〔概説〕
今年(平成15年)5月末に大阪国立文楽劇場で催された「素浄瑠璃の会」は、綱大夫清二郎が『竹中砦』(切場)を勤めるということに最大の関心が集まった。昭和9年以来全く上演されず、その間は昭和40年に津大夫寛治でのNHKラジオ放送があったきりという曲。それが陣立物の三段目格で、麓太夫風(『尼ヶ崎』『小牧山城中』等)で、権謀術数二転三転の戦国合戦が舞台という、とんでもない大曲・難曲である。実はそのラジオ放送時の解説、八世綱大夫と山川静夫氏との対談が『綱大夫四季』に転載されていて、「ボクシングヘビー級十五回戦」だと綱大夫が言っていたとある(山川氏は「野球のシーソーゲームを見ているような感じ」と発言している)。語り弾く方に大変な体力気力声量剛腕が要求されるのはもちろんのこと、聴く方にも一瞬の気の緩みが命取りとなる。とはいえ時間なら切場で1時間の平均的浄瑠璃であるから、文字通り釘付けとなってカタルシスを得られる格好の一段なのである。もちろん、相互に関連しながら複雑に展開してゆくストーリーという情報を処理する(推理小説や夏目漱石の作品を読み解く際の)頭脳が必要とされるかもしれないが。そして当然それらは義太夫浄瑠璃という音曲の流れに乗ってくる。一見難解な詞章に惑わされることなく、十分に楽しむこと。しかしそれは難しいことではない。信頼できる床に任せておけば、ちゃんとおいしく料理して運んでくれるのだ。津大夫寛治然り、そして今回の綱大夫清二郎も同様である(5月の会では十分に自分のものにしきれていなかったことは事実である。詞章上でも、空虚を空慮と読み違えたり、絶句するところもあり、三味線も一瞬考えてから撥を下ろすところも間々あり、細部の工夫どころではなかった。しかし、12月に再演された際(21世紀COEプログラム早稲田大学演劇博物館演劇研究センター主催COE公開講座「浄瑠璃」)には、「近来稀にみる演奏」に仕上がっていた)。切の字の付く太夫と相三味線はさすがに違う。聴いていると眼前に人形が立ち現れ、手に取るようにその人形の所作が見えてくるのである。この見どころについては、七行本翻刻および五行本に基づいた【詳説】において、聴きどころとともに書き記してみることにして、ここではその『竹中砦』がなぜこのように珍しい曲となってしまったのか、そして現代においてこの『竹中砦』はもはや伝承というよりほか意味を持たないのか、という点について考えたい。
先代綱大夫は、山川氏の「どうして、こんなに上演されないのでしょう」という質問に対して、「これはね、語る方も大変ですが、筋があまりにも複雑なんでね、やらないんじゃないかと思いますし、先程の『熱田』の段(引用注…七段目『竹中砦』の前段六段目。いわば切場に対する立端場の格)からこの『竹中砦』まで通しますと、少くとも二時間はかかりましょうし、又我々は鎧武者の出てくるものを陣立物と申しておりまして『一谷嫩軍記』『鎌倉三代記』『近江源氏先陣館』など陣立物も数多い中で、特にこの『木下蔭』は筋が複雑なのと、一般うけがあまりしないというようなきらいもあるんじゃあないかと思います。」と述べている(『前掲同書』)。これに従って今三つの要素に分けてみると、「床の実力」「狂言建ての問題」「観客の受容」ということになろうか。
まず「床の実力」であるが、これはラジオ放送での津大夫寛治がまさにそうであるように、十分可能な状態であったとしてよいだろう。
次に「狂言建て」であるが、明治・大正期について「義太夫年表」で調べてみると面白いことがわかってきた。比較のため、同じ麓太夫風で、太閤記に関わる『小牧山城中』を用いてみたところ、文楽・非文楽を通じて、明治期には『竹中砦』が20回(うち『木下蔭』の建て狂言として19回、付け物として1回)であるのに対し、『小牧山城中』は『日吉丸稚桜』の建3・付3であった。ただし、後者は『木下蔭』の建て狂言の中に組み込まれて10回上演されている。ところが、大正期になると『竹中砦』がわずか3回(建3)であるのに対し、『小牧山城中』は12回(建6・付6)に及んでいるのである。ここで、大正期に入って非文楽系が『竹中砦』を上演するだけの「床の実力」がなくなったからではないか、との見方もあるだろうが、文楽座に限ってみても、前者は2、後者が7(建4)と、その差は歴然としているのである。昭和期はもうその傾向がそのまま踏襲されたとしてよいであろう。大正末年刊行の『浄瑠璃素人講釈』中に、『小牧山城中』は見えても『竹中砦』が見えないのであるが、『小牧山城中』はもとより『尼ヶ崎』よりも古い寛政元年初演『竹中砦』の麓風を、杉山翁が掲載しないということの方が腑に落ちないのであって、それは、『竹中砦』が付け物として独立して演じられることが皆無と言ってよいのに対し、『小牧山城中』がその命脈をむしろみどり狂言において保ち続けてきたということの、証左の一つであるともいえるのである。実際、昭和に入って弁天座での仮興行の後、5年の四ツ橋文楽座以降は、狂言のみどり建てがもっぱらとなるからである。
この場合考えておかなければならないのは、『竹中砦』がなぜみどり狂言として『木下蔭』から切り離されなかったのかということである。一つにはまさに前述の第一の理由、すなわち付け物とするにはあまりにも「床の実力」を必要とする大曲・難曲であるということであり、もう一つはこれから述べる第三の理由すなわち「観客の受容」、平たく言えば、付け物として気楽に味わうには、あまりにも筋が難解(のように見える)であり、共感を誘う抒情味も乏しい(ように感じられる)からであろう。仮に観客が受ける印象を色を以て表すとすると、『竹中砦』はもっぱら黒が勝ち、『小牧山城中』は赤もまた多しということになろうか。大正期文楽座の例だけ見ても、前者は両度とも津(昭和9年も津)であるのに対し、後者は土佐が4(内伊達3)あと津・染が各1なのである。やはりこれは「観客の受容」こそが最も大きく関わっていると見てよいだろう。『浄瑠璃作品要説8』(国立劇場芸能調査室)中の『木下蔭』の項にも「竹中官兵衛が当吉の知謀に敗れる七之巻は、若い犬清と千里の死が哀れを誘い、最も名高いところで」とあるように、犬清と千里の恋模様が赤の色なのであるが、その二人の死は官兵衛の策略「表裏の金打」によってもたらされたものであり、しかも官兵衛は逆に策に敗れたと知るや、瀕死の二人の「襟がみ掴みぐつと引寄」「捻付捻付歯ぎしみ歯ぎり」、自らの恥辱を八つ当たりする(ように感じられてしまう)駄目押しによって、多くの観客はカタルシスを催せず、主役官兵衛に不快感さえも抱く結果になってしまう可能性も大きいのである。それがみどり建てともならず、また大正から昭和を経て、とりわけ戦後から現在に及ぶ断絶の理由でもあるのだろう。
しかし、この『竹中砦』は実に面白い一段なのである。語りと三味線の面からも、人形の面からも。少なくとも前者については、今回の素浄瑠璃の会において綱大夫清二郎が証明してくれたし、後者についても想像を逞しくすることが出来た。この作品が十分上演に堪え、今後は通し狂言としての上演はもとより、みどり建ての一狂言としても楽しめる一段であることを、以下に示してみたい。(なお、本文中に引用した詞章の表記は原則として七行本翻刻による。)
【詳説】
上演する場合、端場が付けられるが、これについては先代綱大夫がうまくまとめているので、そのまま引用しておきたい。「この端場がなかなかいいところで、私の記憶によりますと、駒大夫師匠がとってもよかったことを憶えていますし、御霊さんの時には、のちに春大夫になられました叶大夫師匠が語られましたが、これも結構でした。とても気のきいた端場で、後が武張った戦争物なんですけれども、ここだけが色模様になっておりまして、千里と犬清が逢ってのいわゆるラヴシーンがございます。ここだけが七段目のやわらかいところで、『犬清様か千里殿のうなつかしやとすがりより……』というようなサワリと申しますか、色っぽいくだりがあります。」(『前掲同書』)
