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【 浄瑠璃新報 義太夫ラジオ評 】

(2024.12.08)
提供者:ね太郎
 
54 1938.1.1
近頃放送浄曲漫語(一)
 禄々如
 文楽座中堅組を鞭撻 [仮名手本忠臣蔵 1937.12.10]
 本拠の文楽座を二ユース映画にとられたうらぶれの人形浄瑠璃を北陽演舞場での短期興行の中継放送で源、駒、文字これをきいて感慨を禁じ得なかつた。いつも身売りを語る駒が珍しく二つ玉へ廻つてゐるため、この場だけは精彩があつたが、源の山崎街道も文字身売りも一向冴えなかつた。山崎街道での勘平の「一分立て給はれかし」の気のなさ加減、身売りのおかるの哀艶味乏しく「どうせうぞ勘平殿」がとつてつけたやうに思へるほどおかやに真実味がなかつたり、勘平の「二ツ玉にて打ち貫かるゝよりも切なき思ひ」が上の空だつたり、実に愛想のつきる不振さだつた。
 「文字太夫は故越路太夫の古い弟子だが、経験家の割に停滞してゐる。もつとも義太夫とはこの太夫が凡そ数十年文楽で修業にくるしんで未だにこの境地にゐる如く至難の業である」と三宅さんはその「文楽物語」の中で嗟嘆してゐられるが、その位その道でくるしんだのがほんとなら、もちつと聴手の膝に手をおかせる所をせめて一ところだけでもきかせるべきだらう。よし又下手なら下手なりに芸に打ち込むだ演者の魂の鼓動がきゝたい。好きで入つたこの道のためなら、よしや力及ばずとも古典芸術の孤塁を死身になつて最後の一人まで守るだけの熱と心意気は示すベし。こんな性根の据え方ではその熱の足りなさ、愛の不足が一層滅亡に拍車をかけたと、側から非難せられても返す辞がないはずだ。猛省奮起を懇願する
 十二月五日の南部の「流しの技」本年掉尾の浄曲の大物と期待をかけた十七日の大隅の「金閣寺碁立の段」いづれも御多分に洩れない拙いものだつた。ひつくるめて文楽座中堅組の緊褌一番を重ねて切望する次第である。
 
56
豕 風流動物園 38.2
 
57 1938.4.1
近頃放送浄曲順礼記
 六々魚
一、つばめ太夫の復帰と「妹背山」 [1938.3.7]
◇妹背の山の段の掛合を庵迄しか聴かず、肝心の後半を割愛して出来栄の批評をする事は甚だ心なきわざと思はれるが、全体の総和的な成績を云々するのではなく、太夫個々についての小感を述べる分にはさしつかへあるまい。第一この大物を若手に任せたのも一ツの英断だし、メンバーも充実してゐる。きかぬ前から清新な魅力がほのかに感ぜられて食指はしきりに動いてゐたのだがこれではどうも。
 シンになる相生太夫、素直な健実な芸風にかね〳〵好意をよせてゐる人だが、大判事はこの人の身上としては上乗、就中「この国境は生死の境」など危気のない貫禄を示してゐた。が何んといつても一番呼びものとなり興味をそゝつたのは復帰第一回出演のつばめ太夫の定高であつたらう。
 この人が新義座を見すてゝ文楽座へ復帰したことに就ては、甲論乙駁愛義家の関心は今やつばめ太夫の身辺に悉く集中されてゐるからである。
「恩師の大局的見地に立脚せる説得により私の歩むべき最善の道」と信じての彼の行蔵も、恵まれた環境と輝しい将来を約束されてゐるだけに分がわるく、残留組の苦難の立場健気な決意に同情が集ままるのもこれが世間並の現象で、師の古靱太夫と共にジヤナリズムの雷同的な包囲攻撃をうけるのも致し方のない事だが、然し元々つばめ太夫の前年の思ひ立の動機は一途に文楽座の衰頽を憂へるのあまりの興行政策に対する不満-自己の芸術の行きづまり打開の焦慮に外ならず、それはむろん一朝一夕の出来心ではなく、考へぬいた揚句のぬきさしならぬ唯一の道であつたにしてからが、師父に弓ひいても飽まで初一念を貫徹せねば止ぬといふほどに突きつめた先駆者的な悲壮な決意は固めてゐたわけのものではなかつたらうと私には思はれる。彼はどこまでも信念のためにも名分のためにも師恩を踏みにじることの出来る人ではなかつたのだ。
 ある場合師匠が自己の立場の切なさ、不利をかへりみず、愛弟子の願ひの真剣さに感じ宏量よくその自由を認め、彼の将来の為といふ観点から理解あり涙ある許しが出なかつたなら、彼はけつしてあの時文楽座をはなれてはゐなかつたに違ひない(昭和十一年一月十五日大毎所載(文楽騒動余聞「飛び去るつばめに親鳥の悲しき恩愛、愛弟子の後姿にそゝぐ涙、純情古靱太夫語る」参照)
 往年猿之助が同志を裏切つて松竹へ舞ひ戻つたのとは、まるきり動機も過程も結果も比べものにはならないはずだ。
 だから「もうよい加減浮世の塩も嘗めてきたらう。何時迄も追ひ放しにしておけない」と手許へ呼び戻したがる親心のありがたさ勿体なさに抗し切れなかつたのはまことに道理至極の事なのだ。ましてや彼の復帰が衰頽の文楽座の補強工作となるにおいておやだ。
 とまれ師恩に殉じたるつばめ太夫の殉情-とからう批判を絶せるものと私は見たい。
 それはともかく二年間の新義座での所謂塩ふみとしての修業は無駄でなく人間も芸道も充分に練り上げられてゐることだらうが、画期的な飛躍を望むは無理でも、今度の舞台でそれをいさゝかでも感じたかつたのであるがあんな前半だけでどうにもならなかつたが、「切つて接木を致さねば太宰の家が立ちませぬ」の一言はよしや偶然の吻合とはいへつばめ太夫現下の心境抱負の力強い端的な披瀝ときくとき千釣の重さあり末頼母しく思はれたのであつた相三味線団次郎弱冠の身で老巧道八を向ふへ廻して片山を弾きあまり聴き劣りせぬはえらい。古来からない事だそうだ精進を祈る。
 伊達太夫の雛鳥-定めし又例の美声を鼻にかけての当て節に満腹する事と覚悟してゐたに案外神妙で、王朝時代の姫御前らしい気品もそれと肯けたが「法度を破つてこの川の早瀬の波もいとふまじ、いづく如何なる方へなりと連れて退ゐて下さんせ」と情に激する処になると、声にひきづられて魂を忘れた迂かつさを曝露した。
 源太夫の久我之助は詞があまりきつすぎる。颯爽とした意気が感じられる位だ。も少し淋い陰影がほしい。その上地合が拙い。「我も世上を憚りて--籠鳥の雲井をしたふ身の上を」このあたりが殊に辿々しくモガ〳〵として歯切れわるくその上節調に美しさが感じられず、退屈できいてゐるのがやり切れないほどだつた。
 
