人形浄瑠璃文楽 令和七年一月公演(三日目所見) 

第一部

『寿式三番叟』
  ソナエの弾き出しからまず驚いた。燕三の三味線である。その荘厳さに圧倒されたのだ。これでこそ一段の成否が決まるというものだ。そして二枚目の勝平以下がよく揃っていて、重厚な音を聞かせた。実に見事なものであった。欲を言えば、最後の追い込みの所の迫力がもっとあってもと思われたが、冒頭から観客を捉えていたものだから、それですべては成されていたのであった。太夫もシテの藤が重厚さを心がけており、どっしりとしてなかなかのものであった。彼がこの域に達したというのは誠に喜ばしい。三番叟のシンを見事に勤め果せたというのは第一人者となった証拠でもある。ワキは睦だが、そもそもこの千歳は節付けが高音中心であるから、普通に語っていても若男カシラの性根は映るのである。ただし、ここでは神聖な役回りであるから、そのところまで行かないと十分とは言えない。その点については不十分と言わざるを得なかった。さらに、「とうとうとう」が乱暴になったのは全くいただけないものであった。ツレは小住と亘で両者ともにはつらつとして気分の良いものであった。合格として良いだろう。人形陣は、翁が玉志で慎重な遣いぶりをみせてその格をわきまえていた。ただし、神聖なる超越性には届いていない。千歳は簑一郎であるがごく普通の遣い方。カシラには合致していたがこれもまた神事としての性格描写には至っていない。三番叟は玉翔と簑太郎で、それぞれ黒と白の性格ならびにカシラをよく心得て遣っていた。派手ではないが堅実であり嫌味なところがなく好感が持てた。全体として正月公演開幕の演目としてよく出来たとしてよいであろう。

『摂州合邦辻』
「合邦庵室」
  中を清友の三味線で靖が語る。ここはなかなかによい端場である。全体として淡々と進むがそれでこそ端場であり好ましい。まず冒頭のツメ人形の処理が良い。軽々としてしかも掴むべきところは掴んでいる。合邦も女房もちゃんと映っているし、とりわけ女房のクドキがよく語り弾かれていて観客の心に届いていたし、合邦では叱るところが真実味があってよく届いていた。しんみりとした雰囲気も描出できており、十二分な出来であったとしてよいだろう。清友の三味線は聞こえよがしのところがなく素朴で滋味のあるもので、それがこの端場ともうまくはまって結構なものであった。
  切場の前は清治師が弾いて呂勢が勤める。ここは何はともあれ清治師の三味線の妙味に尽きる。それを聴いているだけで筋が運ばれていくし、各登場人物とその心情が手に取るようにわかるのである。これこそ三味線格であり稀代の名人の領域に達しているものでもある。別に言うと枚挙に暇が無いから省略するが、一点だけ言及すると冒頭からして「夜の道」に続く合いの手と「恋の」に響く音により、玉手の出であり彼女がどういう状況・心情にあるかがわかるのである。これを驚異的と言わずして何と言おうか。もちろん呂勢もその三味線を理解してしっかりと語っている。以下盆が回って交替するまで見事なもので、録音して後代にまで残すべき水準に達しているものであった。もちろんまだまだ太夫が三味線に導かれているという感が強いものであるから、語りの一層の充実はこれから先も期待されるところではある。とはいうものの、呂勢の語りは自然体を崩さず浄瑠璃作品とその節付けを丁寧に辿りながら、心境やら情感やらを描いていくものであるから、近年では感動にまで至ることも出てきたし、もう立派に切語りとしての実力を備えていると言えよう。
  後半は若と清介。全体としての印象は、この作品がいかによく出来たもので、いかに魅力的な節付けがされているかを、あらためて実感させられたというものであった。床の個性よりも作品を際立たせたというものでもあろうか。中心はやはり玉手にあり、これはこちら側へ確実に伝わるものであった。その言葉に説得力があったのである。ただし美しさという点では少々物足りなかったとも言えるが、焦点の当て方としては間違ってはいなかった。その他の人物造形や心情描写については標準的なもので、全一音上がってから段切りへの追い込みや盛り上げも圧倒的とは言えないものであった。しかしそれでも最初に述べた通り、作品自体が非常によく出来たものであるから、作品世界の中へ引き込まれていたのである。
  人形陣は、玉手を簑二郎が遣うのが抜擢と言ってもよいであろう。欠点のない納得のいく合格点を出して良いものであった。ただし、妖艶とか圧倒的とか壮絶とかそういうところへは至っておらず、これは床の出来とも相応して標準的な仕上がりであったというところであろう。しかし遣い過ぎとか嫌味とかいうものとは無縁なもので、好感の持てるものであった。合邦は玉也で女房は勘寿。このコンビの燻し銀は今回も見事なものであり、観客を納得させるに十二分なものであった。ただしここも床と玉手が標準的であったことからその域を出るものではなかった。俊徳丸の玉勢と浅香姫の玉誉そして奴入平の文哉もやはり標準的な域を越えるものではなかったが、それぞれの人物描写において的確なものであった。作品の出来を損なうことがなかったという点に於いて、十分に評価できる人形であったと言える。

