太夫三味線で名人と称される人々は、人形浄瑠璃におけるそれぞれの作品を、その作品が最も輝き、最も感動を与えるように表現してみせることが可能なのであろう。そういう床による奏演を聴いていると、いわゆるマクラ一枚から浄瑠璃世界に引き込まれ、段切の柝頭の音で現実へ戻されるまで、その名人の個性を忘れて浄瑠璃と一体化する。そしてその余韻が静かに引いていくとともに、確かにあれは、例えば越路喜左衛門の浄瑠璃だった、と感心せざるを得ないのである。
「埴生村」は、もと『伊達競阿国戯場』の第八にあたる一段で、次の第九「土橋」とともに、現在に至るまで命脈を保っている作品である。なお、現在では『薫樹累物語』の外題で(または『伽羅先代萩』通しの一部として)上演される。とはいうものの、江戸浄瑠璃であり、しかもいわゆる「累物語」という陰惨な印象を受ける内容を下地にしていることもあり、主要浄瑠璃作品としてリストに挙げられるとは限らない。上演頻度も近年はそう高くはない。大阪公演に限れば、実際「埴生村」をこの四半世紀で聞いたのは、今年(平成十四年夏)を含めてわずかに二回きりなのである。
越路喜左衛門による浄瑠璃として印象に残っている作品は、との回答に列挙される場合も、また、義太夫浄瑠璃で好きな一段はとの質問においても、「埴生村」が登場するかははなはだおぼつかない。ならば、それを今回取り上げるのはその稀覯性ゆえかといえば、昨年京都(南座)でも上演されているし、翻刻も緻密な注釈書(「新日本古典文学大系94近松半二江戸作者浄瑠璃集」岩波書店)が発刊されているのである。が、それだからこそ、そうした作品が人形浄瑠璃として名人の手により上演されるや、忽ち芸術として屹立するという、その赫とした現出の瞬間を書き留めておけるのではと考えたのである。その二律背反・矛盾を止揚するものこそが太夫三味線における「名人」と称されるものであるのだから。
これを書くに当たっては、幸い前述の注釈書があるので、詞章内容等の詳細はすべてそちらに委ねることにした。また、「累物語」としての研究視点および上演年表については、「国立文楽劇場上演資料集19碁太平記白石噺・薫樹累物語」(第25回文楽公演昭和63年7月)を参照することができる。加えて望外の喜びであったのは、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーが公開されたことである。「床本は本作ではなく、大坂風に言葉遣い等を改められた五行本「薫樹累物語」に拠っている」(前掲書「伊達競阿国戯場」解説)とある、その「加島屋版五行本」をその中に見出すことができたからである。
前掲書注釈者の早大内山教授をはじめとする先賢諸氏、大阪国立調査資料係の当時の担当者殿、そして公開をいち早く掲示板上で知らせていただいた「ね太郎」様には、この場を借りてあらためて深く感謝を申し上げたい。また、「埴生村」詞章本文については、Web「ようこそ文楽へ」中のコンテンツ「床本集」を利用させていただいたことを明記しておく。さらに、節章等の音楽面については、「文楽のテキストを読む」(井野辺潔)の叙述に負うところが多大であることをも申し述べておきたい。
「埴生村」初見時、何ともやりきれない悲哀一色の、陰鬱で暗澹とさせられる一段だとの印象が強かった。義太夫浄瑠璃としての心地よさは少なく、そういう芝居だと納得するとともに、この一段を積極的に取り上げたり、浄瑠璃作品として二度三度と重ねて聞くことなどないだろうと思ったのである。ところが、公演記録映画会でこの印象は一変させられてしまう。当時の公演記録映画会はもっぱら、東京国立小劇場開場以来の昭和40年代から50年代前半にかけての演目を取り上げていた。床で言えば、綱弥七の最晩年と、津寛治、越路喜左衛門、そして春子松之輔に相生翁重造、あと勝太郎や吉兵衛、道八と言った顔ぶれが揃っていた。それで、昭和後期の黄金時代を追体験するためにも、演目の好き嫌いに関わらず毎週通い詰めていたのである。「埴生村」(および「土橋」・昭和47年9月上演分)の回も、床が越路喜左衛門(累の人形は栄三)ということと、実際耳にする機会の少ない作品に対する勉強程度の気持ちから足を運んだものであった。ただしそこには、これまでの経験から、3階小ホールの椅子に座ると必ず感動を受けて帰るという「学習効果」がなされていたこともまた事実であるが。とにかく驚いたのである。「こんな美しい作品だったとは?!」それはまさしく衝撃的であった。これまでも、より深くより高く感動の質が変化することは多かったのだが、作品自体への評価が180度転換してしまうほどのことは、前後を顧みても希有のことだと言ってよいだろう。まず、累が愛らしく健気で心底一途な、むしろ明るく積極的な性格として好ましいものと映ったことである。そして、与右衛門が元関取という任侠世界に通ずる男であり、人情厚くどこまでも義理を遠そうとするが故に重い苦悩を背負う人物であることが、胸にストンと落ちてきたのである。そしてもちろん累物語としての不気味さ、様々な暗示や仕掛けも鮮明に聞き取ることが可能だったのだ。