二、清糸の「壼坂」に呆れる
 □この人の芸に真実が見出せないとてむきになつてぼやくこといきさか大人気ないがこれはあんまりひどすぎた。
 前にも一度昭和八年の一月にきいてゐるが、その印象記をひらいてみたが散々だつた。それから足掛六年にもなる。少しはましになつてゐるかと思ったにやつぱりさとりはひらけとらん。枕からすでに甘つたるい、いや味な語り口口先で上ツ面をなで廻すだけでなく、も小し真面目に気分情景を語り生かすつもりでは演れないのだらうか、手本をしき写しにしてのにじりがきのくせに、小癪にも語り勝手のよいやうにとんでもないところにイロつけるのだからやりきれない。例へば「妹背の川を」のをの産字を浮々と唄ふ如くに間延びさせて寂しい遣瀬ない情趣を削ぎとり、その代りに歯の浮くやうなイロを喰つつけてゐるやうに。
 いや、それよりも聞きづらかつたのは沢市の詞だつた。あの冒頭の「オヽお里か--そなたわしが三味線弾くがよい気げんに見ゆるかや」の一言だけきゐても、この道に彷徨幾十年、遂にあの時の沢市の心持のかけらさへのみこめてゐぬと笑はれても返す詞はあるまいと思ふ「--もうく気がつまつて気がつまつていつそ死んで退けう」と早口にチヨコマカとまくし立てる空々さの何処に沢市の絶望と苦悩が感じられようぞ。猶又「ソリヤモウおれはこのやうな盲目殊にえらい庖瘡でモ見るかげもない顔容、どうでわれの気に入らぬは無理ならねど」もああ言つたのではひがみと妬心にきいなまれてイライラしてゐる沢市の深刻悲痛な心の容は皆無聴手の胸に響かない。以下沢市の詞は悉く空虚で軽跳でテンポが早過ぎて間に含蓄味なく、緩急頓挫抑揚の技巧だけ型通りやつてゐるのだが、実に不真面目なやつつけ浄瑠璃で慨嘆に堪えない。
 私は近頃同じ放送をきゐてゐるズブの素人に何も誘導せずに率直な自発的な所感をきいて廻ることにしてゐるが(もつとも誰かれといふものの人並の人情を解し素直な鑑賞態度の人でなければならないが)誰にきいても沢市の詞のなつてゐなかつた点を第一に揚言した。
 大衆の耳はきくらげに以てけつしてきくらげでないのだ。
 あまりに完膚なき苦言も皆これ仏心鬼手に外ならぬと諒したまへ
 暴言多謝。
 
60 1938.7.1
近頃放送浄曲覚書
古靱太夫の『葛の葉子別れ』絶讃 [1938.6.9]
      中野孝一
 「葛の葉」の伝説は幾内生れの私達には幼ない時から脳裏に浸み込んでゐるなつかしい物語りです。殊に三つで母親に死別して寂しい少年期を過ごしたひねくれものゝ感傷は、莚小屋で時たま演じられた田舎役者のこの芝居の佗しい演技に、どの位切ない妖しい魅力を覚ゑた事でせう。しかし古ぼけた記憶の糸をたぐつてみても瞼に浮かぶ幻影はうすれてしまつて只無精に遣瀬なかつた悲しみが生々と思ひ出されてくるだけです。
 荒唐な取材で人間離れの世界にもつとも切実な万古不易の人情味を盛り上げてゐる異色さに強味があり、生命の長い曲でなければならぬのに、めつたに観も聴きも出来ないほど上演されないのは、舞台的な華やかさが乏しく、同じ系統で本家筋でありながら分家にあたる「柳」等より節調が淋しくて地味すぎ、筋立も又単純なので俗受がせぬためとより思へませぬ。
 だが浄曲の本質から言つても、私自身の好みからいつても、詞の多い歌舞伎化した正本ばかりの中で、全曲が音楽的に渾然としてゐて而も抒情的風韻掬すべき斯曲などこそ一ばんに珍重すべきだと思ひます。
 六月はじめの夜、津太夫の「忠九」の放送がありまして、浄曲党には大物ばかり続けて聴けたうれしい月でしたが、この「忠九」なども喧ましい由緒やむつかしい口伝づきで大物の随一に祭り上げられてゐるにも拘らず上述の意味から私にはこの相場付がも一つ肚にはまりかねるのです。
 本紙前号で柳原伯が古靱太夫が昔語つた、この曲を激称されてゐたのを拝見し一入渇望を禁じ得なくなつた矢先、こちらの意中を見ぬいたやうな出物にどれほど狂喜した事でしたらう。
 凶刃に倒れた先代が得意の一ツで、あの最期の舞台につとめてゐたといふ因縁つきのものゝ由、あれから今年が五十一年目、追福の心持もあつてであらうかとも思へ語り手の心掛が床しくも偲ばれもいたしますが、何にしても放送浄曲近来の大収穫でした。
 斯道の大先覚として私の常々敬愛してゐる本会評議員三宅周太郎氏はかつてその古靱太夫論中「日本古来の芸術として義太夫の如き深遠高潔の完成芸術に簡単な批評結論は躊躇するが、一口に言ふなら、摂津大掾は義太夫を美的に完成した天才、越路太夫は之を壮烈に掘り下げた天才であり、今日の斯道では古靱太夫の持つてゐる抒情味、凡そ義太夫の一番本質的な生命であるはずの抒情味--それは今日のところでは彼一人の外にはないのである」と、古靱太夫の芸の特質をもつとも端的に的確に道破した卓説を述べてゐられるが、語物は丁度三宅さんの曰はれる義太夫の本質的な生命の溢れた逸品であり、語り手は多年不断の精進研鑽によつて抒情味の表現に、比類なき一生一面を開拓してゐる当代斯界の第一人者-その人が自分の真骨頂を思ふ存分発揮出来る会心の語物を提げての放送です。わるからう筈が無いではありませんか!
 まことに荘重、朗々、幽麗の音吐は古典の風韻匂やかに、繊細精緻の限りをつくした技巧の妙は、夢現荒唐の物語りの中の特異な抒情味を現代人の胸奥の琴線にも触れしめ得る不思議の魅力を持つてゐます。古典味と現代味--一見相背馳する二つのものが極自然に渾融して特種の雰囲気を作る芸境に至つてゐなくては、こんな超自然の物語の世界へ聴手を引つぱり込んで芸の醍醐味に陶酔せしむる事はとても出来ないのではなからうかと思ひます。
 