第二部

新薄雪物語』
「清水寺」
  掛合。大膳の津国は口あき文七の巨悪を感じさせて年の功を聞かせた。団九郎の南都は小団七の一癖あるところを描出できており、これなら「椎の木」も勤まりそうである。人形の玉彦も悪くなかった。国俊ならびに左衛門の碩はともに源太カシラの若さと動きを的確に描写していた。時分の花というところであろうか。人形の国俊を遣った紋秀は無駄な動きがなくよく弁えていた。国行と藤馬という対照的な両者を語り分けたのは聖でこれはよく出来たと褒めてよいだろう。ただし性根を活写してカシラがよく映ったとまではまだまだいかないが。人形の国行は玉輝でこれはもう老人役はお手の物である。妻平は小住だが大きさと勢いがある。ただし奴詞としてはまだまだ研究の余地がある。ここの人形は歌舞伎の方がより見所があるというものであろう。もちろん華やかではあるのだが。これら各太夫をまとめ上げる三味線は団七で、朱を見ながら弾いていたが確かなものであった。この一段は舞台構図といい各々のカシラといい妻平と水奴の立ち回りといい、なかなか見所のあるものである。満開の桜でもあるし四月公演であったなら一層引き立ったであろう。

「渋川使者」
  段名の通りで端敵の人形が狂言廻しをする一段である。それと腰元籬ならびに幸崎奥方が絡むわけで、左衛門と薄雪姫を加えると、なかなか語り分け弾き分けが物を言うところである。勤めるのは咲寿と団吾で、軽妙によく捌いていた。両者ともにもう立派な中堅としての実力を認めてよい域に達していたのではなかろうか。藤馬の人形の玉路は動き過ぎることなく自然であった。

「評議」
  マクラからして緊張感に包まれる。なかなかに引き締まった場面である。人形も主役に準主役級が並んでいて、語り分け弾き分けが肝要なところである。実力が試されるとしてよいだろう。床は錦糸の三味線で芳穂。ここは中堅の次代切語り有望株が勤めるところで、今回の芳穂はまさに錦糸の三味線を得てピッタリであろう。最初から最後までずっと惹き付けられたから、成功裏に終わったとしてよい。つまり、語り分け弾き分けが的確・適格に出来たということである。中でもとりわけ光っていたのが民部で、これは人形の玉志とともに家老であり検非違使カシラの性根を見事に描出し切っていたものである。続いては女二人で、老女形と娘それぞれのカシラを際立たせていた。なお望蜀としては、口あき文七と鬼一カシラがより一層映ればというところであった。

