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【 浄瑠璃雑誌 義太夫ラジオ放送関連記事 】

(2024.12.08)
提供者:ね太郎
 
259 p37-38
新浄瑠璃阿蘭陀船 [1927.3.29]
東京の豊竹巌太夫が三月廿九日放送した阿蘭陀船はジヤガタラ文を素材とせる岡本綺堂氏の作であるが放送に際し更に増補したる
   岡本綺堂氏談
この「阿蘭陀船」はたしか大正五年頃発表したものでした大正十年四月明治座で多見蔵、雀右衛門等で上演したのが東京での最初でその前に大阪と神戸で誰か演つたやうでしたが記憶して居りません慥か死んだ又五郎も演つたと思ひますがこれは見ないのでよく覚えて居りません、この正月歌舞伎座の初春興行に久しぶりで上演したのがその時初めて浄瑠璃をつけたのでそれまでの芝居には浄瑠璃なしで演つて居た訳です。
この芝居は御承知でせうが長崎に「オランダぶみ」「ジヤガタラぶみ」と云ふのがあります、「オランダぶみ」と云ふのは長崎の女が異国へ行つて彼地から寄越したもので「ジヤガタラぶみ」は天草騒動の後阿蘭陀蛮は勿論それらとの混血児まで追放されて南洋、ルソン、ジヤワ等へ送られた、その追放された中に興善寺おはると云ふイスパニヤ人との混血児があつてそれが後年南蛮から寄越した可成り長い手紙です。
「オランダぶみ」も「ジヤガタラぶみ」も現在でも伝つて居るが好事家の偽作だとの説もあるこの「ジヤガタラぶみ」の主、興善寺のおはるが追放される、それを土台として作つたもので点綴するところの恋物語や事件はすべて私の創作です。
こんど巖太夫が浄瑠璃として語り物にしたいと云ふので白だつた箇所を節にしたり動きや何かを科に委してあつた箇所を浄瑠璃で語つて説明しなければならないのでこのあひだ巌太夫が来て三時間かゝつて手を入れました恰度正月にと云ふので暮の忙しい中で作つて今度また語りものにするので手を入れ大分何うもこゝの処で阿蘭陀にたゝられて居る訳です。
▲三月廿九日放送したる新作浄瑠璃阿蘭陀に就て語る
 豊竹巌太夫
阿蘭陀船は大正五年四月に岡本氏が作られたものでしてそれを大正十年四月に明治座で初演したものであります。この初演当時の主なる役割は堺屋助左衛門(尾上多見蔵)お春(市川松蔦)手代和三郎(市川寿美蔵)道具屋利兵衛(市川左升)狂女おまき(中村雀右衛門)岩瀬源之進(市川市十郎)僧日円(市川荒次郎)と云ふ顔振れで、この時は浄瑠璃は入れなかつたのですが、今年の一月、歌舞伎に第二回目を上演しました。その時は助左衛門(仁左衛門)お春(福助)和三郎(千代之助)利兵衛(我十)狂女(秀調)源之助(権十郎)日円(鶴蔵)の主役で、この時は仁左衛門さんの希望で、初めて、浄瑠璃を入れる事にしたのです。大正十四年一月廿九日の音楽講座に「会稽曾我」を演りましたのを動機に、新古浄瑠璃講究会を作りました。其時研究会の中には「一ツ家」「大森彦七」「お花半七備前屋の段」にこの「阿蘭陀船」などが入つて居りました。
放送になりますと芝居とは違ひますので床とせず独立した義太夫として新に節付けして作り変へました。それに、時間の都合で日円の出るのを省いて短くしました。囚に浄瑠璃全文は機を見て掲ぐべし。
 
291 p44
文楽の六月替狂言 [1930.6]
文楽座の五月興行は一日まで日延べし六月興行は五日初日午後二時開場にて前狂言は本朝廿四孝桔梗ケ原より狐火
 桔梗ケ原駒、文字、町、鏡、源路、文、長尾、貴鳳、長子、亀久の各太夫が掛合ひに糸は勝平重造
景勝下駄場はつばめ(糸勝市)△勘助住家は錣(糸新左衛門)△勘助物語は大隅(糸道八)△十種香は土佐(糸吉兵衛)にて狐火は特に改名後の南部(糸吉弥)が受持つ、廿四孝は四年振りの上場△中狂言伊賀越道中双六、沼津は古靱(糸清六)津(糸叶)が一段を語り分けるが紋下と他の太夫が一段の中に活躍する事は文楽初めての試みて津の沼津は昭和三年二月以来の演し物で当時古靱は「岡崎」を語つてゐる。
 切狂言妹背山婦女庭訓道行恋の小田巻は和泉、相生、島が掛合で演ず
因み、従来勘助住家でも十種香でも沼津でも一段を一人の太夫が演じてゐたのを二人が分けて語るをは時間と大夫割の関係でこれに依り中堅所の若手を将来ウント活躍させる新方斜ならん。 
 
295 pp29-31
東京通信 抜萃
△廿九日義太夫放送 [1930.8.29] 目下上京中の竹本相生太夫は古八を放送せしが猿糸の糸にて好評を博した。
 
301 p22
文楽座より 抜萃
二月十五日 [1931.2.15] BKの中継放送で土佐太夫吉兵衛の中将姫雪責の段を午後八時三十分より約一時間に渉り内地全国北海道、台湾、鮮満まで現場放送せり
 
三月十五日 [1931.3.15] 順宮内親王殿下御誕生奉祝記念放送として義経千本桜道行初音の旅路より引続き河連法眼館の段全部をBKより舞台中継で全国へ放送せり、これは放送局創設以来の浄瑠璃最長時間の記録にて太夫三味線から人形の足拍子迄放送に入る
 
 
377 pp 13-14
紋下の日向島放送を聞く 1939.1.31
   東京 梅渓生
 浪花名物浄瑠璃雑誌新年号に津太夫の日向島評判よしと記載してある、聞きたいものであつたに惜しい事してけりと思ふ折柄、一月三十一日には竹本津太夫がBKより全国中継を以て日向島を放送するとのことが各新聞に掲載されたので、当日は他の約束をお断りしてラヂオに噛り付いて午後八時を今や遅しと待受けた期待や蓋し大なるものと云ふべきである。
 扨謡曲中のやかましもの景清の松門独りとぢての一節如何に太夫さんだから商売違ひと云ひ条余りにも懸放れたもので全く観世にも宝生にも金剛にも喜多にも梅若にも金春にも匂ひもない謡でそんぢよそこらの稽古屋さんが語るのならあれでもマア〳〵あんなものかと云ふて済まされるが苟も天下の紋下文楽の総統日本因会々長と麗々しく名刺にも肩書して御座る第一人者竹本津太夫ともあらう大太夫が取つてもつかぬ和吟も強吟も仮名使ひもむちやくちやな謡曲の化もの見たいな松門を然かも日本国中々継の放送で臆面もなく語られた其心臓の強さは実にえらいものだと感心させられ………
 津太夫師に心から御忠告申上げたい、浄瑠璃中の謡はほんものゝ謡曲とはちがふものだと云はれやうがこうも違ふ位ならいつそ松門より衰へたりまで謡曲の一節はやめてテテテン「春や昔の」と浄瑠璃から語られる方が人に笑はれぬ丈けでもよろしからう事を………
 が然し本文になりてからも日向島と云ふものはあれ程面白くないものかと思ふた。悪七兵衛景清程の豪傑も日常の食事さへ事欠き衰へさらぼうて居るのだ、そんな風情もまた盲目らしき気色もなきのみならず、頼朝に降らざる大豪の我慢なく、心で泣かずに直ぐに口で泣く、泣き味噌の景清が「心にまかする身ならばたつた一目……にらんでくれたい」などの千金の詞も砂を噛むやうで手がつけられない、こんな日向島より聞かれないかと思ふと成程義太夫界の前途は悲観の一路あるのみと慨嘆せざるを得ない次第でムる。
 近頃浪花節に天中軒雲月と云ふ女流がある実に満天下の評判もので、彼れの浪花節は何処がよいのか、只活殺自在なのと人形の変化が見事で其上に遺憾なく情味を語るからだ。 鳴呼残念乍ら義太夫の本生命は既に雲月が奪つて居る。殊に此日向島を聞いて津太夫師は雲月の息や頭の働きを学ぶ必要があらうと思ふ。それのみならず一月三十一日大阪毎日紙上に此の日向島放送に就て左の如く宣伝されてあつた。
 この日向島は老練を要する大物の一つで、津太夫でも僅かに四回上演してゐるに過ぎぬ、これには青竹の手摺と素木の見台を用ひるのが定法になつてゐて、今月の文楽で津太夫が使つたのは家宝として秘蔵する横山大観画伯筆の素木の見台、裃は池上秀畝画伯筆のものだつた、なほこの浄瑠璃の最初に謡の出があるが昔は謡の師匠は格式を重んじて芸人には教へなかつたのを、津太夫は先代藤田家の斡旋で故生一左兵衛氏の教へを受け工夫したといふ
 此の生一左兵衛氏は観世流に於ける関西の探題格として聞ゆる名家である。晩年不遇にして天下茶屋にありし生一能楽堂も人手に渡り今は跡形もなくなつたが其の芸風は一種の風格を備へ尊敬を払はれて居た。
 竹本津太夫の松門に生一左兵衛氏の芸風と認むべきもの毛ぶらいでもあれば右宣伝の幾分を承認するが放送通りのものならば左兵衛氏を侮辱にあらずや又松門の冒涜なりとの非難攻撃を怖れ師の名誉にかけても真摯の研鑽を衷心切望してやまないの者である。これは斯界凋落の今日津太夫師に復興の手柄を遂けさせたいばかりに斯くも苦言を呈するのである。妄言多謝。
 
381
AKの新放送種目
 義太夫物語 1939.7.18
 七月十八日夜に近松秋江氏作にて、阪東簑助の物語に浄瑠璃竹本越道、三味線豊竹巴住出演にてAKより全国中継放送された義太夫物語先代萩は、AKの新放送によると
 義太夫は中年以下の人々には理解されず一段丸ごなしに放送しても徒らに時間がかかるだけで筋も判らず義太夫の味も薄らぐので義太夫を大衆化するため複雑極まる筋を物語で説明し之に義太夫の真味たるサハリをつけた云はば義太夫の浪花節化である。
 と云ふ次第である。義太夫を知らぬ若い人教育には新案であるが、BKが先づ手をつけるべきものであつたらうと思ふ。近ごろのAKが地唄や義太夫に触手の延びるのも面白き現象で。
 
 失敗の義太夫物語
 義太夫物語は「義太夫物語」の新語に惹かされてきいたが失望した。これでは義太夫のさわりを聴かせるために前後に説明な付け加へたにすぎない。敢て名優(?)坂東簔助を煩す必要がなく、アナウンサーでたくさんだし、その方が効果的である。簑助も苦心をしてゐるのだらうが、あれではどうにもならない物語の中に義太夫をもつと有機的に働かせる企画ななすべ
きである。
それにしても竹本越道の義太夫は面白かつた。簑助には気の毒な卅五分であつた。【足立区・KM生】
 
府県めぐり徳島の巻 阿波の浄瑠璃放送 1939.7.24
七月二十四日夜府縣めぐり第三回にて阿波といへば鳴門、順礼、浄るり、阿波踊り等が直ちに浮んで来る詩の国、歌の国ではあるが、時局の波音は鳴門の如くに轟々と渦を巻いてゐる。郷土芸術、伝説録音を通じてその銑後を紹介したが、四国八十八ケ所の霊場の一番から、廿三番まで徳島県にある、お遍路の笈摺姿も事変以来戦歿将士の英霊を慰め武運長久痴を祈願の為杖をひく者が多くなつた、阿波浄るり「順礼歌」のひとふしを豊竹呂調、伊勢糸調が演奏。
 
382
女義団司・清糸の放送
吐声子
団司の三浦別れ…糸小住 1939.9.12
団司も清糸も女義としでの大看板連である、殊に団司に到つては相当古い顔で其実力はまづ差おいて二十年前からの大どつさりである、処が一部ではアノ声(かすれた鼻へ抜く甘つたるい、所謂お女郎が男に甘へて何かねだる時に常用するものゝ類)が厭だ、下品だ、甚しきに到つては浄瑠璃の真価を涜すものだと口を極めで罵るものがある、実際此の時姫が如何にもお女郎の様に聞へる事だ、其癖相当に巧妙な節まはしや音遣ひをやつで居るのだがアノ声なまたれた調子で全く台なしにして居る。却つて三浦之介が一番聞きよくて一番わるいのが時姫だ、母親は時姫よりいくらかよかつた、併し決して褒むべき価値はない、どうも折角のアノ品のわるい声、自分でよいと思ふてやつて居る節まはしだから今更どうにもなるまい、只語りものを選んで、品がわるくても目に立たぬ様なもの、警へば壷阪の如き白木屋の如き帯屋の如き炬燵の如き明烏の如き或は八百屋の如き湊町の如きものなれば、此短所が耳に立つまい、今後は忘れても時代もの、品位第一のものは語つてはならない、尚一言声を大にして警めたきは詞や節の仕舞の音をブツ切りに消す事だ全くアレハ異端だ、敢て苦言を呈して反省を促すこと件の如し、実に意外の結果を見たが是非聞き直す機会を得たいものである。其の語り物は真世話であつてほしい、必ず歓迎されるを信じて疑はない。敢て希望を述べて置く。
 
清糸の新口村…糸仙平 1939.9.17
団司の鎌倉三代記よりは聞きよかつたが矢張女義のわるい厭味な風がチヨイ〳〵と現はれて居つた、それに此人近頃団司と一脈通ずるわるい処がある、こんな悪い癖はなかつた様に思ふこんな事は仮令先輩だと云へ真似してほしくない、それにチヨイ〳〵テツが耳にさわつた、「すべるを止める「よめの「飛脚屋仲間指ざししられ」等、外にも大分あつた様だ改むべきだと思ふ、「覚悟きはめて名乗つて出い、…今ぢやない〳〵」の聞き場は今一いき情が現れて居ない「切株で足つくなと届かぬ声も」と「やすかたならで」は共に本文を語り生かしてよかつた採点すればまづ甲の下位の所だ、仙平の三味線は堅い丈けにこんな語りものには不適当であるが、神妙に弾いて居つた丈割合によかつた様に思ふた。
まつ両女の放送を対比すると語りものを交替した方がよかつたと思ふ、そして清糸の方に団扇を上げねばなるまい、団司の声柄は昔からかはつて居ないが節やいろの尻の音がぷつ切れになつたり消へたりするのはお年の加減か近来頓みに耳に立つ様になつた。清糸の昔は(十年位前)浄瑠璃に厭味がなかつた代りにぎごちであつた、現在は円味が出てきたが、不幸にして節やいろに団司の様な厭味が現はれて来た、円味の副作用か是非矯正して此の店は昔に返つてほしいと思ふ、そして円味がつけば慥に聞けるものとなり立派な真打である。
 
■綾香の十種香
(昭和十四年八月二十七日夜
於蚕糸会館素玄浄曲研究会席上)
平井紅雨荘主人
十種香をどう語つたらよいか、との質問に対して、ガラス瓶に入れた金魚がゆら〳〵と游ぐやうに、たゞ美くしく語れと団平が云つたとかどこかで読んだやうに思ふ。二十七日の蚕糸会館に於ける綾香の十種香は確かに金魚らしく見えた。尤も二十年振りとかの所為か小さな小粒の金魚ではあつた。明治座に於る錣太夫の鮒か塩鮭のやうな十種香とどちらがよいかは別として、とにかく聞いてゐてよい気になつた。その原因は女義華やかなりし昔を思はすやうな妖艶な節廻しもさること乍ら、一つには兎角口を開けずに大きなよい声に聞かせうとする浄瑠璃が多くて、肩を凝らしてゐたのが久しぶりで、声は小さくとも口を一杯にあけた浄瑠璃を聞いて、肩の荷が下りたやうな気がした点もあるかと思ふ。含み声やこしらへた声に真の魅力はない。この意味に於てよい教訓でもあつた。
 
小仙の引窓 1939.9.21
  吐声子
団司、清糸の二人に続いて本誌締切直前の九月二十一日夜九時より小仙が弾語りで「引窓」を最後に放送したがこれは又全く女太夫でない女太夫と云ふべき声やわざの持主である、惜しい事に何かを落して来た許りに文楽座の太夫になれない、古靱太夫丈の崇重さと品位は備はらないまでも巧者な事、情愛の語れる事に於ては決してひけを取らぬ天稟的才能の持主で正に当代に於ける日本一の女太夫である、これが男で文楽座の太夫であつたなら古靱太夫や織太夫と共に二三の指に折られる人であらうと斯道の為めに彼れが男でない事が惜しまれてならない。
或浄瑠璃通曰く「女太夫は何処までも女らしくなくてはいかん、此点から呂昇こそ女の名人であると……」此語こそ一面女太夫一同を庇護した語であるが他の一面は真実の浄瑠璃なるものは女には語れないと女太夫一同を軽侮した語である、然し実際一般の女太夫には声帯の構造上真実の浄瑠璃は語れないのが本当かも知れぬが現代の小仙と故人になつた東京の小清の二人計りはそうぢやない、女と云ふハンデキヤツプなしに堂々と男太夫と肩を並べて立派に真実の浄瑠璃を語りこなせ得る人である、今度の「引窓」が確かにこれを証拠立てゝ居るのである。事の序に「引窓」につき耳に残つた箇所を畢げて批評すればまづ第一詞が飛切つてよく平岡と三原の端役に到るまで周到に語りわけて居つた、どの人形も全くそれになり切つて居つたが、其中にも老母が秀逸で実に申分のない出来であつた、一二を抜いて云へば長五郎の飛出すのを引止め「何処へ行きおるぞ」とアノせつかちな中に何処へを不思議な気味で語るあたり天稟とは云へ全く古靱太夫の周到な語り工合と一致して居つた、「七十近き親もつて」や「生きられる丈は生きてたも」など水際立つた節まはしの中に何処までも情味を忘れぬ処など、女太夫の又しても声や節に拘泥して情を忘れる様なのとは全く段違ひと云はねばなるまい。
長五郎の詞には時々無理があつた恐らく腹力の足らぬ為めかと思はる「母者人あぶない」は一寸気持ちが出で居なかつた「南無三宝夜が明けた」の与兵衛の詞は実に寸分の隙もなきよい出来であつた。地合が旨くて、詞がよくて、足取りに隙がなく、情味の現し方が巧みで段切まで全く心憎きまでに語つて退けた、これこそ甲上の二重丸である、斯道の為め腹力を養ひ益々精進されん事を祈りおく。
 
豊竹駒太夫の「沼津」寸評 1939.8.29
八月二十九日都市放送で聴く!
駒太夫の沼津これは珍らしい、新聞の記事にも艶語りの駒太夫が沼津を語るとはと不思議さうに書いて居つた。
「沼津」と云へば紋下津太夫の専売物の様に云ひ囃されて居つた(事実としては先代法善寺の津太夫の沼津は実に天下一品であつた、其の沼津を幾回も聞いて感ぜしめられた記者の耳には現在の津太夫をどうして世間で褒めるのかわからない位のもので失礼ながら感心した事は只の一度もない)其の沼津を駒太夫が語るのだ初めから太した期待を持たなかつたが扨て聞いて見ると存外平作がよかつた、然し彼の橋本の甚兵衛よりは悪るかつた、八升も一斗までの勘当ぢやと云ひさうな洒落ものゝ平作だつた、あれでは十兵衛の脇差で自害する程の律義者には一寸受取りかねた、然しまづ無難な平作だつた十兵衛は感心出来ない、それに女太夫が語りさうな勝手な刻み様。例へば「松葉やの瀬川、ど、の、ぢや、の」の如きが其一例だ。こんな臭い語り口はやめて貰ひたい、こんな悪い処を聞くと先代津太夫のうまさがしみ〴〵思ひ出されてくる、お米は艶麗な中に情味を忘れぬ語り口は悪るくなかつたが矢張り女太夫節の様な厭味がひよい〳〵と現はれたのは惜しかつた、一体に今の津太夫のよりは面白かつた、人形が動く丈=段切の切腹の所は津太夫のとまづ何処いそつこい、辛うじて及第と云ふ処、古靱や小仙のより劣る事数等。
清次郎の糸は神妙にひいて居ったがよくなかつた、も少し弾けると思ふたのに…それに一撥〳〵のウヽヽの掛声がうるさい、腹のよわい三味線に限つて掛声が多いさうだ、もつと腹をつくらねば結局むやみな掛声で浄瑠璃をこわし自分の芸を小さくする事にならう、モ少し先哲の心得を服膺して欲しいものだ。(吐声子)
 