 以下耳底に残つてゐる妙所を列記してみますと
一、「あそこにも葛の葉こゝにも葛の葉」で保名の慟乱の心状を如実に活写せる卓技
二、「われはまことは人間ならず--や、再び花咲く蘭菊の千年近き狐ぞや」のあたりの工夫に超写実の秘技をつくして陰影を濃くし深刻さを加へて効果を増した霊腕三、「愚痴なる畜生三界は人間より百倍ぞや」と悲痛腸を寸断する愛別離苦の絶叫は、人間界の人情のそれにも倍して、脈々切々と胸をうちます。ここで精一杯ふり絞つた号泣のあと「殊におことを儲けしより」と楽しかつたまどゐの回想に入る「殊に」を、ことに低めて沈痛に語り出す心憎きまでの皮肉な巧さ。それにつゞいて断ち切れぬ尊い母性愛の発露とそのいぢらしい繰言を、古い口伝書にもあるやうに一句一句にも気を入れて情愛を語り、一滴づつ涙をぬぐふては名残を惜みます。このくどきがいやな感傷でなく一面に詩化された哀傷で色づけされて平遠にして而も万化至妙の音律にとけ込んで語られて行くのです。実に神彩変々たるを感じます。
 どゞ、千万無量の惜別の情を籠めた「抱きつき抱き上げ抱きしめる」に至つて、情味横溢の独自の表現に三嘆、この神経の細かなるこの執着の強烈なる、この人の現代的語り口の一面が覗かれるではありませんか。
四「恋しくばたづねきてみよいづみなる信田の森のうらみ葛の葉」の歌は之こそ千古の絶唱なだらかに渋い呂の声で朗々綿々と別離の悲しみを唄ふ。この歌の持つた情感をもつとも完全に生かし切つた歌ひぶり--型をぬけてゐてそれでゐて渾然としてゐます。謂ふところの詩歌の朗詠性を立派に発揮せしめた快事として銘記すべきでせう。
五、最後に忘れられないのはあの段切の温かい湯が流れ入るやうに、ひたひたと胸を潤す甘美な情調です。これは私には特にありがたかつた。取りのこされた童子の上にさしのべられる愛の触手温柔な抱擁--悲しみ極つたはての一種の救ひとしてのこんな情趣は、吾古靱太夫を俟つてはじめて語り生かされ得る独壇場であらうかと思はれます。
 信田の森へと--あの語り納めの余情と神韻漂渺味は、如何にこの夢幻曲の終曲にふさはしい、うれしい余韻でしたらう!善哉-善哉--
 
 本会の柳原専務理事が前号の「浄曲の追憶」の記事中に古靱太夫の「葛の葉子別れの段」を大正六年の六月に故杉山翁と共に聴かれ今一度機会があらば是非聴きたいものであるといふことを熱心に書かれたのであるが丁度其の後間もなく本月(六月)九日の晩に同太夫が大阪で語つたそのラヂオの放送を聴かれこれで拙者の渇望をみたすことができたと大に満悦せられた、そして其の晩の太夫の演出も頗る上出来で以前とは年を経ただけ芸も枯淡の域に入り津々としてつきせぬ妙味があつたと深かく感心の意を表して居られた
 
 
65 1938.12.15
近頃放送浄曲覚書
古靱太夫の玉三その他 [1938.10.10]
      六々魚
 年内すでに余日無之のみならず国を挙げての戦時体制下に、相も変らぬ浄曲無駄咄悠長らしく書きつゞけ候事いさゝか心苦き感なきにしも候はねど、浮かれ気味のてんがう書きにては更に無之、これでも精一杯の本気仕事のつもりに候へば、御憫笑下さるとも御叱り下さるまじく候。
 さて時代おくれとさみゝる浄曲に始終異常の関心を持ち連け、同じやうな語り物のむし返しに新しき刺戟と魅力を求め真実を探らむとせる私の悲願は、識者の嗤笑を買ふに過ぎざる悲ししき努力かと存ぜられ候へども、幸ひに欝然たる巨匠古靱太夫健在にて五十年苦難の芸道に彷徨してすでに円熟の妙境に至りながら今尚一日も研究工夫に懈怠なく、古典の風格を損はずしてたへず芸術の香り高き何かの新味を加へて現代人の鑑賞に資せむと心掛くる精進振りは私共の尤推重措かざるところにしてこの人あるが故にこの淋しくも悲しき浄曲順礼の旅も張り合ひあるわけに御座候。
 過般(十月十日夜)文楽座の中継の「玉藻前旭袂」三ノ切はこの人文楽座にての初役とか、あまり口に適ひかぬるものとて今まで手がけずにすておかれしものに候はむが、近来不得手のものにも真摯の研究的態度もて敢然手を染むるを常とする師の芸術的良心と熱意によつて、此語物にも自家独特の味づけをなし十二分の自信のもとに床に上せしものと存ぜられ候。
 いかきま瞑目端座してスピーカーに向ひ候へば、一パイに堂に満てるらしき観衆の熱狂的拍手、冴ゑた柝の音、口上の古風さ、太棹の音色に融け合ふ幕明直後のうれしき雰囲気と共に師の気魄!この時すでに小生の熱腸に滲透するの思ひこれ有り候ひき。
 秋の滋味-贅する迄もなき事ながら劈頭聴手の心魂を茫々千幾百年の昔に拉し去らしめ申候。無常を告ぐる鐘の音いとゞ淋しき黄昏の気分情景、実に美はしく眼前に彷彿してその浪漫的魅力に恍惚吾を忘れしめ申候。朗々円熟の音吐燻し銀の如く荘重にして厳つからず、口にふくみて持つてゐたいやうな旨味とはけだしかゝる風味をこそ言ふめれ。詩美・音曲万斛の絶唱と三嘆いたし候 続いて「光り眩ゆき白書院」のゆり流し、優麗典雅にどつしりと語り結び、冥府備へ付のラヂオの前にて会心の微笑を浮べたまへる故杉山茂丸大人の風貌も想像さるゝほどにて候。
 役々の出来栄のうち、金藤次が萩の方の述懐をきゝて驚く腹あんばい、底を割らずしてそれと聴手を肯かしむるに足る用意ほの見えうれしく候。次に「勝負は見えた観念」にてあとの観念をば桂姫にきかす肚--これも充分に徹してききとれ候。セセラ笑ひもくどからずして肚裏の悲痛さをよく表現し得たり、心理と技巧と渾融の妙味-不尽の妙を感じ申候。それから「振袖引き裂き首押し包み、睨み散らして立ちかへる」には充分得心まいり候。飽まで暴慢無礼の意気込のうちにそこはかとなく漂ふ一脈の哀愁胸にせまり候。
 かくの如く金藤次が出色なりしは当然にして、いやに皮肉がりも渋がりもやで、内心に突如捲き起れる大動乱と懺悔滅罪の浄心を包みながら、表面は手強き悪の性根に一貫せる筒一杯の押し、これが詞にも地合にも張り切つてゐる線の太さがこの一段の風格の基調をなせるに、之に渾身の気魄を傾注しての熱演は聴手の心臓を掴みてゆさぶらるるの感有之、異常の感動をうけ申候。初役なるが故に心構へが異れるが故か-、いづれにしても語り物の隅々まで気合のこもつてゐることは何よりありがたく候、かかる熱演こそ聴手を仮像世界へ強引に拉致せしむるの魔力有之候べく、理屈屋の多き現代人を魅了せしむる要諦の一つはこれなむめりと痛感致候。只時間の都合にて終りまで聴き得られず、金藤次の手負になつての本心吐露に師の本領発揮を味はひ得ざりしを深く恨み事に存候。
 萩の方では「眺め暮せし姉妹を」の母性愛の真実さや「いづれをそれと分けかぬる胸は泪の三ツ瀬川」のあたりの心状をよく表し得たのは流石にて総じて前半の品格貫録等、右大臣家の後室として申分さらになかりしも、後半桂姫の討たれしより「上使の傍へ詰め寄つて」や「右大臣道春が妻、そこ動くな」などはあまりに手強くなりすぎ女らしさいささか忘られ気味なりしは如何に!白璧の微瑕とはいへ惜しく候。
 猶「賽の河原をこの世から-」の前後のダレ易き難場を例の音使ひの至妙さにて、節調の快美さに陶酔せしめ乍ら、その場の情景を生動せしめ而も悲劇的効果を強めし点は、最も忘るべからざるところと存候。
 まだその他に桂姫の「身に降りかゝる桂姫」や、初花姫の「首指しのべて覚悟の体」などそれぞれに哀憐の姿態美を髣髴たらしめし印象-これは浮彫の如く眼底にしみ入り居候。くどきの「逢ふて死にたい」の切実な情感-「とても叶はぬ」の皮肉な言ひ廻しの旨味等々、これ又特筆に価する独特の妙所にも候ふべく候。
 飯塚友一郎氏は本紙前号に於て浄曲に音楽的要素を一層重視すべきを提唱し、この点の強化が今後に生きぬく唯一の要諦たるべしとの示唆を与へられ候が、まことにこの人、呂昇式声音の高調美なく口説などの甘美な感傷味に酣酔せしむる魅惑こそ乏しけれど、当代無比の音使ひの絶妙なること、単に戯曲的展開の説明に過ぎざる章句にすら微妙なる音楽的風韻掬すべきもの多く有之、本領たる抒情味の表出の卓抜なるは言はずもがな前述の枕などの如き情景描写にもあのやうな汲めども尽きざる節奏的滋味を満喫し得るわけにて芸のまことゝ音律との諧和渾然として得易からざる芸品に御座候。よき意味の今日の浄曲明日の浄曲として私共の傾到の並々ならざるは又いはれなきにあらず候。
 十一月十日夜[1938.11.10]には駒太夫の〃鈴ケ森〃を同じく文楽中継にてきき申候。この人も音使ひに独特の妙風ある艶語りの名手、語り物は娘義太夫の前座が金切声をふり絞るにころあいの特価品でも、この人の凄艶無比の咽喉にかかると光彩陸離としてくるから不思議に候。文楽座で一度放送はこれで二度目、いつきいても特に「不愍やお駒は」の件りやサワリの「身を切り裂れ」などの旨味ふるいつきたいほどなれども、子故に愚に返つた親心の切なさ、哀別離苦の傷心も一つこたへ申さず、もちつときき手の胸元をかきえぐるほどの迫力あらまほしく候。「如来きま奴」など旨いは旨いがただそれだけの事にて候ひき。
 次に同月十三日夜[1938.11.13]、大阪女義連の「熊谷陣屋」後半の掛合、こんな事を演る了見方が私にはわかりかね候。骨折り甲斐がなかつたとだけではすまぬ下手な事と存じ候
 十一月末にききし小土佐の「講七」も同じやうな意味でとんと感心せず、女義の本領自覚の喫緊事を近来特に痛感する事しきりに御座候。以上
 