「園部兵衛屋敷」
  三人笑いのところで観客の目に涙が湛えられていた。これ一つを取ってみても、今回のこの一段が切場としてすぐれたものとして演じられたとしてよい。AV資料として後世に残すべき域にまで達していたわけである。千歳の語りは造形が顕著で細部にわたって作り込んでいき工夫を重ねるというものであるから、ややもすると行き過ぎて独特の臭気が漂ってしまうこともある。いわゆる鼻につくというものである。そこをうまく捌いているのが三味線の富助であり、その点においてもよき指導者ということになる。今回の語りは狂言廻しでもあるお梅の方の描出が、それぞれの場面で的を射ており、それが全体としての成功に繋がったとみてよいだろう。加えて、籬は腰元らしくそれはそのおしゃべりと動きで体現されており、そつのなさもそこには含まれている。人形の勘次郎も過不足なく遣えていた。妻平は奴らしく独特の話し方と主人第一の忠義者としての姿がそこにはあり、人形の一輔が珍しく男役においても確実な存在感を示していた。薄雪は深窓の姫らしく常に恥じらいを抱いているところが特徴的であり、人形の紋臣がそこを自然に捉えていた。左衛門は色男らしくそして両親への孝心ある小心を体現しており、人形の玉佳が爽やかに遣って見せていた。このようにそれぞれの人物像が立ち上がっていたというのも、ぎりぎりのところで踏み外してオーバーアクションになることのない、千歳ならではの良さが表現されたものであった。中心人物である兵衛と伊賀守は、それぞれ孔明カシラと鬼一カシラという性根によく映り、かつ各々が怒るところの強さも表現されていた。陰腹の表現も適切で納得のいくものであった。それらを踏まえての三人笑いであるから、客席の感涙(この涙は実に複雑なものである)を誘うことになったわけである。そして今回のこの一段の成功には、それにも増して人形陣の遣い方がある。和生師に勘十郎師に玉男師という三者共演をさせたことは、本公演においてこの一段がいかに重要かを如実に示しているところであり、かもそれが十全に実現されたという点において、劇場側の意図は完遂されたとしてよいのである。無論そこには最後に登場した清十郎の人形をも加える必要があるだろう。それぞれの存在感が確実にあり、しかもその時々の状況なり心情なりが見事に表現されているという、まさしく人間国宝揃い踏みの成果に他ならないものが現前にて展開されていたのであった。構成からも実態からも、本公演随一の段であったことは間違いなかった。「評議」から続いてここまで人形浄瑠璃の世界に深く引き込まれたというのも、冬の寒い日に劇場へ足を運んだからこそもたらされるものであった。このような体験があると、いわゆるリピーターが続出するわけである。そして現在に残る歴史的遺産―映像・音源―の数々、綱弥七を筆頭に津道八玉男勘十郎文雀らの舞台など、これらはまた時空を超越した普遍的価値を有する実演群である。今回の公演で満足を得られた方々には、是非ともこれらを視聴いただきたい。上には上がある人形浄瑠璃義太夫節の世界に驚嘆されることであろう。

第三部

『壺坂観音霊験記』
「沢市内より山」
  第三部は正月公演らしい狂言二本立てである。両者はまた、三味線名人団平つながりでもある。道八は団平の心酔者でもあるからだ。そこで、まずは『道八芸談』中の壺坂について言及されているところをそのまま引用掲出しておく。

 「壷阪寺の段」

 この浄瑠璃は清水町のお内儀のお千賀さんの作といふことになつてゐますが、一番初めは誰が作つたものかわからないと申すのが本当かと思ひます。西国卅三所各寺に夫々霊験のいひ伝へがあつて、それに幾分色をつけて本になつて出てゐたのをどなたがゝ浄瑠璃に作られたのが初めでせう。書卸しは明治十二年十月大江橋の席で、太夫は島太夫(六代目)さんで、三味線は新三郎さんでした。この興行には私は出てゐませんでしたから詳しいことは知りませんが、「西国卅三所観音霊場記」の通しで、各段よせ集めのやうなことだつたときいてゐます。「壷阪寺」はこのときから清水町の師匠の節付ですが「長谷寺」は大助(二代目)さんだつたさうです。このときの「壷阪寺」は只今の五行本の文句と大分違ふところがある筈で、枕の「まゝの川」や「菊の露」はなかつたらしく、この辺をお千賀さんが加筆されたものと思ひます。只今の五行本の「壷阪寺」の書卸しは明治廿年二月のいなり彦六座で先代大隅さんが清水町の師匠の絃で語られたもので、こゝにお咄しするのはこの「壷阪寺」です。

 それから住太夫(五代目)さんも「壷阪寺」を語つて居られますが、これは大隅さんよりも以前で、まだ雛太夫時代、京都の首振り芝居でのことです。三味線は竹沢弥六さん、ですから島太夫さんが初演せられて後間もないことでせう。

 書卸しの島太夫さんは、当時の昔風の芸人で、浄瑠璃は極めて平凡な語り口でしたが、どちらかといふと世話畑の人で、まづ悪声の部でした。柄も小柄で、従つて非力でしたが、何分当時は大きい浄瑠璃の太夫さんが沢山居られましたから、この方など非力の部になつてゐたのですが、只今の斯界の有様から申すと、島太夫さんは大きい浄瑠璃の部に入ります。「猫島」といふ綽名がついてゐましたが、それは語る中に音を遣ふところどころが猫の鳴声のやうに聞えたからです。またこの方は立派な貧乏人で、坂町に住んで居られ、太夫の傍「おもちや屋」をして居られたさうですが、これは御維新直後のことかと思ひます。三味線の新三郎さんは、当時の三羽烏の一人で、時代弾きで、芸は大きく、よい「間」でした。師匠の新左衛門(初代)さんが清水町の師匠の預りになつて居られましたから、孫弟子のやうな関係で始終清水町へ出入して居られました。

