五、竹本綾瀬太夫
倉田喜弘編 東京の人形浄瑠璃 p328-334
頃日竹本綾瀬太夫に会ふて種々の事を問ひつ語りつす。太夫常の如くゆつたりと坐して徐(おもむろ)にいふ。
▲稽古の始め 大隅さんの談話(はなし)を御記載(おだし)になったのを拝見しましたが、何の芸でも業(わざ)でも一人前に云ふは大抵の事ではありません。私も義太夫では小供の時から随分苦心しましたが、此齢(とし)になっても別に何の事もありませんな。それでお話し申す事と云っても先ず無い位のものですが、折角ですから考へ/\弗々(ぼつぼつ)申しませう。私が義太夫を稽古し出した始めですか、夫れは恁(こ)うです。私は大坂曽根崎の質屋に生れた次男坊ですが、小供の時から身体が弱くて大層痩せて居りましてナ、始終彼処(あすこ)が悪い此処が悪いと医者の厄介にばかりなつて居るので、何か声を出す様な事をしたら好からうと勧めて呉る人がありますから、如何様(いかさま)其様(そん)な事も好からうと謡の稽古を始めましたよ。左様、十二三の頃でした。而(そ)して慰み半分、妙な声を出して習って居ましたが、素謡だから張合が根ツからありません処へ、私の家では祖父も親父も兄貴も皆道楽に義太夫を語るものですから、私は何時ともなしに三味線を入れて演(や)る義太夫の方が面白さうだと考付いて、謡の先生には済まない訳ですが何時ともなしに其の方は止めて了って、終局(とうとう)十四の歳から義太夫の稽古を始めました。師匠は豊沢亀之助と云って私は小勝(こしよう)と名を貰ひましたが、稽古は外にもしました。鶴沢芳次郎と云ふ人や先代の鶴沢友治郎抔にも教えられましたので、一心に勉強する中、十六位の時から体が段々丈夫になり、飯も今まで一二杯より食べられなかったのが三四杯位は食べられる様になって、陰気に茫然(ぼんやり)して居たのが元気附いて陽気な事が好きになる様になって来ましたが、夫れから以来(このかた)、此の歳になる迄滅多に煩った事抔はありません。尤も此頃は胃が少し悪い様ですが是は齢の故(せい)で、丈夫に見えてもモゥ古家(ふるいえ)と云ふ訳でせう。齢ですか、モウ当年六十七。腰の曲らないのが見付け物位なものです。
▲稼業と道楽 時に近頃は素人方の義太夫のお稽古が流行(はや)りますが、今申した通り体の為めには実に好在(ようござ)いますよ。自分の田へ水を引くのではありませんが全く丈夫になりますからお慰みには結構ですが、併し稼業にしたら斯様(こん)な厄介なものはありませんな。私が他(ひと)から笑はれた談話(はなし)をお笑ひ種に申しませうか、義太夫と云ふものを語る仁(かた)のお心得に少しはなりますかも知れませんアハヽヽ。〔七月十八日〕
▲本筋の稽古 前に申した通り自分が好きで始めた義太夫の事ですから、少し宛でも三味線に合ふ様になつて来ると何(ど)うも面白くて堪りません故、私は一心になって勉強しましたが、或時師匠から、お前のは義太夫にはなって居ぬ、夫れ程好きで稽古するものならば尚もつと本式に習ふが好い、と恁(こ)う言はれましたから、義太夫でないと言はれるのは是非がありませんが、何う稽古して何う演(や)れば義太夫を語る事が能(でき)る様になります、と尋ねると、お前のは節を唄ふのだ、義太夫を語るのではない、義太夫といふものは一体腹で語るものなのだ、其の口へ出す一言一句が地から生へて居る様でなければ不可(いけぬ)、と教えられましたから、成る程と思ってそれからは其気で稽古をした処が、何うも苦いばかり、面白い事も何もありはしませんので一時は落胆(がつかり)しました。実に表面で演って居れば世話のない様な物ですが、本式に演つた日には難いものです。