69 1939.4.15
近頃放送浄曲覚書
人形浄るり鑑賞 [1939.3.11]その他
    六々魚
 この新企画を新聞で始めてみた時の純な悦びは、放送局の係りの人たちの人形浄るりへの好意ある関心、愛護の熱情に対する満腔の感謝と融け合つて近頃にない感激を覚た。まことに、人形浄瑠璃の現状をいたいたしく愛撫の眼ざしで見つめてゐる私共にとつては、何よりもよろこばしい親切な配慮とありがたかつた。放送局の係りの皆様に改めて深甚の感謝を捧げたい。
 だがそれほどうれしさにはづみ切つてみたが些か企画に実績の副はぬ憾がないでもなかつた。
 第一最初に人形浄るり研究の第一人者としてこの企てに一層の重さと輝かしさを加へねばならぬはずの、木谷蓬吟氏の解説が二階正面の貴賓室にマイクを備へつけての物々しい構へ方にも拘らず、短時間であつたとは言へ話がとんと呆気なかつたばかりでなく、話しぶりにも一向権威が感じられなかつた。
 人形浄瑠璃の歴史、文楽座の沿革と共に操浄瑠璃の本質を要約闡明した肝心要の話を初心者にも納得の行くやうに一般にきかせてほしかつたのだ。この点に一言も言及されなかつたのは何としても手ぬかりだつた。それから今一つは壼阪の解説で、何故斯曲が新作のくせにかく愛重せられるかとの考察について「一幕物に纏まつてゐてよく筋が通り人物が少くて単純化されてゐることゝ従つて登場人物の心理を内面的に掘下げ得らるゝ可能性の多い点などを列挙して内容方面のみを重視し、節付の妙味が魅力の重点となつてゐる事を閑却したのは認識不足ではあるまいか。壼阪は作は凡庸だが、稀世の天才作曲家団平の心血をそゝいだ節付によつて活を入れられてはじめて精彩を生じ、今に命脈を保つてゐる曲に過ぎないと私は教へられ今もしか信じてゐるのだ。
 次が津太夫の楽屋での一問一答他のことはともかく「壼阪のききどころは三つ違ひの兄さんですか」には少々うんざりする。
 津太夫に壷阪の話をきくのもへんなものだが、語るのは不得手でも研究だけはよくつんで居るはずだ。もつと壼を押へた気の利た質問が出来そうなものだし、問ひ手にその呼吸がわからないと見へたら太夫の方から自発的に急所はここと教へてほしかつた。こんなことは当意即妙の出たとこ勝負の問答ではないはず、予め打合せやテストがあつたものとすればもつと何とかなつたらうにとつい愚痴が出る。
 綱造との話の方が実があつて面白かつた。太夫は身ぶり沢山に三味線弾は静かに構へてゐるのは何故か?についての答弁は茶気があつて思はず破顔一笑させられる。おどけばなしの中に高座の約束をすつかりのみこませる。この応答が当夜一問一答の白眉。
 こゝで文字太夫の沢市内の段の実演に接しられる段取となるのだ。だが、この人は当日は特に振はなかつた。枕が殊に不味かつた。下手なら下手なりに何故もつと魂のこもつた浄るりが語れぬだらう。修業にも年巧にも不足のない割りに停滞し切つてゐるこの人のために、慨嘆之を久しうした。
 織太夫の「山の段」は結構だつたが覇気のありすぎた為め沢市の哀れさがいくぶんうすめられたこと、さらへようとおもふてやつて退けうヱヘン」の咳払ひが大仰すぎたこと、谷底で「はじめてお目にかゝります」の悪趣味を固執してゐたことなどを玉の疵とする。
 栄三、文五郎、紋十郎三師の人形芸談もかくべつの事もなかつたが、初心の人にはこれでもけつこう何物かを与へてくれてゐるのだらう。栄三が立役つかひの貧乏鬮である事を強弁して女形の美しさにのみ俗眼に迎へられる不合理を慨く気持は尤もであると思つたことだけが一等印象にのこつてゐるだけだ。
 それと最後に紋十郎の給金をたづねた愚問も面白からぬ意味で耳底に残されてゐる。
 
 管絃楽付の「千本桜道行」を嗤ふ [1939.3.25]
 BKの新企画管絃楽付の掛合義太夫--ときいても今度はあまり感激もせず、さりとて突飛さに呆れもしなかつた。すでに再三他の曲で試みられてそれ〴〵失敗してゐるやうな記憶があるからだ。
 所謂和洋合奏を芸術の水準にまで高め而かする事によつて邦楽を衰退の運命より救ひ、進んでは新国民音楽を樹立しやうといふ高邁な意図を蔵する試みだらうと大毎子は推測してゐるが、私には一知半解の数多い洋楽フアンに対する媚態とより思へない。それ等の人たちに義太夫節を一寸でも近づける機縁をつくるといふ二義的な巧利的な効果以外何物をも齎らしさうに思ヘないし、それよりあまり望めさうにない。只僅かに三味線楽と洋楽器とがどの点まで融合の可能性があるかといふ程度の儚ない一縷の好奇的な期待以外何にもないが、それも結局空頼みに終つた。浄るりといふ形式に洋楽がマツチするかどうかなどととてつも無い企ては木によつて魚を求むるの愚にひとしい馬鹿げた事と思はれる。むろん今度も管絃楽は浄るりの邪魔にならぬやうに配慮されてはゐたが、浄るり名手小住の三絃だけが鉦を叩くやうな妙音を奏でて魅力の焦点がこれにのみ集中され、渾融はおろか丁度分離の悪いキカイで浄るりをきいてゐる時に第二放送の管絃楽に撹き廻される焦立たしさと不快さをそつくり其まま感じたに止まつた。同じ新企画でも人形浄るり鑑賞は企画としては最も適切でありがたかつた
 
