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【 太棹 義太夫ラジオ放送評 】
(2024.12.08)
提供者:ね太郎
太棹59 p25
AKの久保田万太郎氏に依つて企てられてゐるラヂオ新人放送も、回を重ぬる毎に非常な美技を持つた新人が集められ、、ラヂオフアンの好評を博してゐるが、今回義太夫の入選者は左の諸氏で、この秋の日曜毎にそれ〴〵素晴らしい演技を以てその得意な語物を放送された。
間宮さくら、高野喜代子、高瀬操、高田とら、竹本重子、島うつぼ、栗源千鶴。
太棹59 p25
修善寺物語は人も知る岡本綺堂氏の傑作で早くから市川左団次の極めつきとなつて、杏花十種中最も著名な劇で、遠くフランスのジエミエ一座で翻訳、上演された程の名作だが今度大阪放送局の新らしい試みとして、大森痴雪氏によつて義太夫に作詞化され、作曲は大阪文楽座随一の新人を以て鳴る豊沢広助師によつて節付けされ日曜特輯新作演芸として十月二十八日午後七時半からBK局よリ全国中継で放送された。
即ち鏡太夫、広助両師の演奏で堂々四十分間の放送作詞も立派なら作曲も殊に見事に、短時日の間にこれだけの立派な作曲が節付けされたとは驚く可きもので、一般の世評もよく、第一回の新作義太夫の発表として素晴しい成功を修めた。
かうして益々新に旧に義太夫の隆盛をみる事は全く我々の深い喜びとするものである。
太棹106 pp22-23
机枕野堂
二代目団平師の弾き遺してある沢山な異つた節付は、浄瑠璃界での研究の的であるが、其研究が朱入本だけでは至難であるために、段々と世間から忘られて来て、今の若い太夫、三絃弾では研究するものもなくなり、次第に衰退を辿つてゆき,洵に遺憾なことである。名匠が苦心の節付に成つたものは、永久に継承して、一般の愛好家に聴かしてほしいものと、毎時思ひ続けて居る。今度BKから「増補大江山、戻橋」が聴かれたことは、団平師追想のために興味の深いものであり、師の在りし頃の悌を、いろ〳〵と更生せしめられて、没我の境に娯しむことが出来た。
戻橋は、常磐津松尾太夫が全盛の頃は、松本幸四郎の「綱」尾上梅幸の「小百合」で非常に人気を唆つたものだ。義太夫の方はこの常磐津戻橋の模倣で、殆どの筋は真似られて居り、只ところ〳〵文章が変つて居り、節付は全部団平師の作曲で、義太夫として特種の渋味が優れて居る。常磐津と対照して聴き較べると、其特長が瞭りと分つて来る。今度の放送で面白いことは、明治三十三年明楽座で、作曲上演したときから、因縁付である錣太夫が「若菜」を語り当時の座付の三絃であつた新左衛門と、広助の両氏が之を弾き「綱」語りとしての適任者である大隅太夫との取り合せは、最善の適り役で、他の追随を逸脱した聴きものであり、太夫、三絃、些の油断も、隙もなく、この頃の焙きつくやうな、苦悩を忘れて、肩のこらぬ、銷夏剤であつた。錣氏の娘の言葉の描写は、いつも甘へ過ぎたとも云ふべき魅力があつて、之が氏の特長でもあり、亦、欠処でもあると思へたが、今度の「若菜」は其特長が、ぴつたりと当て適まつて、華奢であり、娘の生ぶ〳〵しい姿形も出されて居り、「綱」との詞のアヤと間詰(マヅメ)が滑らかで、持前の声の豊さは、技巧を捨てゝ、蟠りがなく、スラ〳〵と語りこなし、詞の後尾に残る、ゑもいはれぬ色気ある生み字は、却て艶やかさを浮べて、軽妙に出る詞の感触が、更らに態とらしくなく、至極自然に聴かれたことは、とりたてゝ喜しく思ふた。