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【 駒太夫師を偲ぶ 】
(2025.01.08)
提供者:ね太郎
上方125 pp. 42-43
駒太夫師を偲ぶ
田中市太郎
「好きな風呂へ這入つて死んだら本望、俺の身体やほつといて」数日前から風邪気味で引籠つて居た駒太夫、日常一倍家人に優しかつた世話物語りの名人豊竹駒太夫も文楽座の初日を明日に控えては、こんな頑固な悪体口を妻女に叩いて、入浴した事が崇つて急性肺炎を併発し、あたら美声の太夫「駒はん」は三月卅一日遂に逝つた。
文楽好きの祖母から盲人の太夫「駒はん」の名を幼少から聞かされた私は、あの人と直接交渉を持つ様になつたのは、BKで禄を食む様になつて義太夫と云ふ芸を通じて十六年の長さを交渉の傍ら、あの人の宅で夜更け迄話合ひ、文楽の楽屋では舞台の隙間を倫んで話しあつた事も、今は昔がたりとなつた。あの人の宅で堀江の生野から鰻飯をとつてもらつて盲人の彼が飯粒一つも零さず、眼あきの私が飯粒を零して体裁の悪るさを感じた事もあつた。私は今更こんな事まで憶い出した。
一
上本町九丁目にスタデイオのあつた頃だつた。語物は得意の「艶容女舞衣」酒屋で、三味線は先年物故した鶴澤才治さんと記憶する。テストの時間が来たので定めの位置に就いてもらつた。ふと私の眼は何心なく見台の上を見入つた時、五行本の表紙には『三十三間堂棟由来』平太郎住家の段とあるではないか、「駒はん此五行本は柳ですよ、あなたの語物は酒屋です」盲人の太夫「駒はん」と知り尽して居る筈の私の口から不覚にもこんな言葉が滑り出した。駒太夫の変な顔、お弟子の当惑さうな顔、「解つてますがな、五行が柳でも酒屋を語つたらよろしいのだつしやろ、盲目に本は要りますかいな、見台に本がないと頼りないので置いてあるのだす」
いや成程〳〵其通り、さて〳〵眼あきは不自由なもんやと「駒はん」は想つて居ただらう。
二
駒はんは重宝な太夫だつた。
文楽座でも、BKでは特にさうだつた。紋下の津太夫[ムラカミ]さんが突然に休む、古靱太夫[カナスギ]さんが休演する、すると文楽の代役は「駒はん」にお鉢は廻る、何んでも今すぐに本なしでも語れたからだ。それ程文楽座には重宝な存在であつた。私も此手を放送にも、しばしば用ひて「駒はん」は放送しすぎるとも言はれたが、大物太夫の突然の断りやプロの臨時変更の際などは其救援を「駒はん」に求めた。放送回数の断然と多かつたのも、こんな訳であつた。「駒はん」のある限り私は安心して大物太夫の交渉も続ける事が出来た。私は「駒はん」の贔負筋でも後援者でも何んでもない、文楽での「駒はん」の格、マイクを通じての「駒はん」の声の上手さすべての条件が揃ふた太夫であつたからであつた。重宝な「駒はん」はもう聴く事が出来ない。
第二の「駒はん」を探すには此所もと一寸骨らしい。
三
義太夫名曲選第二回は木谷蓬吟さんの解読で竹本土佐太夫[ミナミサン]さんと野沢吉兵衛さんの担当で二月十六日夜に得意の「紙子仕立両面鑑」大文字屋の段を語つてもらふ事になつて居たが、奥様から心臓が悪いので四月迄延期して欲しいと急な電話で、承諾はしたものゝ放送は数日後に迫つて居る。代演の太夫を探さねばならない。大物土佐の代役は一寸見当らない。
松竹さんでは「文楽座興行中放送は遠慮の事」と云ふお触れが太夫三味線に申渡されて居るので軽々しく文楽の太夫に交渉する事も出来ない、さりとて他に適当な方法もない。
のるか、そるか、千番に一番、文楽の掟を忘れたつもりで「奥の手」の駒はんに助け船を決心した。窮状を察した「駒はん」は「そないお困りなら土佐はんの代りに、演りまつさ」と承知して呉れたので、文楽の掟蹂躙の責任は駒太夫持ちと云ふ変な条件で話はすら〳〵運んで「伽羅千代萩」御殿の段となつて、皆さんに聴いて頂く迄にはこんな挿話もあつた訳で、放送を終つて肩の荷を下した所で、文芸課の諸君は
「田中氏は又、上等の鑵詰(プロ変更の際いつでも放送して、もらえる人)を出しました」
「駒つた(困つた)ので、出てもらいました」
イヤ苦しい時の洒落は又は苦しい駄洒落が生れ1てきます。
「駒はん」の妻女とこんな憶ひ出をし乍ら故人を偲んだのが四月二日の葬儀の日だつた。所へ突然の電話は六代目竹本土佐太夫さんの急逝を報じた。これで四月放送の約束は完全にノツクアウトされた訳で、一銭の借金もなかつた土佐はんも私には放送と云ふ大きな借りを残して死なれた。冥途迄交渉に行けツてですか、そんな責任は私もまだ命が惜しいので御免を蒙ります。
私は竹本土佐太夫さんを弔ふべく座を立つた時「土佐はんは七十九歳だした、駒太夫[ウチノヒト]は六十歳で死にました。もう十年も生きて居てくりやはりましたならア」と土佐はんの長寿に駒太夫の短命を喞つ妻女の流石に女らしい尤もな愚痴を私は聞きつゝ露路を出た途端、街筋には電灯がパツト点いた。さきに美音竹本錣太夫を失ひ、今又、郷土の生んだ盲目の名人豊竹駒太夫其後を追ふ、奇しくも其葬儀の日文楽の巨星庵看板土佐太夫又、又、落つ。文楽の損害も又大きい。「土佐はん駒はん何んで死になはつた、あんたと私は最近迄一番交渉の多かつた人だした」
因みに豊竹駒太夫師の処女放送は大正十四年九月(三越屋上)仮放送局時代より、最後の放送は昭和拾六年二月十六日義太夫名曲選第二回「伽羅千代萩」御殿を三味線鶴沢清二郎師で語る其回数実に五十七回レコードホルダーです。
--筆者は大阪中央放送局文芸課--