70 1939.5.15
放送について[人形浄るり鑑賞の夕]…六々魚氏に答ふ [1939.3.11]
      木谷蓬吟
 只今「浄曲新報」六十九号を拝見六々魚氏の御高教に対しちよつとお答へ申します
「二階正面貴賓室」から話したのではありません、そんな物々しい事は私の性に合ひません、アレは貴賓観覧席で。私の話は廊下を隔てた貴賓室、即ち貴賓の休憩室(四畳位の小室内)です、私の話始めた頃はまだ舞台はあいて居たのです。御諒察を願ひます、話の、手ぬかりだらけのこと、壼坂解説の未熟なこと、まことに申訳ありません
話しぶりも、大阪放送局最初からの主張で、なるべく座談的に(演説又は講演的に傾かぬやうに)権威ぶらない習例に馴らされた影響で、それもモツト話し上手なら、うまく調子がとれるのでせうが、下手はどこまでも下手で、われながら困つたものです、話しぶりだけでなく、あの話の内容も権威のないものになったのはお恥かしい次第です
 未練ながら曳かれ者の小唄を申しますと、何分、八分間でして、それに人形浄るりの沿革と交楽との関係、更に壷坂の解説といふ三重の負担で、浅学の肩には、なかなかの重荷のためお叱りの種となつたのでした
 更にその八分間の講話の中ほどに、実は不意の出来事が突発しまして私のつまらぬ話が一層かき乱されて、つまらぬものになつたのです、元来私は放送には原稿を読まないので、要目を二三書き付けるだけなのですが、不意の事件に、腹案もめちや〳〵になり、力説すべき事もボヤけてしまつたのです、これには相当憤慨もせぬではなかつたのですが、公にしては、人を傷つける事になりますので、自分一人の腹でしまつて居ります、しかし、こんな理由のため、話がまづいものになつたと弁解するのではさら〳〵ありませぬ、これも御諒承願ひます
 壼坂が団平の節付で精彩を放つたことは、少し斯道に関心のある者には周知の事だと思ひます、しかし、作も、明治以後の新作としては珍しく難の少ない佳作だと信じて居ります、それで少々弱者の肩を持つたのと、私が良い新作を渇望し奨励して居ります心持が、チヨツと頭を出し過ぎたため、団平節付の価値を安く踏んだかのやうに聞こえたのだと思ひます、これも用意の足らぬからでした
 終りに、私の愚かしい話をも、御関心下され御注意下されたことをまことにうれしく存じ上げます
 (四月十七日)
【此の一文は木谷蓬吟氏から六々魚氏宛に本紙に寄せられた手紙でありました、紙上に対してのものでありましたからには矢張り紙上で取次いだ方が然るべきものと思ひ木谷氏の諒解を得てこゝに公表した次第です-編輯部】
 
 
71 1939.6.15
新作義太夫への覚書 竹本織太夫 [1939.5.18]
五月十八日に竹沢団六君と私との作曲に依る新作義太夫菊池寛先生原作食満南北先生脚色「恩讐の彼方に」をBKから放送いたしましたに就き、何か感想をとの御奨めに従ひまして聊か愚見を述べさせて頂きます。
この原作は御承知の如く大正九年に先代守田勘弥氏に依つて初演せられ、更に沢田正二郎氏や市川猿之助氏も上演好評を博され、又文芸浪曲の酒井雲氏の十八番物にて世間によく紹介せられて居りました点が大変私に取つては好都合でありました。然し元々若輩未熟の私共がこの名作に作曲を致しますには、余りにも多く慎重なる研究を要する問題の含まれて居りますことを痛感し、最初の間はその責任の重大すぎるため、躊躇して居りましたが、この作品の深さは非常に私共の芸術的意欲をかき立てましたので、とう〳〵微力ながらやらして頂く決心を致しました次第でございます。
面白いことには先年九州地方巡業の際師匠古靱太夫の御供をして、団六君も一緒に耶馬渓へ来り、この洞門の入口で記念撮影を致したことがありましたことがありましたが、この度作曲致しますにつきましては、当時見ました彼の地の風景など一々思ひ出しまして、大変興深く存じました。
 作曲に当りまして、菊池先生の「恩讐の彼方に」「敵討以上」の二原作は勿論読み返し、又食満先生からも種々御教示を頂きましたがあの作曲は私共若輩の力では精一杯のもので、その上に後興行の準備や、本興行の稽古やらに日を取られまして、思ふやうな練習も出來ませず、慚愧に耐へませんものがございます。只、団六君が作曲中合の手三ケ所斗り、俗にメリヤスの手がうまく、つきませず、工夫のために深夜京都の先斗町の自宅から円山公園まで出掛けて苦心して居りました時に、私服に誰何せられて暫くの間取調べを受け、よく事情を話してやつと放免せられたと言ふやうな、ナンセンスなエピソードが生れる位、出来るだけの研究は致しました積りで居ります。幸ひにして今迄の処は望外の好評を頂戴して居りますが、尚此の上共諸先輩、識者各位の忌憚なき御批評を賜はり度いと存じて居ります。
唯、私が茲に述べたいと思ひます事は、義太夫における新作の是非に就てゞございます。これは非常にむつかしい議論の多い点でありますし、淺学菲才の私の事ゆえ大きな思ひ違ひを致して居るやも知れませんが、平常の考へだけを述ベさせて頂きます。私には唯今までに無かつた本(書き卸にせよ脚色にせよ)に節づけをしたゞけでは、決して新作とは、申せないと存じて居ります。それだけでは形の上では新作に違ひありませんが若しその内容が文章構造、人物の性格、思想等の点で従来の院本ものを半歩も出て居ないならば、特に新作を拵へる必要がなく、申ますれば屋上屋を架するとはこの事かと存じ上げます。特に新作と申します以上は、それがぴつたりと直接的に現代人の気持に触れて来なければならぬのではないでせうか。?只単に新しく出来た事のみで新作と申しますのならば、従来忘れられてゐる古名曲を復活上演致しますのと大差無いのではありますまいか?新作をやる以上は新作らしい作意と新しい演出法とを示すのでなければ、苦労の甲斐が無いかと存じてをります。現代人の気持に触れるといふことは呉々も大事で、尤も古い作も芸の力と解釈とに依りまして現代人の気持に近づける事は出来ますが(例へば尾上菊五郎氏の義太夫そのものの研究も然りでありませう)何と申ましてもその触れ方が鈍いのでその点から言つて私は新作義太夫の必要ありと存じて居る者であります。又興行政策上の実際問題から申ますれば、長時間を要する新作は上演不可能でありますのでありますので、勢ひ要領よく短く纏めねばなりませんが、これは非常に困難なことで、この点に新作の悩みがございます。世間では義太夫は長時間を要する故に退屈だとの説がありそれにつれまして新作も短時間のものでなければならぬやうに申される方もありますが私は左様には存じません。例へば先に新協劇団に依つて上演せられました「火山灰地」なども私は拝見しまして、一生忘れられぬ感銘を受けましたが、例にひきまして大変恐縮でございますが、あの作の第二部第二幕「祭」の場等は、事件を解決の方へ引つ張つて行く大切な場ではございましたが、かなり長時間を要して決して退屈でないとは申しきれないかと存じます、而も、顧客はそれを静かに見てゐます以上、特に長時間の新作排すべしとする理由はないと存じます、唯、興行の実際上から割出された問題でございますから、此の点をよろしく御含み願ひたいと存じます。若し例へば「山之段」「道明寺」位の時間が与へられましたなら、かなり突込んだ作が出来ますかと考へて居ります。又、節がむつかしくて判り難い義太夫で殊更に新作をやる必要がないではないかと申される方もございますが、斯道繁栄のためにも新作は必要だと存じます。又義太夫は最も日本風に洗練せられた発声法ですから、判り難いどころか、却つて判り易い筈だと存じます。私如き未熟者はさておきまして本当に芸の進んだ太夫の語りますのを、先入見なしにお聴き下されば、一語々々はつきりと判ります若しそれでも判りませんでしたらそれは当人の芸道未熟の為めであると存じます。結局万難を排しても新作をやり度い理由は、要するに義太夫語りも現代人であると申上げるのが一番説明の早道でございませうか。以上、新作是非論につきましては、私にも未だはつきりと決し兼ねてゐる点もございますから、識者各位の御懇篤なる御意見を披べて頂けますやうに期待して居ります次第でございます。これにて覚書の筆を擱きます。長々と失礼申上げました。(昭和十四年六月十日記)
 
