《 其ノ五 「吃又」の真実を津大夫寛治の奏演に聴く−名が実をあらしめる− 》


【詞章】
(端場)
 こゝに獣君の一霊が山野にはびこり草木を踏折り、田畑を荒すことななめならず。近郷の土民声ごゑに、「三井寺の後より藤の尾までは見届けた。この山科の薮影へ逃込んだに極つた。たたき殺せ打殺せ」ととりどりわめき騒ぎ立つ。庵の内より修理之介。刀引提げ立出でて、「ヤア騒しいなに者ぢや。打て殺せとはあばれ者か、ただし夜盗の押入りか。コリヤこの屋敷を誰かと思ふ。土佐の将監光信が閑居なるぞ。仔細あつて先年勘気を蒙り、このところに身退く、某は当家の門弟、修理之介正澄といふ者。案内もなく卒爾千万。盗賊の類なれば一々に打止めん。」とそり打つて詰めかくれば「アヽまうし\/。私等は矢橋粟津辺の百姓。この頃信楽山から虎が出て荒れるゆゑ、言ひ合はせこの薮へ追込んだ。捜させて下され\/」と、口ぐちに呼はれば、修理之介あざ笑ひ、「ヤア愚か\/。コリヤ虎といふ獣が、日本に出たためしなし。むだ言いはずはや帰れ。帰れ\/」と争ふ声。土佐の将監障子押明け、「ホヽウ聞いた\/。天地の間に生ずるもの、あるまいとも極めがたし、皆打寄つて捜せ、捜せ」といふ声に、「ソリヤ狩出せ」と『エイ\/』声。松明振つて狩立つる。一叢竹の下影に、「ソリヤこそ出たは」と火を上ぐれば、荒れに荒れたる猛虎の形、人に恐るる気色なく、背をたはめてぞ休み居る。将監はたと横手を打ち「アヽラ不思議や。顔輝の筆の竹に虎、その筆勢に少しも紛ふ所なし。これは誠の虎にあらず。名筆の絵に魂入つて現はれ出でしに極つたり。今これほどに絵書きし者、狩野の祐勢が末葉、四郎元信ならで覚えなし。オ聞えたり。高島が御館、騒動の場に四郎次郎あり合はせ、難を逃れし筆の徳、血汐をもつて絵書きし毛色。コリヤなににもせよ、その証拠には歩みし足の跡あるまじ」と、聞いてこはごは百姓ども草かき分けて尋ぬれども、虎の足跡あらざれば、「これは不思議のお目利や」と、心なき土民等も、拝むばかりに信をなす。修理之介、師匠を拝し、「ハヽありがたや忝や、いまこの虎を見て、絵の道の悟りをひらき候そのしるし、わが筆先にて、あの虎を消止めて御覧に入れん」と、硯引寄せ押いただいて筆を染め、虎の頭にさし当てゝ、筆引く方に従ひて、頭前脚後脚胴より尾先にいたるまで、次第に消えて失せけるは神変術ともいひつべし。将監悦び、「ホヽウあつぱれ\/。今日より名字を許し、土佐の光澄と名付くべし」と、印可の筆を与ふれば、百姓ども感に入り、「孫子の末まで咄の種ノウ皆の衆や。アノ上手な絵書殿に、よいおやまを十人ほど描いてもらひ、金儲けがして見たい」「イヤそれよりはまだほかに、借銭乞の帳面を、ここから消してもらはうもの。お暇申す」と打笑ひ皆みな、
(切場)
在所へ帰りけり。
 こゝに土佐の末弟、浮世又平重起といふ絵書あり、生れついて口吃り、言舌明らかならざる上、家貧しくて身代は、薄き紙衣の火燧箱、朝夕の煙さへ一度を二度に追分や、大津のはづれに店借りして、妻は絵具夫は画く、筆の軸さへ細元手、上り下りの旅人の、童すかしの土産物、三銭五銭の商ひに、命も銭もつなぎしが、日蔭の師匠を重んじて、半道あまりを夫婦づれ、夜な\/見舞ふぞ殊勝なる。夫はなまなか目礼ばかり、女房傍から通詞して、「ハアヽまだこれはお寝りませぬ。誠にめつきりと暖かに、日も永うなりまして、世間は花見の遊山のとモざは\/\/\/いたしまする。ガこなたは山蔭、御浪人のお徒然をいさめのため、嫁菜のひたしに豆腐の煮しめ、竹筒でも致しまして、関寺か高観音へお供して、春めく人でも見せませうと、女夫申してゐますれども、心で思うたばつかり。道者時分で店は忙し、洗濯物はつかへる。仕事にははかいかず、日がな一日立づくみ、モ何をするやらのらくらと、急げばまはる瀬田鰻、ただいま膳所からもらひまして、練貫水の大津酒、ゆめゆめしうござりますれども、この春からお仕合せが直つて鰻の穴から出るやうに、御世にお出なされませ。ほんにマアつべこべ\/、と私がいふことばつかし。こちの人のホヽ吃りと、私がしやべりと、いれ合せたらよい頃な、女夫が一組出来ませう。ホヽホヽホヽヽヽヽアヽおはもじや」と笑ひける。奥方も御挨拶。「オヽよう祝うてたもつた。今宵は奇妙なことあつて、修理は名字を許され、土佐の光澄と名乗るぞよ。又平も随分筆に心をつきや。わが名をあぐればすなはち師匠の名も出る道理。ノウお徳さうぢやないか。まあ\/よいところへ酒肴、幸ひ幸ひ盃もいただいてあやかりややいの」とありければ、又平時節と女房を、先へ押出し背中を突き、わが身も手をつき頭をさげ、訴訟ありげに見えければ、女房お徳心得て、「誠に道すがら百姓衆の噂を聞き、夫又平、身は貧なり、不具なり。