前掲の岩波新体系本は最近の発刊であるが、その『伊達競阿国戯場』の解題には、「戯曲の価値は…第八「垣生村」、第九「土橋」にある。…この二段は、…怨霊譚を夫婦愛のドラマに昇華させた秀作」と明快に書かれており、「埴生村」本文の脚注には、「可憐でけなげな累の悲劇は本作のみが到達した境地。」とまで断定されている。与右衛門に関しても「下総へ来てからの与右衛門の累に対する愛情は、本作のようにこまやかには、描かれていない。」とある。もしこれらの件を、越路喜左衛門の体験なしに読んでいたならば、はたしてどれほど納得していたかどうか。少なくとも、他作と実際に比較していない以上、そう信じるよりほか仕方がないと思ったことであろう。しかし現実には、この記述箇所に出会った瞬間、我が意を得たり、と快哉を叫んだのである。(なお、脚注には若大夫勝太郎による奏演を参照したとあるが、これもまた昭和後期黄金時代を証左するものであろう。)したがって、越路喜左衛門「埴生村」による感動も、上記三点から分析することにしたい。
まず、「可憐でけなげな累の悲劇」について、これはやはり、切場の前中後半三ヶ所にある「クドキ」、および中間部での縫い物をする地合の表現に収斂されるだろう。一体にこの「クドキ」という部分は、ノリ間の三味線に美声の太夫が振り回すものと相場が決まっている、と見なされがちで、クドキを誉めるなど卑しい当て込み浄瑠璃に耳を汚された証拠だ、などとまで貶められることさえある。しかし、それはあくまでクドキで手を叩かせ銭を取ろうとする太夫とそれに迎合する三味線に対しては当たっていても、義太夫浄瑠璃全体の構成をふまえた奏演の場合、むしろクドキを等閑視する方が浄瑠璃の本質を見失っていると言わざるを得ないだろう。というのも、義太夫浄瑠璃という芸術がもたらすカタルシスの、とりわけその音楽的観点からは、やはりクドキによってもたらされる、うっとりとする陶酔感や琴線に触れる情感などが、最も大きな意味を持つことは当然のことだからである。そしてそのことは、単に心的なレベルにとどまらず、一段の浄瑠璃構成上からも、また、丸本や五行本の節章によっても明らかにされるものなのである。
前半のクドキは、酒屋から帰った累に「語る夫の今の間に、降つてわいたる身の難儀」として事態が現前化することがきっかけとなる。実家の兄の元を離れ、与右衛門との愛を絆=頼みの綱として、この下総埴生村の片田舎で慣れぬ百姓仕事に日を暮らす累である。「妻も途方にくれは鳥、たゞ涙ぐみゐたりしが」となるのはもっともであろう。ここでの節章(以下すべて前述の加島屋板五行本による)は、ハルウとあって高く入り、「くれは鳥」には上とあり、ここでの最も高い音を辿って琴線に触れ、最後に中と記されて、旋律が下降してフシ落チで小終結することとなっている。越路喜左衛門の奏演もまさしくその通りで、累の衷心をゆったりと聴く者の胸に響かせる。もちろんそのためには、正確かつ巧緻な音遣いと、左手の利いた情感ある三味線の音色が必要であるのだ。さて、累は夫与右衛門の突き詰めた心を知っているが故に、またうまい考えも浮かぶでしょうと、わざと軽く語りかける。しかし、短気から殺人を犯すかもしれない、との心配が口から突いて出たとき、もはや心情は包みきれず、そのまま深い嘆きの思いを夫に語る「クドキ」へと繋がって行くのである。「今この日蔭の身となつたも、皆こなさんの心から」は音を遣っての美しいカカリ(詞から地への接続部)で、最後に泣キが入り、そこからノリ間になってのクドキとなる。ノルべきところはきちんとノッて、聴く者が陶酔できるようでなければならない。越路大夫は美声家ではないが、喜左衛門に「はじめは締め上げられ」(「四代竹本越路大夫」淡交社)て、「そのお蔭です。声というもんは出したら出るもんです。いろんな人から面と向かって、いい声になったっていわれて、照れましたよ」(以下同書)と自ら語るほどになったのであり、喜左衛門もまた「そんなに腕の強い方じゃない」し、「行き方は地味」で「はったりがないですよ、ケレン味が」であるにもかかわらず、聴く者に第一のカタルシスをもたらしてくれるのである(なお、「今この日蔭の身となつたも」にはサハリと節章があり、これはもともと義太夫以外の他流の浄瑠璃にさわったことをあらわし、概ね美麗な旋律となっているものである)。このクドキは「ちつとはまた」で三味線が一旦止まり、「女房の心」を太夫の音遣いで聴かせ、「推量して」からはやや早足取りで進み、「声も得上げぬ」で一旦止まって「忍び泣き」から低い音でフシ落チとなって終結するのだが、この変化がまた、実に巧みに聴者を浄瑠璃の世界に引き込んで離さないのである。もちろんこれを語り活かし弾き活かす越路喜左衛門ならではのことである。「こんな正確な解釈の人も少ない」(前掲書)と称された喜左衛門の足取り、間を味わうことができよう。ノリ間がベタに嵌ってしまうと、面白くないどころか、義太夫浄瑠璃自体が何とも笑止千万に聞こえるものなのである。
