高岡宣之 縁のはし
「文楽」3巻8号 25〜28 1948.10
私の親友A君は東京に於ける素人義太夫のベストテンに列する人だが、そのA君の話を聞いて感心したことがある。以前には東京のベストテンと上方のベストテンとが年に一度づつ競演する慣はしであつた。場所は、今年東京方が大阪へ出掛ければ來年は関西方が東京を訪問するといふ順番制度だつたさうで。A君はその催しに参加する都度、関西素義を観察する機会を得たわけであるが、東と西とでは格段の相違がある。芸の巧いのは当然だとしても第一にちがふのはその生活だといふ。
失礼な話ながら東京のベストテンには殆んど金満家はゐなかった。関西の方は何れを見ても富裕な風流人で、東京方が大阪へ出向く場合は関西ベストテンの中の誰かの家に泊めてもらへる。それが立派な邸宅ばかりである。上方勢が東京へ遠征した際は、東京ベストテンにお泊め申すほどのお屋敷がない。また、そんな心配をしないでも上方勢は東京の御別宅か一流の族館へ泊るといふのである。
お金持といふだけなら感心などしないが、芸を習ふ態度がえらい。彼等は堂々たる師匠を選び、弟子の礼をつくして師匠に接する。しかも一段を三年でも五年でもかけて身につけるといつた悠々たる学びかたである。だから文楽の専問家がそのアマチュアの或人にはものを尋ねることさへある。この話から私は、関西人の生活の豊穣感を味つた。
「音曲の司」といはれるだけあつてヴオリウムの点では邦楽中義太夫節に及ぶものはない。そして、そのヴオリユウムを培つたのは関西の土であることを、その時しみじみと感じた次第だ。例へば新内のやうな鋭角的な音曲は上方には生れない。大陸の文化が日本へ輸入されてからだん/\日本流の小じんまりした形になつた、それと同様に上方の浄瑠璃も江戸へ入つて常磐津、富本、清元、新内とだん/\細く鋭くなつたのは両者の土地柄を考へるときわめて自然である。
今度の戦争で一夜乞食や俄大名が数知れず出来た。関西の富裕な風流人の中にも家藏を失つた人々がゐるかも知れないが、その強靱な生活力にものをいはせて相変らず浄瑠璃をうなつてゐる向きもすくなくはないだらうと思ふ。文化的にも大きな転換が予想されてゐる今日、傅統芸術の保存には正しい認識が必要であるが、、終戦後若い学生の間に歌舞伎耽溺者が現れたり、文楽の、人形浄瑠璃が東京で意外の人気を博したり、古典尊重者の立場からは喜んでよいのか悲しんでよいのか分らぬやうな現象が氾濫してゐる。
この調子では混乱期の後の荒廃が思ひやられる。落ち行く先は九州相良でなければよいがと案じ、A君から聞いた関西ベストテンの如く郷土に根を張つたよきアマチュアの健在を祈るものである。
このA君は東京人でありながら父子二代の義太夫びとで、日常の会話では火鉢をシバチと発音するくせに浄瑠璃ともなれば質屋をヒチヤといふ。あれが逆に訛つたらさぞ面白いことだらうと思ふが決して間違へないから、感心だ。私が、太棹だけは上方の人間でなくては駄目だよといへば、だつて古靱さんは江戸ツ子ぢやないかと即座にやり返す。私はテクニツクを知らないから彼と論争はできないが。山城少掾の至芸にはやはり東京人らしい線の細さが感じられる。芸のスタイルでなくてその底を流れる生理的な問題である。
山城少掾を考へる度に、私は長唄の吉住小三郎を連想する。
明治以後、東京にゐて本場の上方に匹敵する太夫といへば竹本綾瀬太夫ぐらいなものであらう。その綾瀬太夫といふ名前には私も親しさを感じる理由があるので、こゝに彼について聞いたことを少しばかり記して見る。
彼は大阪出身で生家は質屋だといふから相当の家だらうと想像される。色の白い、人品のよい、大店の主人に適はしい風采の持主だつたさうである。住居は日本橋の浜町にあつた。門構への二階建て、といつても上下で四間ほどの狭い家で、そこに細君のおりきさんと、女中と、お抱への車夫とが住んでゐた。辰さんと呼ぶその車夫は後には通ひになつた。綾瀬太夫は風釆の示す通り人柄も至つて鷹揚な性質で、金銭のことなど全然かかずらはなかつた。それで経済の方は細君が切り廻すのであるが、このおゆきさんといふ人は横浜の某妓楼の娘で、綾瀬大夫に惚れて一緒になつたといふことで、金づかいが荒かつたらしく、暮らしむきは豊かではなかつた。おりきさんには綾瀬と夫婦になる前の娘が居り、孫も出来たのだが、その娘も孫もやがて死んでしまつたので家庭は寂しかつた。
