ニットーの「野崎村」は確かに四代目清六ので出ていますが、新左衛門の糸でも吹き込んでいたという話。
大正12年5月1日というから、まだ古靱太夫が二代目新左衛門と組んでいた頃。
「浄瑠璃雑誌」の記者がニットーの住吉工場へぶらりと立ち寄ると、
古靱が新左衛門の糸(ツレは新三郎)で「野崎村」(全22面)を吹き込んでいたので傍聴。
「当今の流行児とて巧みなもの。糸も綺麗であつた。これが出たら又他製品を圧倒するであらう」
と記者氏は興奮気味に語るが、その後このレコードが発売された記録はない。
どんな事情かは知らぬが、「発売されなかったレコード」があったという事。
もしかしたら、伝説の古靱太夫の「岡崎」もこの類だったのかしらん。
<補足>発売されなかったニットーの「野崎村」(22面)については、
安原仙三氏の「義太夫レコードの事」(「文楽」昭和23年2月号40頁)にも出ていました。
(「岡崎!」はやはりニットーで13枚だってさ…。聞きたいなあ…)
ただ、安原氏によれば「野崎村」は13枚とのことですので、26面ということになります。
なお、私のネタ元は「浄瑠璃雑誌」221号(大正12年6月)58頁でした。
今から丁度20年前の昭和53年(1978)10月20日と一週間後の27日の2回、
NHKラジオ第一放送で「思い出の芸と人」という番組がありました。
武智鉄二氏の話で聞き手は山川静夫アナウンサー。
1回目が三代目鶴沢清六、2回目が四代目鶴沢清六という趣向。
なかなか良心的な企画でした。
この1回目で、古靱太夫と三代目清六の「熊谷陣屋」が「大正10年以前のもの」として紹介され、
マクラから「思ひを胸に立ち帰り」までと「アイと返事も」から段切までが放送されました。
武智は(古靱が)「三味線に付いて行くのが精一杯」「引きずり倒されている」と三代目清六を絶賛。
「今はこういうものは存在しませんね」という皮肉も忘れませんでした。(勿論、この「今」は20年前の話でっせ…)
さて、20年前の放送で延々と流れた古靱と三代目清六の「熊谷陣屋」は何時のものだったのでしょうか?
答えは、大正15年11〜12月発売のニットーの長時間レコード(4枚)以外考えられません。
大正15年ということは三味線は四代目清六。
結論。
天下のNHKと武智鉄二氏は、四代目清六の演奏を三代目清六のものと信じ込んで1時間番組を制作し、
オンエアしたのではないか!
この番組のテープをお持ちの方、もう一度第1回目を聞いてみて下さい。
陽性の掛け声、まだまだ未熟な間、「付いて行くのが精一杯」で「引きずり倒されている」のは三味線の方ではないでしょうか?
<補足>例のNHK放送の直前、NHKから出されている「文研月報」の昭和53年9月号の64頁に、
「放送文化財ライブラリー・大正時代のLPレコード」として、件のニットーの長時間レコードが紹介されています。
ここですでに「熊谷陣屋」の三味線は「三世鶴沢清六」と記されており、
全ての誤解(?)はここから始まったのかのかいな、とも思われます。
<補足>1陽性の掛け声…まさにおっしゃるとおりで、声紋分析器にかけても間違いないでしょう。
他のSPレコードに残されている掛け声との聴き比べても明らかです。
2まだまだ未熟な間…完全に古靱の間で浄瑠璃が進んでいます。
三代清六の桎梏からの解放感が如実に表現されています。
色ドメの三味線(の間)に厳しさがなく、古靱に次の詞への余裕を与えています。
例えば弥陀六の「ヤ何にもない」の所や熊谷の「何驚く女房」の所など。
3「付いて行くのが精一杯」で「引きずり倒されている」…
これはなぜ肝心の前半をマクラ少々だけにし、後半を段切りまでたっぷりと放送したかとも関わります。
結局四代清六の華麗で奔放な三味線の快感(悪く言えば弾き倒している)をその最大特徴と捉えたためでしょう。