中間部は、偶然訪れた吉原の女郎屋に我が身を売って百両の金を用意しようと、夫に敢えて三行半を求めるというところにあるのだが、このクドキが、その為にする累の詞にではなく、その後の思わず本心が吐露される詞章に節付けされていることにまず注目すべきであろう。「とは言ふものゝ世の中に」がカカリで、「女房は夫に去られまい」でノッてから「憂き涙、止めかねたるばかりなり」のフシ落チまで、ここではとりわけ太夫と三味線との不即不離、すなわち、高低・遅速の絶妙なバランスが耳に止まる。累の心中の齟齬、溢れ出る本心は、このバランスの上にこそ描かれるにふさわしいものであると、誰もが聴き入るに違いない。実際、累自身さえ、クドキの後に「ほんに私とした事が、よふ得心してゐながら、どふ狼狽へて泣いたやら」と語るのであるのだから。なお、「袖にしがらむ」で「む」をウウ…と引き字にして情感を高め、「憂き涙、止めかねたる」は早い足取りで処理し、「ばかり」で高い音を辿らせて、「なり」とフシ落チで収めるという、繊細微妙な奏演となっていることも追記しておく。
後半のクドキは、この一段を終結させ、次の「土橋」へと浄瑠璃を導く役割を持っており、いわゆる三味線に太夫が身を任せて語るとされているものである。いや、むしろここで太夫が力んで踏ん張ると、「埴生村」を一時間近く聴いてきた者を疲労困憊させるだけであるのだから、ここまでの浄瑠璃でしっかりと累の心を聴く者の心と共鳴させることができているのであれば、この典型的なクドキの節付け旋律を辿って行けばそれでよいのである。三味線の手も、四つ間、上モリ、下モリと耳慣れたものが頻出する。醜い顔の事実を眼前突き付けられ、「顔も得上げずゐたりしが」のスエテで悲哀愁嘆の極に達して小休止した後のクドキである。「アヽ思へば々々恥かしや」から「絶え入るばかりに泣き尽くす」の落シまで、聴く者も放心して浄瑠璃に身を委ねることができる。もちろん、それは緩急強弱遅速進停等々変幻自在の奏演であるからだということは、言うまでもないだろう。そしてそのことはまず、安心して心地よく委ねられる太夫であり三味線であることが大前提であるのだ。ここを聴く者が思わず神経を尖らせてしまう「不自然な」浄瑠璃の床である場合、寝覚め直前の浅い眠りを悪夢で脅かされるが如く、実に不愉快な思いをせざるを得ないのである。このクドキが、自分を美人と思いこんで(鼻にかけて)いる累の独り善がり、独り相撲、愛情の押し売りと取られてしまうのは、まさしくこの後者故であり、「せめて夫と同じ名の絹川へ身を投げて」が駄洒落でも思い込みでもなく、累の衷心衷情の発露として感じられるのは、前者の浄瑠璃によってこそ可能なのである。
百姓与右衛門とは実は元力士の絹川谷蔵である、今さら何をわかりきったことと思われるかもしれないが、この事実を、あらすじや端場の詞章から知るのではなく、切場の浄瑠璃から視聴して思い当たることができるであろうか。「埴生村」の梗概を知り、女房の累と女郎屋と三人の登場人物の中での語り分けを比較すれば、誰でも納得がいくことではあるが、それは「相対的」なものに過ぎない。越路喜左衛門の床による与右衛門は「絶対的」に力士絹川谷蔵なのだ。切場から聞き始めると、まずマクラ一枚で、その苦悩が、迫り来る夕闇の時間を告げる入相の鐘を背景として、深く厚みのある音で語られる。そして「御館の騒動故」からの詞を耳にするや、ああ、まぎれもなく力士である、任侠の世界と相通ずる義理に迫られているなあ、と感じられるのである。それと同時に、脳裏には、例えば「引窓」の濡髪長五郎を彷彿とさせるものがあると感じられるであろう。つまり、ここでの与右衛門はまさに力士としての「絶対的」な語り口でもって描かれているのである。そしてその絶対性は、その背景として必ず他者ならびにその集合体としての共同体(例えば、主従関係であるとか、約束事であるとか)の存在を想起させるのである。この大きな背景、すなわち社会性とでも呼ぶべきものが掴まえられないと、与右衛門と累との齟齬が上滑りとなり、二人が各々勝手な思いから個人的行動を取ることによって、悲劇がもたらされたかのごとくに感じられてしまうのである。そしてまた、この悲劇が前時代的な封建制の桎梏によって引き起こされたものと理解され、それによって逆に個人の主体的行動が制限された結果、何ともやりきれない選択を押し付けられることになったとの誤解を生みかねない。そしてそのことは最終的に、この「埴生村」など、現代日本の自由と民主主義による進歩した社会にとっては過去の遺物に過ぎないと(それが大いなる無知によるものであるとしても)、お気楽にうち捨てられることにもなるのである。