多くの太夫さんの中には、義太夫を慰みらしく伸気(のんき)に唄って居る人もありますが、誠(ほんと)に語らうと思ったが最後、一口でも怖くて迂闊に云へた筈のものではありません。其の怖気(おじけ)の境を通り越して、一言一句考へずして自然に義太夫となって口から出る様になればそれが達人ですが、夫れでも矢張り腹に充分の締括(しめくくり)は要(い)る事です。義太夫を語る為めに語る人は少く、義太夫を聞かせる為めに唄ったり話したり読んだり饒舌(しやべ)つたりする人の多いのは誠に歎かはしうございますが、お聴きになる仁(かた)の耳へは兎角語る為めに語る義太夫は面白くないさうで。
▲母に笑はる 私が稽古のし始めに、お前又浚ふのか、実にお前の義太夫を聴かされると頭痛がするから今日は午(ひる)過ぎに浚ってくれ、午から妾は用があって他所へ行くから、と恁う言はれた事がありました。自分では夫れ程お荷物な浄瑠璃とも思って居ませんから、親の癖に愛嬌のない事を言ふ、幾ら蔑(くさ)すにもしろ頭痛がするとは酷過(ひどす)ぎると思ひましたが、後になって見ると、如何にも然(そ)うであったらう、阿母(おふくろ)も嘸困ったらうと分って気の毒になりました。義太夫は今も申す通り語るものですのに、夫れを何の事もなく唄って居ては誠の情(じよう)が写りませんから、永い間には自然飽きが来ます。一度や二度は好在(ようござ)いますが、幾ら艶気沢山の酒屋抔でも唄って居るのを毎日々々聴いて居ると、終(しまい)には嗟(ああ)又「今頃は半七さん」が始まったかと思ふ様になりますよ。〔七月十九日〕
▲相生となる 少しお話が理屈めいて来ましたから、是から又元へ戻って私の身の上を一寸申しませう。前にお話をした通り種々に先(ま)ア修業して、何うやら少しは義太夫らしい物が言へる様になってから、左様、明治元年でした、相生太夫と名乗って此地へ来り、講武所に其頃在った薩摩座へ出てお目見得に五斗を語りましたが、此時の三味線弾は花沢扇左衛門で、人形は陸奥の大掾、先代の西川伊三郎抔の連中でして、今の伊三郎はまだ修業最中でした。処が此座では一芝居より打ちませんで、私はそれから寄席へ出る様になりました。
▲寄席を廻る 寄席へ出た始めは堀留の処に在った五りん亭と云ふので、持主は覚えませんが後では彼(か)の青木弥太郎さんが譲受けた席です。此時の一座は今の様にゴタ/\出て少し宛語るのではありませんから、唯(たつ)た四段で切が私、切前が大島太夫と云って今の鶴沢六兵衛の親父(おや)、三枚目が先の頭取文字太夫、是と口語(くち)が一段ある限(ぎ)りでした。三味線弾は私のが前に申した扇左衛門、大島のが今の蟻鳳、文字のが盲人の清之助で、此頃の木戸銭と云ふものは一番高い処が百十六文、後にグツと値が上っても百五十文位でした。序(ついで)だから申しますが、五りん亭はお客様が三百入(い)らつしやるとモウ一杯で、一体に其頃余り大い席はありませんでしたよ。それから義太夫の定席と云ふ物は当時両国に一軒あった限りで、女太夫の昼席が此の両国の広小路にありましたが、今の様な物ではありません。五十人も来れば大入客留と云ふ始末。ハヽ種々(いろいろ)に変れば変るものです。処で私は五りん亭を打上げて後、薬師や伊勢本を半月替りに打ちました。
▲綾瀬と改名 唯今申した様な工合で寄席を打つ間に、明治三四年頃でもございましたらう、結城座へも出た事がありましたが、人形は矢張り伊三郎の連中で、当時国五郎の派は田舎へ稼ぎに出て居りました。偖て恁(こ)うして東京に居るうち明治も十年となり、其の七月に久し振で大坂へ帰りましたが、此の少し前に私は一寸した事から今の名の綾瀬に改める事になりました。是が二度目の改名で、左様、相生になって参る迄は矢張り小勝で居ったのです。是から段々に改名の事や大坂へ参って団平さんと一座した事抔をお話し申しませう。〔七月二十日〕