常磐津が耳に残つて居る聴衆には、義太夫として戻橋の節ものを語ることには、或意味で、華やかさが足らぬとの誹りもあらふが,義太夫としては、そこに渋味があり、価値があるので(この事は後で述べることにして)錣氏の苦心のほども察せられた、所々裏声を上手に遣ふて、しぼらぬ咽喉の美しさは、却て有情味が溢れて、戻橋らしい模様を表現さしたのは、御手柄であつた。鬼女になつては、自信たつぷりで、今更に粗評は入らぬこと、寔に手に入ったものである。
どうしたことか、近年錣氏は若い太夫連中に比較して、役不足の感があり、過去の閲歴の手前から顔負けの姿で、人心皮肉の嘆に堪へぬものがあつたのか、兎角浄瑠璃に真剣味が淡く、いろ〳〵の批判も聴くがかかる語物になれば、氏の独参湯で、練り鍛えた芸力に物を云はして、若い太夫などは到底寄付けることではない、やっぱり芸は修行であると、しみ〳〵感服させられた山神祭の猿稲彦命みたいに、鼻を高くしてもよい訳だ。
大隅太夫の「綱」は、素外な裏に含まれた古作の木彫仏の渋味で、どこにも屈托のない、時代離れのした、線の太さと純情さしかも楚々として人を動す、松柏の持つ堅実さがある、強敵、錣を向ふに廻しての競演、更に優劣のない取組み、伯仲の芸力、流石に大器、大隅なればこそと首背せられた、アノ腹力の強よさ錣の豊富な声量にびくともせず「綱」の笑ひの底力は、天下一品の御家芸で、彼是と云ふだけ野暮である 新左衛門氏は、平素から話す言葉に、些の虚飾もなく、切実な気持ちが溢れて居るが、あの人の弾く三味線がそれなので、氏の個性がはつきりと出て居り、其音色が大きく冴え切つて、漂砂たる桜花の炯霞の中から発散して居る風情があリ、艶麗さに、思はず恍惚とさせられる。広助氏は竹三郎時代から沢山の上手の太夫を弾いた人で、敲きのきく、間の大きな、芸格が、そうかと思ふと、裏と表の、雌雄の撥を、自由自在に弾きこなした腕であつたが、近年俄然三弦の悟りを開ひたものか、旺盛な意気を隠して、貫禄を見せて大隅太夫を弾ひて居る、三弦は余裕を味はす風韻が出来て始めて弾ける芸なのである。今度の戻橋の弾き出しには感心させられた。
囃子方の太鼓の音が、始りに擾がしく、雑音があり過ぎて、寂しい余情を欠いだのは遺憾であつた。常磐津と違ひ、義太夫節には、義太夫としての立てまへがある。考へ違ひは禁物だ、しかし断つて置くが、或は放送室の狭ひための反響かもしれぬ。序に云ふが、三味線の大薩摩も、元々、大薩摩次郎左衛門以来からの古典であり、浄瑠璃の系統に属したもので、唯、達者に弾けばよいと云ふやうな浅薄なものではない。素より唄も充分に研究すべきであるが、三味線はツヤを消して、荘厳な気持ちで弾ひてほしいものだ。常磐津の戻橋も古作と云ふではなく、明治時代に出来た常磐津の新曲なので、それを団平師が義太夫節として語れるやうに作曲したので、古典気分は乏しく、従つて深淵さも聊か薄い筈なのである。唯、語る太夫と、弾く三味線の力量で面白く聴かれる訳で、常磐津の戻橋は江戸まへもの故に、華奢であリ、絢爛さが優れて居り、義太夫は、落ちついた渋味を見せて居る。こゝを狽つて作曲した団平の浄瑠璃化した偉さを聴くべきだと思ふのである