近頃放送浄曲覚書
古典礼讃新曲謳歌
織太夫の"恩讐の彼方に"】 [1939.5.12]
中野孝一
 織太夫の「恩讐の彼方に」
 新作浄曲が上演されて問題となる度に思ひ出されるのは、故石割松太郎老の強硬な新作不可論、新作不可能論である。あの豊富な識見と、旺精な闘志をふりかざしての熱情的な論旨には魅せられたものであるが、今静かにそれをふり返つて考へ直してみると、可成感情的な一面的な独断を発見する。あゝまで極端に毛嫌ひせずともよかりそうなもの、もつと自由な考へ方、融通の利く方法をとる方がよほど斯道のためには賢明な良策のやうに思はれる。
 もつともこの人は今日の大衆がもう浄曲など相手にしないものとあつさり見切りをつけてゐたのは些か異論がないでもないが能楽と同様に保存すべきものと力説されるのは同感だ。が、「新作浄るりの上演は完成品を破壊する」とはどういふ場合のことだらう。
 私は石割氏程に徹底的に青年大衆層の耳を悲観してゐないのでそう窮窟に考へず古典は飽まで厳格に保存鑑賞する一方、浄曲大衆化の契機たらしめむための方便としての新作を歓迎する。しかしその誕生を翹望する動機は方便的二義的のものであつて、必ず芸術として優れたものでありたく。唯古典浄曲のイミテイシヨンを作ることにのみ憂身をやつすのでは意味ないと思ふ。古典浄曲の内容とは全然趣きをかへて、型式にもマンネリズムを努めて排除し、新作浄曲として独自別箇のものを創造する事でなければならない。
 こんな立前から私は今度作曲上演された織太夫等の新作に異常の期待をいだゐてゐたが、結果は予期以上の成功だつたと信じてゐる自分の感動の度合から、周囲のものゝ案外の反響から
 私は自分の周りの純朴な農村青年たちにたへず浄曲趣味を鼓吹し、一人でも数多く愛好者をつくりたいと努めてきたが、むつかしくておもしろくないといふ理由で、放送浄曲すら進んできかうとする心掛のものは今まで一人も現はれなかった、この新作放送に味づいてあちこちに新らしいフアンが出来かけてきたのは何より心づよいうれしい現象である。これは私一人の身辺にのみ限られた事ではあるまいと推断される。
「新作浄曲を現代に興隆せしむる一途は、ラヂオ・ドラマとして適用せしむるに足るもの」といふ本紙前号紙上の飯塚友一郎氏の主張に偶然適合することにもなつて愉快だつた。但し音楽的朗誦的要素の多分に盛られたものとの氏の注文にもはまり難く「浄曲の本質は音楽美に融けこんだ抒情味にある」とする本来の姿とも遠いものであり、日向島などと同じく詞の綾に魅力の焦点をおいた渋いものでありながら案外の成功をかち得たのは何によるのだらう。
 第一は、原作者菊池寛氏の普遍的な盛名に対する青年層の関心-原作がわりに広く読まれて理解されてゐたこと--このためにまづ新曲に親みと引力のあつたこと封建道徳の覇絆を超脱した魂の浄化の最高潮における恩讐一如の絶対境、この至醇な法悦の境地に対する讃嘆、懺悔贖罪のための多年の忍苦聖行、この驚嘆すべき一業をやり遂げた逞しき意力に対する崇高なる宗教的感動、これ等の主題が深遠でありながら表現が単純明徹で比較的理解され易い感激性の豊富にもられてゐること。
 かつてこの人昭和十年額田六福氏の「真如」の新作浄曲を放送したことがあつた。これも「別種の恩讐の彼方に」ともいへるものだが、主人公の心理の転移にかけかまひなく不本意な悲劇の結末に終るところに、哀傷的悒欝な詩味を感ぜさせるだけに味もデリケートで複雑だつたがこれに比べると今度の曲は線が太くて直截なため一般向がするともいへる。
 演奏前の解説が実に要領よく、手をとつて引くやうにしんせつで話しぶりのさわやかな旨味にひきつけられたことも成功の素因の一つに数へてよい。
 織太夫はこの好箇の物語を実に全身全霊を燃焼して力演した。これは小手先の技巧家には及びもつかぬ事であり、節廻しの美をのみ誇る技術家に到底出来る仕事でない。
 とりわけ肝心要のきゝどころ、人間業とも思へないほど永年鏤骨砕身の果の大願成就の刹那に於ける、魂が炸裂するばかりの大歓喜の表現は型をぬけた迫真の息吹き洗練された心理描破によつて、思はずしらずスピーカーにしがみついたほど心臓を掴むでゆさぶらるゝやうなでつかい感銘をうけた。つゞいて展開された恩讐無二の崇高壮美極まりない澄み切つた宗教的荘厳の光景--
 このやうに清浄な情痴を超越した力強い深い感動は古典浄曲には求められない味はひで、新作にのみ収穫を約束されてゐる豊穣な沃土の一斑を示してゐる。その上義太夫節のみが持つ洗練された力感が、織太夫の錬磨されたヱロキユーシヨンと渾融してかく素暗らしい銘感力を発揮した。新作浄曲は古典浄曲とは別箇に芸術的に創造さるべきものであり、猶それが可能である事をこの一曲が立証してくれたのは実によろこばしい事である。
 どうか一度切りで捨てゝしまわず、一層研究琢磨の上再演三演を切に希望する。 更にこれによつて自信を固め、他の新作上演に思ひをひそめられむことを渇望にたへない。
 