▲力士と太夫 私が相生太夫と云って居る頃、私とは兄弟分の様になって居た相生と云ふ力士(すもうとり)がありました処が、其の人が綾瀬川と改名したに就て、折角同じ名で居た者が別々になるのは面白くないと云ふので、私も其時綾瀬と名を取替えました。ハヽ今の名は恁(こ)う云ふ訳なので、別に誰の名を襲いだの何のといふ大した所由(いわれ)はございませんのさ。尤も相生から綾瀬になる間に三年許(ばかり)席を休んで私は横浜に居ったのを、お客様方から、遊んで居たつて仕様があるまい、尚(もう)一度元気を出して語って見たら何(ど)うだと頻りにお勧めがあったので、夫れまで綾瀬と改名して又席へ出ましたのです。力士と同じに名を取替える太夫などは先(ま)ア少うございませうが、其頃には世間から姫路の相生、五斗の相生と云はれましたよ。是は力士の相生が姫路のお抱えであったからで。
▲坂地の興行 偖前に一寸申した通り、明治の十年綾瀬と改名してから間もなく新柳でお名残を打ち、十年振りで故郷の大坂へ戻りました。処で大江橋の芝居へ出る事になり三味線は団平さんと極(きま)ったので、私と二人盃をしたのは七月の十九日でしたが、間もなく初日を出して私は五斗を語った処、お蔭で評判がよくて九月迄前後三月打通しました。次興行には広助の三味線で志度寺を語ったのです。それから九年程坂地(あつち)に居る中、過日(こないだ)の大隅さんの談話(はなし)の中に見えた通り大隅さんとも一座しましたが、又東京へ出て参って東橋亭へ最初に出て以来(このかた)、今まで居続けです。三味線は東橋亭の時から豊造でしたが、御存知の通り後に豊吉となり、夫れから種々替りました。
▲綾瀬の前名 私の以前の名でございますか。小勝と云ふのは或る旦那衆に譲りましたが、此人は素人乍ら伎倆(うでまえ)は確なものです。今は神田五軒町辺に楽隠居をして居られるさうで、子息(むすこ)さんは株式の方へ出てだと云ふ事を聞きました。相生の名は申す迄もなく今の男に襲がせましたのです。彼(あれ)は私の弟子ですから。
▲以前の素人 私も習初めの素人の中は長門太夫を信仰して必死に勉強しましたが、其頃素人には名人上手が多くありました。客に好かれ様などと云ふ慾がなく、唯自分の伎倆(うで)を磨きさへすれば可(よい)といふので、身代を危くして迄皆一心に修業したのですから旨くもなる筈で、旨い素人の処へは商売人が教はりに来たばかりでなく、他の土地から三味線弾が来ても、其の素人の上手を尋ねて何卒(どうぞ)一段合はさして下さいと云ったものです。商売人の方も、其頃は芸道修業の足(た)しと思へば痩我慢などは決して為なかったものですが、今は素人に上手も少いと倶に商売人も己惚(うぬぼれ)ばかり強くなった様に思ひます。イヤ是は些(ちつ)と言過ぎたかも知れません。
次号には愈々、綾瀬太夫が都下男女の太夫の伎倆を遠慮なく批評し、一々其の勝れたる点、其の足らざる点等を説きたる、義太夫好の人々が常に聴かんと欲して未だ聞き得ざりし処のものを記載すべし。〔七月二十一日〕