もし三代清六ならばおそらく放送は前半の熊谷物語を中心とされたに違いありません。
梶原の出や段切りの三味線の手数と技巧は三代清六では不可能な、匠気を溢れさせた四代清六の独壇場ですから。
それからこれは本筋ではない状況証拠みたいなものですが、レコードのキズ音の間隔についてです。
岡目八目翁の御指摘の通り長時間レコードでの録音ならば時期的にも明らかに四代清六ということになります。
で今回マクラの部分に幸い(?!)キズ音がありまして、約2.3秒の間隔でした。
問題のレコードは計算上26回転前後になるわけで、これは確かに長時間レコードでしょう。
LPよりも遅いのなら4枚はおかしいともなるかもしれませんが、盤の直径のこともありますし、
それよりLPほどの精密なトレースが可能だったとも思われません。当然ラッパ吹き込みでしたでしょう。
このキズ音による推定は後半の「重盛卒去の後は行方知れずと聞きしが堅固でいたな…」のあたりでも可能です。
あと、「心をくんで御大将勇みをつけんと」から盤面の雑音と録音レベルが変化して(相対的に大きくなって)いました。
ここから面が変わったと思われます。以下段切りまで10分程度。
4枚(8面?)の状況証拠としてはいかにも弱いものなのですが、とりあえずご報告まで。
(補足:伊吾さん、勘定場)
私ら、年はくっていても「四つ橋文楽座」を実際に知らない人間にとって、どんな劇場だったのだろうというのは興味あるところです。
幟がはたはたとはためいている所や、内部の写真などを見たことはありますが、今一つ見当がつきませなんだ。
溝口健二監督の「浪華哀歌
なにわえれじー」という1936(昭和11)年の映画(第一映画)に、
5分近く文楽の「野崎村」と四つ橋文楽座の客席、ロビー、売店などが映し出されています。
撮影されたのが開場して数年しか経っていない頃ですから、まだまだ綺麗で、
朝日座よりも、勿論国立文楽よりも、重厚な感じが文楽の雰囲気に良く合っています。
人形は、おみつが紋十郎、お染が亀松、久作が玉市、久松が紋太郎のようです。
ちなみに床の三味線は叶太郎(かな?)で、太夫は素人らしい。
床と舞台の部分は京都の撮影所の特設舞台(セット)で撮影したらしく、道理で、客席と舞台とが同じカットの中には出てこない訳です。
団平を扱った「浪花女」のフイルムは行方不明とのことで、今となっては残念ながら拝見出来ませんが、
機会がありましたら、是非「浪華哀歌」をご覧あれ。
<補足>ロシア国立フィルム保存機関<ゴスフィルモンド>に眠る戦前・戦中の日本映画について,
調査にあたった佐伯知紀氏の投稿記事が12月15日付日経朝刊に掲載されています.
そのなかに<抜け落ちていた大傑作>として,<発見された作品の年代は20年から44年に集中している.
本来なら,溝口健二監督の「浪花女」(40年)や,内田吐夢監督の「歴史」(40年)などその時の名作があるほうが自然だ.
だれかか,傑作だけを倉庫から安全な場所に持ってい行ったのではないか>との記述があり,
「浪花女」が欠落していることを報告しています.フィルム群が発見されたとき
もしかしてと期待していたのですが残念でした.
(補足:雲居子さん)
倉田喜弘氏の解説(43頁)によれば、
キングレコードの「大全集」の録音は1961年(昭和36)4月17日の新橋演舞場の「文楽素浄瑠璃の会」とのことですが、
この解説の8頁には4月19日演奏とあり、なんだかよく分からなくなってきました。
確かこれって、途中(忠兵衛の出)から調子が下がるやつですよね。
<補足>忠兵衛の出の前のところ「忠兵衛がことにつき耳打って置くことがあるサここへ,ここへ,とひそひそすれば(ドン)」
で調子が変わっています.「ひそひそすれば」で大夫が音を調整し,これをうけた(ドン)で三味線も調子がさがります.