 まず、枕の「夢が浮世か――」の唄は、先程も申した如く、後からお千賀さんの添作で、これは御承知の地唄の「まゝの川」で、奥の「鳥の声――」は同じく地唄の「菊の露」ですが、この二つの地唄の曲を義太夫化して、義太夫節の足取と音遣ひで演るところに、味ひがあるので、同時に清水町の師匠だけの芸力があつて初めて出来る節付です。それではどうすれば義太夫化されるかといひますと、だいたい地唄といふものは、唄でも三絃でも「常間」でスウーと運ぶものですが、これに対して義太夫節は、「ノリ間」(「八ツ間」)といふことが根本の約束ですから、万事その「間」で運ばねばなりません。しかし、初めから終ひまでそれ許りでは折角地唄を取入れた面白味が消えますから、あるところは地唄で、あるところは義太夫節で運びます。ですから、この枕は、特に「間拍子」に深甚の注意が必要になつて来ます。

 で、弾出しで、「シャン、シャン」と二つ弾くのは、その一つ宛の音の尻に「ウナリ」(余韻)が必要で、従つて撥遣ひも特殊なものでなければならず、その「ウナリ」が「間」になります。「シャン、シャン、『ハッ』(と掛声をするところですが、地唄には掛声を禁じてありますから、こゝは声を出さずハット[と]掛声を掛ける「間」だけを取ります、以下之に同じです。)テチチンウ(といふ風に音の尻の「ウナリ」が大事です)、チンウ、『ヤ』チリンチリツ(とこゝは余韻を消して)、ツン、ツルンウテツン、『ハ』テチヽンウ、チリンウテツンウ、『ハ』ツトン、ロン、ロンロヽトン、『ヤ』チン『ハ』チテンテン、『ハ』ツトン、『ヤ』シャン」と、これだけの撥数と「間」と音とは必ず正しく弾かねばなりません。殊に注意せねばならぬのは、音の「ウナリ」で、これがこの弾出しの骨組である「間拍子」の生命であります。そこで弾出しがすんで、「シャン、ゆめが――」と、太夫が語り出すのは、地唄の音遣ひで出て、次に「トテチン」に「チンウ」とうねつたウナリが必要で、これは義太夫節の三味線でなくてはいけません。そしてすぐ「うき――」と太夫が義太夫節の音で出て、「ヨヲカーア」は又地唄になります。それから「浮世が夢」は義太夫節で、「カアヽ」は再び地唄に戻ります。だいたいこんな風に運ぶので、奥の「菊の露」でも、「鳥の声鐘の」は地唄で出まして、「オヽトサー」は義太夫節になり、「エ」で再び地唄になり「思ひ」で「ツトン」とノッて「出す」となるのは義太夫節の「間」であります。それから「出す程涙が先へ」まで(中でも「ダス」で特別に)は、はつきりと座頭の音遣ひ、即ち盲目声を表さねばなりません。尤も、総て盲目声を忘れてはなりませんが、こゝは格別に注意を要するところで、次の「落ちて流るゝ妹背の」は稍普通の声で、「川を」で再び盲目声を大切に遣ひます。五行本に「妹背の川に」となつてゐますのは、「川を」と訂正す可きと思ひます。それから盲目声ですが、同じ盲目で遊芸を業とするものにも、座頭と検校と二通りありまして、詞にも音遣ひにも、その区別がはつきりせねばなりません。座頭の方は、真世話の「間」で、俗つぽくドス汚くやりますが、検校の方は、時代がゝつて、幾分位をつけてゆつたりと演らねばなりません。「布引」の松波検校の詞がそれで、又「廿四孝」の『奥庭』の「思ひにや」の唄は、検校の音遣ひ、即ち茨[蕗]組のやうな音を遣はねばなりません。

 順序が後先になりましたが、始めの「沢市といふ座頭あり、生れ、ついたる」から十分ノッて「正直の」で止まり「コトー」は一寸へたつて「の」が[か]ら再び十分ノッて「の稽古や三味線の糸より細き身代の」まで続け、「間」を置いて「ウスーキ」は、下の音をていねいにつたつて、ほんとうに薄き暮しといふ文章の意味を音遣ひで表はします。「夫の手助けちん仕事」は十分世話にくだけ、「つづれ」は一寸押さえ、「させてう」からまた十分ノッて畳み「糊かい物を打盤の」の三味線が、唯「ツン、ツン、ツン、ツン、ツン、ツト、テン、テン、テン、テン」ではいけません。これは、砧の打盤を打つ音を三味線で出すといふのが、こゝの節付の本意で「ツウ、ツウ、ツウ、ツウ、ツウ、ツト、テ、テ、テ、テ、テ」と、左で余韻を消すのですが、その「間」に、打盤の「音もかすかの暮なり」といふ余情を漂はさねばなりません。それには、左の遊んで居る三本の指を働かす修練を要します。そして、撥はなげて撥先に力を入れて荒く、色気を禁じて弾きます。