彼は寄席へ出演するほか、立派なお屋敷方へ出稽古に行つてゐたから或程度の収入はあつたのだらうが、肝腎の細君がそんな風なので余分な蓄へはなかつた。彼の芸風についてはくわしく御存知の方も多いだらうから省略しやう。世話物、特に艶物は得意でなかつたらしい。現在文楽にみる相生太夫は彼の弟子で、その死後綾瀬太夫を継いだ先代相生太夫の子である。
彼は死ぬ少し前に養女をもらつた。彼のところへ義太夫を習ひに來てゐた十九才の娘で、家は京橋長崎町の商家であつた。その娘(名前はムメヨ)が養女として彼の家に入つた翌々年、すなはち明治三十四年の九月二日に、綾瀬太夫は長くも煩はずに長逝した。俗名中村彦兵衛、享年六十九才。法名は実相院音誉綾翁居士といふ。葬られた寺は淺草山谷の源照寺、浄土宗であるこの源照寺は関東大震災後の区画整理で東京葛飾区高砂へ移転した。彼の霊は此処に眠つてゐるわけである。
主人を失つた中村家ではたちまち生活に困つてしまつた。細君は綾瀬太夫より年上だから此時は七十を越してゐる。養女は二十そこそこの小娘である。女弟子でも初代綾之助は世間から喧がれてゐたが、綾梅と名乗る彼女はあまり席亭へも出なかつたし、根が父親の趣味で習ひ始めた義太夫ではあり芸人としての玄人意識は稀薄だつた。師匠なり養父なりの綾瀬に死なれると途方にくれたのは無理もない
彼女は意を決して新橋の花街へ身を投じた。周囲の者は、そんなことをしないでも父の跡を継いでお屋敷方へお稽古に行くとか、弟子をとるとかしたら生計が立つだらうといつて引止めたのが、妾にはそれだけの資格がないと言張つた彼女は、新橋の寺島家から綾之助といふ妓名で左褄をとる身となつた。さうすることによつて養母の愚痴を聞かずに済めば彼女は満足だつた。
その頃の新橋には太棹芸者は珍しかつたので彼女は無経験な素人から飛込んだ割合には繁昌したらしい。それには彼女のかなり放膽な性格が花柳界の水に合つたといふことも考へられるだらう。綾瀬太夫の細君のおりきさんは明治四十一年に死んだ。横浜の実家の関係でこれは品川の本光寺(日蓮宗)へ葬られた。
さて中村ムメヨの綾之助は一本立ちとなつたので年と共に驥足(?)をのばした。彼女は江戸前の名妓にはなれなかつたが、一種の風格と気骨とを具へて居り、表面磊落な、物に屈托しないとりなしが一部の客筋に珍重された。彼女は養母の桎梏からは脱れても実母を世話しなければならなかつたし高等工業へ通学中の弟をも庇護しなければならなかつた。実をいふと、長崎町の親元も彼女の生れた家ではなかつたのである。綾之助は内心の孤独感をまぎらす酒が本職となり、豪酒家として勇名を馳せた。
彼女は新橋にゐた頃、当時の名力士駒ケ岳から結婚を申込まれたが、芸人の女房になるのは嫌だといつて拒絶した。役者や文士のやうな柔かい人種よりも政治家の方を好いたらしい。
彼女は何時の程よりか西郷南洲を崇拝し、わざ/\鹿児島まで旅行したりした。本郷座で西郷さんの芝居を上演した時は毎日見物に行つて、しまひには木戸御免になつたといふエピソードがある。原敬の愛顧を受けてゐた彼女は、同氏が東京駅頭で刺殺されると間もな芸者の足を洗つて上野へ南洲庵といふ名前の貸席を始めた。震災後、転じて芝公園の紅葉山へ南洲庵の看板をかけた。彼女自身は有髪の尼のつもりだつたが、其処へは政界実業界一流の名士が訪れた。
五十になつたらこの商売を廃めて諸国行脚に出る、妾が死んだら灰にして海の中へ吹き飛ばして下さい、などといひながら彼女はよく酒を飲んだ。そして、昭和四年の十一月に四十八才でその生涯を閉じた。もちろん、夫も子供もなかつたから、長崎町の姉と、大阪住ひの弟とが相談して召使の者に中村家を相続させたが、数年後にそれも死亡したので家は絶えてしまつたのである。中村ムメヨも養父と共に、京成電車の高砂駅から歩いて十五分ほどの源照寺に眠つてゐる。檀家としてその墓所を看てみるのは長崎町の姉(彼女の異母姉)である。
綾瀬太夫のことを措いて養女の一代記みたいなものを書いてしまつたが、名人綾瀬の跡はどうなつたかといふ言葉を時折り耳にするので中村家廃絶の顛末を記して見たのである。以前、岡鬼太郎先生が綾瀬太夫の墓を尋ねてゐらつしやると聞き、早速お知らせするつもりで居りながら不精してゐるうちに、先生は故人になつてしまはれた。
...ところで、この話に出てくる長崎町の姉といふのが、実は筆者の法律上の祖母なのである。筆者は、お盆とかお彼岸とかには祖母の代参として綾瀬太夫の墓詣でをするのである。その墓前に立つと何時も明治時代の華やかな芸界風景が、さながら自分の見聞した過去のやうに胸中を去来する。
頃日、川口松太郎氏と雑談の折から偶然その話が出た。川口氏の菩提寺も山谷にあつた源照寺だといふことで、世間はひろいやうでせまいものだと思つた。(演劇評論家)