383
竹本叶太夫放送の「忠九」を聞く 1939.9.26
  黒頭巾
 当日は夕刻より俄かの雷鳴で雑音烈しく放送が聞けるかどうかと案じたが幸ひ放送前から大分静まつてコンデイシヨンがよくなつたので十分聞けたが、扱て聞いて驚いた。
「戸無瀬は行儀改めて」より初まり、「うつり変るは世のならひかはらぬは親心」何と云ふいやらしい語り口だ、これをさせば即ち夫本蔵が名代」以下の戸無瀬の詞丸切りぶつ切りの本読み其まゝだ「これは思ひもよらぬ仰せ」以下のお石の詞これ亦珍妙だ、浪人由良之助の女房だから…と云ふ理窟かも知らぬが以ての外だ、一所に聞いて居た某氏曰く-戸無瀬とお石の取合ひは丸切り裏家の嬶左衛門共が井戸端で喧嘩して居る様だ、コンナ忠九は聞き初めだ…と此の評言には同感せざるを得ない「ノウ小浪」以下「気は張弓」は丸で考へ違ひだ「泣かずとも」とたしなめながら戸無瀬が泣き〳〵云ふなどは沙汰の限りなり「力弥様より外に余の殿御、わしやいや〳〵」は不良の気まゝ娘が母親に駄々をこねてゐる様で何の可愛気もなかつた「虚無僧の尺八よな」もなぜ泣くのだ「伜力弥に祝言さそう」のあたりお石やら戸無瀬やらごちや〳〵に「あひに相生の松こそ目出たかりけれ」は小謡でなくて全く漫才だ、北六万野が出なんだが不思議「親子はハツと差しうつむき途方に暮れし折柄に」を泣いて語るのは叶大夫君の新案特許か、相当理窟も云ふ人の様に聞いて居るのに何と云ふ事だ、もつと本をよんではどうか。
 終りに臨んで一言苦言を呈したし、如何に現役でないとは云へ、叶夫夫と云へば因会に於ける大大夫だ、此九段目は誰れに習つたものか、まづ吾々が知つて居る摂津大椽以来今日迄こんな「忠九」は聞いたことがない、これこそ珍型を通り越していつそ情けない、後輩諸君の内九段目とはこんなものかと思ふものもなきにあらずだ、全く一種の浄瑠璃冒涜と云はねばならぬ寧ろ放送を辞退するが斯道の為であらう。
 三味線は浄瑠璃程無茶ではないが大夫のお蔭か九段目なるものを弾くには前途尚ほ遼遠なりと云はねばならぬ。妄言多謝
 
雛昇小住の安達祭文 1939.10.7
十月七日都市放逸にて聞く
雛昇と云ふ人最近中々の好評で土佐太夫の如きも東京で盛んに褒めて居つた様に聞く、或一部では呂昇の再来だとか、近来女義研究会に小仙が出演せないのは雛昇を恐れて居るのだとか、種々な風評やデマが飛んで居る(吾笑君が東京歌舞伎で褒めたのが火元をなして居ると云ふ者もある)果してそれ程むまいのか寺子屋の文句ぢやないが「今浄玻璃の鏡にかけ鉄札か金札か」聞きわけて批評に及ぶ事とせう。
送り無難「只さへ曇る」以下の枕は本文の研究が足らない「不愍やお袖は」は変化に乏しく無味乾燥だつた「さぐればさはる」をすら〳〵とやり「こしばがき」とぶつ〳〵切るのは盲のさぐりの気味を現はしたつもりだらうが感心せぬ、寧ろ「さぐればさはる」をぶつ切らないで、盲人のさぐり気味でやり「小柴垣」はすら〳〵とやる方が遙かによいと思ふ、全く考へ違ひだ「くろがねの門より高う」は無変化「たれ、やら人声」妙な切り様だ、祭文は情を忘れず節まはしに厭味なくまづ無難の出来だ。謙杖の詞は品が悪るく袖萩は割合に聞かれたが、時々目が明いて居つた、浜夕の詞は老け声を噛んでこしらえて居るのが耳にさはつた、よく〳〵工夫すべきだ、憂ひの地合、仮へば「未来がなほしも」や「見れどめくらの」や「身はぬれさぎの」等声が自由自在な丈けに憂ひの情を損ねるきらひがあつた。これが一般声の自由に出る人の欠点だ、此自由の声を情に生かして使ふ事を修錬すれば大成するのだ、まづ総評して呂昇の再来には間遠く小仙の芸とは全く種類を異にして居る、結局鉄札たる贋物ではないが扨まだ金札には達して居ないだらう。
   (萱野兎耳兵衛投)
 
384
竹本土佐大夫の地合軽視に就て
壼阪の放送をきゝて 1939.11.8
   本誌同人中野孝一
現役ではない隠居の身の上であつても土佐大夫はやはり浄曲界の最高峰の一人である。殊に世話語りの名手として押しも押されもせぬ第一人者たる王座は微動だにしてゐない。だが最近は文楽座で容易にきかれた頃とは違ひめつたときかれぬ大切なものとなつてしまつたばかりでなく、もはや頽齢のこの人のこと、これがあるひはきゝ終りになるのかもしれないと言ふやうな不吉ではあるがたゞならぬ愛執の思ひもあり、かた〳〵今回の壼阪の放送についての期待と関心は実際並々ならぬものがあつたが、枕をきゝ乍らおや〳〵と声に出すほど失望したのはあまりに惨めだつた。
 土佐太夫の芸術に関してはこれまで折にふれて卑見を開陳してきたが、晩年期に入つてからの地合より詞に重きをおいてゐる傾向の一貫してゐることに絶へず物足りなさを覚えつゝも、比較的地合と詞の諧和の渾融してゐる時はうれしくて礼讃し、然らざる時は地合軽視の偏見に遺憾の意を表明してきたのだつたが今度はあんまりひどすぎた。尤あゝいふ淡々乎として白湯を呑むやうな平板な味が孤高玄妙の所謂浄曲の理想境を具現せるものだと語り手はひそかに自負してゐるのかもしれないが、華麗絢爛を通りぬけた平淡味とは似て非なるものではあるまいか。それはこんなへんてつもない味ではないはず、サラリとした中に自然の律呂に叶つた節奏美があつて、微妙な滋味のほかに湧き出せるものでなければならぬ。例へば私が浄曲新報で絶讃を惜しまなかつた十二年正月興行、桜丸切腹の八重の口説の如きがそれなのだ。そう言ふ真似手のない腕を持つてゐながらこの壼阪では枕だけをきいてゐる間に、一句毎に殆んど連続して語尾をふるはしゆるくせに悩まされた方が多く、陶酔どころか却つて索漠たる気持にとざされてしまつて、名人大団平が心魂を注いだ巧緻至妙の節付を生かす表現の意図は、特に味の深い枕の何処にも聞き出せなかつたのは遺憾この上なかつた。
 何時ぞや浄曲新報に奈良野憶也といふ人が「土佐脱退論」に書いてゐた「夕霧上下はづれ甲がとどかず大不評のために引退を早めた」云々といふやうな非難とは、私の不満とするめどは異ふ。あれは単に老衰による声量の減少を問題にしてゐるに過ぎなかつた。
 こうした甘い衆俗の無理解な皮相的な聞き方に雷同してかれこれいふのではないばかりでなく、あんなことにはむしろ義憤さへ感じる位なのだ。年が寄つたら声量も減り、霑ひも乏しくなるのはあたり前でも、容姿を売物とする俳優などとは又別で、心を澄まし、思ひをひそめて工夫すれば美麗奔放の魅力に代る寂びた雅潤な音律美が生れて来べきは当然、芸道捨身の意気もて精魂を傾注してくれるなら枯淡清澄の風韻掬すべき高い芸境が豁然としてひらけたらうに。もう節調の技巧の修練に不足があるはずもあるまい、やらうと思へばどんな巧みな声使ひでも洗練されつくした節廻しでも自由自在にやれる人が、あの枕のやうな、めんどうくさいと言はぬばかりの気のぬけた語り方をされるとあきらめのつかない愚痴が出るのも無理ではあるまい。
 しかし、誰でも老境に入ると総てに熱意を失ふもので、とりわけ俳優などはその役柄にすつかり同化し切つた熱演は不可能になつてくる。人形遣ひにはなれても人形そのものになつて仕舞へないと、最近のサンデー毎日の随想欄の私といふ役者といふ一文で井上正夫も浩嘆してゐたが、丁度この放送と思ひ合せ、近来年のわりにめつきり老ひ込んでしまつた自分の心境ともなひ交ぜてさま〳〵の感慨に耽ったことだつたが、それはともかく、あの語りはじめの熱の無さ、地合軽視の傾向の顕著なのはそういふ心境の所産である事を裏書きしてゐるかに思へた。今までは地合があつさりしすぎてゐる場合でも詞だけはいつも生々としてゐたものだに、今度はのつけの詞にもそうした腹構への不足な性根のうすい詞をきかされた。「コレハ〳〵は沢市さん」や「いつそ死んで退けう」の沢市の嘆声をヱヱと軽く聞きとがめるお里の呼吸がとつてつけたやうにわざとらしかつた事や、「嫁入りしてから三年の間モほんにほんに露ほども」のあたりがお里よりも土佐大夫を多分に感じさせて幻滅させたことや、一般フアンの耳を澄ましてゐるお里の三つ違ひの兄さん以下の口説がすんとして情味のなかつたこと等等で、これではどうもとうんざりしてゐたが、やつと沢市の「どうぞ花がさかしたいナア」ではじめて本領発揮、それから段々語り進むうちには本調子となり、例の写実の妙諦を体得した詞の真実さで人物を浮彫にし、いつしかその幻想の雰囲気につれこまれてしまつてゐたのは流石である。就中「沢市さんえノー」のお里の絶叫哀喚の感味は素晴らしかつた、でもこの悩乱の描写は単なる写実ではない。繊巧細緻の妙技を思ふぞんぶんに駆使して聴手も語り手と同じ息に喘ぐほど強烈な迫力を与へられ乍ら、只、悲痛さに徹するといふだけでない一種の快美な法悦に似たあるものを与へられたことゝ。あとの口説の「報いかつみが情けない」の等類を絶せる表現の皮肉さ--悲哀淋漓の真態を写して余情切々而も芸術の香り豊けき心憎さに讃嘆之を久しうした。浄曲の味の極致はまさにかくの如きものでなければならぬだらう。
 こういふ調子で表現が統一されてゐれば満点なのだが。
 大正六年一月の演芸画報に岡鬼太郎氏が伊達大夫についてこんなことを書いてゐる。土佐大夫の現下の芸境と思ひ合せると興味が深いので転載させて頂く。
 「一種の癖のある総てに華かな伊達の芸、これを無闇と歓迎すると、甘い奴だと、師匠からの取次デン通、紳士天狗の御歴々から笑はれるかも知れぬが、イヤ、今年の伊達は決して以前の伊達ではない。士別れて三日なればといふ感がある。暫くきかずにゐる中の彼が進歩失礼乍ら実に意外だ。
 それも単に年功といつたやうな計数的な進歩でない。伊達はすつかり真面目になつたのである。揺つたり、振つたり、廻したりの声の自由を利用もしくは濫用する事から逃げて、多少は薄くなつた腹に料簡といふものを詰め替へて義大夫をきかせるよりも人間をきかせる方が真の名を成す所以であると、大いに悟つたらしく努力してゐる。彼の浄瑠璃は追々と真実になつて行くであらう」。
 これはそれ迄の浮華な伊達の芸風が、真実一路を目指した芸の転機を祝福し、特に真を強調して説かれた方便論だらうし、一代の大通の言、強ひて異を樹つるも憚られるが義夫夫を語るより人間を語れとはその当時までの伊達大夫になら何より適切な忠言だつたらうが、些か薬の利き過ぎた偏狭さを感じる。これだけが義大夫を極める唯一の道であつてはならない。人間の真実を語ることが義夫夫の究極の理想などと思ふは一種の迷妄だと私は信じてゐる。こうした権威者の言に教へられたか、先師大隅大夫の芸風継承を発願したものか、爾来地合軽視の傾向は年を追ふて顕著となり、過ぎたるは猶及ばざるが如き今日の有様となつたのだ。
 今更言ふまでもない事だが、浄曲は日本音曲としては至上最高の完成芸術である。地合の節奏の音楽的美感と、律動化された詞の真実味とがいみじくも渾然融合して独特の醍醐味が醸成されたものに吾等はじめて随喜渇仰するのだ。この意味から言へば団平に命がけで仕込まれたときく先代大隅大夫の詞に魅力の焦点をおいて、それにおそろしいばかりの迫真性を付与したあの巨大な真のこもつた芸術、まま音づかひと情合絡み工合に名状しがたい妙味があつても地合に音楽美の少い跛行的奇形の故に完成品としての礼讃をうけなかつたが、これは大隅の天稟の然らしむるところどう心構へをかへてみても、どんなにあれ以上工夫精進に肝脳を絞つたとしても、どうにもなりやうがなかつたのだ。大隅としては天分の限りをつくし、至り得る最上至高の境地までのし上げて行つたぎりぎり結着の芸境があれだつたわけである。しかし土佐太夫はこの人の衣鉢を享けついでゐるにしても大隅大夫よりは天分において恵まれてゐる。心の据え方精進次第で先師の至り得なかつた、繚乱の花園香気ふくいくの芸園へ自由に独往逍遥し得るだらうにと残念でならない。
 小ジユーマは「舞台においては魅力は真理より必要だ」と喝破してゐるとか。この言葉は浄曲にもあてはまらなくはないと思つて、土佐が文楽脱退当時、浄曲新報紙上同人へ宛てた公開状にかいたことがあるが、今の場合もつとも適切のおくりものと思はれるものから、重ねてこゝに繰り返しておく。
 とは言ふものゝ上述の不満を感じつゞけ乍らも、これは自分の耳、いや心の至らぬために、ほんとの味を噛み分けられないのではないだらうか? ときく度毎に峻厳綿密な反省をしてみるのだが。
 果してこれは私の聴き誤りであらうか? 土佐大夫の偏見の罪か? 老境に入つた心境変化の所産か? 先覚諸堅の高教を仰ぎたい。(完)
 
壺坂 竹本土佐大夫 野沢吉兵衛 1939.11.8
 十一月八日午後八時五十五分より全国中継放送
          同人 森下辰之助
「夢が浮世か」の語り出しから土佐音丸出しの鼻へかゝつた大夫独特の音声が文楽座出勤時代より一層強く響いたが、相当高い調子ですかツと語れて居つた「薄き烟のいとなみに」「夫の手だすけ」は殊に土佐音で耳にさはつた。「鳥の声」以下菊の露の唄は思ふた程実感が出て居なかつた上に気の変化に乏しかつた、「三味線出してよい機嫌ぢやの」以下お里と沢市のとりやひの詞は頗る平凡で期待を裏切られた。「どうでわれの気に入らぬは無理ならねど」はモツと変つて欲しかつた「貧苦に迫れど何のその」厭味なくよい語り口であつた「明の七ツの鐘を聞き」と「山路いとはず三とせ越し」共に頗るよかつた。「細き心も細からぬ」は無意味だつた。
「折りしも坂の下より」の語り口は変化が乏しかつた、「称ふる詠歌も」の称るが余りに強く杖をついたので少々耳ざはりであつた、詠歌は高い処で一寸火が出そうだつたのは無理がないが、まづ〳〵無事にやり了せた。「嬉しいぞよ女房共」は真情が出て居つた。「杖を力に盲目のさぐり〳〵て」の「盲目のさぐり〳〵は気分が出て居つたが、杖を力にが平凡だつたのは惜しかつた「かゝる事とは露知らず」は変化に乏しかつた「沢市サン沢市サン沢市サンいのふ」は能く気分が出て居つた「遙かなる」以下「こだまより外」大分えらそうだつたがまづ無難「あとに残つて私しやマアどうせう」より「堪忍して下さんせ」は少しも息がぬけず面白く聞けた、「此世も見へぬ盲目の」以下大落しまで寸分すきなく結構。「南無阿弥陀仏弥陀仏」はテツ。
 今此一段を聞き了つて七十七の高齢で既に第一線を引退した、老人が一個所のぼろも出さずしつかりと語り了せた事は流石に斯道の長老である。殊に非常に感心した事は語りだしより終りに近くなる程、末広がりにしつかりしてくる事は流石に其芸力の偉大さの然らしむる処で引退後相当の時日を経たる今日に到るまで、かく迄力演し得らるゝ事は全く大夫が平素摂生を守り芸道に対する忠実な心がけの賜に外ならぬと深く感ぜしめられた。兎に角当代に於ける斯界の至宝として後世に伝ふべき偉大な放送記録と云はねばならぬ。
三味線は現役引退後もそう大夫程変化はない筈とは云へ、中々立派であつた。「誓は深き壼阪の御寺を」以下三重は殊に雄大な気分が漲つて居つた。浄瑠璃無難の放送には蓋し三味線の力与つて大なるものあり近頃会心の放送であつた事を謝す。
 