 「互に心も知つて居るにマなぜ」のところの三味線がよく「ツトン」と弾き勝ちですが、これは、「ツト」と音を消して弾きます。何故かと申しますと、次の「そのやうにかくしてやるぞ」といふ沢市の詞は、心から寂しい気持なのですからそれを迎える「チン」も寂しい「チン」でなくてはならず、さうするには、「ツト」と余韻を消して置かぬと、「チンウ」と心から寂しく弾けないのです。次に「ドコーヲヤラ」の「ラ」からもう濁りかけて、「ニゴル」の「ル」で十分濁つた音を弾きます。「言葉のハーシ」「テン」は、お里の合点の行かぬ「テン」を弾かねばなりません。そして、「フシン」は「トツ」ときつぱり弾きます。

 それからお里のサワリになりますが、一般に「サワリ」と申して居りますのは、これを「クドキ」(口説)といふのが正しいので、「サワリ」といふのは「節名」でありまして、極く僅かな条で、「壷阪」に例を取りますと、「――なんのその、一旦殿御の沢市さん――」とかゝつて行くところが「サワリ」であります。それをどうしたことか何でも全体を「サワリ」といつてしまつてゐるので、正しくは「クドキ」であります。

 お里のサワリは、近頃では前受け許り狙つて、お里の真情が少しも語れてゐないやうです。「節数」は正しく辿らねばなりませんが、その中にお里の肚――夫を思ふ一生懸命の貞節の情が溢れないといけません。それは、ネバつかずサラつと、この結構な足取――「ノリ地」を片時も忘れず、緩急を正しく踏んで行きますと、自然と文章の意味が語れ、又弾けて来る筈になつて居るのです。で、「思ふ計りか」の三味線を、「テヽヽヽテンテ」とタヽいて弾くのがありますが、これは、次の「コレ申し」をあてる為の外何の意味もないことですから、タヽかない方がよろしい。次の「この壷阪の観音様へ」は、お里が真から観音様を有難いと信心してゐる肚を音遣ひに表わし、「明けの七ツの鐘を聞き」の「上タヽキ」の「間」を「キヽ、チチンリン、ハチヽン、ハ、シャン、シャン、シャン」と取り、ほんとうに人知れずそつとぬけ出る意味を弾き、大夫にもその肚で「ソーヲヲット」の音遣ひが大切です。そして「ト」から十分ノッて「唯一人」まで続けます。「外に、オトーヲコが」は、お里の悋気したいやらしい音を一寸表わし、「――ア、ル、ヨ、オ、ニイ、ヽヽ」はノッて、「今のお前のヒトーヲ、コトが、チンチン」からは荒く、「私は腹が、ターツ、ワ、イ、ノト(とつめ)、オヽヽヽ、チンチン、オヽ、チンチン、オヽ、チン、オヽ、チヽヽヽヽ」と節に流れるのですが、こゝは、左に力を入れ、右は撥先に力を入れ、荒くタヽかず弾きます。

 次の沢市の改心は、これ亦余程よく情を畳み込んでもたねばなりません。「アヽコレ女房共何も言はぬ――[+」]と唯言つてしまつては丸潰れで、「女房共、○、何もいはぬ――」と、無のところを語らねばほんとうの情が出ません。それから、「愚知許りコレ」「ヤア、テヽン」ではいけません。グツと息を詰めてゐなければ、ほんとうの腹が弾けません。「手を合したる詫涙、ソデヤ、タモトヲ、ヒタスラン」と文字を詰めて語り、また、「連添女房に何の詫び○、私しや死んでも」と「無の間」を語り「本望じやわいな」と次の「イヤモウさういふて――[+」]との中間の無のところと、「イヤモウ」の音遣ひとに沢市夫婦の情を語らねば、「壷阪」が語れたとは申されません。そして、「面目ないわいの、が夫程に――[+」]の「が」が大切で、これが沢市の心が観音様の方へ向いて来る萌芽の一句であります。少し奥へ行つて、「枯れたる木にも花が咲く」まではしつかりといひ、一寸間を置いて、「とやら」は極めて危げに、そろそろ死ぬ心を表し初め「見えぬ此目は――」は、潰れた目を手で指さす振りを語り口にはつきりと表します。話が脇へ入りますがいつたい盲目を語るコツは、耳を目として扱ふことにヒントを得て工夫しますと盲になります。尤も、盲目にも色々種類がありまして、「天王寺村」(極彩色娘扇)の兵助などは亦違ひまして、あれは俄盲目ですから、目を閉ぢて物を見るやうな形からヒントを得て詞を工夫します。「――花が咲かしたいなア、(カハッテ)といふたところが、(ウレヒの間を置いて)、罪のフカーイ(と突込み)此身の上、せめて来来は(十分泣いて)」、「イヤサアノ」は、てれかくしの詞で、「女房共、手を引いてたも、いざ/\と――[+」]と次第に「間」を速め、女房は十分勇んで「踊り間」風に運んで行きます。「いたはり渡すホソーヲヅエノ」の次の「合の手」は、「チヽチンチヽチヽヽヽチーントン」と撥数がありますが、これを、「チヽチン」「ハッ、チヽ」、「チヽヽヽ」「ヤツ、チーン」、「ヤツ、トン」と、五ツに区切つて、その「間」に盲目が杖を探つてこそこそと家を出掛ける足取りを弾かねば、折角の師匠の苦心を台なしにするといふものです。で次の」[「」細き心もホーソーヲ(この「ヲ」にウレヒがあつて)、『ヤ』カーアラアヽヽ、アー(これにまたウレヒがあつて)アヽヌ、ウウ(ウレヒ)、ウヽヽ(ウレヒ)」とこれだけあつてから、「ウー」と直ります。そして、「誓ひは――」からは、沢市のことから離れて、ハツて出て次第に雄大に語つて行きます。