プロセスは,岡目八目翁が現綱大夫で聴いたものとまったく同じだと思います.(補足:雲居子さん)
「とひそひそすれば」の後で弾かれる一の開放弦「は」の音から下がっています。
そして「気づかいな」の後に三の開放弦「い」の音が弾かれ、この音が調子が下がった確認のダメ押しとなっています。
その「ひそひそすれば」で弥七が弦の調子合わせをして弦を摺っているのがかすかに聞こえているではありませんか!
(補足:伊吾さん、勘定場)
調子が下がるといえば、
平成3年7月の大阪・国立文楽劇場で織大夫(現・綱大夫)氏と清二郎氏(団六氏の代役)が演奏した時もこのやり方で、
<補足>平成3年8月に現・綱大夫氏(当時織大夫)と清二郎氏(団六氏の代役)のを聞いた時のメモが出てきました。
「そこらは粋ぢやと打ち頷き、皆々、座敷へ出でければ。」のフシ落ちを弾いた後、
八右衛門の詞の間に、清二郎氏はコマを替えて調子を下げています。
「サ、ここへ」の後で一バチ入って、次の「ここへ、とひそひそすれば」の後の「ドン」では完全に調子が変わっていました。
この後忠兵衛の出になって、「かくと知らねば八右衛門」の「色」の後の長い詞の間に糸を繰り、
「百六十両の内五十両手付け渡したげな」からまたバチが入りました。
この年11月16日のNHK−FMでの放送もそうでした。
<補足>91.11.16のNHKFMの織清二郎は下がっています。(補足:伊吾さん)
ただ、今年(平成10年)の2月に東京の国立劇場では、同じコンビなのに調子を下げない方でしたね。
さて、このついでに綱・弥七の「封印切」を整理してみようと急に思い立ちました。
このコンビで最古の録音は1:1950年(昭和25)8月5日(録音?)のものの筈で、かなり以前にNHKのリストでも見たことがあります。
ただし、実際の音は、私は確認していません(1960年とするデータもあります…。こうなるともうなんだか分からなくなってきます)。
<補足>吉永孝雄文庫の放送リストhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/Kumiko.Tada/ongyoku/yosinaga.htmに、
1949.8.6 NHK 第一 文楽中継 梅川忠兵衛「冥途の飛脚」新町封印切の場(竹本綱大夫)というのがあります。
年月日が微妙にずれているのですが、ひょっとして、この放送が残った可能性があるのかもしれません。(ね太郎さん:2003.02.08)
次が2:1963年(昭和38)3月17日ラジオ(?)放送。
一週間前の10日に「淡路町」をやはり放送でやっており、ペアで録音されたものでしょう。
ただしこれは調子が下がらない方です(確認済)。
3:1967年(昭和42)10月21日NHKラジオ放送。これは私は聞いていません。
時期的にもかなり辛い状態の時の録音ではないか、と思っています。
4:1971年(昭和46)6月20日NHKラジオ放送。「故人の浄瑠璃を聞く」シリーズの三回目ですので、2か3の再放送と思います。
以前聞いたことがありますが、覚えていません。調子が下がらない方だったと思いますが…。
<補足>4は岡目八目さんの書き込みにある3の方だと思います。綱大夫が変化に乏しく幅も欠けています。
で、これは調子が下がらないと聴きました。時間の都合で「三世相」の後半がカットされて即「八右衛門の出」になっていますが、
変わっていないのは確認できたつもりでおります。(補足:伊吾さん、勘定場)
例の全集のライブ録音はこれら(1〜4)とは別のものかとも思いますが、如何でしょうか?
(ということは、もしかして、調子の下がるのってこのレコードだけなのでしょうか?)
