FILE 118
【利倉幸一 茶谷半次郎兄のこと】
(2016.01.05)
提供者:ね太郎
茶谷半次郎兄のこと −その納骨式に際して− この道 28(9) 1972.9 pp8-10
利倉幸一
……(前略)
文楽を愛する場合にも、一流のものという茶谷さんの物尺は変りませんでした。最高の芸というものが、茶谷さんにはすぐに理解されるので、そこでも二流三流への興味は全くなく、結局、茶谷さんの文楽への興味が山城(少掾)さんの死とともにしぼんでしまったのも当然です。
文楽の芸のことについて解説する暇がありませんが、文楽の太夫の中でもっともきびしい芸、あるいはもっとも芸術家らしいと言える山城さんに傾倒されることになりました。茶谷さん自身も義太夫浄るりの稽古を初められましたが、その師匠もまた第一流の人、鶴沢叶……後に清六【清八】となって、先年逝くなった人ですが、文楽では「三味線筆がしら」と言って、第一位の席にいた人です。技術的にも第一流の人です。気むつかしくて、つき合いが悪く、あまり弟子を取らなかった人ですが、その人に入門して稽古を初められました。浄るりを稽古するといっても、いわゆる遊びごとの気分ではなく、実に真面目にその道をきわめようという態度でした。といって、旦那と芸人とのつき合いとも又違うので……そういう態度だったので、山城さんも又非常に茶谷さんを信頼していられました。山城さんから茶谷さんへ来た手紙を見ると、そのことがよく解ります。もの事に対して、すべて一流を求めていられたということがこんなところからもうかがわれます。
山城さんの「聞書」はそういうお二人のつき合いから生れたので、「叶聞書」がその前に「文芸春秋」に連載されましたが、どっちも、一流の芸を鑑賞しようとする人には教えるものの多い文章です。
山城さんがつれ三味線の清六(鶴沢)と別れることになった事件は、近世の文楽史の大きな出来事と言うべきものですが、そのきっかけは実は茶谷さんの書かれた「聞書」から起ったのです。これもつまりは山城さんが茶谷さん相手には生ま半かなことは言わないで、ほんとうのことを言われたところに原因があるのです。茶谷さんが山城さんの言葉をまともに受け止めて、まともな心を汲んで書かれたからだと思います。
……(後略)
(追記・昭和四十年九月十四日、増田荘にて追悼会の録音による。この日大愛堂に分骨が納められた。今年の九月が来ると七年目になる。)