放送夜話
歌舞伎とオラペ、義大夫 1939.10.
   本誌同人 太宰施門
 唯今のお話「短冊五万枚」に続きまして、短冊と歌舞伎の関係を一々訊ねて見るのも相当面白いと思ひます。例へば「忠臣藏」の大序で師直が顔世御前に、短冊による色恋の申し出をいたします。が三段目で顔世の良人判官が「わがつまならぬつまなかさねそ」の上の句の返歌を手渡します。これが直接の原因になつて天下を轟かし、後世、世界の果てまで知れわたる大事件が起る仕組みに組み立てられて居るのであります。
 がてうど私はこの秋の始めに支那に参りまして、北京に十日程滞在して居りました。その間に北京名物の芝居を数回見物しまして色々の事を考へました。その一端を緒口に我々の有つてる国劇、歌舞伎の特徴について少しお話して見たいと思ひます。
 先づ考へに浮んで来るのは西洋のオペラと我々の歌舞伎と、それと支那芝居との関係であります。三つとも非常に似通つた点があります。即ち何れも俳優のしやべる対話が二つの部分から成つてゐて、一方はごく自然な、日常の会話そのものでありますが、残る部分はゆつくり長く、高低抑揚の節を伴うた、歌唱、あるひはそれまがひのものに強められてゐるのであります。そしてその付き工合ひは区々であり、場合々々によつて異つては居りますが、何処にも音楽の伴奏があり、然もそれが大きな役目を演じて居ります。
 自然な対話である時、「お婆さんは川へ行つた」とか「あの人は結婚するさうです」といふやうな台詞であると、我我の耳は聞いただけの事実を頭に伝へて、外のことには一さい注意しません。即ち言葉の流れ、声の響きが耳の感覚を愉快にするか、しないかの点に頓着無く、たゞ言葉の意味さへ通じればよいのであります。芝居の対話ではしやべる当人の思想や感情がそのまゝ分るやうに、言ひかへますと、出来るだけ正確に、自然に、心の中やその考へが対手に伝へられることを要求します。そしてそれが外の言ひ方では迚も伝へられない、それ以外に適当な対話は無いといふ事になつて、戯曲としての名文の位づけが決定いたします。
 俳優の心用意はだから出来るだけ正しく、細かく、その扮する人物の身分や境遇、年齢、その時の感情を完全に腹に入れて、さうして適当に表はされてゐる句を自分のものにして話します。前申しました意味の名文であり、それが十二分によく俳優によつて述べられますと、演劇といふ上演芸術の傑作、模範的な創作になる訳であります。
 が歌舞伎や支那の芝居やオペラにはモ一つ外の部分がありまして、何れにも俳優が声張り上げて朗唱する台詞があります。「不思議だ」とか「これは可笑しい」と言へば散文の対話でありますが、「先代萩」床下の男之助のやうに声張り上げて、「あゝら怪しや」と言へばもうそれは大分音楽の世界に入り込んで居ります。その多くは、示されて居る意味はむしろ何うでもよい、声の強さ、響きの大きさ、節の連なりの面白さが肝要になつて来る。そしてそれ丈で十分我々の堪能するものが出来て来る。感覚的な悦びを中心の興味とするものになつて参ります。
 斯うなりますと、人物の心持ちや情熱をそのまゝ正確に現はすといふ事よりは、出来るだけ美しい声で強く大きく表はし、節を面白く廻転さす方に俳優は向いて行く。もう俳優と言つては誤りになり、適当には歌ひ手と呼ばねばならなくなります。オペラ俳優ではなくオペラ歌手であります。句の意味や性格の理解などそんなに細かくなつてもよい。たゞ声が美しく、節廻しの訓練が十分加へられゝばよいのであります。この美声とその鍛錬とを省くことの出来ない条件としてオペラ歌手が成り立ちます。
 支那の芝居では歌ひ手とは言はない、矢張り俳優と呼んで居りますが、その上演の眼目になつてゐるのは矢張り歌の部分であります。外の所で能く似たしぐさ、歌舞伎めいた内容もあるにはありますが、興味の中心部はむろん歌唱であります。極度に鋭い声で俳優が朗唱しますと、北京の見物は全く我を忘れる程悦んで夢中になつて喝采します。矢張りオペラと同じ面白さがその本来のものだと私は思ひました。
 わが国日本の上演芸術、能と歌舞伎は何うであるか。支那の芝居やオペラによく似てゐる面のある事は前述べた通りでありますが、こゝに大きな違ひがあります。その俳優は決して必ずしも美声である事を要しない。そればかりか寧ろ普通以上の悪声であつて、それで立派にその地位を保つてゐるばかりか、名人の数に加はつてゐるものさへ少くないのであります。こゝに非常に重要な眼のつけ所が置かれてゐると私共は考へます。
 今は問題を歌舞伎だけに限りますが、そこには形の美しさ、色の配合の美しさといふ世界無比の感覚美が我々の前に繰りひろげられてゐるのでありますが、台詞の面では決してさうでない。寧ろ反対に感覚は従で、伝達が主になつて居るのであります。即ち人物のその時の感情心持ちをそつくり正確に見物に伝へることが第一の要件であります。朗々と空鳴りする、数年前死んだ中里式雄弁はほんたうの歌舞伎のものではありません。上の空に流れてはいけない役の性根とか腹が出なければならぬといふ風に、古来その心得が説かれてゐるものなのであります。
 さういふ正確と緻密をつくした感情表現、然もたゞ-人の人物だけでなく、同時に数人もの対話や動作や心境叙述をただ一人の語り手がしやべり説明して行くといふ、西欧人の夢にも考へられない、至難な芸術がわが国に在るのであります。誰も知つてゐ文楽の義大夫節がそれであります。若侍も老婆も、下男も殿様も、遊女も商人も、たゞ-人の大夫が語り分け説き分けて行く。そして何の人物でも外の大夫や俳優の表現よりも巧みであるといふ名手の演出にしばしば我々は出会ふのであります。謂はゞ芸術上の一つの奇蹟だと言つても決して言ひ過ぎではありません。
 困難はまた斯ういふ点からも加はつて参ります。西欧の戯曲ですと、対話が長く、細かく心行きを述べ説明してありますが、日本物では思想の表現が手つ取り早く、全部をはつきり漏れ無く整へて列べ立てるのでなく、態と片はしだけ言つて後は続けない。真相をちゞめて言ひ、或ひはぼんやりぼかして表現するのが一般の風であります。時には「言はぬは言ふにいやまさる」場合もありませうし、「口に言はねど心には」の方の感懐がずつと深く、切実に見物の胸に泌み込むのであります。死に別れ、生き別れの場面などで、雄弁はたゞ悲しみを殺ぐだけの役目しか致しません。「も一度顔を」の一句が数千言にまさつた無量の想ひを抒べ、「丑よ、達者でゐろよ」の直次郎の別れが満場を泣かせるのに十分であります。腸を裂く心の悲しみを笑ひに紛らせるとか、またはじつと噛みこたへて辛抱する辛さの方が数倍、十数倍効果的に舞台で化活かされるのであります。
 斯ういつた所から、その場合々々に適した唯だ一つの表現を、顔、手足、身体の形と動きに可なりのものを分担させながら、然も短い有効な句で言ひ現はします。「こんな殿御と……」、後は言はないで床の大夫の説明に任せます。「馬鹿め」だけで、何もかもを尽した完全な思想表示になります。前に挙げましたのも同じ例でありますが、短いだけに、余ほど練習の数を経てゐないと、予期しただけの心が見物の所まで届くのに可なり骨が折れます。「新皿屋舖」で宗五郎が「有り難う御座います」と言つて平伏するその平凡きはまる日常挨拶の中に、肺腑を突いて出る感謝の心が籠つてゐないと、てんで見物を感動させません。松王丸の「よく打つた」はなほさら複雑で色々の点から見て難の入らないものでなければなりません。「妾は内大臣秀頼の母ぢやぞや」はその品位を添へたヒステリーの発作であることが必要でありませうし、「あちらは身投げ、こちらは気狂ひ、伜は何にならうやら」で、子の遊所通ひを心配する老人の心が切実にうつし出されねばなりません。かうした表白にあらを出さない程度の普通の修行さへ決して生易しいものではありません。多くは古来の名優、先輩の舞台をよく見て、その節廻しや呼吸を腹に入れるのでありますが、なほそれら以前に、基礎の修行として義大夫を学ぶ心得が必要だと言はれて居ります。
 義大夫曲と歌舞伎の関係はまた別の面からも考へねばならない重要な問題でありますが、こゝでは少年俳優、殊に名門の子弟はよく踊りと一しよに義大夫を仕込まれる事実だけを申上げませう。小学校へは行かなくともよい。朝起きると両方の稽古所へ通ふのが毎日の定まりで、雨の日も風の日もその一つを欠くことは許されません。そして義大夫を稽古する間から、一ばん大切な感情表現術を学ぶのであります。即ち声、台詞の抑揚、緩急、その無限の変化と組合せによつて、一々の場合に一ばん適切な表現を与へる人物の感情それ〴〵を自然に、そのまゝに表出する術を練るのであります。
 この練習は実に重要なものでありまして、西洋の文学戯曲ですと、この技術さへ飲み込めればそれで一かどの俳優になれます。我が国ではさうは行かない。或ひは文楽の大夫になれるも知れない。が俳優としてはその外に踊りが必要である。そして踊りにかけては一代の至芸をもつて呼ばれる名優でありながら、台詞の朗誦にかけては非常に凡庸であるといふ例も無いではありません。また反対に、著るしい欠陥が形の上に、動作による表現の上に際立つて居て到底我々の眼を留めるに足りないものでありながら、強い適確な心理表現で見物を限り無く動かす俳優のあることも私どもは知つて居ります。前の人々はある種の舞踊で非常によいものを創作します。が芝居は演れない。後の人達は文学に近い戯曲の演出者にはなり得ませうが、歌舞伎の演出は出来ません。
 斯う云つた関係に私共の国劇歌舞伎は置かれて居ります。即ち上演芸術の世界を私流に整理して、一方の極に感覚芸術を反対の側に文学戯曲を置いて考へます。耳や眼の悦びを此方へ、反対の方へ心の悦びを置くのです。さうするとその中へ順々に、一ばん感覚的なものとして、即ち非文学的なものとして西洋オペラ、その次へ支那の芝居、それから歌舞伎、一ばん端へ文学戯曲といふ順になります。併し歌舞伎と一口に言つても、その種類は正に千差万別でありまして、目まぐるしい事件本位のメロドラマから、軽妙な余興風の踊りまでを含めて申します。その間に連なる色々の様式の中で、私が主に注意したいのはその中間どころ、即ちメロでない、舞踊でもないあたりに秀れた作が列んでゐると思ふのであります。さうした作は残らず文学戯曲としては非常に欠陥が多い。それを色、形、声楽の美しさが埋めて、不思議な調和の感興に高めて居ます。盛り上げてゐると言ふ方が正しいかも知れないのであります。
 この関係で、非常に強い感激の歌舞伎は時にその挙げる効果がオペラのあるものに似通ふ場合が少くありません。話が少し細かくなりますが、文学戯曲で一ばん大切な、眼目の面白味は心理分析といふ特別の方法で挙げられます。その優秀なもの、古来の傑作と称ばれてゐるものを一通り眺めますと、その殆んど全部の場合--例外と言はれるほどのものを私は知りません--それは一つの力が互ひに人物を挑んで、何れにか従はせようと牽き争ふ。一つに付けば他を捨てることになり、両方をうまく取り入れて、違つた第三の方向へといふ妥協の道は更に目つからないといふ境遇であります。言はば何ちらかを抱きしめて他を放すより外の方法は無い、窮極の土端場に追ひ込められます。この境遇を殊によく竹本劇、すなはち義夫夫物の諸曲が巧みにその中心の、或ひは主要な挿話の中に取り入れて人物を苦しめます。愛を貫かうか義理に敗けようか。忠を立てようか子の愛に従はうか。親と主とのいづれが重からう。愛する男の忠義の前に、自分の恋と一生を棒に振らうか。恩に背いて弟を助けようか。父と夫との何ちらへの務めを果したらよからうか。親と嫁の何れへ味方すべきか。純粋に心理的なものはこの相反する二つの力が、互ひに拮抗する勢ひをもつて挑み合ひます。兵力の同じ一つの軍勢が、唯だ一つの地点を死にもの狂ひに争ふのとその様が似通うて居ります。
 この抗争は長い程それだけ悲劇的であります。速く経過して、失はれた一つを嘆き悲しむのも矢張戯曲的ではありますが、何方らかと言へば簡単過ぎて味に乏しい。心理的でなく感覚的、オペラ式であります。日本の物は小説でも義大夫曲でも芝居でも、みな一様に余り速く、呆気なく一方の力が敗けて、瞬たく中に心理葛藤の戯曲は鳧がつきます。可なり思ひ切りがよいとも言はれませう。西欧の文学戯曲で多く決著を最後に残して置いて、それまでに十分の紆余を尽させ、右左への動揺を繰返させます。それとこれとの違ひは、少し大袈裟に言へば、実に雲泥の相違があるのであります。幾らかでも、或ひは緒口だけでも記されてゐるのは歌舞伎、義大夫、曲の中で比較的文学に近いものたとへば近松の原作から採つた三四の作であります。あの「国姓爺合戦」の甘輝館や世話物の諸篇がそれであります。しかし実際を言へば真に物足りない。在るだけは優つてゐますが、外のものは多く「先代萩」御殿のやうに、行き著く所へは間髪を容れないばかりの速さで行つてしまひ、あと可なり長く、激情の灼熱的表現が舞台中心の興味となつて居ります。
 斯う見て来ますと、日本の歌舞伎は昔から心理悲劇の方へは進まないで、即ち対話に十分の精根をつくさないで、感情の強い表面発露によつて観衆を魅惑しようとした。オペラ乃至メロドラマに通じた多くの部分を有つてゐるのはそれがためであります。従つて概して非文学的、芸術的であります。中で「竹本劇」に属するものが一ばん文学の境に接近してゐた。さうしてその理由によつて、一ばん生命が長いといふ事が言はれませう。
  (放送「ラヂオ夜話」)
 以上は十月末日太宰文学博士がBKにて放送されたものである。乞ふて掲載する事とした。
 
 
近頃放送浄曲覚書
   本誌同人 中野六々魚
一、女義寺子屋掛合 1939.11.21
 当夜の放送では、団司が他の若手に華を持たせて自分が一番軽るいそして不得手の源蔵に廻つてゐる心構への床しさを第一に気持よく感じる。仕込も足らず演りどころも少いのに熱演は感心、しかし「いぶかしさよ」の語尾の喰ひ切りがまづかつた。あの呼吸はむづかしいものだが、何だかもつと工夫が出来さうなもの。
 清糸の戸浪、雛昇の千代はかくべつのこともなかつたが綱龍の松王がちときき劣りがした。荷が勝ちすぎてゐるやうな辿々しさを覚えたが泣き笑ひは割りに旨かつたか?力にあまつた大業を懸命にこなしてゐる悲壮さをめでてか?聴客席から拍手が起き、更に間をおいて「出来た」と力づよい声援がマイクに入るなど、スピーカーを通じてきくだけ趣は深かつた。
 いろは送りは名手小住の三絃と相俟つて気持よき出来、情味と節調との渾熱せる近頃のききものだつた。「明日の夜誰か添乳せむらむ憂目見る親心」の節尻が節廻しになづみすぎて情味を忘れたらしかつた以外は、女義らしい節のあて込みもなく、つゝましく美しく哀れに語つて恍惚たる忘我の境へつれ込まれてしまつた。掛合だから各々替つて演じてゐるのだらうに、際立つた各自の特色もきゝわけ得ず、一人で演じてゐるのだらうと思はれるやうな錯覚を起したのは私の耳の鈍なせいであらうか?
 
二、三蝶の御殿後半 1939.11.28
 三蝶の芸を私は可成り買つてゐる。がめつたと放送には出ないと見へて昭和九年の八月に「女義さはりの夕」で酒屋のお園の口説きを小住の三味線できいて、その時顔を並べた東西の若手錚々連の中で、この人だけに讃辞を呈して以来の久闊さだ。
 当夜もそんな次第でたのしみにしてゐたところへ森下氏からぜひこれをきけとの厳命あり張り切つてゐたのに、後半栄御前の出からと知つて大に興をそがれた、何故前半をきかしてくれなかつたか!
 出来栄はまあ一通り、何処といつて耳だつだるいところもない代り、アヽそこ〳〵と膝をうつほどの妙所もなかつた。強ひて注文をつけるとなれば
 八汐が総じて小さく太々しい憎みが些か不足だつたこと「くるしむ声の肝先へ」のくるしむのつき込み方、その描写が不充分でてんに力こもらず、あとのこゑを持ちすぎて振るのは不感服、理窟からいつてもくるしむ姿のむごたらしさをこそ強調すべきなのにお留守にしてしまつて、こゑにのみ意味合を持たせやうとする演り方はどうだらう。
 口説はあまり唄はず語る腹構へ得心。その代り「千年万年待つたとて何の便りが-」でこの人一流の魅惑ある小味な節廻しをこゝぞとばかり発揮して大に唄ひまくつた。この風情は捨てがたい。(完)
 
 
寄稿歓迎 斯道家の意思を尊重し誌面の許す限りは提供す、紙上匿名は勝手なるも住所氏名は明記されたし。
合邦 1939.11.13
竹本小仙弾語り
 十一月十三日午後八時四十分より放送
「義太夫さはりで御座います」とアナウンスした。竹本小仙にさはりの放送をさすのは鶏をさくに牛刀を用ゐた形、それにしても合邦のさはりなれば六分内外でよいのに、扨は例のさはりの二三曲よせよせを放送するのかと思ふて居ると、「しんたる夜の道」と枕からだ、プロを見ると約二十分程の時間しかない。そこでさはりとアナしたのだらうが、仮令二十分の短時間放送でも枕から語り出してをる、殊に義大夫は枕か上半段が大事なのだ、大夫の最も骨を折るのもこゝなのだ、それに義大夫さはりとアナウンスするなどは大夫に対する一種の侮辱である。合邦のさはりと云へば「おもはゆ気なる玉手御前」からだ、こんな物知らぬアナウンサーにアナをさす然かも本場の大阪の放送局当局の物知らぬにも程がある、以後は注意してよからうと叱りおく。
 「しんたる夜の道」いつも程気が乗つて居ない、恐らく義大夫さはりとアナしたのがお冠りだらうと同情した、「以前は刀もさした役」を憂ひ気味で語つたのはよくない、こゝはしか爪らしく角張つた語り口でやると、次の「親の手にかけ殺さにやならぬ」の心苦しい憂ひ気味が一層引立つ事になるのだ、「へだたれど」は何だか耳にさはつた「マア爰あけて下さんせ」を泣声で語つたのはよかつた「誰に遠慮もあるまいぞへ」の機嫌どり気味の笑みを含んだ女房の詞よし。これを受けての「如何様のふ」合邦の詞如何にもよかつた「抱きしめ〳〵」は情愛あふれて申分のない出来「手もちわるいぞ」はテツ、「嘘であらう、うそか」は研究不足、「おもはゆ気なる玉手御前」のおもはゆ気を現はして語る人は全く少ない、小仙はいつも立派にやれて居るのだが、今晩は不充分だつた、以下さはりは糸と共に申分のない出来だ、殊に「かちはだし」や「あしのうら〳〵」など三味線と共に水際の立つた出来栄であつた「只打守る計りなり」でお仕舞は全く惜しかつた。
 然しからだの都合か、稽古の所為か、発声修錬が足らぬのか、但しはさはりと云はれ為めにさはり丈けうまく語つたらよいと云ふつもりか、上はよく出て居つたが一体に線が細く浄瑠璃が小さい、此感じは恐らく記者一人ではあるまい、此次の機会には是非大物をゆつくりうんと語り小仙の本領を発揮して貰ひたいものだ。(黒頭巾)
 
 
菅原寺子屋掛合 1939.11.21
源藏 団司
松王 綱龍
千代 雛昇
戸浪 清糸
三味線 小住
十一月二十一日午後九時北陽演舞場に於ける因会女子部大会をBK都市放送にて聞く
団司の源蔵と綱龍の松王共によい出来でなく、清糸の戸浪は可もなく不可もない、雛昇の千代がマア一番適り役であつたが然しよい声でうはつらを滑つて奇麗に語つたと云ふ丈けで、恰度小住の三味線同様奇麗にけつまずかずにやつたと云ふ丈けのものだ、平凡な寺子屋であつた、それに稽古のつけ工合か、松王も源蔵も戸浪も、仮名のぶつきりを無暗にやるのは全く聞きづらい、どうしても改めて欲しい、此弊風は不思議と女大夫の共通性で此風をやらないのは昇の助と小仙と東京の素女と丈けだ、是非とも改めて欲しい、耳に残つた箇所を批評して見やう、「待つた、またんせ、コリヤどうぢや」は人形の動きと腹を語るにや持てぬ、「コハ如何に」はテツ、「夢かうつゝか夫婦か」は無味だ、「此身代り」は大に考へて欲しい「我子は来たかと心のめど」情味が出て居ない「持つべきものは子なるぞや」と「アノ子が為にはよい手向け」ヨリの千代のくどきはよい声で巧みに語つて居るが情味は乏しかつた、「しにがほなりとも」はテツ「いさぎよう、首、さしのべ、」のぶつ切りを受け「アノ逃げかくれも、いた、さずにな、」とぶつ切りで受けるなど耳ざはりの極だ、松王の泣き笑ひはマア〳〵と云ふ処だ、「嘸や草葉のかげよりも」はよかつた、「流石同腹同性を」より「悲歎の涙」は突込み不足、「親の身で子を送る法はなし、吾々夫婦が代らん」は砂をかむ様だ、「あすの夜」は無変化、「らむうゐ目見る親心」はよかつた、剣と死出のやまけこへ」も無難、こうして見ると寺子屋の掛合などは女大夫には少々無理だ、それに源蔵の声柄は例のあまたれの声でいやらしくて下品だし、松王は無理に太く語らうとする為めに酔ふて居る様に聞える。兎に角「寺子屋」と云ふ様なものは、モツと突込みが必要であり、詞の抑揚、情味の発現の為めにはわざと声をこしらへるなどはよくない、自分を忘れて人形其まゝに成りきらねばならぬ、只うわつらを滑る様な語り方や朗読的に詞をならべて居つては実際持てない、上手に語る事はいらぬ、真剣に語る事が必要である事を知らねばならぬ。真剣に語ると自然に聞き手の耳に上手に聞える、上手に語らうとすると却つて聞手の耳には面白く聞かれない、此点からは浄瑠璃のよしあしは別として、松王が一番真剣味があつたが、声に無理があり語り風に危な気がある努力が報はれて居ない、何だか人の代り役を語つて居る様に聞えた、これが適り役でない証拠であると思ふ。(萱野兎耳平投)
 