<補足>76.8.23のWX7083の織清治は下がっていません。(補足:伊吾さん)
【訂正】4年前の投稿の訂正を。
>「芸能」といえば、これは昭和34年6月号(p46−47)とメモしたコピーが手元にあります。
>素浄瑠璃の会 安藤鶴夫 34年4月17日から19日、新橋演舞場。
の記事は「芸能」第3巻6号でした。
つまり昭和36年4月17日から19日です。
安藤さんの文に
『ことしも“文楽素浄瑠璃の会”が4月17日から19日まで三日間、新橋演舞場の東おどりのはねたあと、
夕方の6時から開演された。
………
新橋の芸者たちの華やかな空気がただよつていて、その空気を受けて極めて厳粛な素浄瑠璃の会の幕があく。
去年の第一回のときにも、なにかそんな空気がいかにも東京にいるといつた喜びになつたが、
ことしもそれがまた嬉しかつた。』
ということで、『たった39年前のことですが、分からぬ事ばかりぢゃわい。』と言って
岡目八目さんが言及された会の前年ではなく翌年ということになります。
『会場・メンバーからみて、翌35年4月18〜20日の「綱弥会・西東会」と同じ趣旨の会と考えてもよいのでしょうか?
この35年の方は、つばめ・喜左衛門の「酒屋」と「伏見の里」がビクターレコードになつていますので(しかもどちらも名品なり!)、
よく知られていますが、前年にも同じ会があったとは驚きです。』
越路(つばめ)、喜左衛門のCD選集の中にその「伏見の里」が入っていたのを機会に、
以前から気になっていた点を確かめたので、訂正させていただきます。
それにしても、この40年の間に安藤さんの描写した「新橋」も「東京」も消えてしまいましたね。(ね太郎さん:2003.02.06)
4年前(1998/11/15)の訂正、ありがとうございました。
やはりキングレコード「八世竹本綱大夫大全集」の倉田喜弘氏の解説にあるとおり、
あの「封印切」は昭和36年4月17日の新橋演舞場での演奏だったのですね。
結局、先代綱大夫師の「封印切」は
(1)昭和35(又は25!?)
(2)昭和36(演舞場ライブ)
(3)昭和38
(4)昭和42
の4種が残っている筈だ、ということになるのでしょうか。
(1)の年代は未だに確定出来ませんし、何故か(3)は調子が下がらない方です。
とにかく綱大夫師の「封印切」には謎が多く、楽しい限りです。(岡目八目さん:2003.02.07)
「後には一人政岡が」から千松愁嘆のクドキまで、わずか8分にも足りませんでした。
が、実に充実した時間でした。この8分のために早退した甲斐があったというものです。
まず観客の入った座席から見て手摺には文五郎の政岡と千松の死骸。
床上部御簾中央には豊竹古靱太夫と入り、古靱清六両人の座る床は感動的でさえありました。
古靱清六の床は土門拳らの写真でしか見たことがなかったので、臨場感から目頭も熱くなりました。
しかもフィルムが実に鮮明で、ヴィデオからフィルム化した公演記録映画会以上の明瞭さ。
古靱はまだまだ声に張りも艶もあり、この後場の心情吐露を十分にたっぷりと聴かせてくれました。
口捌きもよくライヴならではの高揚感もあり、行儀がよいというよりも実に熱が入っておりました。
足取りや間も言うことなく、やはり古靱太夫は山城少掾より断然良いと勘定場は追認いたしました。
清六の三味線がまた実に流麗で最上の音。このコンビは浄瑠璃の極楽・至上の快楽を現出します。
言っておきますがわずか8分にも足らぬ時間でですよ。もちろん聴かせ所のクドキではありますが。
いやあこれではもうたまりませんね。勘定場なら婬する程ずるずるにはまり込んだに違いありません。
いや、深みとか精神性や語り物の真実をえぐり出しているのは山城である…というのはわかります。
しかしモーツァルトに例えるならば、あの妖しい官能性を備えていなければ神の音楽ではありません。
やはり古靱清六は共に天才であったのですね。(その意味で山城は人間的ということになりますか)
この床ならもう一人の天性の人、文五郎の人形も存分に遣えるはずですし、現にそうでした。