与右衛門のこの苦悩は、越路喜左衛門の床によって見事に聞き分けることができる。マクラのあと、歌潟姫のためには女房累を見捨てなければならないと決断したところ、「義理の欠けるもお主の為、了簡して下され三婦殿」と「耐へてくれ女房殿」との間には明らかにカワリがあり、それは取りも直さず、前述の社会性がとらえられているからである。続く「浮世に秋の日の足も」は地であるが、「憂き世に飽き」という与右衛門の思い入れが感じられる。帰宅した累には、「親の代から百両」とまですらすらと作り事を語るがここで詰まり、「といふ借りがある」は低くなる。誠実な与右衛門ゆえである。「土か砂か見るように」はヘッと吐き捨てるがごとく、どうにもならぬ大金に自虐気味になるのであり、それゆえに「毒食はゞ皿」と思い込むのである。その短気を止める累の衷心衷情に触れた与右衛門は、ひとまず納得したと口で言うのだが、それがそのまま累の心には真実と通じて、妻は明るく立ち直ることになる。しかし、与右衛門の心境は、累が嬉しさとともに「奥へ勧める」という詞章からパッと変化して「女房の顔、見るにほろりと落ち方の」以下、愁いのうちにフシ落チとなるのである。
再び登場した与右衛門は女房から身売りの話を告げられる。「わが形の変りしとは知らぬ不憫さいじらしさ」から「胸に涙を呑込みながら」まではとりわけイキを詰んで語られ、「辛い苦界へ身を売るより、昔に変る面差しとも、何にも知らぬ心根が」からは早く強く、そして「油抜かるゝ憂き涙」で落シとなり、「止めかねたる折からに」でフシ落チの一段落となるのだが、ここは後の「お情け過ぎて情けなや」との累が嘆きを、すでに与右衛門がその身のうちに反射しているわけである。累の身に起こる悲劇がまず与右衛門の苦しみとして心奥に突き刺さること、それが「夫婦愛のドラマに昇華」される条件でもあるだろう。ここは前述した累のクドキにおける抒情味とは一転し、厳しく鋭く語られて、一段の浄瑠璃における変化そして面白みを形作ることにもなるのは、言うまでもない。なお、段切にもう一度登場する与右衛門については、「埴生村」全体の構成を見渡した節付け、とりわけ地合の部分を中心とした、語りならびに三味線の妙技を考察する際に触れることにしたい。
詞章を読むと、人物の出入り、とりわけ舞台に登場する場面において、はっきりと情景変化を感じ取ることができる。「埴生村」切場で言えば、累が酒屋から戻るところ、女郎屋が姿を見せるところがそれである。それを人形浄瑠璃として床と手摺によって演じる時に、場合によっては(床の奏演が十分でないと)、下手から実際に人形が登場して初めて、その変化が現実のものとなることがある。これでは義太夫浄瑠璃として語られるよりも、テキスト本文を素読する方が好ましいということになってしまう(近松のテキストを、浄瑠璃の手から解放して朗読をしたという録音商品も存在している)。しかしながら、優れた奏演、すなわち名人と呼ばれる人々の浄瑠璃を耳にしたことがある者は、それは全くあり得ないことで、人形の出はおろか、むしろ人物描写の詞章に至る前からその登場が描かれているということを、最もよく知っているはずである。累の出は、「浮世に秋の日の足も、片足短き女房の」と掛詞によって情景描写から人物描写へ移行するのであるが、「日の足も」の後にある三味線の合の手がすでに累の姿を描出しているのだ、その片足が不自由な状態までも。太夫は「日の足も」を沈んで語り、「片足短き女房も」から浮かし気味の高い音(節章にはキンと表記)で語り始めるので、三味線の合から続けて聴けば、累の出は実に鮮やかに聞き取れることになるのである。もう一つの女郎屋の方は、軽妙な人物が登場するときによく聞かれる(例えば「堀川」では与次郎の出の所)合の手が弾かれ、これだけで瞭然たるものがある。直前で「涙を胸に与右衛門は、しほ々々立つて入る後へ」とあるから、その対比は一層著しい効果をもたらすことになるのである。その他、人物の出入りで特徴的であるのは、その女郎屋が話も済んで納戸へ入った後、ハルフシで語り出される「累は後を見送りて」の箇所で、その旋律には一段落して改まった感がある。また、その直後与右衛門が出て累がはっとするところ、「何心なく出る与右衛門」のあとのチチンの撥でパッとカワッて「顔を見る目も塞がる思ひ」と高く語り出されるのも見事である。再び女郎屋が登場する場面では、やもめ暮らしとなる夫のために冬支度の縫い物をする累の様子を抒情的に描いた直後だけに、「あくび交ぜくら納戸より」という詞章に付けられた、文字通りのあくびを映し出す三味線の手が、次の展開へと落差をもって導くことになる。そして、累の悲劇が直接的に提示され、「泣き入る累を踏み飛ばし」の詞章には三味線の手も写実的に付けられ、「足を早めて立ち帰る」となり、次のチチンでカワリ、「後は正体泣き崩れ」の愁嘆が「顔も得上げずゐたりしが」のスエテで強く印象付けられることとなるのである。その後は前述のクドキとなって段切まで運ばれて行く。最後、累が与右衛門と入れ違いに出て行くところは、「累ぢやないかと言ふ声後に」でカワリ累の「聞きさして」となり、「こけつ転びつ」で写実的描写の手が入って「走り行く」とフシ落チとなる次第である。ここまで書き記してきた一連の人物入れ替わり、越路喜左衛門の奏演は実に鮮やかで、逆に言えば、この分析記事こそが両名人の奏演によって導き出されたものなのである。本公演の劇評においても、劇場の椅子に座って、すばらしい舞台に接したとき、その感動とともに自然と湧き出てくる思いや事柄をその場でメモしておくことから紡ぎ出されるわけで、決して「初めに評言ありき」ではない(もっとも、こちらの予想通りあるいは期待はずれの場合は、その前もって頭の中にあるものがそのまま書き出されることになるのであるが)。ともかくも、一段の浄瑠璃義太夫節を、詞章を見れば次から次へと浮かんでくるほどまで、何回も聴き込んでしまう、これが越路喜左衛門の「埴生村」をはじめとする名品群に共通したものなのである。