古靱太夫の「陣屋の熊谷」 [1939.5.24]
 今は亡き杉山其日庵先生の熊谷性根論に曰く「摂津大椽、豊竹生駒太夫、竹本大隅太夫、竹本越路太夫以上四人の熊谷をききたるも未だ一つも会心の域に至るを覚へぬ。熊谷が源平時代の豪雄として勇気一遍の人ときこへたのみにて、作者深意のひそむ熊谷といふ人なる問題を会得したものを聞かぬ。熊谷は元より武辺一途の人なれども、頗る人情に脆き性質の人にして旧恩あり院の御胤たる敦盛を助くるに満身の情誼を有したるところに、主君義経より制札の諷刺をもつて一子を身代りとなすべく命ぜられたるにより、意を決して一子小次郎をお役に立てしもの、父子恩愛の至情は極度に刺戟して終に菩提心を起すに至る。仏参の帰途幾多の無常を感得し吾陣屋に帰れば妻相模の国許より来れるに会し、熊谷の心理は極度の攪乱を来した。「武士たるものが主命と旧恩のために吾子を殺したるは武士の本分である」故に妻に向つても「武士道のために伜を殺したから左様心得よ」と一言すればそれ迄なるにそれさへ明言を憚るほどの弱虫である。この根本的条件のもとに其容貌や豪壮言語や勇魁なるも其精神は飽くまで多情多涙の人格に語らねばならぬ。云々」と、
 私は寡聞にして上記の故名人達のも一、二しかきいてゐず、現存の太夫では津太夫、大隅太夫等を二三きいたゞけだが、いづれも杉山先生の注文通りに語るといふより、風格の大きさといふやうな点に努力の大半が傾けられてゐるやうに思へた。
 古靱太夫は叙情味の表現に天稟の妙味を持ち、而も多年精進の結果、比類なき抒情的芸境を開拓してゐることはしば〳〵私の讃嘆縷説せるところ、今又時代物中抒情味に富んだこの曲の前半だけとはいへ熊谷の哀情苦悩を曲尽してゐるところを肺肝を絞つての熱演、まづ枕の出において直実の二字にしつとりと貫目を持たせ猛き武夫の憂ひ沈みし様を心にくきまで印象濃く描き「物の哀を今ぞ知る」の一句に盛り込められた無常--冥想的な深刻の感慨を、例の荘重幽渾の音吐により肚裏の淋しさ出離の動因をカツキリとこゝに打ち出して涙の熊谷、情の熊谷、さとりの熊谷を心ゆくまで語らむとするいみじき意図が劈頭からハツキリとうけとれたのはうれしかつた
 私はこうした重厚な時代物の詞の一種の音楽的風韻に融け込んだ真情を近来特に好もしく感じてゐる。豪宕痛烈なリズムの底にたゝへた含蓄と陰影-この滋味の豊醇さは忘れがたい。この語物では「もし討死したら何とする」の肚あんばい・「手疵少々」から--「……急所なら悲しいか」の応酬の間と運びの妙趣「是非に及ばず御首を」の悲痛至極の絶叫にこの段の精髄をきくの思ひがした。かうして人間熊谷は吾等凡俗の共感と同情を浴びてつゝ痛ましき魂の苦悩を語るのである。「昨日に変る雲井の空」のあたりの叙情的音楽美をたゝへるのは贅言であらう。
 人形浄るり陵遅時代の昭和の今日、よしやその豪壮勇魁味こそ先人に一籌をゆすとも、古靱太夫によつて所謂作者深意のひそむ大問題を会得した熊谷をはじめてきかされた事は欣快、且つ感慨を禁じ得ざるものがあつた。
 終りに邦楽名曲選とあつて、サービスが良く、析と口上の添へてあつたはありがたかつた。これからもなるべくこういふ風に願ひたい。
 
 津太夫の「吃又」 [1939.6.1]
 このごろはどうした風の吹き廻しか、ラヂオ浄曲党万歳である。六月一日の夜には又津太夫の「吃又」を、しかも一枚もぬかずに丸ごときかしてくれた放送局の好意ほんとにありがたかつた。前月末に織太夫に新作を語らせて清新の刺戟を与へられ、引き続いて古靱津の二巨頭を拉し来つて古典の醍醐味に浸らせやうとする。
 かく古典の大物を重ねて聴き、新作の感銘と対比して鑑賞するとさま〴〵の事を考へさせられる。
古典のよさ、新曲の味はひは全く別置のものであり、又なければならぬ事をつく〴〵痛感する。
 閑話休題、津太夫の「吃又」については昨年の正月の私の文楽座印象記(浄曲新報十三年二月一日号)で私として言ひたい事は言ひつくしてゐるつもりだ。あれ以上細密な技巧批評は私の柄でない。しかしあの時よりも、電波を通じてきいた今度の方がどうしたわけか迫力も感動も強烈であつたが、印象の深かつた壷はそれ〴〵に同じだし、屋上屋を架するの徒労をさける。が只綱造の三絃が際立つて気持ちよく耳をたのしましめた事を言ひそへておきたい。(完)
 
 
 
73 1939.8.15
浄曲と時代
六月[1939.6.7]のラヂオ放送で文楽座から中継で駒太夫の鳴戸実に申分なく芸の力で当代の人達に大いに感銘を与へ涙迄も絞らせ至る所で好評であつた解説と順礼歌より内迄通して出て太夫の美書と登場人物をハツキリ語り分け誰にも分り易く芸と語物と一貫して批の打ち所なく義太夫の本分を充分に発揮して呉れ嬉しかつた愁嘆もきいで娘の跡を追つて行く迄寸分のすきなく大衆受けのする語り口であつた内の段迄出たので得心が行き好い事であつた去る三月にも壷阪を沢市内より山の段迄通して解説をつけて放送して一般に受け好評を博した如く古い伝説を持つ浄曲を新時代に順応して開拓して行く意味で当を得た事と思ふ其れと五月に織太夫が新作の恩讐の彼方の放送近代の人が余りにも知る物と太夫の熱のある語り口と糸の団六も共に好かつた是れも大衆受けして好評であつた他にも新作物を公開して居るが聴かぬ故言はぬが時代に従ひ新作は大いに歓迎をするなぜならば我々が耳に蛸と言ふべき曲目に放送毎に解説を付さねば分らぬ時代外に長唄にも付けるようになつたが親切でよい事であるが、昔を知る人には馬鹿々々しく思ふ位時代が変つて来て居るのであるから一部を語る太夫を鑑賞して居る場合でなく故に前記の如く通して分り易く大衆を迎へるのは好い事で折角にこの月一は一日の津太夫、駒太夫、越駒、素義のカケ合、伊達太夫と五回の放送で駒太夫を除き他は理解難と時間制で部分的に語つた為に筋が通らず現代の人に不向義太夫と云ふ物は分らないつまらないと悪評を招き斯道の為に惜しい事である故に古曲でも新曲でも結末を付けるようにして大衆向を計る事を専一に行く事劇界でも先頃某新聞に浄曲物をカツトされて演じるのは「片輪狂言排撃」とて今後は絶対に演ぜぬと幸四郎、菊五郎両優より座方の松竹へ講義を申込んだ云々の記事を読んでこの件は私事でなく劇界の前途を思ひ後進者の為も思つての事で実際に新しき人に理解を欠き無意味に終り次第に滅亡を招く結果となるとの事従つて時間制の新作が旧劇なら原作を尊重して演じよう主義、流石に名優は美事頭のよいのに感心させられた浄曲は語物と糸共に他派の追随を許さぬ好い物で決して滅亡云々ではない当事者が時代に順応して今日の如く時間制度に大阪の一つの文楽座に太夫が多過ぎてか掛け合をやたらに出してゐるあれでは若手の修業にも及す悪い事と思ふ、それよりは等分して交替に各地方へ男も女も出進して人形入りでも素語りでも好く誰にも分るように数多く興行して浄曲の真価を改めて拡め新時代の愛好者を作る事に専心するように尚既に新義座として別個に旗上げ中の一派と引退した土佐太夫が文楽協会として一座を組織云々の記事を去る四月に某新聞で見た、右は浄瑠璃界の因習を打破する大改革の由そんなイザゴザは御互の損であると思ふ内部の抗争よりは斯界の道の改革が専一と思ふ昔の如く定席のない今日ラヂオだけでは物足りない。故に一致団結して進出を併せて望む。(中島元七)
 
