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【茶谷半次郎 古靱ノート】

(2016.01.05)
提供者:ね太郎
古靱ノート 幕間 2巻1號 1947.1 pp11-12
 
 文楽座の樂屋口の事務室で、古靱太夫に、近年幕内の顧問をしてゐる八木さんを紹介された折、翌月の狂言の話になり、話なかば八木さんは苦笑しながら、
 「壺坂は人形が五人だしたかいな、て聞いてくるんだつさかいな……」といふ。
 「こゝの表にゐる人で?」
 「さうだんね」
 私はちよつと言葉を繼ぐに戸惑つた。傍らで默つて聽いてゐた古靱太夫は、
 「こゝは、ほんとうに淨瑠璃が好きで、それに浸つてくれるやうな人にゐて貰ひたいと思ひます」と言葉を挾むのであつた。
 この時の、古靱太夫の使つた「浸る」といふ言葉は私の頭に殘り、その後よく憶ひ出す。そして憶ひ出すたびに、その言葉に絡んで私の記憶に泛ぶ、折々の師の姿がある。
 −−シトシトとさみだれの降る朝、木屋町の師の宅から、その日「古靱を聽く會」のある西ノ洞院の「にしき」まで、三條の通りを蝙蝠傘をさしつらね、一緒に歩いて行つた。無帽で、合羽を著て、ゴム長靴に足を固めた師の足取りは、なかなかに早い。途中暫く話が途絶へ、無言で並んで歩く私の耳に、雨の音に混つて不圖微かな聲が聽こへるので、師の方を見ると、師はスタ/\歩きながら、心持顔を振り、口の内で淨瑠璃を微吟してゐるのである。不圖口にのぼつた節調を、無心に娯しんでゐゐ風に見えた。
 −−友人の畫家の山川清君が人形を寫生したいといふので、大西重孝さんにョんで人形部屋へ言葉をかけて貰ひ、山川君と一緒に文樂座の樂屋へ行つた時のこと。舞臺へ出拂つて誰もゐない人形部屋で山川君がスケッチしてゐるあひだ、私は、わざ/\出向いてくれた大西さんと入口近くに坐つて話し込んでゐたが、部屋の前を通りかゝつた出番前の常著のまゝの古靱太夫は、廊下へ足を投げ出してゐた大西さんを見付け、立寄つて部屋を覗くのだつた。入口の框の柱に肘をかけ、額をもたせてジツと山川君の畫帳を覗き込みながら大西さんと取交はす話の絶へ間、またしても師の咽喉から微音が洩れるのであつた。
 −−師の宅へ「一夕話」の材料の話を聽きに行つてゐた時であつた。恰度「古靱を聽く會」のある一、二日前だつた。話なかばに清六さんがその稽古にきたので、私は仕事を中絶して、暑い時分で、そこがいくらか涼しからうと薦められるまゝ、廊下の開け放した障子の蔭に置いてあつた椅子にかけて師の稽古を聽いた。その月の會の師の出し物は「妹脊山」の四段目、竹に雀之段で、低聲でしめやかに語つてゐたが、気の這入つた稽古であつた。稽古がすんだあとで、また師と机を挾んで對坐する時分には、鍵の手に狹庭を圍む向ふの座敷で、雛太夫が同じく「妹脊山」の道行を、清六さんに稽古して貰つてゐるのが聽こえてゐた。師の場合と違つて、かなりに聲を張つた稽古であつた。話の受け應えの合間を、机に載せた師の右掌の指先は、向ふの三味線の間を斷えず輕く叩いてゐる。
 「氣が散つていけないでせう。もうぢきすみますよ」といふしたから、
 「まだ三味線につり込まれて、せき込んで出るんで、清六さんにいはれてるでせう。どうも、あゝなりたがるんですよ」といつて、また耳を傾ける。
 氣が散つていけないのは、私よりも夫子自身であつたのである。
 −−天滿橋で市電に乘りにくい日には、斜かい一直線に文樂座まで歩いて出勤すると聞いてゐる。そんな折の、利久帽子に道行合羽、長靴といふいでたちの師が、單身燒跡の町を歩く長い道中を斷續する、例の淨瑠璃の微吟を、私は容易に思ひ泛べることができる。
 師は「浸る」ほど淨瑠璃が好きな人なのだと私は思つてゐる。
      ×
 昨年文樂座に「良辨杉」が出た時、興行中機會があつて、あまり日を置かずに古靱太夫の「二月堂」を二度聽いた。二度とも、良辨?正が胸にかけてゐた守り袋の如意輪觀音が証據に母子と判り、?正に抱かれて渚の方が泣き入るところで、私は泣かされた。そこは一段のヤマではあるが、いつたいに鳴咽をこらへてゐるところでは涙を誘はれても、聲をあげて泣くところで泣かされる場合は尠い上に、用意のできてゐる氣持を裏切つて、二度目にも同じところで泣かされたのを稀らしいことに思つた。
 よよと噎ぶ、その渚の方の鳴咽には、不思議に胸を摶つ複雜な感情が籠つてゐた。わが子ながら、今はあまたの弟子?に侍かれる聖の身であるを打仰がるゝ心持のうちにも、忍びかねた面會の嬉しさ懷かしさ、と同時に、いつしかかしらに霜置くまでの、越し方の長い憂き苦勞が思ひ返へされ、われと身につまされる哀しさが、いちどに込み上げてくる心持を、縷々とつらねる詞以上にこまかに、切々とその泣き聲が語つてゐた。
 師にもなにほどか用意のあることゝ思はれたので、その後師を訪ねた時、私はそれを訊いてみた。褒める言葉はいつもの眼許にたゝへる微笑で受け流し、師の答へはやゝ的を外す。
 「そりあ……泣くところだからといつて、そこで一ぺんに泣けるもんぢやありません。泣くまへから、じく、じく、とその拵へをしておかなくちやなりません。「酒屋」の宗岸の、こたへにこたへし溜めだめを、のところなんかもおんなじです。……二月堂でやりにくいのは良辨?正の、誠や人界の生を受け、から、年頃日頃?れども、までのあいだのひとりごとです。どうかすると、かうしてお話してゐるやうな調子になりたがります。あすこは、ひとりごとといふ心持を離してはならないのです。また、あのあいだで、じうぶん應えさせなくちやならんのです」――
 「良辨杉」が凡作であることに異論はない。團平の節付を俟つてなほ平坦を?がれない退屈な淨瑠璃である。その、たいして動きのない、さりとて格別の含蓄もない「二月堂」の長丁場を、段切までだれさせず、清澄な氣品と水々しい情愛を盛つて、感銘の深いものに古靱太夫は仕上げてゐるのである。打つてつけにぴつたりと藝質に嵌るものではあるが、この凡作を取上げて、立派に語り物にしてゐる功は古靱太夫に歸せねばならない。