 
385
近頃放送浄曲放言
浪曲種の浄曲化について [南部坂] 1939.12.12
  同人 中野孝一
 相生太夫は浪曲フアンと見へ此の前昭和十一年五月にも「神崎与五郎勘忍袋」を大西利夫氏の作、鶴沢友次郎師の作曲を伊達太夫との掛合で放送したことがある。そのあまりにも容易な新作浄曲の素材の選び方に好感を持たなかつたのであるが、出来栄は案外で相生太夫の丑五郎がたいへん素晴らしくて、私のきいた限りでは浪曲でも講談でもこの役をあゝまで溌溂と活現したのをきいた事はない。これは相生太夫の創作的人物だと思つた位で、熱演の魅力だけでない周到な研究心の深さ、芸に打ち込む気魄の真剣さに撲たれたのと活与五郎に廻つた伊達太夫が広重の五十三次を連想させる詩的な叙景文句をあの美しいなだらかな声音できかしてくれたので、ほんのすこしでも音曲美にひたり得られて、浪曲種といふ作の低調さを忘れて聞き終つた記憶があるが、やつぱり私には浪曲種の浄曲化はうれしくない。新作浄曲の素材を講談や浪曲畑に求めることは、大衆との広い馴染甲斐を利用して一人でも多く浄曲に喰ひつかせやうとの心づくしでありがたいが、浪曲の卑俗な節調、詞つかひで散々いぢり廻されこねあげられて浪曲とすつかり腐れ縁の出来てゐるこんなものをそのまま頂戴する事は浄曲新フアン獲得の方便として忍べなく我慢のならないこともないが、吾々浄曲党には忍びがたい汚濁である。しかし浪曲や講談の後塵を拝するにしても、浄曲の本質を生かす作と節付と太夫、三味線の良心的な演出と相俟つて出藍の成果をあげ得ることがあれば、面目問題や感情論は即座に一擲してもさしつかへないと思つてゐる。けれど今度の南部阪にはうんざりした。内蔵之助悲痛な腹芸を主眼に簡潔な構成をしてゐるといふ事で作曲もそこに重点を置き内蔵之助の人物描現に全力を傾注してゐるのは一篇の構成上当然の事だが、本来腹芸などといふ様な感情が内潜して外部へ表れないものは、生身の俳優の渋い動作と悲痛深刻複雑なる顔面表情を俟つてはじめて効果のあるもので、抒情味が音曲化されたものが基本となつてはじめて鑑賞の対照となるべきはずの浄曲の本質から云へば、この尤らしい抱負も企画も一向埒の明かぬ無駄骨を折らせたことになつたのではないかと私には思はれる。私は眼目のききどころの内蔵之助が瑶泉院に暇乞ひの件りをきいてゐながら、吉田奈良丸演ずるところの内蔵之助をきいてゐるやうな錯覚さへ与へられた。腹芸表現といふ、無理なきゆうくつな意図に拘束されて研究の余地もなく、手も足も出なかつたのではなからうか?この前あの丑五郎であんなに野心的な不羈奔放な魅力を発揮した人が、こんな浪曲の糟粕を嘗めるやうな駄作をなんぼなんでもきかせるはずがない。三味線においては地唄の雪を編曲使用して雪の別れに哀切な情趣をそへたこと、中将姫の雪責めにつく事を考慮して箏の代りに八雲を使つたりの細心なよい工夫の効果も感じられないではないが、根本に大きな違算があるために「神崎東下り」ほどの感銘も得られなかつた。浪曲種の浄曲化の功罪についてもつと筋立てゝかいてみたいが今はおちついて考へてみやうもないので物足りぬ乍らこれで擱筆する。(完)
 
阿波鳴門八ツ目     竹本南部大夫 1939.12.26
        三味線 鶴沢重造
 十二月二十六日午後九時より都市放送で聞く 同人 森下辰之助
 南部太夫久し振りの放送、先づ無難と云ふ事が出来る、此人近頃其心的作用に一変化を起した様に思ふ、と云ふのは、あとからひよつこり現れた伊達大夫が其美声を買はれて三十年近くも修行し漸くこゝまで来た自分と同様の取扱ひを受けて居るのを不平とせず、なまじ及ばぬ声の競争を捨てゝ気分や情や足取りで大成せうとする傾向が其技芸の上に見へて居る、よい心がけである、今後益々怠らず研鑽して欲しい、然し此本筋の修行は従来の声に対する自負心を根底から捨てしまつて、自分は決してよい声じやない、悪声だ、難声だ、天分は少しもないものだと決心して一文一句忽かせにせないで一考又一考を煩はすべきである、南部君、君はおつると云ふ人形に対してどんな考へを持つて居られるか、おつるは諸々方々と尋ね歩き、野に寝たり、時には人の家の軒の下に寝てはたたかれたり、悲しい事やらこわい事に出逢ひながらも、只父母に逢ひたいが一心の、実に何とも云へぬ可憐至極な小供ではあるが、矢張り何処までも無邪気な小供である事を忘れてはならない、抑も「順礼に御報謝」の始から憂ひ気味や泣声を出す様では小供の無邪気さがない。殊におつる自身がませた口調や憂ひの情で物を云ふては却て聞くものにははわれさが思はれない、無邪気に小供らしく云ふて居る内に例へば「人の軒の下に寝てはたたかれたり」とか「逢ひたい事ぢや」と云ふ様な処でたまらずに泣き出す方が聞くものには却て可愛想になるのである。今を距る十数年以前、惜しくも早世した無双の美声の持主で君と共に越路の門人であつた越登大夫が此なるとを語つたときにも、おつるを泣きすぎで語つたので大に警めた事がある、無論おつるは只無邪気一方ではいけないが、大概ませた憂ひ計りで無邪気と云ふ事を忘れたおつるが多いのは間違ひだと思ふ、摂津大掾が越路大夫時代のを四五回も聞いたが、只の一回も無邪気を忘れたおつるは聞かなかつた。兎角憂ひの浄瑠璃には必らず子役が居るものだ、此子役の子役本性を忘れてはならないと思ふ、例へば先代萩御殿上半の如きも千松や鶴喜代がめそ〳〵泣いちや物にならない、腹がすくので泣く位のもので、大大名の殿様がかはいさうにナアとか、千松が小供でありながら忠義の為めに辛抱して居るのだナアと聞手が思はず泣かされるので、鶴千代自身がおれは大大名だのにこんなつらい辛抱するのだと泣いたり、千松が忠義の為めに辛抱せねばならぬと泣いたりしちや全く事こわしである。只無邪気に単純に乳母が云ふから、母に叱られるからと辛抱しつゝも実際に腹がすくのでたまらず泣き声を出す、無邪気さが亦実にたまらずかはいさうなのである、鳴門のおつるも此いきである、君のおつるもどうも泣きすぎになつて無邪気さがない様に思ふ、一つ考へて貰ひたいものである。
 外には生国名古屋訛りが出る事だ、「まゝならぬ「扨も〳〵「そこをさがしてま一度海山」など皆テツ及びテツに近い耳ざはりであつた。
 「マ一度こちら、向いてたもいのふ」のこちらで切るのは面白くない、ずつと走る方が正常だと思ふ。三味線はまづ無難で神妙に弾いて居つた。
 
 豊竹昇之助の吉田屋を聞く 1939.2.5
 久方振りに昇之助を聞いたのは十二月五日の晩都市放送であつた、扨語り出しの伊左衛門の地合が何だか世話物らしくなく時代物に聞えた、此人の浄瑠璃は決して悪るくはない、地合の節まはしと云ひ詞や其の足取り気味あひ、確かに正しいやり方だが其の持声のキイ〳〵がわざはひして、聞く身に一種のよくない感じを喚起さすのは、恰度団司の甘たれ声と好一対である、団司の甘たれ声がいくら巧みに語りこなせて居てもいやな感じを聞手に与へると同様、此のキイ〳〵声がそれとは又違ふ種類のいやな感じを覚えさしめるのは全く惜まれてならない「抱きよせしめよせ」のあたり相当に情味もあり足取りも悪るくないに夫れ丈け感興を生じないのは全く持声のキイ〳〵が大に邪魔をして居るのである、そして此キイ〳〵声が語る本人の耳にはとてもよい声に聞えて居るに違ひない、聞くものには其反対の感じが起るのである、文楽座の男大夫にも此キイ〳〵声の人があるが、此大夫も亦此キイ〳〵を自分はよい声だと信じて居るのである、全く僕は昇之助が東京でがつそう頭で見台から首を出して語つて居つた時分から知つて居るそして其当時文芸倶楽部や時事新報の紙上で其天才的技能を賞揚したものである、実際十三四歳の頃の昇之助はむまいものだつた、姉の昇菊の三味線と共に東都女義界の人気をさらへて居つたものであつたが、其頃には何と云ふても少女の事であるからキイ〳〵声が愛嬌になりてよかつた、それが四十幾歳と云ふ大年増の今日には反対に自分の技芸を傷ける事になつて居る、どうか願はくば自分のキイ〳〵声はそれ程技芸を傷けて居るのだと云ふ事を知りて、あれ丈けの芸の持主だから何とか工風をして此のキイ〳〵声を打ちこわして貰ひたいと希ふのは決して僕一人の望ではあるまい、是れを譬へて見れば剃刀がよく切れるからと云ふて、紙を沢山一つ折りにして鋏を使ふ様に紙の折目に入れて切る様なものだ、必らず切れすぎて真直に切れないと同様だと思ふ、此キイ〳〵云ふ声は義大夫節に限らず総ての声曲によくない、哥沢や小唄にさへ……扨此キイ〳〵声の退治方法に就ては師匠の道八師に相談して貰ひたい、僕には云ひたい事もない訳ではないが、ちと荒療治すぎるから云ひ憎い=こんな毒口をつくのも惜しいと思ふからだ悪しからず思ふて貰ひたい。
 終りに臨んで今一言云ふておきたいのは「逢はずにいんでは此胸が、アすまぬ」アが如何にも清元じみて居つた、アンナ事は豊後節丈に必要で義大夫節にはない事である、今後はアンナ事は云はぬ方がよいと思ふ、それから三味線も大分感心の出来ぬ処があつた、自分のむねに聞きて見たまへ、いかん処は自身によくわかりて居るだらう、あまり勝手な事をひかぬやう、そしてまくれぬ様に大事をかけて弾いて貰ひたいものだ、これは力松に頼んでおく。(黒頭巾投)
 
新版歌祭文野崎村     豊竹呂大夫 1939.12.19
         三味線 豊沢新左衛門
         ツレ引 豊沢新太郎
(十二月十九日午後九時より都市放送)
語りものが不適当な上に非常に声を痛めて居つたので、気の毒ながらよい放送とは云ひ得ない、久作は聞けるだらうと思ふて居つたがこれも今一息感服出来なかつた、細節に渉つて耳に残つたものを批評せう、「気もいそ〳〵」は情味が出て居ない「覚束なます」のなますがテツ「ちよき〳〵〳〵」は文字に拘泥しすぎて鈍くさくて持てぬ、「堤づたひ」がたあいと聞えて何だか素人のわるい浄瑠璃を聞くやうで、文楽座中堅のこの大夫がこんな語り口をやるのかと思ふといつそ情けない気がした、「物もう、お頼み申しませう」のお染の詞はどうしたものか丸切り盲目に聞えた、畢竟故らに柔かに語らうとして力抜けした為だらう「あほうらしい」のあほうは脱線「ヤラ腹立ちに」以下「香箱われ出した」の足取遅く、あれでは庭へ打つけた様に聞えない、「孝行に片身うらみのない様に」の孝行はテツ、「二人一所に添うなら」の添うならはわるかつた、「女の道をそむけとは」が糸についた、「其思案わるからう」は足取りが遅い、「其恩も義理もわきまへぬは」もつと手強く語らにや情が出ない、「アヽ栄耀がしたさぢや皆欲ぢや」はよかつた、「出来た」以下「むくつけな親爺めと」の久作の詞が憂ひになつた居つたのは誤りだ、こんな処で久作が泣いちや狂言の底わりだ「思ひ合ふたる」以下声の調子が非常に痛んで居つたので気の毒だつた。 新左衛門の三味線は流石に天賦の妙音で七十幾歳の老人とは思はれなかつた。(完)
(黒頭巾投)
 
386
源大夫の『弁慶上使』 1940.1.11
 一月十一日夜九時から放送の源大夫の「弁慶上使」を聴くともなく、ふとラヂオの前に居を構えたが、最初のヲクリの吉弥の絃の音色のよさ、撥の面白さ、久々に本当の吉弥らしい吉弥の絃に遂心ひかされ耳を傾ける。
 まづ、源大夫は兎も角、当夜の吉弥の絃は、ほんたうに久し振りに、彼の本領を発揮した如く、現今文楽座中第二位の天性の美音に、運びの面白さ、全般的に「弁慶上使」の最上のものとはいへないだらうが、吉弥としては纏りのついて会心的な力演であつたと、面白く聴いてゐたのである。そして、源大夫をリードして行く。
 そのリードされる源大夫が、かなり稽古もしてもらつたらしく、文楽座の本役の「道成寺」のシテの如く調子外れは少なかつたが、また相当引締つてはゐたが、あんな事でせい一つぱいらしい。それは、源大夫の語るものが本格的な義大夫節でないといふ事である。その原因は源大夫の発声法が根本的に間違つてゐるのである。つまり源大夫の声が、常にデボチンの辺りから出てゐるから根本的に義大夫節にならないのである。
 聴いてゐると数多ある欠点の大部分が、源大夫の発声の誤つてゐる点に起因してゐるやうに思ふ、腹から出た声でないから声量はあつても、音の強弱表裏高低が整はない。常にヨタ〳〵と何れかへ流れてゐる。そこで最も直接に影響して来るのは、産字がハツキリといへないことである。
 △「昔ゆかしくしのばしく」で、「シのばしく」と「イ」の産字が産めない。
 △「チラ」も同じ事である。
その他気の付いた点をいふと、
 △「御機嫌ようまましすか」の「まし」がテツ。
 △「さらばこの間に一寸かゝさん」で、「さば」といへない。「さあば」と聞える。
 △花の井の詞「さればいの、今日武蔵殿――」以下の詞の足取が全然なつてゐない。つまり、源大夫の足取では考え〳〵いふ足取で、これは間違つてゐる。「年の頃みめかたち」のあたり特にいけない。
 △「夫も座したる」以下の侍従太郎の詞は当夜中第一の出来であつたが、惜しいかな、「惜しまぬ命――」は不十分であつた。
 △「お役に立ぬは右の訳」の次に吉弥が「ウーム」と掛声をして「間」を拵らへ「卑怯未練――」と出たが、この「間」は全然無意味であると思ふ。
 △「書写山の鬼若丸だ」辺りから調子が失せてしまつたから手負の音遣ひが出来なくなつてゐた。
 △「いふて返らぬ事ながら、せたけ延びるに――」の「間」悪さが甚しかつた。
 △「国々を、廻り〳〵て」も同断
 △「この思ひは、マあるまいもの」の「息」が出来てゐなかつた。
 △「死出の山」を「シデ――」といふのは聞苦しい。
 △等々
 この外にもよい所、悪い所がまだ沢山あることゝ思ふが、ふと聴いた愚感のみで、従つて細かしい所は聴き誤りはあるかも知れないが、源太夫の浄瑠璃は、根本的に建直す必要ある事は間違ひないと思ふ。いくら吉弥にうまく弾いて貰つてゐても、またくら稽古の度を重ねても、その甲斐がないと思ふ。今度の「弁慶上使」がその最もよい例である。「程もあらせず」の源大夫の音と吉弥の撥を聴けば何よりもよく判るのである。この源大夫を指導するに、吉弥も彼の誤つた発声法の事をよく承知してゐることゝ思ふが、今少し本格的なものに近付かねばお咄にならない。
 
 
388p33
三勝半七酒屋の段 1940.4.24
(四月廿四日午後九時JOBK全国放送)
竹本小仙
弾語り
「こそは入相の」よりさはりの終りまで約三十七分間の放送、何時に変らぬよい浄瑠璃であつた、耳に残つた所を列挙して見よう「こそは入相の」のこそはと「あたら盛り」が共に稍時代めいて重すぎた「オこれは〳〵宗岸様」のが出合がしらの気味たらない「低き敷居もこえかぬる」は如何にもそれらしい気分が現れてよかつた「まづお上りなされませ」はうまい味であつて結構だつたが「用はない筈、オヽ何の為めに御座つた事」のオヽは無意味だ「あとの祭り」を憂ひで語つたのは其意を得ぬ「今迄の通り嫁ぢやと思ふて」はよかつた「とゝさんの一徹で」以下「あとは詞も涙なり」は気分があふれて居つた「替らぬ嫁、姑」の嫁で切るのは感心せぬ「けふ代官所で何の為めに縛られてもどらしやつた」を憂ひで語るのは考へちがひだ「真実心に子を思ふ親の誠と知れば知るほどコリヤ宗岸が一生のしそこなひ」は実によかつた「親となり舅となるがマヽヽ大抵深い縁かいの」これ又よかつた「愚痴なと人が笑はふが」以下「聞入てたべ半兵衛殿」は気分の変化と云ひ足取りの工合と云ひ申分のない出来であつた「あとは詞もないぢやくり」は真情あふれてよかつた、半兵衛の咳頗るよく、咳の中から「イヤこれお園」以下「嫁かゞみ「それが可愛い、いとしいいとしゆう御座るわいの」より咳入りのあたり真似手のない無類の出来だ「云はねばならぬ」は咳入つたあとの息づかひとは思はれなんだ、今少し息を考ふべきである「烏羽玉の」の押さへた音づかひは耳障り「繰返したる独り言」は稍重々しかつた「今頃は半七ツサン、何処にどうして御座らうぞ」巧妙な節まはしの中に情味を忘れぬ語り口はよかつた「思へば〳〵此園が」はいやらしくなくて情のある節まはしで申分なかつた。 細々しい所は以上の様に聞いたが大体に於ては実に立派な出来で、そこらあたりの男大夫もこれを聞いて大に学ぶべきだと思ふ。(黒頭巾)
 
390
忠臣藏六段目 1940.5.2
(五月二日午後九時全国中継放送)
     竹本大隅大夫
 三味線 豊沢広助
「母は涙のひまよりも」より段切までの放送であつた。此人としては珍らしく耳に立つ持病の調子外れが少かつた事は相当の出来栄と云ふてよい。然し一体に力がなかつた。嘗て本誌同人森下辰之助氏が大隅大夫は調子の外れぬやうに発声に瀬踏的に力を抜いて語るのが耳にさはると云ふ様な意味の事を書かれて居つたが、今晩此忠六を聞いてしみ〴〵其名論に同感した。最も力演を要する「熱湯の汗を流がし」の如き力の這入らぬのを通り越して寧ろいやらしい様なたよりない発声のしかたで全く以ての外と云ひたい位の不出来だ。まづ最初から細評して大夫並に一般の参考に供する事とする。「我家へ立帰へる」の送りは無難、「母は涙のひまよりも勘平がそばへ立よりて」以下「どうも返事があるまいがの」のこしらへも何もない、実に平々凡々たる語り口だ。これではいかん腹一杯の疑ひと怒りを包んでの云ひ分である事位ゐは本読みの上丈けでも明かだ。「フム聞えた」も変化の気味合ひがない。「珍財をなげうつて」のなげうつてはテツだ。投売ぢやない、擲つてである。訂正の必要がある。「いやも些細な内しようごと」の勘平の詞はどうしてあんな発声のしかたをするのか「理をせむれば」のの突込みが足らぬ。「我舅、金は」何の変化もなく同調でやるから聞苦しい。「売つた金」之れまた気抜けの形「身の成り行き」は頗る珍らしい型だ。我輩今日まで聞いた事のない型で、いつそ気味がわるい感じがした。「只今母の疑ひも」以下手負の詞は上づつて居ると云ふつもりだらうが、忠四の判官など皆此上づつた音調で語るべきものだが、大隅の此勘平に至つては手負の上づつた調子とは云はれぬ。大に研究改善すべきであらう。「早野勘平重氏、血判たしかに相済んだぞ」の郷右衛門の詞は力なく、あれでは断末に近い勘平の耳へこたへない。「母人なげいて下さるな」は変化が足らぬ。「死なぬ死なぬ魂魄此土に止まつて敵討の御伴する」は知死期の発声のつもりか知らぬがこれ又こたへぬ事夥しい。「一人のこつて」のひとりはテツ。「此金は」[七七日」「四十九日や五十両」や「追善供養」は恐らく一般の人には或は知れて居ないかも知らぬが半本づゝ調子がとゞいて居ない。段切の「次第なり」は立派に外れて居つた。
 全体を通じて先代大隅の口真似をしてゐるつもりか、「かつぱと伏して」の伏して力を抜くなど、先代大隅の語り口はこれぢやない、力を抜くのぢやないもつと研究すべきであらう。それにいつまでも荒木造り的な粗雑な語り様は大に改むべきであらう。文楽座の将来を背おつて立たうと自らも任ずる大夫としてこれでは少々心細いものだと思ふ。
広助の三味線は何処と云ふて取立てゝ云ふ程わるい処も又よい所もなかつた。所謂凡々たるものであつたが、「四十九日や五十両」以下のあたりモ少し情味のあるよい三味線を聞かして欲しかつた。
 大夫同様何だか気の抜けたものであつた。大夫へのおつき合ひと云へばそれまでだが、何だか素人浄瑠璃会の三味線を聞く感じがしたのは恐らく記者一人ではあるまい(神戸 松山禿山)
 