77 1939.12.15
近頃放送浄曲覚書
女義漫評
  碌々如
 寺子屋掛合 [1939.11.21]
 また掛合かとげんなりしたが、団司が語り所のすくない軽い役の源蔵に廻つて若手に華を持たせた心掛の床しさに惹きつけられてこれをきく。源蔵は仕込も足らず演じにくかつたらうに、腹構へも気魄も充分だつたが「いぶかしさよ」の語尾のくひ切りがまづかった。
あの呼吸はむつかしいものだが何とかもつと工夫がありそうなものだ。も一つは「ニツコリと笑ふて」が旨すぎる。女らしい色がつく。 清糸の戸浪、雛昇の千代は一通り、綱龍の松王荷が勝ちすぎてゐるやうな辿々しさを感じたが泣き笑ひだけはわりに旨かつた、力にあまる大業を懸命にこなしてゐる悲壮さをめでてか、聴客席から拍手がきこへ更に間をおいて「出来た」と誉め詞がマイクに入るなど実演でないだけ趣が一入深かつた いろは送りは名手小住の三絃と相俟つて、情味と節調の渾熟せる近頃のきゝものだつた。「憂目見る親心」の節尻が節廻しになづみすぎて情味をうすめたこと以外、女義らしい当て節もなく、つゝましく、美しく、哀れ深く語つて恍惚たる忘我境へつれ込まれてしまつた。
 
三蝶の先代萩△ [1939.11.28]
 三蝶の芸を私はかなり高く買つてゐるが、どうしたものか放送はめったとやらぬと思へて放送浄曲は聴きはづさぬつもりの私にも、昭和九年の八月末に女義さわりの夕に、酒屋のおそのの口説を小住の三味線で語つたのをきゝ、その時顔を並べた東西の女義若手の錚錚連の中この人だけに感心して讃辞を呈して以来の久闊さだ。
 当夜の先代萩にはそんなわけでたのしみにしてゐたのに後半だつたので大いに興を削がれてしまつたが出来栄えも大したことなし。しかし御愛想に何か言ふとすれば。
不満に感じたこと 
一、八汐が小さく太々しい憎らしさが不足だつたこと。
一、「苦しむ声の肝先へ」のうち、くるしむの突き込み方力こもらず、後のこゑにその代り力を入れて振り廻す事不得心。理屈からいつてもくるしむ姿にこそ意味があるのに、これを上の空であつさり片づけて、こゑを強固するのはこまる。
一「忠義は千代末代まで」の忠義を歌ひすぎる。言ふまでもなく忠義はこの作全体を一貫しゐる骨髄であり、根幹である。この一句に力点を置かるゝ語り方なんて、他がどれほど旨くとも凡そ意味ないと思ふが、如何
 
感心したこと
一「何のまあお上へ対し慮外せし千松」を極めて平静に内心の慟乱を千万人にすぐれた理性の力でひたかくし、落ちつきはらった答へぶりは満点、これでこそはじめて烈女政岡といへる。
一口説をあまり唄はぬ心構へよろし。その代り「千年万年待つたとて何の便りが--」でこの人一流の小味なくせのある節廻しを発揮して大に唄ひまくつてくれる。この風情は私には捨てがたい魅力である。
 
 十二月五日には昇之助の吉田屋を都市放送できいた。これについてもかきたいが余白がないので遺憾乍ら割愛する。(完)
 
80
如是我聞 中野孝一
 【津太夫の河庄】
 【古靱大夫の炬燵】
 【小仙の寺子屋】
 
古靱の野崎村】 [1940.2.25]
 組太夫風とかいふのがこの曲の正統的な曲風で、この艶物を渋く語る所に無類のむつかしさがあるのだそうだから、古靱にはもつてこいのものかもしれない、現今流布してゐるのは摂津大椽が商品として完成させた型なのだそうだが当夜古靱の語つたのはそのいづれによつてゐるのか私にはわからないが、古法遵守を信条としてゐるこの人の事だから、あれが組太夫風を髣髴せしむるものだつたのだらう。
一、お光は誰が語つても色気を持たせすぎる弊を脱して、おぼこいひなびた味を出してゐたこと。
一、昼日中にうつとうしいのふ久松を一口にすらすらといつて退けることは賛成。
一、「コレ申ととさんもお二人様も、何にも言ふて下さんすな」のお光の詞のうちのつけの「コレ申し父さんも--」がゆつくりおちついてゐたのも特異な語り口なのでないか。誰をきいてももつと切迫した感じがする。しかしこれがほんとだらう。この時のお光の心境はもうすつかり犠牲的な諦めにおちつかうと努力しくゐるのだ。心にゆとりが出来てゐるのだ。感情の激動は現さない方が適切なのであらう。
一、兄さんおまめで--以下の数句の含蓄の深さ、一旦の感激であんな思ひ切つたことを敢行したものゝ寂しい空虚な運命の姿を描ゐて哀情啾々たるを覚えしむる。
一、ハイハイと久松の重ね返事に海山たとへがたぎ親の大恩を身にしみて感じてゐる心が出てゐたこと
一、おさらばさらば--でツレ弾の三味線がジヤンジヤンと鳴り出すと、いつにないもの悲しさについ涙がこぼれそうになつた。あのカツトだらけの節さへ通らぬ浄るりに、演者一杯の心がこもつてゐたせいか--、清六の弾く三味線に不思議な魅力が宿つてゐたか--、野崎の道行の三味線をきいて泣いたのはこれがはじめだ。
 
駒太夫の鈴ケ森】 [1940.2.27]
 この太夫は鈴ケ森が大好きとみへ放送だけでもこれでたしか三度目だがいつきいてもわるくはない女義の前座が金切声を振り絞るに適した特価品でも、駒太夫の口にかかると神彩奕々とするから妙である。楽々と語つてゐて情趣が溢れてゐる。むろんお駒が一ばん光つてゐた。庄兵衛もよく語つてゐたが親心の情に未だしの点がなくもない。「如来様め」のあたりを味はつてみたまへ。旨いとは思へてももつともだと一所に泣けないでないか。母親の泣き入りが若すぎたのもこまつたことの一ツ。
 いつきいても旨くて胸先へ煮えこむやうにこたへるのは、身を切りさかれうき恥を--の件りだ。一句一句血がにじんでゐるほど切なくて、そして立派な芸になつてゐた。(完了)