同じ畠から生れた浄瑠璃でも、常磐津は江戸に育てられた関係で、江戸の風物、人情、趣味の感化で、節廻し、間取に、華やかさの裏にどことなしに溌溂としたところと、淡白さがあり、義太夫は、渋味と、古典味と、復雑性が多分に含まれて居る。これは昔の京都、難波(大阪)が日本の文化の中枢であり、古来から皇居の所有地であつた関係で、伝統的な、気品と、風懐が自然に浄瑠璃にまで及ぼした結果である。虎屋源太夫の門下から、二つに分れた井上播磨椽の弟子の竹本筑後椽が浪花で義太夫節を作り、其一方の山本土佐椽が江戸へ下つて其弟子、都万太夫、都一中、宮古路豊後椽などから数派に別れて拡がりゆき、江戸浄瑠璃の根幹を作つたが、其時代の、富士松、河東、一中、薗八、常磐津、富本、清元などの江戸趣味の浄瑠璃節の語り風と浪花趣味の義太夫節とは瞭りと異つて居り義太夫は飾とか、声とかに満足せず、声を通して更らに奥深い或るものを見出すべく幾世の巨匠、名人が苦心して居る。例へて見れば、もの寂びた庭園の破れ籬、銚ね釣瓶の影に跳つて居る月影が、白くさび切つた風韻と、余情、そこに落ちついた禅的の精神がある如く、芸三昧の悟りのために怠らず修行して居るので、三昧境こそ義太夫の薀奥なのである。江戸趣味の浄瑠璃は、丁度盛り上げられた生花の姿で、絢爛であり、多彩であり、所謂意気な趣きがある。義太夫は茶席に生けた寒椿の一本花で、渋味と、清寂さが肝腎で、猶其上に、花器と、寂しい花との調和の余韻を好むのである。それだけ当時の浪花(大阪)は、京都に近ひ都びたところがあつたのである。
太棹133 pp2-3
初春の文楽座 [ラジオ放送 1941.12.24 1942.1.26]
西尾福三郎
昨夏津太夫の歿後久しく空位のまゝだつた文楽座の櫓下が、秋に到つて古靱太夫によつて系承される事に決定したが、その披露が年改まる紀元二千六百二年匆々に行はれる事となつた。時は恰も赫々たる戦捷に耀やく大東亜曙の希望に燃ゆる午の歳、清々しい床御簾の赤地金欄も真新しく、その上部に三つ柏の定紋を打ち出し、豊竹古靱太夫と筆太に箔打たれた銀文字も燦として何も彼もが力強く生々としてゐる。憗ひ業々しい積物や、華美な飾り物が沢山並べられてないのが却つて古靱太夫その人の奥床しい人柄を偲ばせて、質素な中に重々しく頼もしい気配さへ感じられて一層心強い極みである。
上演時間の制限や、入場税の増高にも拘らず文楽だけは例外とあつて、正月は一時半の開演で七時間たつぷり堪能させやうと云ふのである。その為か何か知らぬが例によつて上演曲目が六種類の盛沢山、この外に幕合のニユース映画や新曲末広狩の引ぬきを加へると実に眼眩しい許りの山盛りで、何れも正月料理並に種類許りが数多くて、さて食指を動かさうとなると何から手をつけてよいやら分らないと云ふのがおちである。
正月早々からの憎まれ口は自分乍ら一向感服せぬが、今少し上演曲目に注意して、せめて三四種位に限定するとか、或は思ひ切つてこの月は客が来るのは決つてゐるのだから一そ通し狂言二種位で明けてみたら何んなものか、何れにしても選り取り見取り掴み取り式な並べ方だけは以後充分に注意してほしい。
今月のだし物六つの内、古靱の熊谷陣屋のみが一きわ強く印象に残る許りで、他の五種は何が何やら空々漠々今思ひ返してみると一体外に何と何とをやつてゐたのかそれさへ突嗟に思ひ出せない程印象が散漫且つ稀薄になつてしまつてゐる。労して効なしとはこの事である。レビユーのやうに見た眼限りで後は霧のやうに消えて無くなつてしまふものならとにもかく、少とも文楽のだし物だけは、くり返し〳〵して味はひ娯しみ得るものであつてほしい。