先代萩御殿 1940.5.26
  本誌同人 高木善次
乳母政岡  豊竹古靱大夫 栄御前 豊竹和泉大夫
若君鶴喜代 竹本織大夫  沖の井 豊竹伊勢大夫
一子千松  竹本雛大夫  小巻  豊竹辰大夫
八汐    竹本織大夫  腰元  豊竹松島大夫
              三味線 鶴沢清六
 五月廿六日午後七時三十分より豊竹古靱大夫と其一門の掛合が鶴沢清六の三味線で放送された、其批評を次に
 古靱大夫の政岡は文楽座では聞く事が出来ぬ、然かも此政岡がとても太したもので、実に立派で上品で如何にも忠烈極まる女丈夫の描出が出来て居つた。
 次に織大夫の鶴喜代がこれ又申分のない若君振りであつた。八汐は織大夫の本役で悪からう筈はないが、私は此の八汐より寧ろ鶴喜代を取る。
 雛大夫の千松は今一息で、政岡と鶴喜代八汐に立並んでは是非もない訳ではあるが品位に乏しい、声の使ひ方に尚幾多の研究が必要である。
 和泉大夫の栄御前はまづ無難と云ふ所で、後の細評が参考になれば幸甚。
 伊勢大夫の沖の井は御苦労程度。更に奮闘を望まざるを得ぬ。
 辰大夫の小巻はよくない、更正を望む。
 清六の三味線は立派な出来で、此大放送に対し三味線の功また与つて力ありしと云ふべきである。
「押明け入りにけり」の送り荘重至極で、先代御殿の送りは全くこうでなければならない「跡見送りて政岡がまさなき事も身にかゝる」の語り出し、何と云ふよい語り風だらうか従来の御殿と云へば十中の八九否百中の九十九までが、派手によい声でふわ〳〵と唄ひ出したものだが、此語り出しは全くさうでなく「科ははれても晴れやらぬ」の心持を其まゝ「あと見送りて政岡がまさなき事も」と語り出され、一寸足取をかへて「養ひ君の行末を」と語りつゞけられるよさ、実に立派な風と云ひ得るものがあつた「物案じなる母親の」又本文を活かして居つた「モウ何云ふても大事ないかや」の若君の詞よかつた「何なりとも御意あそばせ」のがわに聞えたのは耳ざはりだ「嘸おまちかね、千松もよう辛抱しやつた」の千松の変り行届いて居つた「乳母も苦労はいたしませねど」よし「毒薬のたくみもと」稍声をひそめてすら〳〵と語つたのはこれ又よい語り口だ「コレ母さん」の千松の詞は蓮葉になりてひんがわるい「褒められたさが一ぱいに」は情が足らぬ「泣顔を」はテツ米洗ひは三味線と共に実によかつた、只「骨も砕くる思ひなり」が一息喰ひたらなかつた「見れば胸まで突かくる、涙のみこみ飲みこんで」は情味あふれてたまらない「親鳥が来る時分」に空を見る情が現はれなかつた。「千松が」は糸について耳ざはりだが「忠と教へる親鳥の」はよかつた「飛かはす」の三味線は水ぎは立つたるよさであつた「子は孝行におもやせて」は気分がたらぬ、合の手から「涙をかくすうなゐがみ」の三味線実によい「叱られておろ〳〵涙」は情が足らぬ「ゆうべよんだ花嫁御、はなよめご」はすつぱりとよい気持だ「早うまゝが食べたい」の鶴喜代の詞はよい「云ひたさをまぎらす声もふるはれて」何処までも行届いた語り様だ、「七つ八つから金山へ〳〵一年まてども,まだ見へぬ」何と云ふよさだらう「云はれて涙の声張上げ」、「力なく〳〵泣顔を」三味線とともによかつた「唄の唱歌も身にあたる」以下「子ゆゑの暗ぞやるせなき」は寸分のすきなくて得心だ「ちんになりたい」もうまい「おまめな御身を御病気と世間をいつはり」から「雀や犬に劣つたる宮仕へして忠義ぢやと云はりようものかと喰ひしばり」は実に申分なく思はず泣かされた「身をよせて奥をはゞかる忍び泣」まで実に千金の価であつた「コレ千松そなたは次へ、常々母が云ひし事必らず〳〵忘れまいぞ、サ早ふ〳〵」は其情景が現れ飛抜ける程よかった。「梶原平三景時」のキーが引尻で耳にさはつた「夫景時承はれど」は口調の変化が足らない「サ有難う頂戴あれ」はよし「御病気の御身なれば、お毒になつたら」を押さへ気味に云ふたのは我意を得た語り口だ「頼朝公の仰せ」以下「権柄押し」はよかつた「何をざわ〳〵さわぐ事はないわいのふ」は一寸喰ひたらぬ「これでもか〳〵これでもかと嬲殺しに」は情景現れてよかつた「きもさきへこたゆるつらさ」以下「今に其名は芳ばしき」は寸分すきなく立派な出来であつた、栄御前の「さぞ本望であらうのふ」は憂りが足りない「サヽヽヽそりや皆同腹中」は今少し研究する必要がある「こたえ〳〵し悲しさを一度にわつと溜涙」から「オヽ出かしやつた〳〵出かしやつたよの……」たまらぬ程のよさであつた「国の礎ぞや」は調子が高いので苦しそうではあつたが、何処までも情味を持つた語り口で得心だつた。小巻の詞は素読的の上に何だか固くなつて、まくれたり絶句しかけたり正に一段の大瑕瑾となつたのは実に遺憾であつた、大に更正の上修行をせねば一門の栄辱どころの騒ぎぢやない。他にも影響するから真摯の鍛錬を切望する次第である。
 兎に角前半は飛びぬけてよく、後半栄御前の出からは時間制限の為めか前半に比して稍気ぜはしない感じはしたが、先づ放送初まりて以来の浄瑠璃大放送であつた、浄瑠璃の好者には全くたまらぬ面白さであつた事は勿論、門外漢と雖も浄瑠璃の真の面白さを示した事請合と思ふ、斯道向上の為め又宣伝の為め慶賀の至りである。(完)
 
 
 
碁太平記新吉原の段 1940.5.21
(五月二十一日午後九時都市放送)
女義連掛合
宮城野 豊竹此助
信夫  竹本雛昇
宗六  豊竹団司
三味線 豊沢小住
 宮城野は年のせいか、相当努力して居つたが、気の毒ながら更に色気も艶気もなく、ひつからびて居りて宮城野らしい何の情趣も現れなかつた、放送局の注文か全く人選をあやまつたものだ、そして本誌に黒頭巾氏が縷々警めてあつた色や地合や詞の尻のぶつ切れが大に耳にさはつた、無論浄瑠璃はぶつ切れに語るべき必要もある、語尾の引尻は禁物には相違ないが、斯う所かまはすぶつ切りに語るのは大に悪い、畢竟彦六系統即ち団平師の薫陶を受けし先代大隅大夫の語り風の真似のつもりか知らぬが、大隅大夫の流義とは大違ひだ、このぶつ切りや語尾の消へる語り風は近頃女義一統の悪い流行とでも云ふべきか、宮城野然り宗六然りだ、此の弊風は一刻も早く改善すべきである、宮城野は努力して居ながら、本読みや研究が足りない、其一例をあげると「泣いてはすまぬ、サアどうぞ」を平気で語り、「尋ねる姉の心もそゞろ」で俄かにそゞろ気に語るなどが則ちそれである。
 信夫はまづ此中で一番聞よかつた、然し此人として褒める程のよい出来とは云へない、声柄がよいのと外の人程悪癖がなかつたので聞よかつた程度のものである、願はくば今少し田舎ものゝ率直さがあつて欲しい、ひねくれて泣くのは禁物である、「がいに苦労とは思はなんだ、併し逢ふたらかつぱりと、しよろつ骨が抜けた様な」を憂ひで語るのはよくない「めこがめらしと云ふてくんさい姉サア」で泣声になるべきだと思ふ、「なしよにもかしよにもおらだけ一人」以下「云ふてくんさい姉サア」迄、全部を只憂ひ口調のみで語るのは面白くない、所謂変化が必要だ、此変化はひねくれて居らない少女が本行で、時々憂ひに変化しては本行に立帰へり、また憂ひに変化する、其処に本読みや研究が必要と云ふ訳になるのである。只声にまかして語ると云ふ事が兎角よい声の人の通弊である、これは大に警しむべき事であると思ふ。
 宗六は気の毒ながら只達者に語つて居つたと云ふ丈けで、口に合はぬ無理な役である丈けに総てが作り声で、時に頓兵衛の様に聞えたり、時に双蝶々の長五郎の様に聞えたり、皮足袋の久作の様に聞えたりして、一向宗六らしくなかつた、是れも宮城野同様人選の誤りである。宗六はワキ役ながら丸本から見て民部之介麾下の一人物の化けたのである丈けに、女義には無理な人形で女義中これをうまく語り得るものはまづ小仙か然らざれば燕之助か (京都きこう生)
 
398
放送局の義大夫名曲選に就いて 1941.3.9
  本誌同人 鴻池幸武
 去る三月九日夜BKから放送された義大夫名曲選第三回の竹本角大夫等によつて演奏された「義経千本桜道行」を聴きその批評並にBKが企図した義大夫名曲選に就いての愚感を左に披瀝する。
 BKのこの企画は、去る一月廿五日夜の豊竹古靱大夫の、「重の井子別れ」がその第一回であつた。そして、当夜木谷蓬吟氏の解説に先んじて、アナウンサアによりこの新なる企画の紹介、そしてそれは十二月まで毎月一回づゝ実現せらる可く約束された。それを聴いた時、私は義大夫熱愛者として非常なる喜びと、BKに対して深謝の念を抱いたが、次にこの計画が、種々の実情の為歪められず、真に芸術的良心の上に立脚して名曲の名演奏が(因に名曲は必ず名演奏されなければならないことは論を俟たない)十二回撰択されるかどうかを甚だ心配した。それに関して、先づ第一回として古靱の「重の井子別れ」が選ばれた事に対して既に疑を持つた。それは、名演奏せらる可き名曲選の演奏者が古靱を以つてトツプを切られた事は、あらゆる点からして当然過ぎる事であるが、その曲目に「重の井子別れ」が選ばれた事は聊か意外であつた。即はち「重の井子別れ」を古靱大夫の語る名曲選の第一回の曲目として撰択した当局の意図が那辺にあるかを私は疑つた。「重の井子別れ」そのものゝ価値、並に古靱のこの段の演奏評は後に述べるが、名人古靱は嘗て多くの名曲を名演奏してゐる。而してその内には既に演奏回数々度に及び世間に極付として許された物がある。即はち「引窓」、「道明寺」、「安達原三段目」、「寺子屋」、「合邦」、「太十」等々で、従つて名曲選の第一回の曲目は、常識的な意図により撰択されるならば、勿論右の如き曲目の内から選定される可きであると思ふ。尤も時間の制限という当局として最も重大であり且義大夫節の演奏とは最も妥協し難い問題があり、曲目選定に際して真先の条件として、これが挙げられたらしく「重の井子別れ」が選定された原因も七分はこの時間問題であらうと思ふが、それにしても世俗的な義大夫考では、古靱の「重の井子別れ」は選定に迄かなりの距離があると思はれる。何となれば、現在の所、古靱の「重の井子別れ」は余りにも不利な情況の中にあるからである。即はち、古靱がこの曲を初演したのは昨年十一月四ツ橋文楽座にてゞ、放送の夜が第二回の演奏であるから、曲目に対する馴染が薄く、従つて反覆錬磨の良さは一寸考へられず(事実はこれに反して居り、それは後に説明する)同時に一般に膾炙されてゐず、勿論初演の折は中継放送もなかつた故、これを聴いた人はその時文楽座へ行つたのみで、その上従来美声の持主によつてのみ初めて名演奏せらる可きであると信じられてゐた(これは大錯覚であるが)この曲を悪声の古靱が語るといふ点、そして文楽座に於ける初演の際の一般及批評家の不評等がそれである。所で当局がこれを選定するに到ちた審議の内容の中、主なるものは左の三つであらうと愚考する。第一が前に述べた時間問題、第二に演者古靱大夫が比較的最近文楽座で語つたもので、同時に人口に膾炙され過ぎてゐないもの、第三に昨年十一月文楽座に於ける古靱初演を当局者が聴き、真に近来の名演奏たる事を認め、これを推挙したもの、この外演奏者当人の希望があるが、これは問題外として「重の井子別れ」が選定されたのは右の三つの中何れに拠つたものか、私は第三の場合であれかしと望んでやまない。
 この辺りで古靱の「重の井子別れ」評及「重の井子別れ」それ自体の価値を披瀝せねばならぬ。細評は避け、当夜の放送は勿論、昨年十月文楽座で封切した古靱の「重の井子別れ」は意外といえば意外、果然といえば果然、実に近来の名演奏で、同時に私にこの段の面白さ、芸術的価値を教へてくれたのであつた。尤も従来の「重の井子別れ」の演奏が尾籠極るものであつたから一段と優れて聴かれた点もあらうが、恐らく摂津大掾以来の本格的な「重の井子別れ」であらうと信ずる。その成功の原因は、古靱が数十年間本格的な修行により習得した音遣ひの妙諦が総てゞ、殊に冒頭一枚の音遣ひに依る古靱の表現能力は絶讃に価する。而して前にも述べた通り、この段は従来美声の大夫にのみよつて語られる可きものと誤解されてゐたものであるが、この段に限らず、義大夫節の中で美声を以つて名演奏の必要条件とすべきものは殆んど無い。殊にこの段に到つては美声など寧ろ有害無益ともなるもので、徹頭徹尾最高級の音遣ひによつて終始演奏される可きものである。即はち此の段は名作の内には漏れるが名曲である点は斯芸中卓越したものである。それは、節付の異様に優れてゐる事――初演者竹本大和掾の「風」そのものがこの曲の芸術的価値で、その「地ノリ」、「詞ノリ」、「間ノリ」の「風」は、三絃とのつきはなれといふ並々の修行では習得し兼る特殊な技術的手段を以つて踏襲される可き名曲であり、同時に難曲である。古靱にはそれが完全に出来てゐた。古靱の音遣ひは近来全く老熟の境に入つたから、初演したこの段などにも、恰かも数度手掛けたものゝ如き感があつた。表現主義的劇音楽は義大夫節に於いてその表現技巧の主体である音遣ひの点からいふと、数少き近世の名人の中に屈指される古靱がこの段に初演からかく優秀なる出来栄えを示すのは当然の事であらうが、現在、恐らく未来に於いてもこれ以上の「重の井子別れ」は望めないと思ふ。
 かくの如く、兎に角第一回義大夫名曲選は辛くも名人古靱によつてその真の目的が完遂された。この放送に際して前述の如き種々の懐疑はしながらも、取敢へずその成功を喜び、且それは古靱独りによつて辛くも救はれたものでなく、最初から当局が、「重の井子別れ」の名曲たる所謂を考究し、それを名演奏し得る唯一の大夫としてこの曲を古靱に依頼した正しき撰択態度の結果であることを念じつゝ、第二回名曲選の日を待つた。
 その第二回は二月十六日夜で、豊竹駒大夫の「先代萩御殿」が放送された。私はこの放送を聴いてゐない、それどころか、当夜名曲選の第二回が行はれた事さえ後日になつて聞いたのであつた。その時、私は、曲目の選定を誤つたな、と思つた。同時に、前述の古靱の時に私かに念じてゐた当局の撰択態度の正しさは、その当初からなかつたものだと知つた。所で、私は当夜の出来栄えを批評する資格を持つてゐないが駒大夫の「先代萩御殿」は文楽座その他の場所で数度に亘つて聴いて居り、駒大夫の語り物の中、最下等に属するものと思つてゐる。駒大夫の語り口には「御殿」はない、即はち質が違ふ。唯、この段には珍らしく、幼児の主役が二人登場して、且節付も高調子の所が比較的多い為、高調子が支えない性質の人に適した語り物とされて居り、其点のみ駒大夫に適合してゐるのであるが、これは「御殿」を名演奏する必要条件ではない。駒大夫の「御殿」こそ、放送は勿論、文楽座に於ても葬らる可きものと思ふ。しかし、この第二回名曲選に際して、その演奏者に駒大夫を選んだのは正しい。何となれば、今日本で本格的な義大夫語りが三人存在するとして、少くとも曲目の要を得ば名演奏し得る大夫が三人ゐるとして、駒大夫はその中の一人であるからである。そして、彼には嘗て「冥途の飛脚封印切」といふ、彼に取つて殆んど空前絶後的な名演奏がある。その名演奏振りは嘗て武智鉄二氏が本誌に紹介されたから、茲ではそれについて述べないが、名曲の名演奏者として駒大夫が選定された場合、何はさて置いても選定される可き曲名である。しかも、いふ迄もなく近松巣林子の名作中の名作で、曲は中興に復活された名曲である。唯遺憾なことは、かくの如き遊廓を背景とし、延いては心中に展開する作品が現時局下に禁断的に排斥されてゐるのに対して、この作品が一応それに属する点である。しかしかくの如き作品も単にテーマや背景のみによつて盲目的な排斥を受けるのは文化上好もしくない。これは一般演芸にも及ぼす相当大きい問題であるが、東都明治座三月興行を評された飯塚友一郎氏も、久々上演された「鳥辺山心中」に関して「――神妙に先人の型を踏襲して見物の純情をついてゐる。それにつけても近松の心中物などが、一概に時局下に排斥されるのは理由のないことだ。今こそ、人々は魂をゆする純情を求めてゐるのだ」といつて居られる。「封印切」も全くその例に漏れない名作である。近松はこの段に於いて、不遇な格子女郎梅川の真情を描いてゐる。
 遊蕩を奨励した作図は断じて伺はれない。唯これを演ずるに当つて、甚しき誤解的演出の下に、恰かも遊蕩劇として取扱つてゐる現在の歌舞伎の「封印切」や、一両年前迄文楽座で語られてゐたこの段は考慮すべきであらう。所が駒大夫の語り方はこの種の悪癖から全く逸脱したもので、彼は近松が筆力を尽して描いた桜川の純情を語り活かしてゐる。放送に限らず、この種の作品に正しい理解が下され、その一般上演が自由となる日、第一に公演される可きものゝ一つである。まして名曲選とて、文化的意義を以つて第一とすべき、この特殊な催の内に、駒大夫が選ばれた場合、その語り物は当然「封印切」である可きであつた。
 かくの如く、名曲選の第二回は曲目の選定が全く盲目的であつた為、折角の当夜の催も、あたら名演奏を持つ駒大夫も共に葬られてしまつた。
 第三回の名曲選は三月九日夜の、竹本角大夫以下の「千本桜道行」がそれであつた。このプログラムを見た時、折角の名曲選も、当局の無鉄砲、無方針な企画の下に、早くも第三回を以つて完全に歪められたと思つた。第一回に古靱の「重の井子別れ」の演奏の前にアナウンサーの紹介を聴いた時、最も怖れてゐた事が遂に実現されたのであつた。かくして当夜は、その演奏の非道さを楽しみに聴いた。角大夫は今の斯界では余程の古参と聴く、そして道行大夫で謳はれてゐるさうだが、道行大夫道行を知らず、で、当夜放送された角大夫の演奏の一たい何処が「道行」になつてゐるのか私には解せない。義大夫節の中、音楽的要素を主体として特殊な作曲形態を採つてゐる「道行」を語るには、それに調和した音遣ひが指定されてゐる筈である。それを語るのが「道行」である。角大夫の如き咽喉に飴か何か詰つたやうな声の一本調子で終始一貫し、その上不思議な事には屡々馬の嘶きの如きものが入る、そんな馬鹿なものが「千本桜道行」だの、名曲選だの、人を馬鹿にしてゐる。馬が語つてゐるやうな浄瑠璃を放送して、何が名曲選だ。「選」という字の意味を識らざるの甚しき極みである。二枚目に坐つた文字大夫が流石に気の毒で、三味線の新左衛門はそれ以上気の毒である。もうこんな名曲選は真平である。
 要するに放送局は名曲選の曲目と演奏者の選定に慎重さが足りない。世俗的な誤解の吟味が不足してゐる。これは義大夫界には格別多いやうであるから今後此点余程注意せねばならぬ。駒大夫に最も不得手な「御殿」を語らせたのもその為であり、「道行大夫」などの俗号に誤魔化された為、名曲「千本桜道行」は葬られた。最初の誓約通り行はれるならば、まだ九回名曲選の夜は訪れる。この九回にはどんな演奏者がどんな曲目を携へて現れるか、これまで三回の例を見れば当局に信頼は置けない。現在の斯界は錯覚を以つてその三分の二回が覆はれてゐるやうだ。まづ紋下竹本津大夫などその最も代表的なものである。若し当局が真に専ら芸術的良心の下に名曲選を催してゐるならば(それでなければ意義がないから止めた方がよい)彼は技術的に出場する資格を有してゐない。だが彼は「文楽座紋下」という栄冠を偶然的に十数年背負つてゐる。当局はそれに如何対処するだらうか。当局の麗はしき芸術的企画の死活の別れ目である。興は深い。因に現在斯界に於いて演奏曲目の要を得た場合、名曲を名演奏し得る芸術家は、大夫では豊竹古靱大夫、豊竹駒大夫、竹本織大夫の三人、三味線では鶴沢道八、豊沢新左衛門、豊沢仙糸、鶴沢清六の四人(この外二人位名演奏可能の見込の所有者がゐる)あるのみなることは茲でハツキリいつて置く。そして最後に再び、続く跡九回の義大夫名曲選の演奏者と曲目の撰択が慎重を極められ、前述の如き世俗的な誤解に誤魔化されず、真に芸術的良心の上に立脚して行はれ、この企画が我邦文化界に於いて本年度の白眉たらんことを望んでやまない。(完)
 