 次の「辿り行く」の「上三重」はうんと立派に出ます。[+(]これは現今の昔もさうでしたでせうが)壷阪寺の実景に反しますが、高野山か比叡山のやうな霊験灼然な深山幽谷の気持で演りませんと、劇になりません。そして、「伝へ聞く――」以下は、位をもつて、ノツタ「常間」の「早間」で、ねばらずさら/\と運び、「実に有難き霊地なり」は、この浄瑠璃が観音様の霊験灼然なことを仕組んだものですから、特に位を附け、ドツシリと納めます。

 その次の「折しも――」の前に、「チントン/\ツトンジヤンジヤン」と弾くのがありますが、これは弾かずに、太夫から「ヲリシモ」とカブツて出て、「テントン/\」と受けるのが正しいのです。「詠歌を道の――」の所は「詠歌」といふ名前の「節」で「しほりにて」までは、「常間」で歩けるやうに弾きます。それから、沢市の唄は中々むづかしく、それは唄を唄いつゝ死ぬ覚悟を定めてゐるといふウレヒの心を、表面へ出さず、それを「間」に表すといふことです。それに、近頃見てゐますと、よくこゝの沢市の人形が立留つて唄つて居るのがありますが、それは大間違ひで、一足づゝ歩きながら唄ふ「足取」に節付がしてある筈です。舞台では三味線は弾きませんが、三味線の朱章もちやんと出来てゐます。これはたしか姫路あたりを旅廻りして居られるときに出来上つたと思つてゐます。こんなところは語る太夫がそれを心得ず、たゞ唄ひますから、人形まで立留つてしまふのです。で、「うきが情か」で一寸「間」をおいて、その無の間にウレイ[ヒ]の肚を語り、カワツテ今度はカブセテ「情がうきか」と続け、また次に無の間を語り、「チンツ、チヽンツチツンツ」は気を替へ、「露と(間をおいて)、消え行く」は十分寂しく、次の「テチン」は特に大切に、沢市の気持でカブセ、「我身の」は極めて寂しく、「―の」について「オホツ」と涙がこぼれ[(]こゝまで来てはじめて「ウレヒ」を表面へ出します)、そのてれかくしに全然カハッテ「ウヽヽヘハ」からノリはじめ、「チンチ、チリンツー」以下の「合の手」は、蹴褄づけるやうに、十分ノツテ、「踊り間」で唄ひます。

 次の御詠歌は、只今では長くなりますので、殆んど上の句だけよりやりませんが、五行本には「庭のいさごも浄土なるらん」の下の句もあつて、これはお里にあげさすのがよいのですが太夫衆の声柄でさう行かぬときは、沢市でやつても差支へはありません。追善会などでは全部語る方がよいと思ひます。

 奥へ行きまして、「坂を登りて右へ行けば――」のお里の詞をきゝ、沢市の「ヲヽどこヘ――」の一語は、沢市が自分の死場所を教へられたところですから、慌て気味の動揺した肚で語り、「行うぞ」で一寸留り、無の間を語つてそのてれかくしに、カハツテ、「今夜から観音様と『ヤ』ク、ビ、ビキ、ジヤ」と拍子を十分ツメていへばこそ、次の「アハヽヽヽヽ、オホヽヽヽヽ」の笑ひとのやりとりが面白くなるのです。この辺の芸の仕組の巧妙さは実に何共いへぬ結構なもので「この「首引じや」が沢市の「常間」の最後で、後はどつと乱れてしまひます。