それでは、「埴生村」の奏演に関して、その他の特徴的な点を列挙しながら考察し、この項を終わることにしたい。
・冒頭で与右衛門が覚悟を決めて駆け出すと、累が脱ぎ置いた前垂れの紐が足に絡み付くというところ、「縁に引かるゝ後髪」には「本フシ」という節章が付いている。これは義太夫のもっとも基本となる旋律で、ここでも丁寧に扱われており、与右衛門−累という切るに切られぬ縁の深さを印象付けることにもなっている。
・酒屋から帰った累が酒を勧めても与右衛門は呑まぬと言うところ、累の詞「折角買ふて戻つた酒」は徳利を見つめながら困ったなと俯いている様子が聞き取れるし、「そんならお前呑ましやんせ」で顔を上げて明るく夫へ勧めている感じが何ともうまく語られている。そして与右衛門の「酒どころではないはいの」「と」ツン「何処やら済まぬ夫の顔」チン、この二撥の音が何とも不安な感じを与え、「つひ目に付くも」は高く語って、累の思いへと転換していく。実に神経の行き届いた奏演である。それは、「折角買ふて戻つた酒、そんならお前呑ましゃんせ」を単純に夫へ投げ掛ける詞とした場合と比較すれば、明らかであろう。
・女郎屋の登場に、累が「胸のもやもや愛想なき」とのところ、この時の累の心中を真実表現するのも簡単ではない。思案を妨げる門の声を「通つて下さんせ」と即座に拒絶し、「何ぢややら邪魔らしい」と内に吐き捨てるように言い、「奉加どころかいな」とぶつぶつ文句を言いながら、寄進乞いと勝手に決め付けるや、「私が所は宗旨が違ひます」と手厳しくはねのける、という一連の詞を自然に語ることは並大抵の力では難しい。
・女郎屋の詞に累が身売りを思い付くところ、詞が済んで、「と」「言ふ内ふつと気の付く累」「わが身を売つて百両の」「金調へる手寄には」「これ幸ひと」「笑顔して」の詞章の間に三味線が一撥ずつあしらうように弾くのだが、それぞれ、気付き−確信−納得と累の心中をも表現すると聞こえるのは、名手喜左衛門ゆえであろう。しかも「これ幸ひと」の前に弾かれるチン一撥は、音高とスリ下げとで、何とも不安な不気味な印象を与えている。「これ幸い」と思い込んだことこそが、我が身を不幸の深い闇の中へ引きずり込むことになる、とでもいうようにである。これを恐ろしい芸力と言わずして何と言えようか。
・村の歩きから呼び立てられるところ、「せり立つれば」「ハツとばかりに与右衛門が」「重なる思ひは命を的」「胸を据へたる」「魂の」ここにも三味線のあしらいが入るが、ここは二の糸を中心にピシピシと強くキメて弾かれるので、与右衛門とともに聴く者の胸にも厳しく応えることになるのだ。詞章を弾き活かす三味線、また、柔らかいところ、剛いところ、足取りの緩急、等々の弾き分けの妙にも感嘆せざるを得ない。
・代官所へ呼ばれた与右衛門を見送った後、累がひとり縫い物をするところ、ここは美しくそして悲しい抒情味にあふれた聞き所である。節章には半太夫(「離れ物とはいひながら」)、文弥(「かねてかくなる身と知らば」)と表記されており、それぞれ、義太夫節以外の、優美な半太夫節、哀切な文弥節を取り入れた旋律であることを示している。クドキではないしっとりとした情景描写の中で、累の心情が静かに舞台上にそして客席全体に広がる、これもまた越路喜左衛門の奏演が並々ならぬものであることの証左であろう。
・鏡を突き付けられ、己の醜く変じた顔を認めなければならないという、眼前に展開する悲痛な情景は、「見れば見る程情なや」のクリ上ゲフシで感情が高まって行き、「狂気の如く身をもだへ」以下「哀れにもまたいぢらしき」の落シまで、急速調での絶叫にも似た激しい語りと三味線とで直截的に展開されるものである。
・死を決意した累が出て行くところ、「沈む重りと」以下は死出の旅へためらいもなく赴こうとする累の様子を、タッタッと描写する。もちろん段切が近いからでもある。その中にあって、三味線と語りが一旦止まって変調する箇所が二つある。一つは「負はれ追はるゝ」「死神の」であり、もう一つは「研ぎ立て鎌は」「今宵置く」である。「死神の」においては、心底からゾッとさせる太夫の音遣いと、三味線の合の手によって、非業の死を遂げた姉高尾の死霊が確かに取り憑いていること、そして、累自身も非業の死を遂げることになるだろうということが、紛れもない真実として聴く者に突き刺さるのである。「今宵置く」では、次段「土橋」において露と消えゆく累の哀感と、その死を導くことになる研ぎ立て鎌の鈍い光をも眼前に浮かび上がらせる恐怖感とが、相乗的に感じ取られたのであった。
・段切、下座囃しの締太鼓が奏でる雨音とともに、行灯の火が吹き消され真っ暗闇となっての大太鼓の音、そして三味線のメリヤス。先へ先へと急く焦燥感、絶望感と思い詰めた心、さらには闇の中での探り合いとすれ違い。音による情景描写、心象風景の描出は、実に驚嘆すべきものがある。