女義の「堀川」評 1941.3.4
          本誌同人 鴻池幸武
 女義大夫の最高目標――即はちどの点まで語れたら女義大夫として完全なものであるか、といふ批評の基準とすべきものを知らないから、嘗て女義大夫の批評は絶対慎しんでゐたその批評の基準が今度判つたから、といふ訳ではないが、去る三月五日BKから放送された、三蝶、清糸などの掛合に仙平の絃という女義界では第一流と聞く人々の「堀川」を、微恙の臥床中に聴き、従来の精進を破つてふと批評してみたくなつた。それは、往年の呂昇等と名女義の演奏はよく知らないが、一両年前には時折因会女子部の例会を一聴して、中には比較的良心的な演奏者もあり、近頃の文楽のヒネ腐つたものよりはまだ少し好感が持てるやうに思つてゐたから、同夜の「堀川」を格別期待したといふ程でもないが、よい意味でどの程度まで素直さがあるかと思つて聴いた所、その演奏の余りにも非道なのに驚いたからであつた。女義大夫といへば皆あんなものだ、といつてしまへばそれで終りだらうが、苟くも放送局が「掛合義大夫」と相当大がゝりな標題をつけて当夜の膳立をしてゐるのだから、女義の常習としてカツトは是非ないとして、拙くてもよい、今少し真面目なものを聴かすべきである。
 まづ役割の筆頭に書かれた三蝶の与次郎の母が驚くべき素読である。三蝶といへばかなり有名な女義であり、これまでも数回聴いたやうに思つてゐるが、実にひどい。雛昇のおしゆんといふのがこれ亦気味の悪い謳ひ方である。どういふ積りでやつてゐるのか知らぬが、義大夫節にも、「堀川」にもおゆゅんにもなつてゐない。次に昇鶴の伝兵衛が比較的良心的な演奏である。朧気ながらも一つの目標を立てゝ義大夫節なり、伝兵衛を語らうとしてゐる。だから欠点は大分あるがそれが割合に惜しいやうに思はれる。しかし詞はまだ全然語れてゐない。清糸の与次郎は噴飯物である。どう声を張り上げたら与次郎が語れるかと思つてゐるらしい。そのくせ「猿廻し」になると、ケロリとして御自慢の美声をふり廻して、途中から「角力甚句」が入つて来たかのやうだ。仙平の絃は全然品物にならぬ。唯恥をかいてゐる丈けである。それから予ねて女義大夫は、カツトの名手であると聞いてゐたが、段切に「目は見えねども見送る母、名を絵草紙に聖護院」とやつたのには全く感服した。これだけは痛い程手を叩いても惜しまぬ。
 
402
堀川寸感 1941.8.25
 武智鉄二
 
 八月二十五日夜、古靱の「堀川猿廻し」をラジオに聴く。この堀川に関しては既に批評したこともあるし、放送は「鐘も」からであつたので、もう何も書かないつもりで聞いたのだが、二三気のついた点もあつたから、簡単に記してみる。但しノートも何もとつてゐない全くの記憶だけに頼つて書くのだから不備の点があればお赦しを乞ふ。
 伝兵衛の出は丁寧に語つて、当夜の堀川中での最高の出来栄であつた。古靱としても、茲がこれほどよく語れた事は未だ無かつたやうだ。然し後は全体として平凡で、婆のくどきの如きも前との照想がないためと、その情の変化が演者自身にうつゝて来ないためとこの二つの理由から、いつものやうな感銘は乏しかつた。
「古布子」をよく語つた。「古布子」だけを摑み出して投げ捨てるやうに表現したが、それが従来のやり方が、大の男が古布子の袖をくひしばつて涙を降るやうに流して泣く事態に、川柳的な滑稽味を彷彿させることにのみ専念してゐたのに対し、「古布子」自体を明瞭に描き出すことに依つて与次郎の身貧な生活の輪廓を浮き立たせ、以てこの悲劇の忘れられ克ちな環境を想起させた点で立ち勝つてゐた。これは与次郎を道化的主役から悲劇の倍音的効果を受持つ傍役へ引下げることによつて、正しい堀川の悲劇を描き出した。古靱として、当然かくあるべき変改ではあらうがやはり勝れた才能といはねばならぬ。
 清六の三味線は伝兵衛の出、殊に「しよんぼりと」と「灯ふきけし」と、この件が特によかつた。唯三ヶ所ほど撥の下し方が早過ぎた箇所があつた。今はつきり記憶してゐないが、その内一つは確か「同類でもあるのかテーンとさぐりよつたる」の所であつたと思ふ。つまり清六のは「あるのかテーン、とさぐり」になる。この善悪は俄かに決し難いが、まづ古靱の体力、腹力を考慮して、「あるのか、テーンとさぐり」であるのが妥当であるやうに思はれる。このやうな受け方をとらへて来て、清六の芸は冷たいといふ批評が生れるのであらうが、私は清六の義大夫の足取に対する理想がさうさせるのだと思ふ。事実この場合も理想的には「あるのかテーンとさぐり」であらう。唯この場合も芸力が不足すると叶大夫風の素読になる。その辺の兼合ひが大変むづかしいものにならう。猶、在来普通のやり方だと「あるのか、と、テーン、さぐり」になるのだらうが、これでは全く婆の姿が現はれない。「あるのか」で受けさせて始めて婆が動けるのである。在来のやり方だと婆が思案してしまつてゐる。運びものですぎる。
 ツレ弾になつてからは騒々しくて、好きでない。殊に古靱の解釈と茲の節付とは全く融合点がないやうである。古い節付の数は、符が発明せられる以前のことだから、今では知る由も無いであらうが、長唄の「靱猿」--堀川の影響を受けたるもの--と常磐津の「靱猿」とを対比して、そこから何かの暗示を汲取り、「堀川」の古式復活を望めないものであらうか。付言すれば、私は清六団六の演奏を聞いてゐる内に文楽の地方で踊るのが好きな猿之助と段四郎とが、このお猿を演じたらさぞやさぞ受けることであらう--それは「二人三番」や「小鍛冶」の比ではあるまい--と想像した。演奏も悪いのであらうが、大体がその程度の節付けなのである。(一六・八・二六)
 
405
放送浄曲私言
大隅大夫の寺子屋について 1941.10.27
中野孝一
 放送浄曲を聴ゐてかれこれ批評がましい事を筆にするのは鑵詰物ばかりの料理を喰べさせられて小言を並べるやうなもので、些かどうかと思はぬでもないが、文楽の上演曲目より放送のそれに却つて興味をそゝられる場合がまゝあつて、先達ての大隅大夫の「寺子屋」は、さういふ意味でよかれあしかれいろ〳〵の点から心惹かるゝものが多かつたのと、それに関連して言ひたい事もあつたので敢へて俎上にのせる事にした。放送による悪条件の割引はしてゐるつもりはつもりだが。
 さて大隅大夫は極大雑把に分類すると、情味を語り生かす事を主眼とする古靱型ではなく、どちらかといへば力の表現を生命とする津大夫型に属する人である。津大夫なきあとその後釜に擬せられそういふ風な語物をあてがはれてゐるらしいが、その芸力に大きな逕庭があるにもせよ、経歴や年配の点から言つて古靱に雁行し近い将来に文楽の双璧の一人になつてもらはねばならないこの大夫が、古靱とは全く対蹠的な芸質であるのは結構であるが、こまつた事には津大夫とは又別な比類なき大きい資質を恵まれ乍ら、どういふものかその力が内に充実漲溢して奔騰迸出する底の、聴手の肺腑をえぐるほどの会心の一曲を未だかつてきかされたことがない。
 これは私の寡聞のせいもあつて、算盤高い文楽座の経営方針の犠牲になつて、口に適はない不得手のものを語り悩むでゐるのをきく折が多かつたにもよるだらうけれど、とにかくいろ〳〵の不満が鬱積してゐたものか、もしくは真底これに愛想をつかしてゐたものか、昭和十二年の春、息子さんを後継者にしないのかと問はれて「こんなぐうたらな稼業はどうでもよろしい」と、飛んでもない聞き捨てならぬ放言さへ発表するに至つた、私はこれを大毎の大隅芸談で読んだ時の失望と寒心と憤慨を今でもまざ〳〵と想起する事が出来る。至難の芸道--煩はしく厭はしきその社会の表裏--修行途上自分の芸に対する焦慮、不安、懐疑、なら勿論あり得ることであり、又当然なければならないところのものでもあらうし、吾愛児に再び茨の道を歩ませたくない親心とすれば、これもさら〳〵無理でもないが、神聖にして侵すべからざる芸道に対し不用意にもせよかゝる不遜の言辞を弄した心なさに唖然としてしまつたものであつた。当時早速浄曲新報紙上で猛省を促しておいたのではあつたが稀れなる大器を抱き重責を担はせられつゝ、何時まで経つても何処かに一本楔のぬけてゐるやうな浄瑠璃をきかされてばかりゐると、又しても前の放言が思ひ出されて、さらでだに暗いこの芸術の将来が一層心細く思はれてならないのである。これは技巧的修練の不足よりも、芸道に対する愛とか尊敬とか信念とかの凝結した基本的な精神力の不足であるまいか?こういふ大切な根本の心構へがしつかりと据つた上の修行でなければどうにもならないのだらうと私には思はれる。「そんな事はない。これでも一生懸命やつてをるつもりだ」と抗弁するかもしれないけれど肝心の浄瑠璃の出来栄は言はずもがな、床へ出た時の眼付のおちつかなさ、湯を濫飲する行儀のわるさ、こういふ見易い事にすらその心構への至らなさをあり〳〵と暴露してゐるではないか。自分の持つてゐるものゝほんとの良さ、自分の立場、責任の重大さに目覚めたら、大隅大夫たるもの決して晏如たり得ないはすだ。もうよいかげん大悟一番、血の通つた浄瑠璃をきかしてくれてもよかりさうなものと、思ふは私一人であらうか。
 寺子屋はこういふ儚ない切ない期待をいだいて熱聴した。これは静大夫時代、文楽の向上会(青年大夫の登龍門)で語つたのを、白井社長が聴ゐて激賞したとかいふ極め付の逸品?だときいてゐる。殆んど二昔も前の今より一層未完成の荒削りのものが、どれほど立派なものであつたらうか、文楽座の資本主であるが故に、浄瑠璃を聴く耳まで信用してよいものかどうかも疑はれるが、壮年時代の客気覇気といふやうな--純粋な芸の気魄とは趣を異にしたものであつても、今の無気力なそれと味ひ比べるとむしろ懐しまれる位の、一種の迫力が聴手を動かしたものに過ぎなかつたのではなかつたかと想像されるのであるが、それはともかく、其後昭和十年の秋[9.17]に放送ではじめてこれをきかされて、期待を裏切られたにがい憶出もないではないけれど、何といつてもこの大夫にはもつとも最適の私には一番好もしい一曲であるし、この前にははぶかれた源蔵戻りからだつたし、それこそ全心を耳にして聴き入つたのであつたが、遺憾乍らそこに六七年の間の修行の効果があまり現はれてゐないのに失望禁じ得す、前叙の不満が依然解消しないのを悲しんだ次第である。
 流石にあの堂々たる音量、重厚豪宕の芸質だ。語り出しの荘大さにこれならと思つてたのしんだのも束の間、早くも、「いたいけに手をつかへ」で、おや〳〵と思はざるを得なかつた。子供の声なりその地合を写実に語らうとする小ざかしい意図が、小廻しの利かぬ声柄に裏切られてへんてこなものになつてしまつたのである。
 次に「暫くは打ち守りゐたりしが」のスエテの語り方について言ひたい。これは打ちに重点をおくか、守りの方を重くみるかの可否について、三宅周太郎氏が古靱大夫と津大夫との二様の語り口に対して、詳細適正の比較評をされた事があり、古靱式の守りに重心をおく方が正しいのは動かす事が出来ないにも不拘、打ちの方に主力を注いで語つてゐる。こゝのスエテを一へ落すかギンへ落すかの、春大夫対、団平、湊大夫の相反した主張は、大夫の声がその主張の分岐点になつてゐるのださうだから、これについてはどちらにならうとあまり干渉は出来ないけれど、前の場合の如き議論の余地のない明白に正しいと決定されてゐる定石を無視する無頓着か片意地かは、不問に出来ない。
 それから前後したが、「きつと見るより」のきつとが、あまりきばりすぎで仰々しかつた。あそこはあゝした外発的なものではなく、もつと沈潜的な言ひ廻しでありたい。必ずしも合理主義の尺度ばかりで小股すくひをやるのではないが、あれではあの場合の源蔵の心理なり動作なりにふさはしくないのみでなく、耳ざはりで空々しくきこへる。しかしこういふ不満は声柄による宿命的なものかもしれぬが、こちらにすればも少しその気になつてくれたら、何とかならないものでもなからうにと、つい愚痴りたくなるのである。
 それよりも一番悲観したのは「所詮御運の末なるか、いたはしや浅ましや」と、絶望する源蔵の述懐の詞だ。これは若君の破滅だからといふ封建道徳の主従観念の発露のみではなく、吾子同様にいつくしみかしづき育てゝゐる子供の悲運を素直に嘆く源蔵の惻々としてせまる人間味の溢れた衷情の吐露なのである。彼の心の奥底に美はしくも咲ける純情の花なのだ。この気持が強かつたればこそ、源蔵はやつと無辜の人の子を無慙にも手にかけ得る勇気を奮ひ起したのである。こういふ観方をして私はこの一語を源蔵もどりの中でも重く味つてゐるにもかゝはらず、実にひどかつた「所詮御運の末なる--」までを声を顫はし胸が一杯になつた気味で詞がこゝで途切れてしまひ、間をおいて前句の語尾のカを際立つて大きく「いたはしやあさましや」の頭にくつゝけて、すこし唄ひ気味に詠嘆風に語る。「御運の末なるか」で悲嘆の情が溢れた形容なら、語尾のかは消えてしまつてきゝとれないのが当然ではあるまいか。実に沙汰の限りである。自分は凝りに凝つた研究の成果をきけとばかり、大得意になつてゐるらしいだけ聴手は助からない。前の「きつとみるより」は語手に成心がないらしいから我慢出来るが、この方はあざとい奇巧を弄し過ぎての失敗だけに嫌味できくに堪えなかつた。
 しかし「報ひはこつちも火の車」の、源蔵の修羅地獄の苦悩と自責の嘆声は、低めた深刻沈痛の語気が実に結構至極で十二分に共感堪能させてもらへた。こゝに始めて大隅大夫の真骨頂をきいたのである。こんな力の籠つた情のつんだ、腸の底へ煮えこむやうな立派な詞遣ひは、今までこの人からは一度もきかしてもらへなかつたのである。こういふ調子で一段統一されたものが語られたらとしみ〴〵うれしかつた。
 このやうにめづらしく感心して聴いてゐたら「スハ身の上と源蔵も妻の戸浪も胴をすへ」を、鼻へ抜ける口先声で軽くヘナ〳〵と演つたので、又腰を折られてしまつた、一体全体どんなつもりであんなじやら〳〵した、腰抜節を語るのであらう。こゝは源蔵も戸浪も、全身全霊を筋金の入つたやうに硬直させ、悲壮の決意の下に、この憎みても飽き足らぬ人非人の強敵を迎ふべきところなのである。
 今一つは、源蔵の「固唾を呑んで」のデが、はじめの「きつと見るより」のキツトと同じに大き過ぎた。これは源蔵の切迫つまつた動きのとれぬ必死の決意を凝結した、大切な一句であるのだ。あゝいふぼやけた大きさは効果を逆殺して仕舞ふ。
 最後に、「早首桶引き寄せ蓋引き明けた--」以下首実検に至る地合に緩急の妙が乏しかつた事「女の念力」に迫力の足らないことなども黙過出来ない不満に数ふべきだらう。松王丸の「菅秀才の首打つたにまがひなし相違なし」の実検証明の一言に、底を割らぬ程度の悲痛なふくみを、微妙に表現すべきだが、これが納得の行かなかつたのは是非もない。以上列挙した私の悲願が叶へられた暁は、期せずしてこの眼目の詞に当然画龍点睛されるものと期待してゐる。
 こうして一人よがりの見当違ひかもしれない駄目を並べて見たのを改めて吟味し反芻してみると。
 第一は天与の声質に却つて災ひされて、浄瑠璃が大きくなりすぎ締らない事、(例-「きつとみるよりや固唾を呑んで」など)これはもつと基本的な発声法の研究修熟も勿論忽諸にに出来まいが、それよりも曲中人物の心を吾心とする事によつて、表現の適正を得るのではないかと思はれること。
 第二は自己の資質を自覚せぬためか、もしくは他の私の知らない理由によるか、その柄にない小細工を弄してこまること、これについてはすでに前に書いた昭和十年九月に、同じ寺子屋の放送の時の短評にも卑見を開陳してゐるが。
「--語り出しの荘重雄渾さに似ずその調子で押し切れなかつたのは惜しい、私共この人に求むるところは、太い力強い線でグウーと一の字をかくやうに、たるみのない熱演であつて小器用な部分的な巧緻さを賞美するわけではないのです。たとへば「人でなしといはれむに」にあまり色をつけすぎたり「持つべきものは子なるぞや」に古靱を模してもつと綺麗事で行かうとし、持前の地声を殺して繊細な器用さをきかさうとしましたが、それでは美しい哀切感はちつとも現れなくて語り口の不統一を徒に暴露したに止りました。堂々と地声で押し切つても悲痛の風情は出るはずです--(下略)。
 丁度この通りの不満はそのまゝ六七年後の今日に持ち越されて私を歯がゆがらすのである。此度は「所詮御運の末なるかいたはしやあさましや」にその弊がもつとも顕著に現はれてゐる。そしてこれは前よりも一層悪質で、病いよ〳〵 に入れるものと慨嘆せざるを得ない。
 しかし今の私はこの引用文中の「太いタルミのない単純化された熱演」といふ註文には、まだ言ひ足りないものを残してゐると感じてゐる。堂々と地声で押し切れ」では、第一の例に挙げたやうな欠陥は是正出来なくて、大味な茫洋たる浄瑠璃になつてしまひさうである。
 あまりに万全を望みすぎるきらひがなくもないが、演奏全体の統一を破る低俗な迎合的な前受をねらつた小乗技巧の骨がらみになる事を、排除するつもりであのやうに直截に進言したものの、出来得れば全体の演出は太く大きく力強く、小細工は排してもよい意味の細心を忘れず、要々のカツチリと引き緊つた、求心的な浄瑠璃を語つてもらひたい。
 最後に重ねて強調懇望しておきたい喫緊事は、もつと〳〵まこと心のこもつた、技巧を飛躍せしむる精神力の集中された浄瑠璃であつてほしいのである。芸を命といふわかり切つたことで、そして途方もない実行の至難な芸道の真諦を自覚実践して欲しいのである。これはたとへ至難の道であつても実践に時間的な連続の努力を要しない。自覚と決意が渾然衝動すれば、如来地に入る事洵に易々たるものであらう。
 かくてこそたとへ美調に恍惚陶酔せしむる芳醇な芸の醍醐味は乏しくとも、比類なき大器に恵まれた人が、その持味をぎり〳〵結着までのし上げ、磨き上げ、生かし切つた、まこと心の満ち溢れた芸境に、随喜の涙をこぼし得るのである。
 魂を揺さぶられるやうな、心臓を掴まれて息の根を止められるほどのデカイ芸力に讃嘆を禁じ得ないであらう。
 これは巨材を擁して小手先の利かぬものゝ行くべき、唯一無二の大道なのである。まこと心と正しき気力を内包燃焼して、之を素晴らしい伝統に磨きぬかれた様式により、力強く表現するところに独自の生命を持つ吾義大夫浄瑠璃は、君の大悟一番、渾心の精進努力による大成に俟つて、その本来の面白を一層輝かし得るのではあるまいかとさへ私には考へられる。刻下の吾帝国の現状は国民個々に捨身の奉公を求めてゐるではないか。個人として発揮し得る最大限の力の綜合がよくこの未曾有の国難を超克し得るのであると信じる。
 大隅大夫たるもの、心を虚うして私の苦言を容れ発奮努力すれば、これが何よりの芸道報国,職域奉公ではあるまいか?君もつて奈何となす矣(完)
 