▲東京の太夫 義太夫と云ふものは情(じよう)を語る筈のもので、其の情が人形とピタリと合ふ処に面白味があるのです。縦令(よし)亦人形が無いにしろ、無ければ無いで尚其の文句の中の人間が、形なくして聴く仁(かた)の目に見える様でなければならないのですから、何方(どつち)にしても情は大切に語る可きですが、何うもお客様に喝釆(うけ)て戴かう/\と云ふ考へが先に立って無い節抔を唄って、情と云ふものは何処へか往って了って居るのが多いのは歎かはしい事ですが、お客様の方にも情を聴いて下さる仁が少うございます。恁う申しては芸人冥利甚だ失礼ですが、東京の仁は芝居はよく御覧になり団十郎の腹芸などを感心なさいます割には、何うも義太夫の方は夫れ程でない様に思ひます。役者の細(こまか)い科(しぐさ)や白(せりふ)廻しにまで気を入れて御覧になるなら、義太夫の腹も少しはお聴き下すつてもよいかと存じます。ハヽア時代から世話になったナ抔と然(そう)言ふ処へも少しは耳をお仮(か)し下さると有難いがあちら抔とは、坂地(あちら)から参る者のよく申す事で、イや是はわれ/\の方の手前勝手ばかり申しましたが、全く太夫の方の気が弱い故、自然お客様に諂(おべつ)かる様になるので困った事です。
▲太夫と三絃 大坂にも今は名人と云ふ程の太夫はありませんな。先ず今の大隅の師匠の春太夫までヽせう。三絃弾では今の広助迄でせう。
▲太夫の批評 東京居付きと云っても好い位此方(こつち)に居る太夫だけで一座を組みましたら、左様ですナ、真打は相生か播磨でせう。先づ五分々々ですから一晩隔(おき)にスケ場と真ですナ。切前が朝太夫でせう。それから三枚目の処が岡太夫か織太夫。是も先づ五分々々でせう、と恁うばかりでは御得心の行かない仁もありませうから一寸其の伎倆(うでまえ)を申しませうなら、相生は私の弟子ですから褒るのは可笑い様ですが、兎に角数年の間文楽で修業しましたから何うしても浄瑠璃に貫目(かんめ)があります。播磨太夫は幾歳(いくつ)になっても美い声で絃に映りがよいのは、誠に結構な咽喉と申すより外はありません。それに永い間の功もありますからナ。朝太夫は近頃段々貫目が出て来ましたが、落す処が何(ど)うも義太夫らしく無いかと思ひますな。お客様の喝釆(うけ)て下さるは何よりですから、今少し情を持って語ったら天晴の立者になりませう。岡太夫は情合もよく突込んでも語りますから大層結構ですが、少しまだ貫目の足りないのが何より残念です。織太夫は巧者でもあり貫目もあり何と云っても年功ですが、腹が弱いので巧者な割に何うも感(こた)へない様ですナ。併し恁うは申したものゝ、誰の浄瑠璃が本筋だの間違って居るのと申す処からばかり順を立てたのではありません。一座を組むには貫目や何かも考へてする事ですから、何卒(どうか)其辺の処も御含み下すつて。左様ですナ、此末の処では朝太夫が望みは一番ある様に思ひますよ。女太夫ですか。何と云っても親父の清八の仕込だけの事はあって小清です。女にしてはよく語りますが、併し弾語(ひきがたり)は無理です。何様(どん)な上手でも弾語では信実の情が映りません。弾語で立派に演(や)つたものは中古の名人と云はれた昔の蟻風位な者で、是は浮世離れた立派な立者ならでは迚も伎倆(うで)ばかりで能(でき)る筈のものではありません。
筆者記す。右の太夫の批評は予て筆者が聴置きし処のものにて、綾瀬は年老いたる今になりて人々に悪(にく)まれんは忌なれば決して他言は御無用に願ひたし、御懇意づく故お話し申すなりと其時堅く口止めしたれど、義太夫好(ずき)仲間に評判区々(まちまち)なる太夫達の批評を綾瀬の忌憚なくなしたるは珍しがる可きに一人して耳に蔵(しま)ひ置くも詰らずと、此度綾瀬に逢ひし序(ついで)、否(いな)むを強て説付けて纔(わずか)に得心せしめ、即ち爰に掲載せしものなり。
〔七月二十二日〕
〔『毎日新聞』明治三十二年七月十八日−二十二日〕
参照:高岡宣之 縁のはし