・そして、「あやもわからぬ真の闇」と追い立てるように弾きそして語られ、「後を」(柝頭)「慕ふて」と三重になれば、もう次の一段「土橋」へと心が急ぐのは当然のことであろう。場面転換に用いられる三重の旋律が、その思いを一層急き立てていることは言うまでもない。こうして拍手喝采のうちに、越路喜左衛門の床はぶん廻しで舞台裏へと吸い込まれていくのである。
越路大夫の浄瑠璃については、井野辺潔教授がその真髄を的確に指摘されている。これ以上の評言はないと思われるので、ここに箇条書きで掲げておく。もちろんそれは、越路大夫の浄瑠璃を大成させた相三味線喜左衛門への讃辞ともなっていることは言わずもがなであろう。
第一、作品の内容を的確に読み取っている
第二、浄瑠璃の生命ともいうべき音遣いが抜群にうまい
第三、スピード感と切れ味のよさ
第四、清潔で端正な芸
第五、陰影ある詩情に富んだ浄瑠璃
最後に。今回、前述の注釈書や五行本を読みながらあらためて感じたのは、浄瑠璃本を読む楽しみについてである。幾度となく浄瑠璃を聴いていると、義太夫浄瑠璃の曲節やその構造が漠然とながら理解されるようになってくる。その耳と目でもって浄瑠璃本を読む時、そこには豊穣な浄瑠璃世界が広がり、そこからすばらしい果実を味わうことができる。そして、名人が残してくれた奏演を耳に残して置くことができるならば、その喜びは数倍以上になるのである。(もちろんその際にはライヴでの無駄で無意味な動きやら未熟かつ傲慢な音等は、逆に大きな目障り耳障りとなる。)
それに比べれば、現在「文楽」として上演されているものなどは、人形劇に語り手と伴奏が付いているだけにすぎないのではないか、との思いを強くすることがある。もちろん享受する側の質は様々であっていいのだから、例えばモーツァルトが胎教や早期教育に有効であり、薪能が古都の夜に観光客を感激させる雰囲気を提供するということで、大いに喧伝され経済効果を上げていることは、現代日本という社会にあっては、最も好ましい状況であるとさえ言えるのだろう。その点、現在の「文楽」は、より平易に消費されるために、その古めかしい不器用さをあっさりと脱ぎ捨てる方がよいのかもしれない。
「芸術は長く、生命は短い」という格言を、「長いのは生命だけで、芸術は短い」と言い換えたのはベートーヴェンであるが、それは彼の諧謔性と芸術家としての苦悩が(彼ほどの天才を以てしても)語らせたものであろう。今の日本の文楽とそれを取り巻く環境においては、その換言がまさしく正反対の質において金言となるに違いないのである。
【詞章】「埴生村」(切場)
笑みして立帰る。
後は思ひに花ぞ散る、物思へとや入相の、鐘にせかるゝ百両の、才覚何と与右衛門が、思案に胸の暮近く。
「思ひ廻せば廻す程、御館の騒動故、一旦この絹川が御供して立ち退きしと、風聞(ふうぶん)せし頼兼公、都の内におはすとも弁(わきま)へなき姫君様、女心に遙々(はるばる)と慕ふてお出で遊ばしたか。何にもせよちよつとマアお目にかゝつて、アヽイヤ々々、邪(いが)みに邪んだ金五郎め、絹川と知られてはわが身の大事、姫君の御身の上にかゝる難儀、とあつて百両の金はなし。所詮手短かに金五郎めを追かけて打ち果たし、姫君の御供して立ち退くより他はなし。ウムさふぢや々々」
と駆け出だす足に纏ひ付く、前垂れの紐(ひも)恩愛の、縁に引かるゝ後髪。
「このまゝに立ち退かば、さぞや後にて女房が、何にも知らず見捨てたかと、恨むであらふ泣くであろ。兄の三婦に詞をつがひ、例へどの様な事あつても、一生見捨てまいと言ふた女房、義理の欠けるもお主の為。了簡して下され三婦殿、耐へてくれ女房共、せめて一筆(ひとふで)残さん」
と、捜す硯の石の海、アヽ浮世に秋の日の足も、
片足(かたし)短き女房の、累はとつかは酒屋から、帰るわが家の黄昏時。
『ハツ』と驚き懐ろへ、隠すあいろも夕まぐれ、
「オヽさぞ待ち兼ねさしやんせふ。この在所の酒は悪いと言はしやんすによつて、隣村まで往て買ふて来やんした。それはマアさふと、金五郎様は何処にぢやエ」
「イヤモ、待ち兼ねてとうに去んで仕舞ふた」
「エヽモほんに、気の短いお人ではあるぞ。折角買ふて戻つた酒、そんならお前呑ましやんせ」
「アヽイヤ々々俺はモウ、酒どころではないはいの」
と、何処やら済まぬ夫の顔、つひ目に付くも惚れた仲、心にかゝる傍へ寄り、
「コレこちの人、いかふ顔の色も悪し。お前は何とぞさしやんしたか。さうしてマアつひにない、日頃好きの酒も嫌、ム何ぞこりやこなさん様子のある事でござんすの。女房のわしに隠さずと、ちよつと聞かして下さんせ」
と、聞きたがるのも夫(つま)思ふ、心遣ひぞ道理なる。
不憫とは思へども、洩れては事の妨げと、それとは言はで、
「コレ累、今迄そなたに言はなんだが、何を隠そふアノ金五郎には、親の代から百両といふ借(かり)がある。この中からその金を戻せ々々といらだての催促。色々と言ひ延したが、切端詰つて今夜の夜半(よなか)、どふあつてもその金を立てねばならぬ事になり、請け合ひ事は請け合ふたが、土か砂か見る様に、百両という大枚(だいまい)の金、早速調ふ当てもなし。いつそ毒食はゞ皿、アノ金五郎めを切殺し」