 
408
古靱大夫の組討 1941.12.24
 武智鉄二
 古靱大夫の「一谷嫩軍記組討の段」の芸術的意義に就いては、既に『古靱の須磨浦』の標題の下に書いた(拙著「かりの翅」四五九頁以下)が昭和十六年十二月下浣の放送に依る組討を聞くに及んで、根本的な精神に於ては既述の一文に解析したのと差は認められないが、細部的にはより一層の完成の域に達したと覚つた。茲にその概略を記述して、『古靱の須磨浦』の補遺としたい。
 語り出しの謡がゝりの『よさは聞いた人でなくては分らない』と私は以前書いた。それはその通りである。古典芸術のよさはそれを筆に上した時に大半は消える。この解説の彼方にあるものをこそ古典とは言ふのである。然し私の役目は古典の認識への橋渡しに在る。敢て少しく解説するの愚挙を敢へてする。古靱の謡がゝりのよさは、謡にとらはれず、義大夫節の本意を忘れず、謡にさはつて語る処から生れる。それはこの一段の背景をなす須磨浦の風景の上に築かれる。寄する波と引く浪とを表現の基礎に置く。波の高低が謡を規定して、其処に義大夫節の古典性が輪郭づけられる。
 即ち「去る程に」は極くかすめて、「に」をギンへ持つて行つて少しゆり、「み船をヲヽ、始めて--」とゆり、「一門」と「ん」を呑み、「みなみな」をさら〳〵語り、「乗り--おくれじと」を強く、「汀に」を又かすめて弱く、「御座船も」を強く、「兵船も」を更に強く、御座船と兵船との位の性格の相違を語り分け、「遙かに」はうんと遠い音を遣ひ最もかすめた処から「八--アヽるかに」と、「の--びイ」を高く強く、「給ふ」は「たま」と言つて止まり、改めて「ウ--ウウツ」と極くかすめて語る。この強弱の声と遠近の音とが波高[波の高低]に通ひ、同時に謡がゝりを義大夫節へ引戻す。「情を深く」といふ義大夫節古典の要請に叶ふものである。人に依つてはやゝ技巧が克ち過ぎたとの非難を加へる模様であるが、それはマイクロフオンという器械を通じて聞いた上での感想であつて、舞台的計算に引戻せばあれでよいのである。
 「無官大夫敦盛は」以下も音の高低に波の高低を通はせて語る。「無官の」は高く、「大夫」は低く、「敦盛は」は「あつ」と高く「も」を呑んでといふ工合である。「道にて敵を見失ひ」は「道にて敵を、見失ひ」にならぬやう、「道にて」と詰め、「敵を見失ひ」と続けて語る。「御座船に」「身の上を」「須磨の」「有らざれば」等は皆沈めて語る。「告げ知らす」は訛らぬやうに「げ」を下げて語る。「出でられしが」は音を遣ひ、「有らざれば」は顎を遣ひ、「波--イに」と音を遣ひ、「打たア--アヽヽせ」をはり、「給ふ」を低く沈んでおさまる。すべて此の一段は浮き沈みの音の遣ひ分けが大切で、それが須磨浦の情景に通ふやう、気をつけて語るのである。「オヽイ〳〵」の最初の「オヽイ」が放送の日は少し近過ぎた。二つ目の「オヽイ」は息一杯に語る。「勝負あれ」は「シヨ--オヽブ」と「勝負」に重点を置いて、「あれ」は自然な詞に聞こえるやうな息で語る。「扇を上げて」と「さしまねき」との間に無の間がある。これはさしまねかれる敦盛が実は小次郎であるからだ。総体に茲はのりの強い中に「浦風に」を「ウラ--カゼニ」と無心に吹く春風を足取から語り、「引潮に」を沈めてその姿を語る等、『まさに歴史絵巻の一齣』として受取れるやう細心の注意が払はれてゐる。「返りては、また打ちかくる」にならぬやう、「返りてはまた、打ちかくる」と語る。
 「コハしをらし」は、「ブツ」と吹いて、大切な間を置いて「クオーク」と咽喉音で語り「しをらし」はすらりと語る。子を討たねばならぬ父親の、その土壇場に於ける動揺と、それを鎮めようとする努力と、自己の使命への反省から理性を取り戻した事とを表現する。「すはや」は、すはやと言ふ言葉の意味とは逆に、一種のすねた足取りで語られ、熊谷の心境の劇的表現へ足を踏み入れる。「取つて押へ」は「取つ」ですねた間を置いて、「て、押へ」と語り、我が子を押える熊谷の押へ難き様子を表はす。
 「必ず達し参らせん」は「必ず」をかすめ、「タ--アヽツシ」とかすめ、それとなく我が子の最期の望みを聞いてやりたい親心を示す。「懇ろ」は大切に音を遣ひ、「懇ろ」な様を表現する。「かく情ある武士の、手にかかり死せん事」とならぬよう、「かく」で切り、あとは続けて一息に言ふ。「戦場に赴くより」は最も音を遣ひ、「赴く」が訛らぬやうに、丁寧に語り、以て「かねてなき身と知る」小次郎の覚悟の程を示す。以下極めて陰気に運び、父と別れる小次郎のそれとなき遺言の心を忘れぬやうに語る。その陰気な運びの中で、「かねてなき身」の「身」を高い調子で押しで語り、その身を捨てた健気な覚悟を表はす。「忘れ難きは」も高く、「父母の御恩」を熊谷に謝し、「父母の御恩」は逆に沈めて語り、「さぞ御嘆き」を眼前の人に対する愁ひの気持を下に含ませて語り、「思ひやる」はさらりと語るといふやうに、裏表のかはりを大事に心掛ける。「必ず父へ」の「父」は少し高く離れた音で、拵へのない拵へを語る。「無官の大夫」を大事に、「敦盛」はすらりと語る。
 「痛はしさ」は「イタハ--アヽシサ」と情を離れぬやう出来るだけ押へて語る。「木石ならぬ熊谷も」の「熊谷」も出来るだけ沈めて語る。「見る目」は「ミルウ、ウ--ウヽウ--ヽヽ、メエ--エ」と「メエ--エ」は沈めて、内攻させて語る。「涙に」はつめて、「くれけるが」まで一杯に語る。「勝軍に負けもせま-じ」と語尾を呑んで独り言のやうに言ひ、「爰を落ち給へツ」と詰め、間を置いて、「サ」と息を開き、勢ひをこめて言ふ。
 組討に於ける一つの疑問は此の件である。熊谷は義経の命を受けて、敦盛の身替りに小次郎を討つべく決心したのである。もし我が子の愛に迷つて、小次郎の命を助けるため早く落ちよと勧めるのであつては、義経の命に背き、自分の命の恩人である藤の方の一子、殊には「院の御胤」たる敦盛の生命を危ふうする事になる。又若し小次郎の敦盛が熊谷以外の源氏の武士に討たれることがあつては、義経にまでその累が及ぶであらう。従つてこの小次郎の敦盛を落さうとするのは決して本心からではない筈である。然らば何の必要があつてさうしたのか。反義経派の源氏の武士は、敦盛は熊谷の旧恩ある人の子であることを知つてゐるが故に、敦盛を熊谷が討つたと聞いては、必ず何等かの疑ひを挿むに相違ないのである。さうなれば身替りの計略の暴露するのは必至となる。その故に、逆に一旦逃がすふりをすれば、熊谷の敦盛との縁故関係を知つてゐる人々は、熊谷なら敦盛を助けようとするだらうと考へ、その身替りの敦盛を真実の敦盛だと信ずるに至る。それが熊谷の狙ひであつたのだ。従つて「折節外に人もなし」といふとき、熊谷はかへつて他に人が見てゐるかどうかを確かめ、「後の山」の「武者所数多の軍兵」が居ることに気づいて、その上で贋敦盛を逃がすふりをするので、これが作者が「何思ひけん」と書いて漠然とにほはした熊谷の真意なのである。従つて古靱のやうな息組で「落ち給へ、サ、早う、早う、」を言つてはいけない。又「引起し」と語る前に周囲に人の居るのを確かめる拵へが必要である。猶小次郎の敦盛が「父経盛に身の上を告げ知らすことあり」としたのは、恐らく真の敦盛が無事であることを告げ、「叡慮をはかり今日まで態と官位の望みもせず、さてこそ無官大夫とよばせし」経盛に安心させようとの思慮からであらうが、それは恐らく小次郎独断の行為で、その以前に父熊谷に呼びとめられたのだと解すべきで、小次郎が経盛の処へ真に落ちて行く心があつたとは絶対に考へられず、又不可能な事でもあるであらう。要するに茲は「折節外に人もなし」に一定の拵へが必要となつて来る訳である。
 「声々に」は調子の変化をつけて、大勢の人の声を聞かせる。「待ち給へば、痛はしながら」は三絃で変りを弾く。「ふり上げは」「見るに」とか外面的な動作は強く、「玉のやうなる」の如き客観的描写は音を遣ひ美しく、他の熊谷の心情は顎と音とを中心として、弱さと乱れとを語る。
 「目もくれエヽ」とうれひがゝり、「伜小次郎直家と申す者」は「伜」と呼びかけるやうに語り、間を置いて「小次郎直家と申す者」をてれて語る。これは前には「伜小次郎直家と申す者」と語つてゐたが、今度の方が惑乱の様子がより一層適確に表現出来てゐてよい。「陣屋に残し」はうれひで、「心にかかアる」と上げて「は」は呑み、「親子の中」はうれひ、「それを思へば」で切り、「今爰で討ち奉らば」は続けてうれひで言ひ、「過されて」は「スゴオ」と激情で高く言ひ、「サレエ」と押へ、「テエヽヽヽ」と陰気にうれひで、「さしもに、たけき、武士も」と猛からぬ武士の様を語る。
 「回向を、頼む」と無の間を語り、実際の二人の身分関係への反省を少し示し、「ハハア、是非イなしイと」とへたつた処から強ひて決心するやうに声を持つて行つて語る。「順縁逆縁」以下はすべてひからびた声で、「一蓮」はうれひを含ませて語る。熊谷の「南無阿弥陀仏」は、「ウ、ナアムウ--ヽヽツ」と大切な間を置いて「阿弥陀仏」と訛らずに言ふ。茲も前の行き方より遙かに勝れて、人間精神の最も悲痛な受難の瞬間を表現してゐた。
 「人の見る目」の「見る」は最もへたつて、「はづかしと御首をかき抱」く気持をこめて語り、「張上げて」は「ハリイ--」と語尾をかすめて、うれひで音を遣ひ、「アゲ--エヽ」もかすめ、「てエ--エヽエ」となほつて語る。「無官大夫」をすねて情を語り、「敦盛を熊谷……」から早めてのせて語る。
 玉織の件は哀切を極め、熊谷を「茫然と……悲嘆の涙にくれ」させるやうに、清純な殉愛の精神を示現する。そのために総て音遣ひが大切に修業されてゐる。「いかなる人」は手負に聞こえるやうに高く語る。「今はの苦しきこわねにて」の「こわね」を苦しき様で語る。普通の太夫ならば「苦しき」を苦しさうに語るところである。「妻と定まる玉織姫」の次に間があり、それが熊谷が困惑してゐる間と、玉織姫が「もう目が見えぬ」事に気づく間とに相当する。「もう目が」の前に「ウヽヽ、ウヽ、ハー」と息で語る。「撫で廻せば」は丁寧に姿を語る。「ムヽ何お目が見えぬとや」の「ムヽ」は語らず、その後の探る間も極めて短い。それで真実「いとしや〳〵」の気持になる。熊谷の無常感は若い美しい玉織の死で一層強められる訳である。但し熊谷の出家は単なる感傷的な無常感に立つものではない。これは別の機会に述べる。唯それが此の場合強められるのである。「コレ、コレ爰に」の最初の「コレ」は首を渡す、注意を促す強い「コレ」で、後は呟くやうに「コレ爰に」と語る。
 「悲しい最期」は「カナシイ--イヽ」と語る。「深手に」は「フカアヽアヽデニ」と音を遣つて、そのために「目さへ見えぬか、悲しや」の気持を予め語る。「撫でさすり」は大切に情愛を音遣ひから語り、「さすり」を低い所へ落とす。「宵に管絃の笛の時」は低く哀切を極めた音遣ひをする。「此の世の縁こそ」も音遣ひが大切である。以下同断。
 「茫然と」は陰気に訛らぬやうに語る。「エヽエどちらを見ても」以下は極めて陰気な足取と音とで語る。「なみ〳〵ならぬ」はうれひでかすめて低く陰気に、「成り果つる身の」はやゝ激情を以て語る。「是非もなく〳〵」は特殊の足取で、「ぜ、ひ、も、なく、なく」と捨てるやうに、「おし包み」は極めて丁寧に、綺麗に音をつかひ、包まれる死骸の美しい生涯への追憶を以て、「オーシイ、--イヽ、ツツウ--ウウ--ウヽミイ--」と語られる。これは一つの音曲的頂点でもある。「哀れげに」も大切に音を遣ひ、「うき別れ」も大事に顎と音とを遣ひ、「悉陀太子」以下は文学的引用としてのり気味に、「同じ」は大切に「じイ--」を沈めて「涙ながらに引いて行く」まで、情愛第一に語り明かす。
                     (完)
 
412
小仙の「忠九」を聴く 1942.8.16
五松園主人
八月十六日 大阪放送局から竹本小仙(引語り)の忠臣蔵九段目が放送された。無論忠九は斯道で最も重んぜらるゝ語り物、忠九は知らないと辞して耻ぢにならない。人情の極致を語り抜く事が忠九を語る人の芸術上の責任とされてある程人道上重大意気ある語り物、鍛錬も技工も人情も超越し声が良いの悪いの、腹が強いの薄いのと云ふ問題がうろ付く様では忠九を語る資格は無いと論断されてある。それ程重大なる語り物を斯道振興に精進しつゝある鸚鵡会の旗頭竹本小仙嬢が文楽座の三味線の大師匠、日本一の六代目鶴沢友次郎の薫陶にて出来上つた山科を語る。敵の多い人だけ、また味方の多い人だけ凡そ浄瑠璃に趣味を有する程の人は敵も味方も此の放送は聞いたであらう。 滅多に放送を好まない記者が計らず『これから竹本小仙さんの仮名手本忠臣蔵九段目弾語りです」との口上に誘はれて耳を聳てると「引立入にける」二の音を自在につかひ得る調子、浄瑠璃の精神、文章の意味、人世の道義を語り得るは此の声この調子でなくてはならない、斯程の人が他にあるであらうかと思ふ裡「人の心の」重ならぬ実に尊重すべき曲譜であると感じ同時に誰れかこれに比儔すべきもの男にありや女にありやと詮索して見たが無い、「奥深き」語り得て妙、惜しい事には奥深きが深くに聞へたは耳の罪だらう。お石は少し強く、となせは下手より、小浪は始終処女のおとなしく親しみあり慎み深き最も語り難い所を何人か斯く迄語り得るであらうか。俄に思ひ出し見出し得ない「覚悟はよいかと立派にも」聞へた上々吉、それから鶴の巣籠りが無事。最難物にして性根場たる「振上る刃の下尋常に座をしめ手を合せ」無念無想の小浪の落付、これを斯くまで語れた人を聞いた事なし「共にひつそと」迄、十分語れる好調子であるが今一文高かつたら一倍大衆の歓迎を受けるであつたらう「芸といふものは、大衆の機嫌を考慮するものにあらず」と云ふ論も立つから強ち強調するではなく只だ善きが上にもと思ふ一念で思はず此の欲望を言はしめた。我れと思はん人は男女を論ぜずドシ〳〵放送して雄々しく敢闘すべし。而して其の争ひは顔や席順であつてはならぬ。陰陰極まる嫉視反目にあらずして全く芸の真髄でなくてはならない。浄瑠璃寂寥の折から切望に堪へざるなり。
 
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櫓下豊竹古靱大夫の放送 1944.5.19
 昭和十九年五月十九日櫓下古靱師は文楽座同師の部屋より左の如く放送せり、蓋し浄瑠璃界空前の事なるべし、本誌は古靱櫓下が浄瑠璃に対する平素の心掛け、調査研究に如何程力を尽くし、精神則はち其の気構へを伝へて世の研究者並に趣味者の模範に供したく之れを速記して茲に載載す、本記事に対する責任は本誌記者が全部を負担します。
 