では、若干の付言をする。冒頭、竹中砦とその主である官兵衛が矢疵療養中の状況を簡潔に説明し、保養中も合戦の準備を怠らず、腰元や娘にまで矢の根磨きや鉄砲筒の浚えをさせる官兵衛の人となりから、腰元どもの仇口噂話へと自然に続いてゆく。例の趣向ではあるが、客席はリラックスし笑いも起こるところ。ここには娘千里の思い「聞く度々に悲しい事共、思ひやつてたもいのと、打ちしほるれば」の詞章が、地として挿入されており、聴く者の胸に印象付けられる。その節章も、ハルからウク音へそして上の高音で訴えて琴線に触れたあと、スヱで悲嘆に沈む心情を表現する。そこへ母関路が帰着し(改まった語り出しのハルフシ)、娘と恋人との関係を柔らかく取り捌く。母の愛は籠乗物の謎とともに観客の心を捉えるであろう。そして前述の犬清と千里との色模様、まさに七段目中唯一の赤色が目と耳とから感じられることになる。ここは「早黄昏て」から始まる節章が地ウキンで、この東風を特徴付けるキンによって、いよいよ二人の恋の場面だと感じさせる。とりわけ千里の思いは、そのクドキがウやハルという高め強めの音で響いてくる間に、「お胎に妊し」「泣明かし」「縁の切目とは」等、中という低い音へ落として恥じらいや悲しみ哀れさが深く沁み入るように感じられる。そして「お前計りが切る気でも、思ひ切られぬ片そぎの契りに、嘘はない物を」で最高潮に達し、上、入、という高音で一途な女心の強さや純粋さが強く訴えかけられる。この端場一番の聴き所でもあり、人形も美しく可憐な千里を見せてくれるであろう。そして咳の声に驚き犬清が縁の下へ身を隠すところは見ていて面白いところ。さて、この後の展開はと期待させて盆が廻る。この端場で十分客席を引き込むことができれば、切場の黒も一層際立つことになろう。赤の残像をとどめながら。(この床は、津駒か千歳、燕二郎で勤めていただくのはどうだろう。期待に違わぬと思われるのだが。)
『竹中砦』の主役は竹中官兵衛である。今さら何をというところだが、この鬼一かしらが主役の一段というのは他にない。これまた何を言うかと不審に思われるであろう。現に『菊畑』の鬼一法眼がそうだろう、あの『山科』の本蔵を忘れたか、と。しかし、これらはいずれも一段の中心人物であっても主役ではない。前者の主役は軍略書を伝授され平家打倒へと向かう九郎御曹司とその忠臣、そして恋人という三人の若者であり、後者は娘小浪に、婿力弥はそれとして、虚無僧姿で出立する由良助である。とはいえ、これだけでは、ならばこの一段もまた若き軍師此下当吉が主役ではないかと指摘されよう。が、果たしてそうであろうか。鬼一というかしらは、ご存じの通り、文七の老け役と言ってもよい性根を持つ立役肚のかしらであるが、主役の文七と異なるところは、切場の中心人物の場合、その一徹により現世で義を果たし次代に正しき道を伝えて、必ず命を終わるという点である。『陣屋』の弥陀六も、平家の余類宗清はすでに死んだものとしているからこそ、義経から敦盛を託されもするのだ。事実、観客は『菊畑』病身の鬼一の言動に、平家打倒を託す時節が到来したかを見極める覚悟を、『山科』本蔵の悪口雑言に、娘の幸せと忠臣の大義を身を捨てて実現させようとする衷情を、その出の時点からすでに感じ取っている。この、過去の世代が未来の世代へ思いを託すというところに、主役に見えて中心人物である鬼一の性根の一端があるといってもよいであろう。
ところが『竹中砦』の官兵衛は一にも二にも主君義龍を勝利に導く軍師の職責を全うしようとしているのであるし、栗原山に閑居するのも同じ軍師としての当吉への禅譲ではない。「声を清洲へ御凱陣」を「余所に見送る竹中夫婦」なのである。とはいえその当吉が次代を託された人物として設定されていれば別なのだが、そもそも自らが官兵衛を非情ともいえる罠に嵌めて軍師の策略合戦に勝利した男なのである。それも老木に対しての若木の勢いであるならば、当吉を主役として見ることもできようが、「この場の木下藤吉はきざで出洒張りで、蟲酢の出る程厭な男の一人である。」との評(『義太夫年表・大正篇』所収毎日新聞)がそのまま首肯されるほどの描かれ方をされているのである。官兵衛に声をかけて登場するや、その官兵衛には向かわず、主君春永に犬清の勘当御免を願い出、官兵衛には背負った孫の犬清を当の敵と突き付け、最後にはその養育を願い出て犬清の縁起を完成させ、と、あまりにも完璧な姿を見せつける。この当吉はむしろ逆に敗れた官兵衛の人間味を際立たせ、観客の心が官兵衛の心と同期振幅(シンパシー)する役割を担っているというものであろう。つまり、『竹中砦』の主役は文字通り官兵衛という鬼一かしらなのであり、そこにこの一段の特殊性、そこから生まれる面白味が存在するのである。
官兵衛の性根はマクラ一枚「曲れる枝を直に撓、木は木と分る」で明示され、鬼一かしらを文字通り象徴する。「忠義にこつたる気情の老人」であるが「命は助る早帰れ」「義心は義心恩愛は恩愛」とあるように、慈悲と情愛を底に秘めているのも鬼一の性根である。ところが、この一段の官兵衛は、まさにその鬼一かしらの性根を逆手に取られてしまうという、前代未聞の展開となるのである(他の例えば『袖萩祭文』平?仗直方などは、貞任扮する桂中納言則氏から切腹を暗示されるが、それは環の宮が行方知れずとなった時から覚悟の上であり、観客も貞任に欺かれたとは感じない)。ここにおいては「何条娘が愛におぼれ、義心をいかで忘るべき」官兵衛であることは百も承知の上で、なおかつ「主人の疑ひ散ぜし上は今こそ赦す」心根であることも計算の内に、当吉は策略(もちろん逆賊の義龍を滅ぼすという大義名分の下)を仕掛けたわけで、官兵衛は自らの計略通りに事が進んでいたために、何の疑いも抱くことはできなかったのである。いわば官兵衛はまさにその自らの鬼一としての性根が完全に発現されたことで、逆にその十全さ「五十年来不覚を取ぬ官兵衛」をそっくりそのままひっくり返されたわけだ。しかしその性根は、最後の最後で、孫への人間らしい率直な感情によって、「よい子だなあ」の究極の一言とともに、やはり鬼一かしらの典型としての官兵衛のものとして納まるのである。ここで観客はこの一段の主役官兵衛と完全に一体化することができる。「とゝめ兼たる、恩愛の涙、汲出す如く也」の大落シは、文字通り『竹中砦』一段の、そして何よりも、観客の心の落着どころとなるのである(素浄瑠璃の会でここで自然と手が鳴ったのは、綱大夫清二郎の床が、その強さ大きさ激しさのためではなく、一段の性根をしっかりと捉えていたことによる)。そしてそれはまた、祖父から孫への生命の伝承であり、権謀術数の戦国時代から春永による統一時代への大きな転換をも意味している。そのためには犬清の清冽さと春永の泰然たる大きさとが描き出されなければならないのだが、詞章や節付けはちゃんとそのようになされているのである。
左枝犬清は端場では千里にクドかれる色男として捉えられるが、官兵衛に見透かされ「思案極めて」からは、知勇兼備の若者としての凛々しい姿が前面に出る。なお、その直前、千里とともに官兵衛の前へ出る「汗の淵なす心せり」が、詞章とともに三味線の手も高く派手に色気あるところであるので、より際立って聞こえるようになっている。さらに、官兵衛が聟にとの言葉に喜ぶ千里の「娘心ぞ道理なる」のフシ落も艶に美しく(『山科』小浪の「帽子まばゆき風情なり」とほぼ同じ)、それはまた次の「犬清は只黙然と」が対照的に、恋から離れて思案する姿を明瞭に見せるようになっているのである。官兵衛の「イザ先是へ」の挨拶から「左法正しく座に直る」までの地は足取りが面白く、一流の人形遣いならば、座に着くまでの両者の動き・様子にも心配られるであろう。両者の駆け引き心理戦はすでに始まっている。そして「正しく」が太夫三味線によって粒立てて印象付けられる。そしてここから官兵衛との対決となる。
官兵衛の花の金打は人形の見せ場であるし、床も足取り間の変化が実に面白く、観客は固唾をのむところである。それを見ての犬清の詞、「貴殿の下知にて」から「丹下中嶋両所」までノリ間となり、その後官兵衛へ願いの詞が続く。それを聞いての官兵衛の詞は表面上は犬清に答えているように見えるが、実際は思案を巡らす独り言で、犬清など眼中にない。犬清に向かうのは、表裏の金打を見破れなかった若者に傲然と言い放つ時であるが、それも正面からではなくあしらうが如く。犬清は必死の思いで切り掛かるが、簡単にかわして「命は助る早帰れ」と突き放すのもまた鬼一かしらの真骨頂である。続いて「味方へしめす相図の狼煙」の詞が実行される人形の見所となるが、ここは三味線の足取りと節付けが面白く、「狼煙空に立登り」は下コハリで、不気味かつ恐ろしい場面を表現する手が付けられていて臨場感を醸し出す。小道具の仕掛けとの相乗効果で印象的な場面である。犬清はもうこれまでと切腹し、千里と母関路も登場して愁嘆になるのだが、この愁嘆やクドキを長々と続けないのがこの『竹中砦』の特徴でもある。それが情愛の物足りなさと感じられる要因の一つであろうが、実際このクドキや愁嘆場というのは往々にしてダレることも多く、むしろ短くても効果的な語りと三味線によって鋭く印象付けられる方が断然良いこともある。この『竹中砦』は麓太夫風であるから、「「表」の三本にて、上が支へず「裏」の三分にて下が支へず、「ギン」の音と云ふたら「一二三」とも「ニジツタ」音より出て「張り強く、底強く、押強く」して,人情を語り抜いたとの事」(『浄瑠璃素人講釈』)の通り、前述のフシ落も含めて、観客がワーワー言って歓声を上げたことが想像されるのである。この女二人の絡むいわゆる「赤」の部分については、後ほどまとめて述べてみたい。さて、官兵衛はここでもその愁嘆を文字通り「耳にもかけず」、思慮を巡らす。「忠義にこつたる気情の老人。腸をねる。軍慮の工夫」この二の音を中心とした重さ・強さが象徴的であり、考えを呟く間の三味線のメリヤスがまた効果的である。
