねて、調べ物に余念がないように見受けられましたが、軈て四ツ橋の文楽座が復興開場すると、山城さんはすでに古稀を超える身で、京都市電、京都大阪間の省線、大阪駅からまた地下鉄−あの頃の交通地獄のこれだけの行程を、毎日供も連れず単身出勤するという矍鑠ぶりを見せるのでした。あの頃の元気さが憶い出されてなりません。雨の日なんかには、たっつけを穿いてゴム長に足を固めたいでたちを、文楽座の楽屋口でよく見かけたものです。
 もう一つすぐ記憶に泛ぶのは、徒然な折にはどこででも、必ずといっていいくらい山城さんの口から、文句の判らぬ程度にですが浄瑠璃の微吟が洩れることです。いつか山城会の会場へ一緒に出かけた時でしたが、雨で傘をさしていたので少し離れて歩いていたのですが、なにか微かな声がするので見ると、山城さんは歩きながら眼をつぶって、そんな途上ででも、いつものそれを始めているのでした。その時のは或いはその日の出し物だったのかもしれません。「旧京阪だと天満橋へ着くまでにだいたい一段さらえられます」と聞いたこともありました。出勤の途中の咄です。お宅で対談している時でも、ほかの室でお弟子さんの稽古が始まったりすると、咄の途切れたあいだ中、山城さんが机の端をそッと指先で叩いて拍子をとるのもいつものことでした。あの頃のことで憶い出すことは幾らでもありますが、わたくしが山城さんから受けているのは、文字どおり芸三昧の人という印象です。
 長い、それも華やかな芸生涯を送ってこられ、功成り名を遂げて舞台を退かれる山城さんをおくるには、この一文はそぐわないものに思われますが、尽きぬ名残りがわたくしに憶い出を誘うのです。
 先夜もNHKの、山城さん、綱太夫さん、大西重孝さんお三人の座談会を聴いていて、大西さんの真情に溢れながらも「お体を大事にして下さって、ご引退後も文楽を見守っていて戴きたい」というようなお座なりに似た挨拶をするしかない苦衷が察しられましたが、わたくしも同じ挨拶を山城さんにおくりたいと思います。が、いまの山城さんが虚心坦懐な心境に安んじていられることも察しられます。
 序ながらわたくしが抱いている希いを言うと、この際因会、三つ和会が合同して陣容を固めてほしいことです。しぜん実現を予想される綱太夫、紋十郎の気塊のこもる対峙にも興味と期待を持っています。次代の文楽を華やかに開花させることが、引退する櫓下への一番の贐でないでしょうか。