「エヽ」
「コリヤ、サ、さふも思ふて見たが、また他に工面の仕様もあらふかと、今その思案最中」
と、語る夫の今の間に、降つてわいたる身の難儀、妻も途方にくれは鳥、たゞ涙ぐみゐたりしが。日頃夫の突き詰めし心をそれと汲み取つて、
「エヽ益体もない与右衛門殿、何のマア百両やそこらの金、その様に苦にさしやんす事はないはいな。またよい思案もござんせふ、コレ短気をやめて下さんせエ。お前のその短気故、人を殺(あや)めて」
「コリヤ」
「サア、もしその事が顕はれて、どんな憂き目に逢はしやんせふかと、ほんに夜の目も合はぬはいな。今この日蔭の身となつたも、皆こなさんの心から。もしもの事があつたらば、後に残つたわしが身は、エヽどの様にあらふぞと、ちつとはまた女房の心、推量してくれたがよい」
と、夫思ひの一筋に、声も得上げぬ忍び泣き。夫も不憫の涙を隠し、
「それ程にまで俺が事、思ふてたもる志、悪ふは受けぬ嬉しいぞや。コレおりやモ何もかもよふ得心してゐるはい」
「そんならば何事も聞き分けて下さんしたか。エヽ嬉しふござんす。九つまではまだ間もあり、一寸延びれば尋(ひろ)延びる。マア々々奥へござんして酒でも一つ呑ましやんせ。またよい思案も出よぞいな」
と、奥へ勧める女房の顔、見るにほろりと落ち方の、涙を胸に与右衛門は、しほ々々立つて入る後へ。
所見馴れぬ一腰も、派手な合羽の取りなりは、流石(さすが)それ屋と門口から。
「エヽちよつとお頼み申しませふ。与右衛門さんとはこなたでござりますか。金五郎さんといふお方がお前様にと承りましたが、ちよつとお目にかゝりたふござります」
と、言ヘどこなたは耳にも入らず、
「通つて下さんせ。エヽ何ぢややら邪魔らしい。奉加どころかいな。私が所は宗旨が違ひます」
と、胸のもや々々愛想なき、
「イヤ、左様な者ではござりませぬ。私は江戸吉原の女郎屋でござりまするが、金五郎様に御相談仕かけておきました奉公人、金持つて来い、こなた様に待つてゐるとおつしやりましたが、ハテ面妖な、どつちへお出でなされました。どふぞお目にかゝりたいもんぢやが」
と、言ふ内ふつと気の付く累、わが身を売つて百両の、金調ヘる手寄(たより)には、『これ幸ひ』と笑顔して、
「どふで見へる金五郎さん、這入つてお待ちなされませ」
「ハイ々々左様ならばお邪魔ながら、ヤ御免なされませ」
と、知らぬ人にも取り入るは商売筋の上手者。累は傍へ煙草盆、言ひ寄るしほに茶を差し出だし。
「イヤ申し、お前はアノ吉原の女郎屋さんでござんすか。そんならお前に折入つてお頼み申したい事がござんす、と言ふは他の事でもない。夫が手詰めの難儀につき急に金の要る事があつて、身を売りたいと言ふ人がござんすが、今言ふて今相談が出来るものでござんすかいな」
「イヤモウそれは商売づく、いつでも談合できまする。そしてマアその本人の年頃は」
「アイ十七八でござんする」
「オツトよし々々。顔のすまい、立入りの様子は」
「サア、顔形風俗なら、大坂で言ふてみよふならば、歌舞伎芝居ののしほによふ似てござんすといな」
「それはけうとい代物ぢや。どふぞわしが方へ相談を極めませふ。そして金の望みは」
「サア、マア百両にさへ買ふて下さんすりや、年(ねん)は五年が十年でも、それに厭ひはござんせぬ」
「ヤモ今の話の通りなら随分百両に買ひませふ。オヽ幸ひ金は持つてゐる。相談さへ極つたらすぐに連れて往にたいもの」
「そんならさふして下さんせ。シタが今言ふ通り夫のある身、互ひに得心づくの上、暇乞ひするその間、アレあの納戸で暫しが内」
「そんなら必ず何もかも、コレ手廻し早ふ頼んます」
と、いそ々々としてかの男、納戸へこそは入りにけり。
累は後を見送りて、
「手詰めの金の今の間に、つひ調ふて嬉しやと、思へば悲しき憂き別れ。アヽこれとても男の為、とてもの事に潔ふ、夫に泣き顔見せぬのが、別るゝこの身の置土産」
と、気をとり直す一間より。何心なく出る与右衛門、顔を見る目も塞がる思ひ、押し隠して傍へ寄り、
「イヤ申しこちの人、私しやお前に願ひがある。聞届けて下さんすか」
「これはまた改つた女房共、願ひとはそりや何事」
「サア、日頃お前の言はしやんすには、『鏡を見ると添ふてはゐぬ、暇をやる』と言はしやんした。わしやその鏡が見たふござんす」
「ヤ何と言やる、そんならそなたは暇くれと言やるのか」
「アイ、今宵に迫つた手詰の金、勤めにやつて下さんせ」
と、わが形の変りしとは知らぬ不憫さいじらしさ、『ナンノマアその顔で』と言ふも言はれぬ苦しさの、胸に涙を呑込みながら、
「エヽ埒もない々々、例へどの様な事があつても、そなたに勤め奉公さして兄の三婦へ立つものか」
「サイナ、それぢやによつて暇の状、暇下さんせ与右衛門殿。とは言ふものゝ世の中に、女房は夫に去られまい、暇取るまいとする筈を、縁切られても嬉しいと思ふ心を推量して、可愛と思ふて下さんせ」
と、思はずわつと声立てゝ、取り付き縋る蔦の葉の、袖にしがらむ憂き涙、止めかねたるばかりなり。