この後の犬清は手負いであるが、敵官兵衛の娘千里との祝言を詞鋭く切って捨てるところ、二度の注進により久吉の謀と判明するところの堂々とした本望成就の喜び、そして最後官兵衛の涙にすべてが完結したときの「につこと打笑ひ」、晴れ晴れとした一点の曇りもない澄みきった心での詞、と、大義のために身を捨てる健気な若者、勇あり知ある姿が清々しく描かれることにより、権謀術数渦巻くという薄暗い印象からこの浄瑠璃を救い出しているのである。
小田春永は、この一段を天下一統万民慰撫という大きな世界の中へ引き上げる重要な役割を持つ。「勇名輝く其出立。欣然と入給へば」は御大将登場の典型的な詞章であるが、語りと三味線は重々しくならず、颯爽としている。詞の調子も高めで、『太十』の久吉や『陣屋』の義経登場を思わせるものがある。小さな日常世界の歯車は大きな非日常の歯車とパラレルに回転していること、たまたま生まれ出た人間が本能的に生命維持を続けることなどは人生でも生きるということでもないこと、社会や共同体という人間を取り巻く関係性の織物の存在を明らかにすること、それがこの春永に代表される人物の大きな役割なのである。勘当赦免の詞も、上洛の御上意も、取って付けたような形式的なものではないように描き出すことは簡単なことではない。人形とともに床の実力が問題となるところである。「義龍亡びし上からは」の詞ノリ、「声も清洲へ御凱陣」足取りに変化があるところ、その直後の行列の合の手、「朝日まばゆき鎧の袖」張って語り勇壮な合、「綺羅一天に輝かす」は「真柴が武名仮名書きに」(『太十』)を彷彿とさせ、と、愁嘆を払う段切のパターンであることはもちろんであるが、それ以上に、一本一本の個人の糸が織入れられて一枚の織物として完成し存在理由を持つ、という決定的な印象をもたらさなければならない。そうでなければ、ただ利用されて見捨てられただけというゆがんだ解釈と後味の悪さを生じさせてしまうことになってしまうだろう。マクラから一時間語ってきたこの段切を、力強く爽やかに、音声の質量ともに充実して勤め上げること、そのことが必要十分条件なのである。
さて、官兵衛を軸としたこの『竹中砦』を実に面白くしている要素として忘れてはならないのが、斎藤義龍と三度の注進である。この両者は官兵衛が直面してゆく現実の流れを、その最も集約された形で提示するという働きを持っているのだ。
官兵衛が出陣の準備をするところに、奥の襖を開かせて登場する義龍は、官兵衛の二心を疑っていたのであった。犬清を退けた官兵衛に無慈悲を感じていたかもしれない観客は、この突然の登場に驚くとともに、官兵衛の深謀遠慮に(それが偶然の所産であれ)感心することになる。しかし、その官兵衛が唯一無二の忠誠を尽くす主君がこの男であるということに、矛盾を感じることにもなるのである。その出の地は江戸、武将が登場する時に用いられる(『太十』久吉の出など)典型的な旋律であるが、より足早に軽快に演奏される。「黒革威の鎧」は重厚というより不敵さを、「繁金物のとつぱい兜」は派手好みを、「花にぬれたる走馬の勢ひ」は優美よりも、奔馬花を踏みしだき手綱に余る、猪武者の義龍を描写している。詞も天辺に張り付くように高く強く語られ、大笑いもいささか薄っぺらく嫌らしさがなければならない。「斎藤道三を毒殺し」天下の簒奪を画策する義龍は、かしらとしてはあのギョロリ眼が特徴的な、三好清貫に代表される与勘平の髭面が相応か。同じ天下を狙っても口あき文七の格では到底あるまい。無論総大将ではあるのだが、堂々と重厚に語ってはならず、しかも特徴的で面白い義龍の表現は、思いの外に難物であろう。
次に三度の注進であるが、同趣向の繰り返しなどではなく、それぞれが特徴的に設定されている。初度の注進は、まず二人の女(千里・関路)の愁嘆クドキに引き続いて、場面を弛緩させることなく急速調で語られる。その直前には官兵衛が外を見やる極まり型があり、遠寄せと「貝鐘の音寄太鼓。さも物凄く」の下コハリ、そして「聞へけり」の後の三味線の合が吹き送る風を描写するという、印象的な舞台が展開している。そこへ緒戦勝利の注進であるから、嵩に懸かって一気に詞ノリで語られる。三味線は「ひたひたひたと」押し寄せる様子を活写し、「井桁遠山森佐久間」と敵方の武将名を羅列するところの手も実に面白い。ここはまさに官兵衛の策略成功を告げる注進なのである。それゆえ「心地よきしらせよな」と官兵衛は快哉の声を上げることになるのだ。
二度の注進はやはり関路のクドキ(大落シに相当するフシ落)の後にかぶせ掛けるように奏演される。官兵衛は先刻の策略成功の勢いに乗って、得意気に「いよいよ味方の勝利なるか」と身をも乗り出してくる。注進も緒戦の勝利からの追撃を語り出すのだが、ここで三味線が間を持ってかつあやしい音で合を弾くことによって戦況は一変する。実はこの二度の注進は、諸所に入る三味線の合が、官兵衛の策略が実は逆に敵の術中にはまっていたということを、その足取りや間の変化によって刻々と表現してゆく、という構成になっている。したがって、ここを並の三味線弾きが演奏した場合、まるで面白くないのはもちろんのこと、官兵衛とともに手に汗握って聞いてゆくという趣向が台無しになってしまうのだ。すぐれた床の奏演の場合、人形遣いもまた、官兵衛の心理や表情の変化を巧みに表現することが可能となるであろう。さて、この第一の変化は「逃たと見えしは敵の術」だったという衝撃的事実を表す。急速調は替わらないが、今はそれが敵小田方の逆襲を意味することになる。斎藤勢も「義龍公の御陣の勢追々にかけ付け」と援軍に向かうのだが、それこそまさに思う壺、「先手に加わる虚を窺ひ」で第二の変化を迎える。「山道険しき」は足取りがよっこらよっこらと、いかにも難所を行くがごとくになり、「狭間より」を色で太夫が大きくキメて強調すると、三味線が合の手でまず早く強く叩いて、思いも掛けぬ敵襲を暗示し、一旦間をもってから今度は徐々に速度を上げて行く奏法で、桶狭間から小田勢が一人五人十人と姿を現して押し寄せてくる様子を活写して、再び強く急速調のノリ間となって、「君の御陣の後を目がけ」と詞ノリで注進の言葉を乗せて行く。ここも、うまい三味線の場合は、合の手で眼前に状況が展開しているから、詞が早く語られても全く問題なく理解される。「諸卒を随へ顕はれ出」で一杯となり(『陣屋』梶原平次が「一間の内より躍り出で」と同じ手)、「大将義龍討取」までの急速調は小田春永の詞ノリ、「討取と下知につれ」でややゆったりとした足取りに変わり、敵の裏をかく作戦成功は眼前に、それをまさしく今この瞬間に実行に移す大将の号令一家、という趣向であろう。人形もここは余裕綽々と大きく遣ってほしいところである。鬨の声を暗示する三味線の合とともに「群りかかる」で再び速度を上げて「防ぎ戦ふ其内に」まで、そしてここで三味線が締めたあと、最後の三転目が用意される。「敵勢より母衣武者一人真先に大音上」は足取りもゆったり堂々と、スポットライトに照らされた犬清が目の前に登場するという格である。それを太夫と三味線が音で、つまり耳で「注目」させるという技巧。「音曲の司」である浄瑠璃の醍醐味、真骨頂である。「春永公の御内に去者有と」から犬清の詞ノリ、その神業の奮戦ぶりは「飛鳥の如く」から三回繰り返される三味線の手によって見事に描出されている。そして「人間業とは見え申さず」で床は驚きを表現して注進を終えるのである。この二度の注進は数ある陣立物の注進の中でも、最も変化に富んだ面白い節付けと語りによって奏演される、聴く者にカタルシスをもたらしてくれるものなのである。これだけを取り出してみても、『竹中砦』が魅力ある一段であることが理解されるはずである。