文五郎はやはり非常の人形遣いです。感情の描出の巧みさ、後ろ振りなど型の鮮やかさ等々。
現在の手摺はあまりにも人間の日常的な動きに近づけよう近づこうとしすぎていますね。
文五郎は違います。人形は人形としての美しさがある。それは人間の動き以上の感動を与える。
そのことがよくわかっていた人でしょう。後年の玉昇なんかもフィルムを見ると同質でしたね。
ですから今の若い観客が見ると角があって違和感を覚えるでしょう。
そうです、その「角」です。それはまた伝統的日本の価値観を代表する概念の一つ。
現代的表現を以てすれば先鋭的とでもいいましょうか。
常に死(人知を超越したもの)と隣り合わせの凛とした精神・肉体。
…これ以上書くとまたまた愚痴になりますからここらでやめておきます。
最初に映し出されたテロッブ…
「日本の古典芸術としてユニークな存在を世界に認められている人形浄瑠璃は
その発祥から五百年幾多の変遷を経て明治六年文楽と名乗りを上げて以来、
今や滅び行く日本古典芸術の最後を守り続けているのであります。」
…まあそれを松竹が自腹を切って経営しているということを暗に言いたいのでしょうが。
それにしてもこれが昭和16年ですよ。以来半世紀以上を経過していることになりますか。
そして今や「守り続ける」など21世紀の輝かしい未来の前では禁句ですものねえ。
以前BSで放送された越路喜左衛門の「寺子屋」(昭和45年)。
段切りの「いろは送り」で「散りぬる命是非もなや」と「明日の夜誰か添乳せん」の合の部分、
三味線喜左衛門師がアップになり、その最後のところでにっこりと微笑まれているのです。
三味線を持つと常に厳しかったという師が、奏演中に笑顔を見せられるなどあり得ないこと。
しかしここでははっきりと微笑みを見せておられます。さてこの笑顔の意味するところは何なのでしょうか?
あらかじめ録音しておいた浄瑠璃に三味線の映像を合わせる録画中、
最後のところ(二の音と掛けたつわつのツボ?)で微妙に遅速差が出てしまった、
それで喜左衛門師が「テレビに三味線を合わせるのは難しおまんな」とでも言いたげな微笑みを思わず漏らされた。
この微妙な遅速差は他にも冒頭のオクリの三味線の最後、一と二を掛けて弾くところでもわかります。
もちろん全体的に一定の微妙な差があるのであれば、
映像と録音は同時でも合わせるときに当時の技術では微妙にずれてしまうということでしょうが、
前述のつわつ?では、最初のツボでは撥がおりるのがわずかに早く、逆に最後のツボでは逆にわずかに遅いので、
やはり床の映像用にそこだけ録画したのではないかと思われます。
(視線が向かって右上方にあるのはディレクターが指示でも出しているのではないでしょうか。
この録画とほぼ同じ時期に国立劇場が製作した「文楽」というビデオにおいても、
南部大夫が松之輔の前で「阿波鳴」の稽古をつけてもらう(これはライブです)場面の後、
「巡礼歌」の御詠歌を語る場面のアップがあるのですが、
その際の視線がやはり頻繁に右上方へ向かっていたのを観たことがあります。)
あと越路大夫の浄瑠璃でもわずかながらそれと思われるところがありますし、
最後いろは送りまで語って汗一つなく涼しい顔をしておられるというのもそれかも知れません。
ともかくもそれほど浄瑠璃というものは二度と同じものは奏演不可能な一回性の芸術ということでしょう。
喜左衛門師の左手の動きで気付きましたことを少々。
例のいろは送り「御台若君諸共に」が語られる直前の弾き出しで、
チンチンチン…とえ?のツボとけ?のツボを使ってのクドキ泣きの常套旋律の所、
音声はチンチンチンチンチンチンチンとえのツボを7回弾いた後でけのツボに移りますが、
喜左衛門師はえのツボを押さえた左手中指?を5回で離して人差し指のけのツボに渡されました。
これなども大夫の調子や一段の出来具合その他、その時々で回数が違うということでしょうか。
三味線弾きの変幻自在な所。女房役といわれる所以でしょう。
人形浄瑠璃文楽本の白眉『文楽のすべて』(高木浩志氏著)の「おわりに」の一節。
「テレビで、スタジオ制作のものは、床の義太夫はあらかじめ録音しておくことが多いのです。