眼目の熊谷陣屋は古靱としては全る二年振りの語り物である。津太夫の櫓下披露狂言もこれであつたが、今更ら申す迄もなく大物中の大物である。本来だと、直門の織太夫あたりが前を承るべき筈だが、これも今回は大隅と清二郎が務めてゐる。消息通と称する人々はこうした組合せの中から文楽座の次の時代の空気を嗅ぎ出さうとするかも知れない。これより先き古靱は昨年来東京興行を打上げた直後、折から無理した後らしい難声をもつてこの前段須磨の浦を放送してゐた[1941.12.24]。彼斯相俟つて、櫓下の貫禄に於て大物一の谷の二、三段目を完全に近く演出し得た次第である。須磨の浦は何分ラジオと云ふ悪条件の上に、時節柄の電波関係で充分な出来とは申せず、纔かに清六の絃が比較的電波の難を克服して良くきゝ得た程度であつた。前述のやうに津太夫の櫓下披露にこの陣屋が出た時、兄弟子の栄位に花を添へるべく、その時も古靱は須磨の浦を語つたのである。それは大正十三年五月の事であるから、爾来約二十年の歳月を隔てゝ再びその須磨の浦と、そして陣屋とをこゝに連続してきゝ得たのであるから、語る人もきく者にも、倶にいさゝかならず感慨なきを得ざる訳である。文楽としては珍らしい長期の二十五日興行と、猶その翌日[1942.1.26]のラジオ放送と都合二十六回の陣屋を完全に語り終つた事は何と云つても偉とすべきである。いつもならば二十日前後の興行に半分は大抵声をつぶしてしまつてゐるこの人であるが、今回は一生一代の大切な場合とて一層緊張した結果か、ともかくも大した差違も感ぜしめずに首尾一貫し得た事も目出度い限りである。全段の内でも取りわけ絶唱は後段有髪の僧の条りであつて、「その伝ふべき子を先立てから以下、一伜小次郎が抜がけしたる九品蓮台……の妙と、特に「十六年は一と昔のところが、今更ら乍ら強い感銘を呼起させた。絃、人形共に今さら取立てゝ褒める迄もなく結構であつた。今回特に印象に残つたのはいつもだとこの場は大抵人形出遣ひにするのを、今度は全部黒衣でやつてゐた。普通だつたら無いものでも無理に花飾りして興を添へたい一世一代の晴の舞台を、かく地味に堅実に古格通りに表現した事は遉がにこの人の床しい心掛けが伺へて好感が持てる。その代りと云ふ訳でもあるまいが、他の五つが五つとも全部出遣ひで中には無くもがなと思はれるものもあり、折角新櫓下での権威も自分自身のだし物以外には及ぼし得ぬかと思はせて残念である。
陣屋に許り筆を費して他に言及する余悠が今回はなかつたが、右の外、序の御所三では綱造の絃で七五三太夫の弁慶一本の外、他の段は、二、三人が毎日代りである。こゝでも七五三太夫は綱造に弾きまくられて声許りの弁慶を語つてゐる。其他織太夫等の炬燵も感心せず、むしろ末広狩の狂言種から出た淡白味が、従来のイキんだ新作よりあつさりと取扱はれてゐた点に好感が持てた。
切りの千本桜道行きは何の為か知らぬが重太夫の静御前を本床にして、住太夫の忠信を仮床に据え両床の演出方法をとつてゐる。「静は鼓を御顔と……から雁と燕の前までを新左衛門の絃が受持つてゐるが、これだけをきけば外に取立てゝ何も印象に残るものはない。
以上今月は筆者多忙のため、単なるかけ走の見物記になつてしまつた事をお詫しておきたい。