この目の前で展開されてゆく、あれよあれよと言う間の「主人の生死覚束なし」という事態に、官兵衛は「気遣はし」そして「不審し」と、動揺と混乱を来す。そして犬清切腹の真意に思い至り、「重晴程の弓取が。鼠輩の族に計られしか。」と文字通り「せき立」って「口惜」しく、無念一杯の憤慨を吐露するのだが、軍師としては我が事よりも「心元なき主人の存亡」が重大事なのである。妻関路を急き立てて甲冑の用意をさせる官兵衛であるが、精神の動揺が肉体の手傷にまで影響を及ぼす。「よろよろよろ」「よろぼひよろぼひ」の語りも三味線も、これがマクラで「是式のかすり疵」と強く言い放した、あの典型的な鬼一かしらの官兵衛と同一人物であることが疑われるほど、負傷した老兵の惨めな姿を描き出す。ここで「矢疵破れてほとばしる血汐」は、単に無理な動きをしたからではなく、自らの計略が逆に敵の利用するところとなり、そのために主君は絶体絶命の危機に陥るという、自他ともに認める一流軍師官兵衛としては、屈辱この上ない精神的大打撃を被ったがために流れ出たものである。それゆえにその「血汐」はまた「血汐の眼尻目も紅」と掛詞となって、官兵衛必死の形相を描き出すことになるのである。
そこへ第三の注進が駆け込んでくる。これまでの注進同様急速調であるが、「是非もなき御運の末」の後に勇壮な三味線の合が弾かれた後は、もはやノリ間にはならない。痛々しい敗軍の弁は、「刃の下に御落命」という決定的な事実まで、苦しい息の下に息継ぎもあえずズバと語られる。三味線の手数を伴う詞ノリの快感はここにはない。そして官兵衛の「天成かな命成かな」は血を吐くごとき高く強い絶望の叫びとなり、色ドメの三味線とともに、押してキメられる。すべてを悟り理性の極みのごとき鬼一かしらの官兵衛が、激情のまま大いに乱れて、手負いの犬清と千里の「襟がみ掴み」「捻付捻付」という理不尽な行為に出る。が、これは決して八つ当たりではない。知略の限りを尽くした軍師竹中官兵衛の小田春永を滅ぼす策略、その理性の極ともいうべきものが一時に破れてしまったということは、そのまま官兵衛の理性が破壊されたというべきものだからである。それはまた軍師としての官兵衛の存在意義をも揺さぶることになる。「五十年来」を大きく強く高く、いっぱいに張って語るのはそのためなのである。「主君の怨敵国賊め」も軍師である官兵衛の存在証明から出た叫びである。この官兵衛を浄瑠璃の節付けは大スヱテという旋律型で終止させる。『陣屋』の弥陀六「涙は、滝を、争ヘり」とぴったり重なるものである。こうして第三の注進は軍師としての竹中官兵衛を完全に崩壊させることになるのだ。
そしていよいよ久吉が登場してくるが、これについては最初に述べたとおり、この浄瑠璃一段を、官兵衛の情愛による至純の詞「よい子だなア」に収斂さすべく、あまりにも見事に華麗に取り納める。そしてそのことが対照的に官兵衛の人間的な姿をあらわにする。それは、主君義龍の首を見せ付けられた「浅ましき御有様」という詞の無念さ辛さ、そしてがっくりと落涙に及ぶ語り口に聞き取ることができよう。犬清を背負う久吉の「討て竹中」「サアサアサアと突付られ」に応ずる官兵衛の「白刃の光り」「かざす刃の」は、それゆえいっそう鋭く語られるが、それらは「下萌に」の音遣いによって変調され、「紛ふ計の。しよぼしよぼ髪。すやすや寝入稚子は」という、中音を基調としたゆったりとした足取りの、孫の清松を描写する地に吸い込まれてゆく。「聟や娘が面ざしににたにた顔の愛盛り」はもちろん官兵衛の地であり、孫とその父母である聟と娘と、そしてその父である官兵衛という繋がりが、自分自身の中で、如何にしても切り離すことができない事実として、眼前に見出される。さらにそのことはまた逆に、この稚子のこれから生きて行く人としての遙かな歩みをも照射することになるのである。したがって、「思はず見とれて」には、血の繋がった初孫という視点はもちろんのこと、この世に生を受けたばかりの一人の人間という視点がなければならないのである。そしてそれが「ハテよい子だなア」の詞に収斂される。この官兵衛の一句に、『竹中砦』一段の成功が懸かっていると言えるのだ。津大夫寛治はもちろんのこと、綱大夫清二郎も感動的であった。人形もまた肚の必要な為所であろう。「孫が爺とが初見参。産着の一重もくれもせず。邪見にふりし刀の下。嘸恐しき夢や見ん。不便の孫が寝姿や」の詞には、表裏も深謀遠慮も必要としない、すでに涙声である。「現在娘の別れにも涙一滴こぼさぬ官兵衛」からは三味線に乗って足取りを早め、「可愛や」が節章に上と表記があるように、高くカンを聞かせて孫への情愛をズバリと表現した後は、「恩愛の涙。汲出す如く也」の大落シへと衷心衷情を吐露してカタルシスに至るのである。「鉄丸の如き魂も今ぞとろけて」とは、軍師という衣の下に流れる裸身の血の温かみを見事に表現しているものといえよう。これはまた観客を、捉えられている社会的網の目、纏っている様々な柵から解き放ち、カタルシスへと導くものでもあるはずだ。舞台を観る者、床を聴く者の眼と心とに、熱いものがこみ上げてくるであろう。「ハテよい子だなア」の詞から「恩愛の涙。汲出す如く也」の大落シまで、『竹中砦』成功の可否はまずここに集約されているのである。
ここから段切まではもうすぐである。が、新しい世界を完結させておかなければならない。なぜならばカタルシスとは旧秩序のカタストロフ(日常性に狎れまた強張った既成の精神と感情の崩壊)によってもたらされたものでもあるからだ。その役割を担うことができるのは真柴久吉(此下当吉)しかいない。犬清の最期をとどめてから久吉の詞ノリとなり、「抱き上たる。後紐」で全一音上がって華やかに、かつ格式を保って清松の出世を言祝ぐ。「蜻蛉結びも秋津国。四海に覆ふ木の下の。露の恵に生育つ」目出度い詞章である。もちろんそこには久吉の天下という新秩序の予祝も含まれている。さらに「いんのこいんのこ」と子守唄で抒情味を加え、「いのこいのこは犬清が」と掛詞を用いて、「残す嫩を末の世に」から足取りを早め「左枝政左衛門時家と。名にしられたる弓取は。此稚子の事なりける」と、いわゆる神の視点から太夫が語り収めるのである。尊い犠牲を祝祭空間に収めて記念するという意味でもあろう。
ここに官兵衛は関路とともに隠居を宣言し、犬清と千里は絶命するが、三味線の手は段切の旋律となって、手数も多く派手に奏演され、終曲へと向かう。官兵衛は最後に「敵ながらも情有小田に刃向ふ弓矢はなし」と語るが、五十年来名軍師として自他ともに認めてきた官兵衛に残されたものは、自らの策略が逆に敵の計略に転化されての主君義龍の横死と、娘千里と聟犬清の自害であったのだ。思えば、犬清の生害に「見捨るも武士の誠忠。義心は義心恩愛は恩愛」と、鬼一かしらの性根である、一徹の裏の慈悲情愛を見せたところに、冷徹な久吉の術中に陥らざるを得なかった必然を感じ取ることができよう。犬清が脇腹へ突込み、千里が咽に突立たとき、そして主君義龍の首級を目の当たりにし、刀を振り上げて孫の顔を見たとき、鬼一かしら官兵衛のアオチ眉は、その心中の思いを如実に描き出していたであろう。久吉が颯爽とすればするほど、「声も。清洲へ御凱陣」と高らかに語られるほどに、この『竹中砦』の主役である官兵衛の悲哀が一層強調され、観る側聴く者に迫ってくるのである。
このようにして陣立物『竹中砦』一段は語り終えられるのであるが、この武士たちの「黒」の世界の対照をなす、千里関路の母娘に恋人としての犬清という「赤」の世界の存在がある。『竹中砦』にはくどくどとした長ったらしい緩徐部分はないだけに、それは実に美しく魅力的な節付けによって鮮やかな色を見せている。そしてそのことは必然的に、対象世界としての「黒」を一段と引き立たせるということにもなる。逆に言えば、「黒」の世界が質量ともに前面に押し出されている『竹中砦』であるだけに、その「赤」が強く印象付けられるということである。そのように三味線の手も太夫の音遣いも、間も足取りもなされているのだ。しかもこの一段は麓太夫風、「「表」の三本にて、上が支へず「裏」の三分にて下が支へず、「ギン」の音と云ふたら「一二三」とも「ニジツタ」音より出て」(『同前』)である。黒・赤ともに鮮やかに語られたことであろう。したがって、この「赤」の世界を、マクラより順に段切まで追うことで、『竹中砦』一段の考察を締めくくることにしたい。
官兵衛の登場に対する娘千里の「こはごはながら」からそれは始まるが、まずそこには、威厳ある父への畏怖と、縁の下に忍んでいる恋人を見つけられはしないかという恐れとの双方が感じ取られなければならない。「御病架へなぜ呼遊ばしませぬ」に至るまでの詞にも如実に表れている。しかし見破られて「汗の淵なす心地せり」のフシ落については前述の通り。もちろんこれは「二度の汗をぞ流しける」と言うべき汗である。人形がただ恐縮するたけではいけないのは当然であろう。開き直った犬清へ思いも掛けぬ「聟」という言葉、喜んだのは千里である。「お請申て下さんせ」と犬清に迫る「やいの。やいのと。しどもなき」の地は色気があり、人形の所作も艶めかしくあるところ。それを収めるフシ落の「娘心ぞ道理なる」の旋律が、『山科』小浪の「帽子まばゆき風情なり」のそれとほぼ同じであることを再確認しておこう。千里は父の言い付けで次の間へ立って行くことになるのだが、ここは官兵衛の低く慎重な「父が詞に」の後だけに、「いやおふも」以下の足取りも三味線の手も早く軽く高く演奏される。「心を奥に」で一旦間があるのは、もちろん「心をこの場へ置く」の意が(人形の所作にも)込められているからである。