国性爺合戦と日本の母 古靱大夫
 私は以前に、或る学者の方から、こんなお話を、承つた事が有ります、鹿児島の或る島の湊へ、親子の鯨が迯げ込んで来ました、夫を捕らうと、皆が騒ぎ立ますと、母鯨は子を捕られまいと、体の下へ隠くしましたが、夫でも終に子鯨は、捕られて殺されました、サア母鯨は急に暴れ出して、そこらの船を毀して、外海へ迯げ去りました、夫から幾日も幾日も子を殺された時刻に、湊の口に来ては、悲しさうに泣いたり身体を高く立てゝ、子供を戻せと云はぬ計りに訴へたと云ふ事であります、聞いた丈けでも、此母の愛の強烈さに、涙ぐましくなつたので御座います、今度の大東亜戦争に成りまして以来、忠勇な軍人精神がいよ〳〵益々、発揮されるに従ひまして、自然と、日本の母、と云ふ声がしきりに聞へて参つたので有ります、此母ありて此子有りと申します如く、忠勇類ひない軍人の皆様のお強いのは、一つは其のお母様の、優れた魂の感化が大いにあづかつて、力ありと申す事が、ハツキリと判つて来たので有ります。少しも、偽り飾りのない、真剣な母親の愛が、知らず不識の間に、子供達の心に感化を与へて、こうした立派な軍人を、育て上げたと申すので有ます、例の市太郎ヤアイ、のお母さんは、余りにも有名で有りますが、是に類する美談は、この頃段々と多く私共の耳にするやうになつて参りました、烈しい戦争で、いよ〳〵最後の一瞬といふ時、天皇陛下万歳、と叫ばれますさうですが、次いで、お母さん、と云つて絶命されると申す事を承ります、是は死ぬる、今端の際迄も心にしみ込んだ、母親の慈悲心に対しまして、忘れられぬ感謝のお礼心でありませう。
 そして此時、お母さん、とは云はれますが、お父さん、とは云つて貰へない様です、此の点男親は、少々テレ気味では御座いますが、つまり、是程母性愛は強くて深いものがあるのであります、私共が、日常床に掛て語ります浄瑠璃の中にも母親が子に対しての、深い愛情を書いた物が、中々沢山に御座います、彼の阿波の鳴門のお弓、恋女房の重の井の子別れ物、先代萩の政岡の様な烈女でも、また、和田合戦の板額の如き女丈夫でも、子供には他愛もない、お母さんに過ぎません、又一の谷の熊谷の女房相模でも、一子小次郎の初陣を案じて、一里いつたら様子が知れよか、五里来たら便りがあるかと、百里の道をばつい都迄、やつて参るので有ります、菅原の松王の妻千代が、死んだ子の美しう生れて来て、疱瘡迄無事に済んだのは、果報か因果かと歎きますのも、皆子を思ふ母の心であります、夫れが又義理の中の子や、継子に対する母親になりますと、一層深刻でありまして、忠臣蔵の九段目の戸奈瀬は、先妻の子の小浪を庇ひますのに、自分の一命を投げ出して居ります、又双蝶々引窓で、長五郎の母親は、ほんの子、継子の中に立つて、恩愛義理の柵に、なやみぬくのであります、こんな風に、子供の為には身も命も抛つて、惜しいとは思はぬので御座います、勿論、子を愛すると申す事は、日本に限らず、世界通有の人情では有りませうが、併し、最後の場合には命を捨てゝも厭はぬと云ふ。
 此死を覚悟しての慈愛は、全く体当りの決心で、金輪際子供を可愛がる母と云ふのは、独り日本の母のみが持つ、誇るべき特質であります、武士道とは、所詮死ぬ事で有ると云はれますが、日本の母性愛も亦、死を眼中に置かないと申すのが、著るしい特色ではないかと思ひます、是は米英などの、道義心に欠けた国には、決して見られぬ所で有りまして、武士道が死を背景にしまして、初めて光る様に、日本の母の愛もいざと云へば、かる〴〵と子の為に命をやるといふ所に、其の特色があるのではないかと考へるので有ります。私は只今、此お噺を文楽座の自分の部屋から、申上げて居るので有りますが当五月興行で私の語物は、国性爺合戦三段目獅子ケ城の段で御座いまして、此の段に大近松先生の最も力を込められました日本の母が登場致すので有ります。此の国性爺合戦は御存じの通り、日本と外国との戦争を浄瑠璃に仕組みました、最初の真に珍らしい名作でありまして、日本肥前の国平戸で生れた、和藤内と云ふ漁師の子が、唐土に渡り後に、国性爺鄭成功と成ります。此の国性爺が大明国を助けて戦ひ、日本の偉らさ、日本人の義理人情に厚い事、正義の戦ひに強い事などを描き、到る所に、日本のお国自慢や、日本男子は勿論、日本の婦人のガツシリとした特質を、殊に念入りに書いて居るので有ります、真に痛快な、日本人向の浄瑠璃で御座います。夫れに此の時の興行は大変な好評で、三ケ年に亘り、十七ケ月間引き続いて大入満員、当時大阪の人口は三十万と称されて居りましたさうですが、其の七割に当る、二十余万人の見物を吸収しました、是も世界の演劇史に例を見ない、記録で有ると申すことを伺ひました事が有りました。扨この獅子ヶ城は、唐土韃靼国の大将、五常軍甘輝の城廓で、爰へ日本から、国性爺の和藤内が、韃靼の為に亡ぼされた大明国を助けて、再興の旗上げをするに付いて、敵の大将甘輝を味方に引入れるため、和藤内の父老一官と母親と三人連れで便つて参ります、夫には、こんな訳が有ります。和藤内の父老一官は唐土の生れで大明国に仕へましたが、諌言して用ひられず、夫れで日本に来て、日本人の妻を迎へ、和藤内をもふけたのですが、其の老一官には唐土に遺した、一人の娘が有りまして、母の死後出世して今は、此の獅子ケ城の城主、甘輝将軍の妻で、錦祥女と申してをります、老一官は此の娘に便つて夫の甘輝を、息子の和藤内の味方に入れようと企てます。
 それで一官の妻が、只一人だけ縄に縛られ乍ら、城内に入る事が許されます、そこで自分には義理の娘に当る、継子の錦祥女の伝手に寄つて、甘輝に味方を頼むので有ります、甘輝は元来、明の家臣で有つたのですから、快く承知はしましたが只女房の縁に引かされて一戦もせず、おめ〳〵と敵方に味方するは、武将の耻辱であると云ふので、其面目を立てる為女房を殺した後に味方を仕やうと、錦祥女を刺し殺さうと仕ます、母親は驚いて、極力それを留めようと致します、錦祥女は是迄、親知らずに寂しく暮らして来たのですが、義理の中とは云へ、たつた一人の母親への孝行と云ふので、潔よく討たれようと、夫の剣に身を寄せます、此の孝心深い、健気な錦祥女の真心に動かされた母親は、義理の子への恩愛と、一ツには、義理と情けを基とする、日本女性の面目を発揮して、我命を絶つとも継子は殺させぬと、甘輝の刃の下に身を投出すのです、爰に日本母性の凛とした気概と、子に対する温かい、愛情が見えるので御座います。
 それが、斯う云ふ風な名文で書かれて居ります、錦祥女縋り付き、一生に親知らずつひに一度の孝行なく、何で恩を送らうぞ、死なせてたべ母上と口説き歎けばわつと泣、ノヲ悲しい事をいふ人や、殊に御身は娑婆と冥土に親三人、残り二人の父母は産落した大恩有り、中に一人の此の母は燐み掛けず恩もなく、うたてや継母の名は、けづつてもけづられず、今爰で死なせては、日本の継母が、三千里隔てたる、唐土の継子を憎んで、見殺しに殺せしと、我身の耻ばかりかは、遍ねく口々に、日本人は邪見なりと、国の名を引出すは我日の本の耻ぞかし、唐を照す日影も、日本を照す日影も、光りに二つはなけれども、日の本とは日の始め、仁義五常、情有、慈悲専らの神国に生を享けた、此の母が、娘殺すを見物し、そも生きて居られうか、願くば此縄が、日本の神々の注連縄とあらはれ、我を今に殺し、屍は異国にさらす共、魂は日本に導き給へと声を上げ、道も有り情も有り、哀れも籠る口説き泣、錦祥女縋り付く、母の袂の諸涙、甘輝も道理に至極して、そゞろ涙に暮れけるが、是から例の、紅流しに成つて、「南無三宝紅が流るゝ」の所となります。
 此の場書卸しに語りましたは、竹本座の櫓下、初代竹本政大夫、後に師の遺言に依て、二世竹本義大夫を相続し夫れより竹本上総少掾を受領、又竹本播磨少掾藤原喜教と、再受領せられし偉大なる師匠、此の師匠の口伝書に「国性爺合戦の出合ひ、国性爺は血気の男、甘輝は仁寛大度の男なり、其区別大事に語るべし」と教へてあります、此の両大将の態度は一段の妙味ある所で、殊に国性爺の母の、しとやかで優しい中にも、男まさりの強さ、厳しさの有る事を、見のがしてはならぬと思ひます。其の最後に、剣を取つて喉を貫き自害する、皆が驚いて騒ぎますと、アヽ寄るまい〳〵と制して、ノウ国性爺、母の最期を必ず歎くな、悲しむでない、韃靼王は母の敵である、と思へば討つに力が加はるではないか、気を緩ませぬ母の慈悲である、此の遺言を忘るゝなと、云ひ遺して国性爺の勇ましい姿を、嬉し相に見上げ見下ろし、満足して娘錦祥女と共に、死んで行きます、私は、斯うした尊い日本の母の心持ちを、皆様に知つて戴き度いと、及ばず乍ら心を入れて、日々勤めてをります。
 序でに此の母親の事を、記録に依りて御伝へ申ますと、肥前松浦家の足軽、田川七左衛門の娘となつて居ります、夫は大明国の鄭芝龍、其の中に生れた混血児国性爺、日本での名は田川福松とあります、和藤内と申す名は、是は、近松先生の書かれた名で、和国にも、唐土にも、こんな英雄はないと申す事から、和藤内と付られたと申す、御噺も聞いた事が御座いました、是は余談、それから夫や子と共に唐土へ渡つて戦ふ内、父芝龍は変節して、敵に降つたのを、妻は自分計りか、祖国日本の耻辱で有ると歎きて、国性爺と共に踏止つて最後迄戦ひ続け、遂に多くの敵軍に囲まれ乍ら、城の楼に上つて、日本刀で喉を貫き、池に飛込んで壮烈な死を遂げたので有ります。そして日本の女の神々しさ、美しさを、其の国の土に残したのであります。現に台湾の開山神社には、国性爺と母の田川氏とが、祭られて有ると聞いて居ります、此の逸話が近松門左衛門先生の筆によつて、獅子ケ城に再び現はれて参つたので御座います、斯うした故事を知る事も、語ります私共の心構へに、一ツの拠り所が恵まれますので、結構な事だと存じます、また二十二日に何か御噺をさして頂きます、今日は是で失礼……
 
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放送 「口伝は師匠にあり 稽古は花鳥風月にあり」の聖訓について 1944.5.22
     豊竹古靱大夫
今日は、元祖竹本義大夫尊師の訓「口伝は師匠にあり、稽古は花鳥風月にあり」と申す事に就て、御噺申上ます、義大夫節は元祖竹本義大夫尊師が、其の門人の連盟状の前書に、芸道訓とでも申しますか、教訓の一文を書て居られます、其の中に、「口伝は師匠にあり、稽古は花鳥風月にあり」と申すことを教へて居られます、斯道の奥義とか、秘密とか云つた、夫程でなくても、語る要領とか、呼吸とか、口伝は直接に師匠から教へられねば、本当の事が解らない、そして、稽古、修行、研究は広く天地間のあらゆる物に就て、錬成されねばならぬと言はれて居ります、是を今日まで種々と考へますと、成程これがさうか、あれもさうかと、うなづかれる事が、沢山に出て参ります、子供時代の私が、見聞き致した事を、一ツ二ツお噺申上ます、摂津大掾になられました、二代竹本越路大夫師が、御霊文楽座の床を勤めて居られますと、私の師匠、通称を法善寺と申ました二代竹本津大夫は、床のうしろ又は上手、下手の揚幕の所へ立つて、ムヽさうか、ア成程、などと申して、独り言を言ひ、聞いて居られました。私が御師匠さん、どうなので御座いますかと、伺ひますとお前などには中々解らぬ、が段々年がいつて来たらば、自然に分る時が来る、二見さんは実に、よく語られると申して、いつも褒めて居られました。
 また明治廿三年二月興行に八陣守護城が出ました時、三段目に当ります毒酒の段この段切が浪花入江船の段になります、役の都合に依つては、此の船の段迄掛けて一人で語られる大夫さんも有ますが、此の時は掛合になつて正清を越路師、雛衣は新町の綾大夫さん、此の方は尼崎で、琴声と云ふて、名代の素人、しかし、もとは咲大夫師の門人で小咲大夫から琴大夫と成り引退して、尼崎に住居を構へ、素人で語つて居て、後年に越路師の門人と成つて、文楽へ再出勤した方、おとなしやかな、品位の有る声柄で良い浄瑠璃でした。夫に師津大夫も此の場の御馳走に鞠川玄番の役を勤めて居られました、御承知の通り段切に、正清の笑ひが有つて是が此の段の聞き所となつて大夫の腹の強さを、御客様が喜ばれる、此の役を声の綺麗な越路師が語られるので、御客様はどうアノ大笑ひをこなすかと、是れが呼物の一ツで有りました。雛衣の琴唄などが有りまして、終りに忍びが鎧櫃に入込み、正清の動作を伺ひに来ます、是れを看破つて正清が懐鉄炮で打まして、船子ども清めの舟唄々々と正清が申ますと「ヤンラ目出度〳〵の、若松様よ、枝も栄へる葉も繁げる、エイヱイ」と舟唄を歌つて居る間に、舞台一面の船が、くるりと前のてすりの先きの客席、御客様の頭の上まで、ヘサキの房の下つた所が、グツート出て参ります、其の上で正清の人形を遣つて居りました、初代吉田玉造師が、一ツ大見得を切りますと、床の越路師が、義大夫独特の例の、ムヽフン、アアハア、と笑ひ出します、是れが随分長いので子供心に私はいくつ位笑はれるのかと一日数へて見ましたら、其の日は七十八計り笑はれ、そこで正清は、毒酒を呑まされて居りますから、笑ひのとまつた所で、血をはきまして、トン々々と、跡へよろ〳〵とします、途端に忍びを足で水中へ、蹴込みますを合図に、幕切の木頭が、チヨンとはいります、是れをしほに終りの大笑ひとなります、此の笑つて居る間に、船が元の通り舞台へ納まりまして、是れで幕を締めます、其幕の締まると同時に、床のぶん廻しがくるりと廻つてお仕舞ひになります、是迄越路師は笑つて居られました、扨此笑ひが中々つゞかないものだと、皆申してをりました、我々は聞かして頂いてをりまして、どうしてあんなに息がつゞくかと、実に驚いて居たので有ります、此の時師津大夫は、毎日此笑ひを聞いて居られて、ア二見さんは息をつぐ事が上手だ、実に旨い事息を継いで行くと申して、感心して居られました、我々共は、どこで息を継ぐのか、引くのか、一向に分りませんでした、
 さうかと思ひますと、他の大夫さん方の日々語るのを聞いて、師匠はくす〳〵笑つてゐられるのを見受けました、其の人達に注意をして上げればよいにと私等は思ふて居りましても、決して教へて上げない、其の替り先から扨、どうもこゝが旨く語れませんが、どうやつたらばよいのでせうかと頭を下げて聞きに来れば、とことん迄教へて上げてゐられました、是などが、口伝と申す事に当つて参りませう、何事も聞かずに勝手気侭に語つて居る人は、自分は旨い、ゑらいと鼻を高くして居るから聞きに来ないのだ、さういふ人に、こちらから注意をしても、有難い共思はぬ、却つて知つてゐると云ふ様な顔をする、いはぬ方がよいと申す様な噺もしてをりました、
 口伝と申しますと、播磨少掾の音曲口伝書の中にはいろ〳〵の結構な事を示されてあります、その二三の例を申して見ませう、兜軍記阿古屋の琴責、あこや重忠への応へ、「勤めの身の心を汲んで、忝ないおつしやりやう、是、はなはだ憂ひなり、但し声色物まねにならぬ様、重忠阿古屋に見蕩れぬ様、重忠は智仁勇の三徳を兼ね備へたる武士也、人品に心を付けて語るべし、次に曾根崎心中のお初観音廻り、大阪三十三番、すら〳〵と寺々へ参り、伏し拝み寺より寺への道の程、見渡し、遠く、近くの心得有り。併し余りに念入ると一日には廻りしまはれぬと心得て語る事、又芦屋狐別れの段めつたに泣き語りにあらず、一雫づゝ涙を拭ひては、名残をいふ心なり、其他沢山の語り物に就いての口伝が載つて有り、ますが省略致しまして、次に、こんな事が書かれて御座います、又浄瑠璃を業とする人は尚ほの事、又慰みに語る方にても一ト節語るとも笑はれぬ様に語るべし、誉められる様に語らうとすれば、声に欲が付きて、浄瑠璃の文句わからず、彼情を忘れ、節、音、位、砕けて本意を背くなり、何程稽古上達して、扨も上手ぢやと、ほめそやさう共、聞き人を侮らず音を定め情を深く語れば、聞く人感に打たれ、仮令へば小音悪声の人にても、聞く人、ホヽ面白い事ぢや、声が遣り度いと言はゞ是れ則ち誉められたる詞也、誉めると感心するとの違ひあり、篤と思ひ較べて見るべしと、書いてあります、
 前に申しました、元祖義大夫尊師の芸道訓「口伝は師匠にあり」先づ口伝の事は此の位に致しまして、次に稽古は花鳥風月の事に就いて申ませう、私が十六歳から二ヶ年半計り、先代三世大隅師匠に付いて居りましたので、博労町の彦六座が改まりて稲荷座と成りました当時、暫く御厄介になりました、忠臣蔵が出た其時、十段目天川屋の口で、人形廻しと申す場を役付致し、此三味線が只今の仙糸さんが猿治郎時代、此人と一緒に、清水町大団平師匠に、御稽古を御願ひに出ました、師匠はよしと申されて、直に聞かして頂き、又翌日も翌々日も参りましたが、さつぱり解りません、夫れは大学校の博士に、幼稚園の児童が聞かして頂いて居る事ゆゑ、何事も聞き取り得ないので有ます。此時団平師匠の御言葉に、コレお前も大夫になつたからは、今後よく〳〵勉強して、立派な者にならなくては、親達に済まぬ、それには上下を論ぜず、誰れの浄瑠璃でも聞いて置かねばならぬぞよ、人さんに認められたらば、其の褒められた所はいまだやれてゐない所だと思ふて尚ほ〳〵そこを勉強する事。中々よかつた、うまかつたなと云はれても喜んではならぬ、図に乗つて鼻を高くしたらば芸の行詰まり、芸人は死ぬまで稽古だぞよ。と教へて頂きました、其の後師匠の膝元へ帰り、文楽座にて修行のやり直し十八歳と成りました九月興行に、日吉丸稚桜猪狩りの段が役場で、三味線は現今の七代広助さんで、未だ竹三郎時代同年の十八歳の頃、五代目松葉屋広助師匠が、新町通りの玉水の表に住居の頃、此の役のお稽古を御願ひに出ました、快く仕て遣らうと、直に聞かして下さいまして、三日間計り聞きました、所が、是は又、余りにも語られますのが面白く、聞入つて仕舞ひ、大夫でも是だけ上手に語る方は、少いであらうと、実に驚いたが、自分には、ちつとも覚へられす、サアけふは語つて見よと云はれたが、六ケ敷て少しも分りませんと申ましたら、アハヽヽヽと笑はれて、さうか、無理もない、今は分るまいが、追々にわかる様になる、お前も一人前の大夫とならねばならぬ、どんな下廻りの大夫でも、日々芝居で語つて居るのを、よく〳〵聞いて置け、分らぬのが当前だと言はれて、げら〳〵笑つて居られました、丁度清水町団平師匠と、同じ様な事を申されましたので、今に心に染み込んで残つてをります、
 夫に又私の師匠からも、こういふ噺を伺ひました、昔の文楽は夜明前から、大序が始まつてをりましたさうで私が明治二十二年に、東京から此道の修行に当地へ出て参り御霊文楽座へ見習ひに入れて頂きました頃でも朝の六時や、七時頃から始めて居りましたが、夫より前はまだ〳〵早くから始めたものと見へます、が、是へむけて立派な師匠方でも、御弁当持ちで早くから楽屋入りを仕られまして、下廻りの役から大勢の大夫衆の役場を聞かれて、アヽあれのアノ節は面白くてよい、是の語り方もなか〳〵よいとか申されて、いゝ所を取つて、夫を御自分が応用なさる、そこで、人ひとりには、必ず其持味自然的に旨く語れる所がある物ださうで、夫を上の方が聞かれて、アリヤ中々いゝ事をやりをるヲイお前、さつき語つた此所を、今一度語つて見よと申される、そこでいはれた者は、一生懸命で語りますと、何んだそんな事をやつたのかと落第、是は自分も分らずに、知らず知らず其の日によつて味く語れたので、夫を聞かれて良かつたから語らして見ると、本人固くなつて、懸命にやる故、床で何気なく語つた様にはやれずに、失敗に了る、其知らず〳〵に語るよい所を聞くのださうです、私がお稽古をして頂きました、ある立派な師匠は、斯ういふ事を申されました「わしは此段の筋道を教へるのだから、教へた通りを其侭に語るだけでは、只形だけは出来るにしても、魂が入つて居ないから是を仏芸といふてきらふ、此道筋を渡つて行くうちにも、自分と云ふ物を発揮せねばいけない、教へてもらつた通りより語れぬ大夫では、ぼんくら芸といふ事になる」といはれました、是は元祖義大夫尊師も、既に申されましたが、所謂「格に入つて格を離れ、格を離れて格に入る」と云ふ、意味で徒らに、本格計りに固執しないで、融通性の大事なことを教へられた物と、思はれます、モウ時間が余りましたから、掻摘んで申上ませう、師匠方が日々文楽座で、其役場々々を語つて居られるを、其床の後ろ、又は御簾の内にて聞かして頂いて門弟共は是れを日々の御稽古に致して覚へ込んだもので御座います、夫ゆゑ昔の文楽座は、義大夫道の大学校だと申して居りました、口伝を師匠から受けることは、最も大事で有る事は申す迄もありませんが、御稽古の大事なことは更に〳〵大切で、稽古は花鳥風月、則はちありとあらゆる物に就いて研究もし、勉強も致しまして、一生涯いつでもお稽古だといふ覚悟で、花を見ても、月を見ても、皆芸道のたしに成る様にと、元祖義大夫尊師は私ども末流末輩の者共へ、御教訓なされた物と存ぜられます。今日は是で私しのお噺は終りと致します。