いろいろいって参りました三業の、イキの具合からいうと邪道なのですが、
実際上、三日ほどの間に六回も七回も語ってもらうのは不可能ということと、
内容時間を把握したいからという、二点のためにです。」
何度も繰り返し読んだはずの名著ですが、勘定場全くぬかっておりました。
御本人様から直接御指摘をいただきまして、まことにお恥ずかしい限りでございます。
その御無礼も顧みず直接お手紙を差し上げてお尋ねいたしました件に対しまして、
わざわざ次のようにも書き記していただいておりますのでご紹介申し上げます。
「45年は私は東京で「ふるさとの歌まつり」を担当していましたので知りませんが、
それ以前37〜42年は録音していました。但しスタジオのものだけです。中継は同時です。
ご指摘のようなズレを無くする為、口上くらいしか太夫・三味線はとらなかったのですが……。」
どうやら高木氏御転勤の後任者が人形浄瑠璃に詳しくなかったから生じたもののようです。
三十二年一月、ジョシュア・ローガン監督作品『サヨナラ』の一場面用に「天網島の橋づくし」を、
源・つばめ・古住・小松、喜左衛門・叶太郎・勝太郎・燕三・勝平、紋十郎・勘十郎で撮影している。
元々話は松竹に持ち掛けられ『曽根崎心中』の予定であったが、折り合いが付かなくて三和会に回ってきた。
文楽を見に行く場面は三分半。
そのうち舞台が映っているのは約1分50秒。
床が一部分映る場面は二ヶ所。
ひとつは三人四丁(挺ですか?)が横に並んでいる(一人は隠れているのか)。
もうひとつは三味線二挺の下段に大夫二人が並んでいる。
顔はちょっと判別できません。いかにもつばめ大夫(越路大夫)という声はわかります。
まったく聞き慣れない声、ということはこれが源大夫かなあ。
聞こえる詞章は、その昔菅丞相と申せしとき、筑紫へ流され給いしをさればこそ南無三法長き夜の夫婦が命短夜と?
最期は今ぞと引き寄せてつばもとまで刺し通したるひとかたな
人形は主遣いの顔を覆う布が薄いので、治兵衛紋十郎・小春勘十郎で間違いないと思います。
ひょっとしたら三和会のカラー映像としては唯一のものではないでしょうか。
映画の始めの字幕には「松竹歌劇団ガールズレビュー」という横文字は見られるが、文楽に関しては、ありません。
マーロン・ブランド主演。
心中するケリーとカツミが1957年アカデミー賞 助演男優賞のレッド・バトンズ
助演女優賞のナンシー・梅木である。
伏見の里の曲節について話題がございましたので、あるいは皆様ご存知のことかもしれませんが、
この音源の発売当時の資料をご紹介いたします。
この録音は昭和35年の新橋演舞場での実況録音ですが、同年に日本ビクターより発売されました。
その初版には別刷解説が添付されており、その中で喜左衛門自身により、この曲の伝承について以下のような記述があります。
明治21年1月に初代柳適太夫が勤めた頃から、現行の一段ものの形式に纏められたようとのこと。
喜左衛門に伝わる朱と、明治以前の立狂言として出ていた時代の本とは、文章が相当に改められている由。
ただしそれが誰の手によって為されたかは不明。
一中節の常磐御前道行と妹が宿は殆ど原曲どおりだが、この伏見の里はこの二段を要領よくまとめ
更に劇的効果を挙げるために加筆されたと類推するとのこと。
明治初期、二代越路と五代吉兵衛が素浄瑠璃演奏の機会によく出したが、
両者を指導した三代吉兵衛によってかなり改曲のあとがみえ、これは越路の美声を発揮させる意図からではないか。
この越路・吉兵衛から三代越路・二代寛治郎に継承されたのを、喜左衛門が二代寛治郎の門人として受け継いだとのこと。
この新橋演舞場での演奏の際に、喜左衛門は文章を出来る限り原作に復し、
時代に即応して蛇足の箇所を短縮するなど、手を加えたとの事です。
更に口伝として、前半は東風、後半の宗清の出からは西風に語り弾くのが固い約束事との事。
その他の内容は省略しますが、以上、貴重な内容となっています。
残念ながらこの文章が現行CD全集には収載されていないようです。