千里が母関路もろとも次に登場するのは、犬清が官兵衛に欺かれ切腹に至るという急展開の場面である。「のふ悲しやと千里はかけ寄」と上の高い音で語り出すところの三味線は、『太十』の操が「ノウ母様か情けない」と駆け寄るところと同じで、こういう状況(詞章)での定型の三味線と言えよう(ちなみに「妻は涙にむせ返り」のクドキの前の手も同じであるが、この方は足取りと間がゆったりとしている。これからたっぷりの聞かせどころだからである)。以下ノリ間でクドキ、「すがり歎けば」で切なく訴え(ここも定型で先程の『太十』操「縋り嘆けば」と手も詞章も全く同じ)、母関路のクドキへと移行する。「道理じや〳〵」の詞で泣キの手が入り、「そなたがいとしさ」がカカリで太夫の音で聞かせる。関路のクドキは千里と比べて間や足取りが微妙に変化(「聟は子じや」と高く辿っての強調、「見殺しにする」とテンポを落として押さえたり)して、若く一本気な娘との対照が鮮やかである。
そのクドキも意に介さず軍略を練る官兵衛、そこへ義龍が突然の登場、と場面は目まぐるしく展開し、慌ただしく出立した後に、この『竹中砦』唯一といってよい緩徐部分、哀切極まりないしっとりとした場面が訪れる。「犬清と未来を契る水盃」である。官兵衛の詞を受けて、「夫の心汲取し」と縁語を用いた詞章の地に続いて、「柄杓の長柄短夜や」が本フシと呼ばれる義太夫本来のもっとも基本となる旋律で、しっとりした静寂な様子を表現する。「仏壇の灯もほそぼそと」(『沼津』)「言の葉草の捨て所」(『山』)など、七五の詞章に付けられ、七字目が産字のユリ(「長柄エエ」「灯もオオ」「草のオオ」と母音を延ばし揺らして語る)で、抒情的な響きを聞かせる。聴く者を浄瑠璃の世界に深く引き込む役目も果たしている。次の七五「月の満干も。幾千里」にも「もオオ」とユリが入って、縁語を用いた詞章とともに、しっとりとした情緒を積み重ねてゆく。こうしてしんみりとした雰囲気が醸成されたところにあるのが、「手に取り上げて親親の」からの詞章に付けられたタタキという節章である。門付け芸に由来するもので、哀調を帯びた旋律形をもつ。「シャシャンシャン手に取り上げて」と特有の三味線の合の手で始まるのは、『合邦』玉手御前の念仏のところ「シャシャンシャン外には爺の親粒が」と同じ余韻を込めた弾き方である(なお、その前にある…チンチレチンチンという手と合わせると「回向の為の百万遍」の後の手と同じになるが、シャンシャンシャンはノッて弾かない)。人形も水盃の祝言を用意しながら哀惜の涙にくれている所作となる。この抒情味あふれる中で千里が「申我夫」と言葉を掛けて口説き、関路も「さあさあ早う」と犬清に勧める。ところがこの静寂は犬清の強く鋭い詞「祝言とは穢らはしい」で打ち破られ、柄杓もそのまま投げ捨てられる。「詞かはすも是限りと」チチン「烈しき」チンは皮を叩く強い三味線で犬清の固い意志と千里との絶縁を表現し、「手負が詞のとがり矢」から早足となって、ついに千里は「我咽にがはと」三味線の効果音とともに「突立る」。それを見た関路は驚いて「母はかけ寄狂気の如く」と高い(上)音から語り出され、「此憂事を見まい為」から嘆きの詞ノリとなり、「涙ながらの介抱に」が高音から低音へと嘆きむせぶ下降旋律スヱテ(ここではその簡略形スヱカカリ)と続き、ここから眼目の千里のクドキとなるのである。それは『太十』操のクドキ「妻は涙に…」が開始されるときと同じ三味線の合の手によって導かれる。ただ足取りはゆっくりで、千里の衷心衷情を丁寧に語り進めてゆく。「手負いは苦しき」が地、「目を開き」が色で「思へばはかない私が身の上」と哀切なる述懐の詞につながるのだが、その「私が身の上」もカカリ(太夫が音を遣う)で「此世の縁こそ薄く共」以下の地を導き出す、というように、変化を付けて巧みに描かれているのである。子まで設けた最愛の夫犬清との、現世はもちろん来世の縁まで断ち切られた千里の悲しみが、劇場の隅々にまで染みわたってゆく。その地の中で「忠義の刃鉄に情なや」が色として語られるのは、戦乱の世における武家の娘として、どうしようもない非情な運命の結果というものを印象付けることになる。「迷ふわいのと計にて涙に。血汐諍へり」はクドキの終結部によく聞かれる旋律で、まず「計にて」が上クルという、高音で繰って高潮した感情を語り、「血汐諍へり」はフシで文弥落シと呼ばれ、立役の大落シに相当し、女性の愁嘆を表現する定型旋律である。例として『寺子屋』千代の「(疱瘡まで)仕舞た事じやとせき上てかつぱと。ふして泣ければ」のクドキの終結部が、その旋律形に該当するものである。ただ、「血汐諍へり」は直ちに「折から風が吹送る」に続くので、最後を産字で揺らして余韻とすることはしない。このあたりがマクラから段切まで息をつかせない『竹中砦』の大変なところでもあるだろう。
一方、関路の愁嘆が最高潮に達して思いを溢れるに任せ、観客もカタルシスとして感情を解放するのは、次のクドキである。義龍軍勝利の注進に、この上は小田方へ味方して千里と犬清との未来の縁をと願う詞も一蹴され、「夫の詞にわつと泣」の地からそれは始まる。「莟の花を二人まで」から足取りを早めたノリ間となるが、「ちらすが親の慈悲かいのふ」はそれを緩めて、夫の心底へ届くように直接訴えかけられる。再びノリ間となると、今度は顔を見ることのない初孫への情愛を切々とクドきかけることになる。「顔さえも」は下モリ(旋律の音高が∩形に辿る)の手が付き、「知らずに暮す」で止めて「計かは」を太夫の音遣いで聞かせてチンチンチン…と三味線が四つ間の手(『太十』操の「母は涙に正体なく」と同様)を弾き、「もぎどふは」が上モリ(旋律の音高が∪形に辿る)の手、と典型的なクドキの旋律を美しく切なく哀れに、聴く者の琴線をも弾き揺らしながら奏演してゆく。「修羅道の呵責の」を三味線が強く叩いて象徴的に描写するのも自然に耳へ届いてこよう。「夫に恨の数々を。(合の手)かぞへ立たる八ツ橋の」の地ノリは一層三味線の手数も増えて派手になり、「涙ちまたの」で止めて「のオオ」と産字で響かせ、チチチンと高く呼び出して「三河路や沢辺の。水や増やらん」が再び文弥落シとなり、愁嘆を収めるのである。なおこのフシ落チの最後は、『壷坂』お里のクドキ終結部「谷間の水や増るらん」も同じように、「ら」と「ん」とを産字にして何回も揺らしながら低音に落としていき、一の開放弦を弾き流すものである。そしてここもまた千里のクドキ同様、次の三味線(二度の注進の呼び出し)へ直接つながるために、ジャンと締められることはない。一つのヤマ場が終わりほっと一安心とは休ませてくれない『竹中砦』の厳しさである。
この「赤」の一件は、「今際の娘を母親が。未来の道連はぐれぬ様。頼む〳〵も泣じやくり」と「夫婦が末期一時に」の詞章で完結するのだが、それらは段切の旋律中にあり、愁嘆を強調するというよりもそれを解きほぐす形で奏演される。三味線は間拍子よく手数を弾き、太夫も高い音を辿って快感の琴線に触れるように語ってゆく。その中にも「さらば〳〵の声したふ」の「声」がヒロイという節章で、「こオえエ」と一つずつ産字を付けて丁寧に拾うように語られることにより、ただリズムに流されることなく、愁嘆による悲哀の感情が印象付けられるように工夫されている。また、「未来の道連れ」はハルフシカカリで、ハルフシ(改まった語り出しを示すなだらかで華やかな旋律)がかることにより、単調なパターンに陥るのを防いでいるのである。この段切は、これより前半に官兵衛の隠居の件、後半に当吉を軍師とする小田春永軍の凱旋の件を加え、いわば「黒」「赤」「黒」の構成で終結するようになっている。こうして『竹中砦』切場一段は、濃密な1時間を完結させるのである。
〔最後に〕
