FILE 118−13
【茶谷半次郎 文樂聞書】
(2016.07.30)
提供者:ね太郎
『文樂聞書』 全國書房 1946.5.25 發行
あとがき
舊著「藝と文學」が再版されるのを機會に「鶴澤叶聞書」だけを殘し、その後に書いた「團平の憶ひ出」を新たに加へ、本の題も「文樂聞書」と−−智慧のない題ではあるが−−改めることにした。さうすることによつて、内容に統一を與へたく思つたからでもある。
「團平の憶ひ出」
これはもつと長く續けて書くつもりでゐた。道六師も、それまでに他で斷片的に話したこととの重複を厭はずに、集大成的なものにしたいといふ意向であつた。私も、はずむ心を抑へかねて、~戸の道八師宅へ通ひつづけたのであつた。恰度、話が團平の行状から藝談に立ち至らうとする間際に、計らずも師は~經痛で倒れた。そして病蓐にあること半歳、一時小康を傳へ聞いたが、遂に起たなかつた。結果は「團平の憶ひ出」もこれだけのものに終わつた。−−貰つた娘さん一人を相手の寂しい家庭であつたが、空襲で~戸が燒けてからの、その方の安否さへ私は、知らずにゐる。師が所藏してゐた團平の遺品も、灰燼に歸したのでないかと思ふ。他日のためにと、丹念にそれらを撮つておいた寫眞原版も、私の手許で燒失した。今となつては、とりつく島もないのである。
−−道八師のもとへ繁々と通つてゐた頃、よくそこで、中堅の或る太夫が稽古を受けにくるのに出會つた。たまたま稽古が「壺坂」に及んだ時、師は「團平師匠の節付なさつたものですから」と、稽古の日時ををしへて、私にその稽古を聽くやうに慫慂された。−−私の聽いたのは後半の「壺坂寺」の一部であつたが、傍で聽いてゐる私にもカンどころを教へるといふ心遣ひもあつてか、細かい所にまで行渉つた叮嚀な稽古であつた。そして、それはかくあるべしと思はれる、佗しい味はひの「壼坂」であつた。しかし師の修練を積んだ技巧のうまさは、その若い太夫に蹤いて行ける底のものではなかつた。たとへば山道で澤市が口三味線で唄ふ「憂きが情けか」の唄にしても、師は口をふさいで唄へ、といふ。また唄の末節の「テチン、わが身の上は……」で泣くところも、口で泣かずに肚で泣け、といふ。これだけのことでも、その太夫には、ひととほりは、いはれたとほりやつてゐたが、聽いてゐる私にも納得がゆく程には、しまひまでやれなかつた。−−途中で、師は三味線を膝に置いて、仰むき加減に少し首を突き出し、ふさいだ唇を尖らすやうにして、眼をつぶつて「憂きが情けか」を、はじめから唄つて聽かせるのであつたが、瞬間に師の容(すがた)そのものが、一箇の青白い盲人になりきるのを見て、私は慄然とした。その容は今も印象に刻みついてゐる。泣くところも、師のは、忍ばんとして洩らす切ない嗚咽であつた。藝の技倆(ちから)の逕庭は一朝一夕で追付けるものでないことを、私は痛感せずにゐられなかつた。が、つけ加へておきたいのは、その太夫の謙虚な稽古振りである。私は好感を持つた。その後は、個人的にはなんの交渉もないその太夫の床を、私はそれとなく注意するやうになり、文樂座では、まだ上席の方ではないその太夫の、奮起と大成を望む氣持にも、いつか私はなつてゐるのである。
話は別であるが、序にもう一つ、ここへ書いておきたい道八師の言葉がある。
「これで、義太夫(われわれ)の方は難儀なしよぅばいでして、太夫も三味線もまるで金魚みたいにハップ、ハップと呼吸(いき)をするだけで、一段すむまでは、まともに呼吸ひとつすることもできんのでつさかいなア……」
巧まない、平易ないひ方で、これは太夫、三味線の床に於ける呼吸遣ひを、よく説明してゐると思ふ。讀者の義太夫節鑑賞の一助ともなれば幸である。
「鶴澤叶聞書」については別段にいふことはない。これを書いて、もう十四、五年になる。當時の私には義太夫節といふものの性格が、まだ充分に肚にたたき込まれてゐなかつた。話の受取り方に、手ごころの不慥かさがあつた。裏側へ手を廻して、突つ込んでものを訊くだけの用意は、もとより私になかつた。「鶴澤叶聞書」に、なほ讀者の興味を繋ぐものがあるとしたら、それば叶師が克明な性分から、諄いほどにも念を入れて話をしてくれたことに、功を歸せねばならないのである。
叶師は昭和十七年三月改名して、二代目鶴澤清八を名乘ってゐる。兩三年前から四代目竹本大隅太夫の合三味線を勤めてゐる。
清八師は昨年過つて兩手を挫いた。もう一度撥が持てるかが氣遣はれた。療養中、師は再三、他の三味線で舞臺へ出るやう大隅太夫に勸説したが、大隅は肯んじなかつた。然るに、その後にまた、不慮のことから師は一眼を失明した。重ねがさねの災厄であつたが、本年二月、文樂座再築落成の興行から、再び兩師揃つて床へ出てゐる。−−清八師は左手首にまだ繃帶を殘してゐるが、晴れた面持には憂悶のあとかたをとどめない。氣組に聊かの衰へも見せず、撥はさらに冴えまさつて聽かれる。−−私は心から師の再起を悦ばずにゐられない。
私が、なにゝ牽かれて、飽きずにこのやうなものを書くかをいへば、たとへば團平をして、食膳に箸を措かしてまで技巧(わざ)の工夫に耽けらしたものは、藝といふものを、どこへ持つて行かせようとするのであるか。その深奥の藝境に宿るものは何なのであるか−−朧氣にもそれに觸れたい氣持からにほかならぬのである。
再版に際しても、また池田小菊さんの勞を煩はすこと多大であつた。謹んで謝意を述べる。
昭和二十一年四月十三日
著者