 それから、沢市が一人になつて「これ、うれしいぞや――」から「不便の者やいじらしや」迄は、遍にお里の貞節に謝す肚一杯で、「今別れてはいつの世に又逢ふ事のあるべきか」の「カ」の産字は泣さ[き]ながら「アヽヽヽヽ、チョン、アヽヽヽ、ア――」と語り、三味線も一つ一つ音を消して弾きます。が、「三歳が間――」からは、盲根性を出し「願ふても」の次に「フン」と鼻で嘲笑し、「ナアーンの利益もないものを」と、観音様を馬鹿した肚です。その次の「何時まで生きてもせんない此身」は十分のウレヒで、「わしが死ぬのはそなたへ返礼――」は、帰つて行つたお里にいふ肚一杯で、「よき縁付をしてたモヤ、ヤ、ヤ」の最初の「ヤ」は勢のよい高いウレヒ、次は稍低く、最後の「ヤ」で泣き入ります。□□カハツテ、「最前聴けば――」は締めて「――谷間」といふ一句は、自分の死場所なのですから十分の注意をして「息」でいひ、一寸止つて「とのこと」は寂しく、「是究竟の最後所」は突込み、「かゝる霊地」から「助かることもあらん」までヘタツて、「ムヽ幸に夜は更けたり」は力を入れ、「人なき中に」をウレヒで締め「ヲそふじや」はいよいよ最後の決心をして立上るのですから十分力を入れて出、その「チン」にも十分力を込めて弾きます。つまり、緩急緩急となるわけで「そふじやと立上り、ミーイヽヽヽダアル」と音を廻はし、「コヽロ」で直ほり、「トヲリ」、「エツ」と掛声があつて、「ナーホシツ」を「チテンツン、ツン」とうけ、「上る」からは「探り間」で運びます。それから、よく「コヽロヲヽンノヲ」と語る人がありますが、これでは「取直し」になりません。次の「上る」からは太夫も三味線も「探り間」で、「上ル」「チン、チン」「ダーン」「チンチン」、「サエ」「チ、」「チヨン」と一つ「間」があつて、「ヨ、ツ、イツヽウ、ハアヤ暁(これを「更け渡る」と語る人がありますが、こゝは原文通りで差支ないと思ひます)ノ」の「ノ」は、太夫も三味線も「ウレヒ」から「中ギン」ヘニジリ、「カネノコー」は音を遣つて出、「エーツ」を強く、尻張りに、三味線も「トツツンツンツン」と手厚く一気に弾きます。即ち「エ」で鐘が深山にひゞき渡るのです。次に鐘の合の手から続いて、「ツヽツトツヽヽ」から「チン/\/\」は、左指の仕事で、「チユ/\/\/\/\」いふ音が出るやうに弾きます。

 「イザ最後時急がんトヲ、杖を力に盲目の、サグウヽヽヽヽ、ウヽヽヽヽ、ウヽヽリ、サアヽ(これは一寸色気を持つた音で)グウヽ、ウヽヽ、リイヽヽ、テ、ヨオヨオヽトコナアタノ、チヽン、チヽン、イヤ、チヽ、○○チヨン)[(]と拵らへてノリ[+)]、「チヽヽヽヽヽ、岩に――」となります。それから「迎ひぞと、ツン、杖を傍に――」の「ツン」は沢市が岩の上から谷底をハタと瞑[睨]んだ「ツン」ですから手厚くキメテ大切に弾きます。「身の果は」で沢市を飛込まし「哀れ、チン」は十分ウレヒで寂しく弾くのはいふに及ばぬことです。

 お里の出は前と全く足取をかへて、「かゝることゝも露知らず」は三味線より先にカブセて出て、「知らず」で一寸留まり、「ハ、チヽヽヽヽヽ――」と続け、「気はそゞろ」で押え、「常になれにし山道も――」からはお里がころび/\坂を登る息を弾かねばなりません。「坂の上、チヽン、チヽン、/\――」は「常間」でなく、「キヨロ/\間」で、「沢市さん々々」は三度いふのがよく、三度目のは全く泣いて語ります。そして「たづね」は「上(カミ)」から出て、「ウレヒ」に落します。