「竹中砦」が現在に至る過程で奏演されなくなったのは、いわば自然淘汰によるものなのであって、当然の帰結であるというような主張がなされるかもしれない。一見「進化論」を彷彿とさせる何とも横柄な説であるが、「進化論」に喩えるならば、その自然淘汰は当然、環境の変化に適応するというところから生じるものである。生態系を取り巻く自然環境を仮にこの文化芸術にあてはめれば、それは社会環境つまり人間相互の関係性、共同体の様態を指すことになる。乱暴な開国要求による西洋近代文明の表面的受容を、外発的かつ醜悪なものとして問題提起していた明治中後期が、大正期の脳天気な現実肯定論へと変容し、敗戦後そして第二の敗戦後の現在、アメリカ万能主義全盛の時代社会というものが、どのような現状を見せているかを考えれば、伝統的日本の人間関係力とでも呼ぶべきものがいかに質の低下を来しているか、論を俟たずとも明白であろう。つまり、このような粗悪かつ粗雑な文化的環境において、「竹中砦」が顧みられなくなったのはそれこそ当然なのであって、逆に言えば、今この「竹中砦」を取り上げることこそが、その環境の中に埋没して何らの異常も感じられなくなった現代日本人とその人間関係=共同体や社会の有り様に対して、重要な問題提起をしているといってよいであろう。
言い古された大正期演劇人の所論は措くとして、敗者として与えられた民主主義によって思考停止させられ、他者の「公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持」せよと牙も爪もそして魂も抜き取られ、今後一切抵抗できないようにと無能化の洗脳を受けさせられた人々にとって、この『竹中砦』はとても手に負えぬのはもとより、封建時代の遺物として例の如く指弾されるものなのである(「米屋」「天河屋」等に対してもこの種の見方が存在するのであるが、これについては、劇評や補完計画において言及しておいたので、そちらを参照されたい)。半世紀を十年も越える今、ようやくそれを問い質す時期が訪れたのだ。『竹中砦』の伝承の意味とは、したがって、その描き出す世界や内容・構成云々ではなく、むしろ現代日本という我々の側に突き付けられているものなのである。
《詞章》(Web「ようこそ文楽へ」―鶴澤八介メモリアル「文楽」ホームページ―より転載)
「木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまかっせん)」 竹中砦の段 TXT
行く空の。日影斜めに西三河(にしみかわ)、蜀(しょく)の臥龍(がりょう)が八陣を、こゝにうつすや八ツ橋の、優しき眺め引きかへて、兵具(ひょうぐ)逆茂木(さかもぎ)厳重に、諸軍へしめす烽火(のろし)台、騒がしき世ぞ常ならね。
砦を預る美濃の軍師竹中官兵衛重晴が、忠義の操色かへぬ、庭木の松も年経りし枝に生ひ立つ藤浪も、今を盛りに娘の千里(ちさと)、父はこの程軍場(いくさば)より、矢疵の悩みに引き篭る、御前遠慮も私なき、矢の根磨かせ鉄砲の、筒のさらへを腰元共、仇口(あだくち)交じり寄りこぞり。
中にも年倍(としかさ)しやべりのおすは、
「こちの殿様、この頃の合戦に大きな手柄なされたれど、矢疵とやらで取り篭つてござる故、軍(いくさ)も暫し休みぢやげな。それにマアついまつや花結びなど取り置いて、こちらまでがこの様に仕付けもせぬ軍(いくさ)の拵へ、辛気(しんき)な事ぢやないかいのふ」
「それいのふ。物堅い旦那様、御家来衆もたんとあれど、千里様やこちとまで女の遊びさすことがお嫌ひ故、郷(さと)へ下がつて溜め〳〵の筒の掃除せぬかはり、コレ見や、握り心の良い持ち筒、磨き立てたその矢の根、大雁股(おおかりまた)とはオヽ、ホヽヽヽ好もしい名ではないか」
「ノウおすき殿、オヽ嗜みや、御寮人様が聞いてござる。したがあなたの言ひ交はしなされた犬清様、今度の軍が起こつてからこの御家とは敵(かたき)同士(どし)。只さへ隔たる美濃尾張が、お便りも乳ふつゝり、さぞかし恋しう思し召し、おいとしぼや」
と口々の、噂もの伽(とぎ)の内ならん。
「アヽコレさがない、声が高い。母様は御留守なれど、御病架へ聞こへてはむつかしい、静かに言や。犬清様と言ひ交はしたは両方軍の起こらぬ前、子仲なしても父様の、御赦しなければ文さへも秘し隠し、任せぬうちにこの騒動。あまつさへ敵方の娘に因(ちな)む誤りとて、春永様の勘気とやら、聞く度々に悲しい事共、思ひやつてたもいの」
と、打ちしほるれば、
「それ見やいの、言ひ出さいでも大事ない事。御機嫌直しに、アレあの庭の藤の花、御眺めなされて御心を、おや〳〵〳〵お和らげなされませい」
と、早口に言ひ催す折からに。
『奥様只今御帰り』と、知らせ程なく乗物つらせ、砦を仮の屋敷風、しづ〳〵帰る奥書院。
「皆の者、大儀であつた。乗物はそこに置き、次で休め」
と、下部を下がらせ、
「オヽ千里、待ち兼ねであらふのふ。父御の気質を破らぬ様と、腰元共と兵具の掃除、さぞ長の日を退屈に思やらふ」
「イエ〳〵私が退屈より母様は御疲れではござりませふ。そしてマア御前の御首尾、とやかくと父上にもお待ち兼ね」
「そふあろふ〳〵。母も気は急いたれど、暇取つた話は後で。帰りし様子を腰元共、御知らせ申せ」
と人を除(の)け、差し寄つて小声になり、
「折もがなと思ふたが、これまでこの母は知るまいと思やらふが、二年余り以前から、そなたと左枝犬清殿、言ひ交はしていやらふがの」
「エヽそんならお前はその訳を」
「オヽ知つてゐる〳〵。湯治(とうじ)の訳も何もかも、知らず顔は父御の手前、互ひに好き合ふた仲ならば、国並びの小田殿へ表向きから結納(ゆい)入れて、養子婿に貰はふと思ふてゐるうち両家の争ひ。この砦へ移つてより逢はれぬ事を苦に病んで、顔も細れば幾世(いくせ)の案じ。とかく頼みは神の力と、帰りがけに熱田(あつた)の御宮へ参詣し、何卒両家和睦遊ばし、そなたの願いも叶ふ様と、くれぐれ御頼み申し上げたその御利生で思はずも、不思議に今日昼手に入つた、わしが土産はアレあの乗物。明けて言はぬが心の秘事(ひじ)、聖も捨てぬ恋の道、積る事共何やかや、ノ、母は奥へ」
と夕暮れて、かすかに響く入相と、共に一間へ立つて行く。
早黄昏(たそかれ)て灯す火の、真実親身母親の、詞の謎も解け兼ぬる、日影の氷文(ふみ)さへも、途絶へし思ひ犬清が、乗物の戸を忍ばしく、明けて出る顔見合はす顔、
「ヤア犬清様か」
「千里殿、夢ではないか」
とび転(まろ)び降り、恋しい事の数々は胸に積れど詞には、言ひ尽くされぬ憂き事の、余る涙ぞやるせなき。
背(せな)撫で擦り、
「道理々々。親々の目を忍ぶと言ひ交はせし二人が中、不慮の御勘気詮方(せんかた)なく、漂白の中(うち)不思議にも、そなたの母御関路殿に御目にかゝり、存じがけなふこの砦へ伴はれしも尽きせぬ縁。さりながら春永公へ詫びも叶はず、所詮二人が身の終り。軍が縁の切れ目ぞ」
と、聞くに千里は気も消えて、
「国と国とは隔てたれど、縁なりやこそ深ふなり。たまの逢瀬も真実に、情けの胤をお胎(なか)に宿し、人目を忍んで漸々と、産み落としたる清松が、顔見る事も泣き明し、それさへあるにあじきない。二人が縁の切れ目とは、お前ばかりが切る気でも、思ひ切れぬ片そぎの、契りに嘘はないものを、頼みがたないおの様」
と、恨みかこつぞわりなけれ。
理に責められて犬清も、何と答へも中仕切り、襖隔てゝ打ちしはぶく、声に驚き犬清に、囁き囁き縁の下、忍ばす月の葉隠れや、染めぬ紅葉を顔にたく、心の
内こそ、切なけれ。
曲れる枝を直(なお)きに撓(た)め、木は木と分くる竹中官兵衛重晴、手傷に屈せぬ丈夫の顔色(がんしょく)、刀を杖に立ち出づれば。
恐々ながら娘は差し寄り、
「暑気(しょき)の頃とは申しながら、風が当たれば御養生の障(ささ)はり。御用もあれば御病架へ、何故お呼び遊ばしませぬ」
「ナニサ〳〵、拳(こぶし)未熟の弱敵(じゃくてき)ばらが錆矢(さびや)、これ程のかすり傷、いつかな屈せぬ某なれども、たつて保養仕れとの主命。よんどころなく引き篭り居る折を窺ひ、親も許さぬ忍び逢ひ、不届至極の女郎め。縁の下に這ひ屈む、色に寄り来る煩悩の犬清とは名に相応。サ、こゝへ出よ、わつぱめ」
と、言はれて二人は気も消え消え、言ひ合はさねど一時に、汗の淵なす心地せり。
思案極めて犬清は、目通りへつゝと出で、
「ご存知の上は包むに及ばず、敵々と隔てし中、御目を掠めしこの身の不義、お手討は覚悟の前。手向ひ致さぬ、御存分」
と、両腰ぐはらりと投げ出す命、悪びれもせず座を占むれば。
じろりと見やり、
「テ健気の一言(いちごん)、助け置かば一方の攻口持ち兼ねまじき若者、春永に勘当受けしは幸ひ、義龍公に奉公し、官兵衛が婿とならば小田が家にて莫大の、所領に勝る武名の誉れ。否か、応か、サア分別して返答せよ」
と和らぐ詞に千里はいそ〳〵、
「今まで案じた父様の御機嫌直り、女夫にせうとは夢ではないか。コレ申し、思案どころかお受け申して下さんせ、やいの〳〵」
としどもなき、娘心ぞ道理なる。
犬清はたゞ黙然と、しばし詞もなかりしが、以前に手に入る笠印、懐中より取り出だし、
「平家支流の春永公へ仕ゆる故、濃紅(こきくれない)の某が笠印に、望むらくは官兵衛殿の姓名を書き記し、春永旗下(きか)の武士となしたき我が念願、御所存如何に」