「ほんに私とした事が、よふ得心してゐながら、どふ狼狽(うろた)へて泣いたやら。年(ねん)の経つ間は射る矢より、早ふ戻つて元の女夫。必ず々々それまでは健(まめ)で暮して下さんせ」
と、辛い苦界(くがい)へ身を売るより、昔に変る面差しとも、何にも知らぬ心根(こころね)がその百倍のいじらしさ、五体を締め木に締めつけられ、油抜かるゝ憂き涙、止めかねたる折からに。
息せきと来る村の歩き、
「申し々々与右衛門様、山名宗全様から絵姿を以てお尋ねなさるゝ者がある、今ござりませとお代官の言ひ付け。サヽ今ぢや々々」
とせり立つれば、『ハツ』とばかりに与右衛門が、重なる思ひは命を的、胸を据へたる魂の、一腰ぼつ込み立ち出づれば、
「コレ待たしやんせ与右衛門殿、さつきお前に言ふた通り、短気を出して下さんすな」
と、言ふ間もせはしく、
「サア申し、早ふ々々」
とせつかれて、代官所へと出でて行く。
後影さへ名残りかと、見やる目にわく雨涙、しほ々々立つて押入れの、冬の支度の綿入れも、漸々裾を合はせ物、離れ物とはいひながら、かねてかくなる身と知らば、せめて不自由のなき様に、洗濯物の糊立も涙にしめる糸筋や、針のみゝずの見へ分かぬ、あくび交ぜくら納戸より、立ち出づる以前の男、
「アヽ旅草臥れで思はず知らず、つひずる々々とやつてのけた。サヽヽ申しお内儀様、暇乞ひも済んだなら折極めしましよかい」
「オヽさぞお待遠にござんせふ。サアそんならその百両の金渡して下さんせ」
「アイ、そりやもふ何時(なんどき)でも渡しませう。シテマアその奉公人はエ」
「アイ、私が事でござんすはいな」
「エ、ヘヽヽヽ何をぢやら々々と、サ、サア々々気がせきます早ふ頼みます々々」
「イヤ申し、ぢやら々々ではござんせぬ。真実誓文わたしが身を売るのでござんすはいな」
「エヽ、こなさんは々々、そりやマア何を言ふのぢやぞいの。ソレさつきに言はんしたのしほとやらいふ代物」
「サイナ、私が事でござんすはいな」
「エヽ、この人はコリヤマア気が違ふたそうな。ハアンそんならこなさんがのしほ、アノのしほ、ハヽヽヽ。こいつは胡麻塩が聞いて呆れるはいハヽヽ。コレイノウコレ、こなさんを誰がマア惣嫁(そうか)にも欲しがる者はないぞや」
「エヽ、そりやマア何でその様に」
「イヤ何でその様にも厚かましい。余り呆れて物が言はれぬアハヽヽヽ。ハヽア貴様こりや鏡見た事はないの」
「アイ、ちと様子がござんして、鏡見る事はならぬはいナ」
「ムヽアヽ如何様さふであろ々々。生れてから鏡見た事はあるまい。コレこなたの顔の容体(ようだい)を言ふて聞かそ、ママ、こつちや向んせ々々、ハテ向んせと言ふに。まづぐるり高のちよつぽり鼻、顔にべつたり痣があつて、しかも出歯で横からコウ禿が見へて、その代はりに、ヤちん々々ちんばときてけつかるはいハヽヽヽ」
「エヽ」
「エヽもすさまじいはいの。オ、幸ひこゝに髭抜き鏡、けうけげんな御面相、サアとつくりと見やしやれ」
と懐より取り出だし、やら腹立ちに差し付くれば、思はず初めて見る顔に、『ハツ』と恟り『まだ他に人も居るや』と見廻せば、我ならずして面影は、『よもや』とまたも取り上げて、見れば見る程情なや、
「コハそもいかに悲しや」
と、あなたへうろ々々こなたへ走り、狂気の如く身をもだへ、鏡をはつしと打ち付けて、わが身をどうど打ち倒れ、声をはかりの叫び泣き、哀れにもまたいぢらしき。
「エヽいま々々しい暇費(ひまづいや)し。イヤモこの様な化物(ばけもの)を百両はさておいて、米一升でも買人(かいて)はない」
と、つぶやき々々立ち上り、
「せめてお脚(すね)で腹癒よ」
と、泣き入る累を踏み飛ばし、足を早めて立ち帰る。
後は正体(しょうだい)泣き崩れ、顔も得上げずゐたりしが。
「アヽ思へば々々恥かしや。かふいふわしが顔故に、鏡を見せぬ夫の心。その顔もせず朝夕に、可愛がつて下さんした、お情け過ぎて情けなや。マなぜ打明けてあり様(よう)に、言ふて聞かせて下さんせぬ。また姉さんも胴欲な、現在の妹をこれ程までに憎いかエ。かふいふ事とも露知らず、今の今までわしが身で器量自慢をしてゐたが、恥かしいやらエヽつゝともふ悲しいやら、何面目に与右衛門殿、どふマア顔が合はされふ。せめて夫と同じ名の、絹川へ身を投げて死ぬるが未来で連れ添ふ心、とは言ひながらさつぱりと、思ひ切られぬ惚れた仲、死んだ後では美しい女中を女房に持たしやんしよと、そればつかりが気にかゝり、これが迷ひの種となり、よふ浮かまぬでござんせふ。可愛と思ふて折節の御回向頼み上げます」
と、口説き立て々々絶え入るばかりに泣き尽くす。
沈む重りと傍(あた)りなる苅豆籠を身のしづに、負はれ追はるゝ死神の、もし仕損ぜば身の恥と、見廻す辺りに錆びもせで、研ぎ立て鎌は今宵置く、草葉の露と消へよとか、いとゞ哀れを添へにける、降る秋雨の足音に、見付けられじと吹き消す行灯、
「コリヤ灯が消えてある女房共、累々」
と与右衛門が、すれ違ふたる門の口、
「誰ぢや々々、そこへ出るのは累ぢやないか」
と言ふ声後に聞きさして、女心の一筋にこけつ転びつ走り行く。
「ハテ、怪しや」
と見る影は、『確かに女房』と思へども、あやもわからぬ真の闇、後を慕ふて