 それから「こりやマアー」から「ギンウケ」になり、曲風が陽気になり、以下お里の「クドキ」も全部「ギンウケ」で且「踊り間」で行きますが、かう節付されたところが実に結構です。しかしそれをたゞ無闇に浮かれて語つては折角の節付をこはすもので、心は踊らず、間で踊るのです。そこで「この世も見えぬ盲目の闇」の「説教」は変つた足取にしてつけてあるので、「ヤミイヽヽヽヽ、イヽ、イヽヽ、イヽヽ、ハ○○○○○(こゝは掛声なしで息だけでこれだけの「間」をとり)ヨイ、チヽヽヽヽヽ――、イーヨリ(チンチン)、ヤーミ、ノオヽ、オヽヽ、オヽヽヽ、シ、デ、ノ、イヤ、タアヽヽ、ビー」とこれだけの「産字」を拵らへます。そしてお里を死際に十分踊らせた節付がまた実に偉大なものと申さねばなりません。

 谷底になつてからは、「夢ともわかぬ二人とも、テヽン」のこの「テヽン」が無意味にならぬやう、それからお里が、「お前の眼が明いてあるわいな」といふと、「ヒエー」と一旦驚いて、あたりをキヨロ/\見廻す間をおいて、「ホンニこりや眼があいた」と語ります。「眼が明いた/\/\」は喜ぶといふよりはむしろウレヒで、土になき入る形を語り表はします。「観音様のおかげ」はいはぬ方がよろしく、すぐ「有難うございます/\」になつて、最後は泣き入ります。そしてふつと気がついて、「ウムそしてアノお前はマア誰方じやぞへ」となります。

 段切の「万歳」はこのときはじめて「万歳」の替手を師匠が作曲されたのですが、実に結構に出来て居ります。

 長くなったが、以上が道八の語る団平節付けとその奏演についての解説である。
  さて、この一段は明治の新作ということもあって、筋立てとしては単純明快であるが、団平の節付けが妙味極まることもあって、わずか二人の登場人物の造形と心情が際立てられており、人気曲ともなった所以である。
  前半は織と藤蔵が勤めるが、全体としてしんみりとかつ誠実に語り弾き進められており、沢市の屈折した心理やお里の純粋な心持ちが端的に表現されたものであった。良い意味で淡々とした足運びであった。作品性を自然に浮かび上がらせるものであつたと言えよう。
  切場後半は錣と宗助で、これまた余計かつ過剰な表現がなく、ドラマの展開をそれぞれの情景と状況そして心理を描出しながら確実に歩みを進めるものであった。最後万歳でのツレ弾き錦吾もよくそれについていっていた。
  人形の沢市は一輔が青年としての姿をよく描き出しており、盲目の表現も適切であった。長とは勘弥で、その誠実無比で一心に夫を思う姿を的確に表現していた。
  なお、この一段にも歴史的記録は存在しており、越路喜左衛門紋十郎勘十郎のもの、津寛治栄三勘十郎のもの、引退直前の越路に清治玉男簑助のもの、音源では古靱清六そして大隅道八のものなど、是非とも視聴いただきたいところである。

『連獅子』
  景事としては筋書きに重きが置かれていない、もっぱら人形の動きと節付けの妙を楽しむ一段である。端的に言うと、父と母と子というそれぞれの造形が如実に描かれていたかどうかに、この一段の成否がかかっている。プログラムの鑑賞ガイドの言葉を借りれば、それぞれに「厳しさと情愛と勇ましさ」が表れているかどうかということになる。まず、人形を遣った玉助と簑紫カと紋吉が合格で、加えて型の極まりや毛振り等々で客席から自然と拍手が湧き上がってきていたこともあり、成功したと言って良いだろう。三味線はシンの清志郎がその音の強さ大きさともに随分と腕を上げており、清治師の後継者を見据えられるところにまで近づいていたのではないか。二枚目の清馗以下友之助らの息もピッタリで充実した鳴りを聞かせていた。太夫陣は三輪に希そして碩以下と問題ない顔ぶれで、人形と節付けの引き立て役として満足のいくものであった。とはいえ、同じ景事でも開幕時の『寿式三番叟』とは雲泥の差があることは否めない。今回は正月公演として華やかに追い出せたことを諒とするというところであろう。

 今回劇場を後にしてあらためて思ったことだが、人形浄瑠璃義太夫節の真髄は日本人にこそ相応しいものである。現世界にあっては、大国が自らの意のままにならぬ国を蹂躙してそれがさも正義であるかのように宣言しているが、これこそ巨悪に違いはないのである。ところが、昨今の日本はその大国に追従しながら自らもその真似をして大言壮語をするようになってきた。実に危うい限りである。近松の詞章にある通り、「小国なれども日本は」でなければならないのである。