と言はせも立てず、
「ム、当時尾農(びのう)両国において、この竹中にさほどの事、言はんず者覚えない。一器量(ひときりょう)ある底意(そこい)の程、尋ね問ふべき子細もある。コリヤ娘、用あらば手を鳴らさん。次へ立てよ」
と会釈なき、父が詞に否応(いやおう)も、言はれず言はぬ夫(つま)にさへ、心を奥へ立つて行く。
跡打ち見遣り声を潜め、
「若年ながら音に聞いたる左枝犬清、色に引かれこの砦へ入り来たらん様あるまじ。所存包まず物語らば、咎むるは武士の表。娘の縁に繋がるその方、一方(ひとかた)ならねば心置かず、我が存念も言ひ聞かさん。イザまづ、これへ」
と睦まじく、初めに変はる重晴が、詞に辞する色目なく、上がる書院の縁者と縁者、因みも厚き式台に、作法正しく座に直る。
犬清威儀をかい繕ひ、
「御賢察の如くこの砦へ入り込みしは、全く息女の色香に迷ふ某ならず。折入つて官兵衛殿へ、頼み入れたき一大事」
と言はんとせしが、辺りを見廻し、
「戦国の人心、迂闊(うかつ)に口外なし難き密談、御推察下されよ」
と、ためらふ気色(けしき)見て取る重晴、
「もつとも、さこそあるべき事。他言せまじき勇者の潔白、只今見せん」
と、差添(さしぞえ)の笄(こうがい)抜き取り庭先の、松が枝伝ふ藤葛(ふじかづら)の、花を目当てにはつしと打つ、手練に落ち散る紫藤(しとう)の英(はなふさ)。
犬清きつと打ち守り、
「ムヽ赤色(しゃくしき)は小田の旗色、朱(あけ)を奪ふ紫は、武勇鋭き斎藤氏、姓はすなはちアノ藤原。落花(らつか)枝に帰らざる官兵衛殿の花の金打(きんちょう)、底意も知れて安堵の上は、様子包まず申し上げん。さても、去(さん)ぬる天文十九年の頃よりも、蝸牛(かぎゅう)と争ふ小田斎藤。つひに執り合ふ干戈(かんか)の動き、去年(こぞ)の冬より領地の境、洲股(すのまた)川に対陣し、勝負は互角と見へたる所、貴殿の下知にて美濃路の兵(つわもの)、この三州より取り囲み、鷲津(わしづ)丸根(まるね)をはじめとして味方の砦を打ち破られ、残るは丹下中島両所。こゝぞ主人の御陣所なれど、矢種(やだね)兵糧(ひょうろう)玉薬も、至つて乏しき小勢なれば、敵の多勢に比べては、巌(いわお)に玉子を打つが如し。一つの頼みは官兵衛殿、何卒主君春永に御味方下さらば、百万騎の勇兵にもおさ〳〵劣らぬ貴殿の軍略、御許容(きょよう)願ひ奉る」
と、退(しさ)つて頭を下げければ。
「ム、スリヤ春永は小勢にて、丹下の砦に篭り居(お)るとな」
「サヽヽヽヽその御主人へ犬清が、勘当御免を願ひの綱、結ぶか切るかは足下の胸中」
「ムヽ、智勇兼備の名将と、聞きしに違ふ春長がの度々(どど)敗軍。必定奇計やあらんかと、心迷ふて主人の出馬を留めしが、味方の鋭気に聞き怯ぢして、敵勢過半落ち失せたる、両所の砦は空城同然、今こそ疑念散じたり。防戦の用意せよ、者共やつ」
と呼ばはる声。
思ひ寄らねば母、娘、共に駆け出で、
「ヤア何事、出勤御免の御病中、防ぎの用意と仰るは」
「オヽ敵の空虚を義龍公の本陣へ、告げ知らせん支度ぢやはい」
「ヤア、ヤヽヽヽヽヽ、スリヤ最前の花の金打、謀であつたよな」
「オヽ両家雌雄を争ふ時節、表裏の金打、誠と思ふか。何ぞや娘が縁に頼り、我を味方に付けんとは、猪口才(ちょこざい)な小わつぱ」
と、見透かす如き官兵衛が、一句に逆立つ無念の歯噛み、
「チエヽ主君の勘気赦されんと一途に逸(はや)つて味方の大事、我が舌頭(ぜっとう)に引き出だせし小田の滅亡今この時。チエヽ是非もなや口惜しやな。犬清が一世の不覚、恨みの切先、受け取れ」
とずばと抜いて駆け向かふ、中を隔つる女房関路、
「マア〳〵待つて」
と、身も惜しまず、縋る千里を突き退け刎ね退け、切込む刀を透かさぬ重晴、かはして利腕しつかと取り、
「手疵は負へども汝達が、手に及ぶべき某ならず。命は助くる、早帰れ」
と、刀たぐつてはるかに投げ退け、
「味方へ示す合図の烽火、知らせはかう」
と件の白刃、目当ては庭先烽火台、丁ど投ぐれば筒口へ、石火移ると見へけるが、狼煙(ろうえん)空に立ち昇り、残る砦も一時に、合はす煙は予ての要害。
手筈を見るより、
「南無三宝、もふこれ迄」
と犬清は、差添逆手にの弓手(ゆんで)の脇腹、ぐつと突込む必死の深傷(ふかで)、
「ノウ悲しや」
と千里は駆け寄り、
「あんまり我強い父様の、御心一つでこの御最期、母様仕様はない事か」
と、縋り嘆けば母親も、
「オヽ道理ぢや〳〵。日頃恋しい床しいと、案じ暮らしたそなたがいとしさ。それに引きかへ官兵衛殿、可愛い娘に連れ添へば、聟は子ぢやないかいの。武士の意気地が立てたいとて、見殺しにする無得心、哀れを知るは武士の、常に引きかへ胴慾」
と、恨み嘆くを耳にもかけず、忠義に凝つたる気丈の老人、腸(はらわた)を練る軍慮の工夫。
「ム、五星(ごせい)を鑑(かんが)みれば、味方は北方攻為水、時は三更(さんこう)子(ね)の上刻、水に水を重ぬれば、南方の火の尾州を討つに利ある刻限、君の御出馬この図を外さず、イザ本陣へ乗り替へ引け」
と、下知する内に一間より、
「ヤア〳〵官兵衛、病中の苦労に及ばず、斎藤治部太夫義龍、とくよりこれにて聞いたるぞ」
と、襖さつと押し開かせ、黒皮縅(くろかわおどし)の鎧投げ懸け、繁金物のとつぱい兜、花にぬれたる奔馬(ほんば)の勢ひ。
前後を守護する諸軍勢、辺りを払つて見へたる有様、
「存じがけなき御成や」
と、低頭平身なしければ。
義龍快気の声高く、
「鋭き味方の鋒先にて、過半攻め取る敵の要害、残りし砦は丹下中島。たゞ一戦に攻め崩さんと、進む手勢をその方一人(いちにん)、遮つて留めしは、犬清めが内縁に引かれ、二心やあらんかと、密かに立ち越へ窺ふ所、敵の空虚を計り知つたる臨機応変。今に始めぬ竹中官兵衛、疑ひ晴れる上からは、短兵急に押し寄せて、春永が頭を得る今宵の一戦。ハヽヽヽヽヽ、快や、悦ばし」
と、我慢に募る強気の詞、官兵衛猶も恐れ入り、
「何条娘が愛に溺れ、義心をいかで忘るべき。戦場の働きこそは叶はずとも、御供御赦免下さるべし」
「イヤサ〳〵。手疵も未だ治せざる内、心労は保養の妨げ。砦に残つて勝利の知らせ相待ちゐよ。時刻移さず出陣せん。いそふれ続け」
と勇み立ち、門出を告ぐる閧(とき)の声、手勢従へ出で給ふ。
跡見送つて官兵衛重晴、
「主人の疑ひ散ぜし上は、今こそ赦す、犬清と未来を契る水盃。女房よきに計らへ」
と、思ひがけなき一言に、
「エヽ、そりや真実でござんすかへ」
「オヽ不憫の生害見捨つるも武士の誠忠。義心は義心、恩愛は恩愛。ソレ、ソレ早く」
と情けある、夫の心汲み取りし、柄杓(ひしゃく)の長柄短夜や、月の満干(みちひ)も幾千里(ちさと)、手に取り上げて親々の、情け戴く水盃。
「申し我が夫(つま)、今といふ今お許し受けた二世の固め、未来は女夫でござんすぞへ」
「オヽ悲しい目出度い取り結び。酌はこの母、手負には忌み物なれど、娘が心濁りない柄杓の盃、手を懸けて下さらば儀式は済む。サア〳〵早う、犬清殿」
「ヤア祝言とは穢らはわしい。目前主人の仇敵、竹中が娘の千里、尽未来際夫婦の縁、切つたる印はこの通り」
と、柄杓掴んで投げ付くれば、
「エヽそんなら私が未来の縁は」
「オヽ詞交はすもこれ限り」
と、烈しき手負が詞のとがり矢、
取るより早く我と我が咽喉(のんど)にがはと突き立つる、母は駆け寄り狂気の如く、
「この憂き事を見まい為、尽くした心も仇事(あだこと)に、成り果てたるが悲しや」
と、涙ながらの介抱に、手負は苦しき目を開き、
「アヽ思へばはかない私が身の上、この世の縁こそ薄くとも、せめて未来は蓮葉(はちすば)の、玉の台(うてな)で夫婦にと、楽しんだ甲斐もなふ、お主大事と父様の、忠義の刃金に情けなや。二世の縁さへ断ち切りし、心の内の悲しさを、推量して下さんせ。迷ふはいの」
とばかりにて、涙に血汐争へり。
折から風が吹き送る、貝鐘の音寄せ太鼓、さも物凄く聞こへけり。
官兵衛は耳峙(そばだ)て、
「遥かに聞こゆる人馬の物音、はや合戦と覚へたり。勝負は如何に」
と心急き、身遣る外面(そとも)へ物見の軍卒、
「大垣三郎御注進」
と、呼ばはり呼ばはり、勝利を知らする勇みの大音、
「さても味方の三万余騎、二手に分かつて中島の、柴田佐久間が固めし砦へ、ひた〳〵〳〵と押し寄せ押し寄せ、閧(とき)を作つて攻めかくれば、見せかけばかりの旗差物、不勢の小田方狼狽(うろた)へ眼、鬼と呼ばれし柴田を始め、井桁、遠山、森、佐久間、柵(さく)を潜つて八方へ、逃がしは立てじと追詰め追詰め、春永が後詰めせし丹下の砦を一拉(ひとひし)ぎと、味方は破竹の勢ひにて、未だ合戦最中なれども、十分勝利疑ひなし」
と、申し捨てゝぞ引き返す。
「ムヽ味方の手番(てつがい)よくしたり、テ心地良き知らせよな」
「ナウ官兵衛殿、一旦味方の勝利とあれば、お前の忠義も立つた道理。この上のお願ひは、理を非に曲げて小田方へ、お味方あらば犬清殿、娘と未来の縁も切れず。せめては清い臨終を、勧めるが親の慈悲」
「ヤアかしましい。二心(にしん)を抱く所存あらば、きやつ等を眼前見殺しすべきか。主家より賜る高禄にて、身体髪膚(しんたいはっぷ)を養へば、親子が命は主君の物さ。無益(むやく)の繰言(くりこと)聞く耳ない。黙りおらふ」
と愛想なき、夫の詞にわつと泣き、
「ソレ、その意地強いお心が、剣となつて可愛げに、莟の花を二人まで、散らすが親の慈悲かいのふ。子よりも可愛い初孫の、ありとは聞けど顔さへも、知らずに暮らすばかりかは。月日もかへず一時に、孤児(みなしご)となす没義道(もぎどう)は、親子夫婦が修羅道の、呵責の種となつたか」
と、夫(つま)に恨みの数々を、数へ立てたる八つ橋も、涙巷の三河路や、沢辺の水も増すやらん。
程も荒砂踏み立て〳〵、息を切つて駆け来る注進、官兵衛見るより、
「いかに藤太、いよ〳〵味方の勝利なるや」
「さん候。初度(しょど)の戦ひ、勝(かつ)に乗つたる味方の勢、まつしぐらに追つかくれば、逃げたと見へしは敵の術(てだて)、場所好き所に引き返し、初めに変つて柴田が強勢、必死と定めし切先に、味方もしどろに喰ひ留められ、桶狭間にたむろある、義龍公の御陣の勢、追々に駆け付け〳〵、先手(さきて)に加はる虚を窺ひ、山道険しき狭間より、君の御陣の後を目掛け、思ひ寄らざる小田春永、諸卒を随へ現はれ出で、所々の砦を餌(えば)に飼ひ、敗色(まけいろ)見せしを術(てだて)と知らず、死地に入つたる大将義龍、討ち取れ射取れと下知につれ、群がりかゝるを近習の兵(つわもの)、防ぎ戦ふその中に、敵勢より母衣(ほろ)武者一人、真先に大音上、『春永の御内にさる者ありと呼ばれたる左枝犬清これにあり。義龍公の御首級(しるし)、イデ賜らん』と言ふより早く、槍を捻つて飛鳥の如く、突き伏せ薙伏せ瞬く内、頼み切つたる味方の人々、只一人に斬り立てられ、手負ひは討死死人の山、人間業(わざ)とは見へ申さず」
と、大息ついて物語れば。
「ハヽアさてこそ小田が謀計(ぼうけい)に、陥り給ふか気遣はし。それのみならず春永が、馬前に働く犬清とは、訝(いぶか)し〳〵。シテ〳〵主君には別条なきや」
「されば〳〵、かく乱軍となる上は、主人の生死(しょうじ)覚束なし。御先途見届け奉らん」
と、元来し道へ駆けり行く。
物に動せぬ竹中も、初めて吐息継ぎあへず、
「スリヤ若者が切腹も、苦肉の術(てだて)であつたよな」
「オヽ推量の通り、味方空虚(くうきょ)と偽りしは、まつこの如く義龍をおびき寄せて討ち取らんず、これ皆軍師久吉が謀。今といふ今犬清が、お役に立つたるこの切腹。アヽ嬉しや本望や」
と、聞く度々に急き立つ官兵衛、
「チエヽ口惜しやなア。重晴程の弓取が、鼠輩(そばい)の輩に計られしか。心許なき主人の存亡(そんぼう)、駆け付け救ひ奉らん。女房、物の具物の具、エヽ不吉の吠面(ほえづら)忌はし」
と、足踏みこたへ鎧櫃、手は掛けながらよろ〳〵〳〵、気は逸れども手傷の悩み、よろぼひく縁先へ、立つてはこけつ居て転び、心あがけばせき上し、矢傷破れて迸る、血汐の眼尻(まなじり)、目も紅、又打ち立つる引鐘に、連れて駆け来る四の宮源吾、朱(あけ)になつて立ち帰り、
「エヽ是非もなき御運の末。謀に陥つて諸卒も残らず討ち死にし、御大将義龍公手痛く働き給へども、敵勢鋭き狭間の囲み。遁れん方なく犬清が、刃の下に御落命。大崩れして士卒も散り散り、陣所々々も敵に奪はれ、残る砦はこの一ケ所、御油断あるな官兵衛殿」
と、言ふ声もはや息切れし、その侭そこに倒れ伏す。
「ハヽ、天なるかな、命なるかな。多年の計策一時に破れ、主家(しゅか)の滅亡今日只今、かゝる大事を引出だせし根差しはうぬ等」
と這ひ寄り〳〵、両手に二人が襟髪掴み、ぐつと引寄せ、
「五十年来不覚を取らぬ官兵衛に、よくも恥辱を取らせたなア。主君の怨敵(おんてき)国賊め」
と、捩ぢ付け〳〵歯ぎしみ歯ぎり、怒る眉毛も逆立つ肝癖、五臓六腑を嘔み上げて拳に伝ふ血の涙、留め兼ねてぞ見へにける。
時しもこゝに寄太鼓、乱調に打ち立て〳〵、小田上総介春永、勇名輝くその出立(いでたち)、欣然と入り給へば、それと見るより無念の息差し、飛びかゝらんず気の逸雄(いさお)、義心を察して春永公、
「ヤレ騒がれそ竹中氏。斎藤道三を毒殺し、勿体なくも足利の四海を奪はん義龍が陰謀、その身の敵はその身の積悪、誰をか恨み敵とせん。元来(もとより)斎藤旗下(きか)の貴殿、譜代恩顧といふにもあらねば、わが軍術の師範となり政事を助け、国民(くにたみ)を哀れむこそは誠の義者、有無の返答せられよ」
と、道理に服せず嘲笑ひ、
「ヤア無益(むやく)の舌客(ぜっかく)。千変萬化に理は説けども、眼前主君の仇敵、こゝへ来たるは火に入る虫、素首(すこうべ)取らん」
と、せき立つたり。
「ヤア〳〵官兵衛、義龍が首取つたる当の敵左枝犬清、見参せん」
と、槍引提げて駆け来る母衣(ほろ)武者、歩み寄つて頬当(ほうあて)兜、かなぐり取れば此下当吉、御前に向ひ謹んで、
「この久吉が下知に従ひ、敵地に入つて命を落し、謀を行ひはあれなる犬清。まつた戦場にて義龍を討取り、武功を顕はす犬清は、すなはちこれに」
と槍投げ捨て、母衣絹(ほろきぬ)取れば背負ひし稚子、
「ヤア清松か」
と手負の千里、寄るも寄られぬ深疵の苦痛、母も心根思ひやり、千々に乱るゝ胸の糸。
久吉重ねて、
「この稚子の犬清に、御勘気御赦免下さらば、我に加増の君恩にも、遥かに勝る御仁恵」と思ひ入つてぞ願ひける。
大将莞爾と打ち笑み給ひ、
「ホヽオ、一名(いちみょう)二人(ににん)希代(きたい)の犬清。死しての忠臣、生きての勲功、ハヽよく勤めたり出かしたり。進退(かけひき)烈しき戦場にて、快げなる寝顔の様、遖れ大勇頼みあり。今ぞ勘当赦すぞ」
と、慈愛の詞に久吉初め、痛手を忘るゝ手負の喜び、心を察して御大将、
「未来へ赴く犬清に、恩賞せんず。ソレ久吉」
「ハツ」
と答へて母衣絹に包みし首、故実を正し差し置けば。
「ヤアこれこそ主君義龍公の御首級(しるし)。エヽ浅ましき御有様。犬清に恩賞とは、我に贈つて情けをかけ、勇気を挫(くじ)かん結構よな。いよ〳〵欝憤重なる春永、覚悟ひろげ」
と詰め寄れば、
「ヤア麁忽(そこつ)々々。当の敵はこの久吉が負ふたる犬清。サア討て、竹中」
「オヽ言ふにや及ぶ」
と、すらりと引き抜き振り上ぐる、白刃の光に身を惜しまず、『サア〳〵〳〵』と突き付けられ、翳(かざ)す刃の下萌(したもえ)に、紛ふばかりのしよぼ〳〵髪、すや〳〵寝入る稚子は、婿や娘が面差しに、にた〳〵顔の愛盛り、思はず見とれて、
「ハテ好い子だなア。孫と祖父(じい)とが初見参(はつげんざん)、産着(うぶぎ)の一重もくれもせず、邪険に振りし刀の下、さぞ恐ろしき夢や見ん。不憫の孫が寝姿や。現在娘の別れにも、涙一滴こぼさぬ官兵衛、義に張り詰めし強弓も、血の緒の弦(つる)に折れたるか。さて可愛や」
と大声上げ、勇気挫けて身も震ひ、刀持つ手は大盤石、鉄丸(てつがん)の如き魂も、今ぞ蕩(とろ)けてはら〳〵〳〵、留め兼ねたる恩愛の、涙汲み出す如くなり。
犬清につこと打ち笑ひ、
「久吉殿の厚恩にて、御勘気御免ある上は、思ひ置く事少しも無し。今こそ女房、舅殿、仇も恨みもこれまで〳〵、お暇申す」
と、突込む刀引廻す、久吉、
「暫し」
と押し留め、
「孤児(みなしご)となるこの清松、某が守(も)り育て、生先(おいさき)目出度き栄へを見せん」
と、抱き上げたる後紐、蜻蛉(とんぼう)結びも秋津国、四海に覆ふ木の下の、露の恵みに生ひ育つ、いんのこ〳〵、いんのこやいんのこ、いのこ〳〵は犬清が、残す嫩を末の世に、左枝政左衛門時家と、名に知られたる弓取りは、この幼子の事なりける。
官兵衛数行(すこう)の涙を押へ、
「敵ながらも情けある小田に刃向ふ弓矢はなし。われはこれより女房諸共、栗原山の閑居に篭り、主君を始め婿娘が、菩提を弔(と)はん。いざさらば」
「オヽこの犬清も近づく知死期。わが君おさらば、いづれもさらば」
『さらば〳〵』の声慕ふ、今際(いまわ)の娘を母親が、『未来の道連れはぐれぬやう、頼む〳〵』も泣いぢやくり、哀れを見捨つる御大将、
「義龍亡びし上からは、不日に都へ上洛し、管領三好長慶が、底意を探らん此下当吉」
「ハ、ハ、ハヽヽヽヽ仰せにや及ぶべき。時日(じじつ)を移さず奇計をなさん」
と、声も清洲へ御凱陣(かいじん)、余所に見送る竹中夫婦、二人が末期(まつご)一時に、小田の旗色茜さす、朝日まばゆき鎧の袖、綺羅(きら)一天に輝かす、武名の程こそ類なき