弟弟子に土佐を名乗らせ、兄弟子はうか\/と、いつまで浮世又平で、藤の花かたげたおやま絵や、鯰おさへた瓢箪のぶら\/生きても甲斐なしと、身をもんでの無念がり、尤もとも哀れとも、連添ふ私が心のうち、申すも涙がこぼれまする。奥様までは申せしが、お直の願ひはこの時節、今生の思ひ出、死しての後の石塔にも、俗名土佐の又平と、御一言のお許しは、師匠のお慈悲」とばかりにて涙にむせび入りければ、又平も手を合せ、将監を三拝し、土に喰ひつき泣きゐたり。将監も不便さの、ともに心は乱るれど、わざと声をあらゝげ、「ヤアまたしても\/叶はぬ願ひ。コリヤよつく聞け、この将監は近江の国高島の御家来筋、すなわち禁中の絵所。小栗宗丹と筆の争ひ、その上高島家の重宝雲龍の硯を、宗丹たつて所望す。『アヽイヤきやつに持たせじわれにたべ』と互ひに意地をいひつのり、つひに御前のお聞きに立つて、それがしは勘当受けこの浪人住居。今でも小栗に従へば、富貴の身と栄ふれども、一人の娘に君傾城の勤めさせ、子を売つて食ふほどの貧苦を凌ぐは何故ぞ。土佐の名字を惜しむにあらずや。修理之介はただいま大功あり。そちには何の功がある。琴棋書画は晴れの芸、貴人高位の御座近く参る、サ絵書。ものをも得いはぬ身をもつて及ばぬ願ひ。似合うたやうに大津絵書いて世を渡れ。茶でも呑んで立帰れ」と愛想もなく叱られて、お徳ははつと力を落し、「コレ又平殿、こなたを吃りに生付けた、親御を恨みさつしやれ」と、頼みなく\/又平も、わが咽ぶえを掻きむしり、口に手を入れ舌をつめつて泣きけるは、理りみえて不便なる。折節表に人音して、「将監殿やおはする。光信殿」と呼ばはり\/抜き刀、簀戸押開きずつと入る。将監目ばやく、「お身は狩野の弟子雅楽之助ならずや、姫君の御供せしか。サヽ早く\/」「されば\/、館の騒動いふに及ばず存じのごとく、姫君の御供仕りやう\/切抜けここかしこに忍びしが、主人四郎次郎行方知れず、これ第一の気遣ひと心迷ふそのうちに、敵手ひどく追つかくる。『シヤ任せて置け』と真向に太刀さしかざし、向ふ敵の腕骨、脚骨、嫌ひなく、四角八方に切散らせしが、敵は大勢こなたは一人。なんなく姫君チエヽ奪ひとられ、下の醍醐は雲谷が館なり。伴左衛門を始めとして、門を固めて寄せつけず。刀の刃金続かんまでと、駈入らんとせしが、アイヤ\/\/\/、主人の身の上心もとなし。後を慕うて尋ぬる所存。姫君の御事は将監殿、よろしく頼み存ずる」と、詞も足も血気の若者。後を慕うて走り行く。将監心も心ならず、「サアわがための一大事。いかがはせん」と思案顔。奥方も気遣はしく、「イヤ\/せいてはことの仕損じあらん。ことにその伴左衛門、姫君に心をかけ、無体に口説くと聞く上は、お命には気遣ひなし。マどうぞ弁舌のよき人に将軍家の御意とたばかり、取返す分別はござらぬか」と、いふに将監「実にまこと、せくことはない。いづれもいふておみやれ」と、額に小皺頬杖つき、各小首傾くる。又平何ぞいひたげに、妻の袖引き背中つき、指差すれども、合点ゆかず。しんきをわかして女房を引きのけてつゝと出で、師匠の前に諸手をつき、唾を飲込んで「コヽヘヽヽヽコヽハヽヽヽこの討手には、拙者が参り、姫君を、奪ひ取つて、帰りましよ」将監きつと見、「ヤア面倒な吃め。思案なかばに邪魔入れる。そこ立つてうせぬか」と、叱られてもおぢるにこそ、「アヽイヤ膝とも談合と申す。口こそ不自由なれ、心も腕も天下に、恐い者はないわい。拙者が分別いたし、叶はぬ時はえん正介定。あつちへやるか、こつちへ取るか、首がけの、博奕。命の相場が一分五厘。浮世又平と名乗つては、親もない、子もない身がら一身。命は掃溜めの芥。名は須弥山とつりがへ。倅の時から旧功なし。命にかへて申し上ぐるも、師匠の名字を継ぎたい、ばつかり。拙者めを遣はされて下さりませ。申し、申し申し、さりとては御承引ないかい\/。吃りでなくばかうはあるまい。エヽ恨めしい。喉笛を、かき破つてのけたいわい女房ども、さサヽヽヽさりとは情ないお師匠ぢや」と、声をあげて泣きゐたる。将監なほも聞入れなく、「ヤア不具の癖の述懐涙不吉千万。相手に成つて果てしなし。コレ\/修理之介、御辺向つて思案をめぐらし、奪ひ返し来られよ。サヽはやく\/」「畏つた」と刀ひつ提げ、立出づる。又平むづと抱き留め、「待つてくれ\/。師匠こそ情なくとも、弟子兄弟の情ぢや。この又平やつてくれ。殿ともいはぬ、修理様、\/」「コリヤ又平。それがし矢竹に思うても、師の命は力なし。こゝを放せ」「イヤ、ハヽ放しやせぬ」「放さねば抜いて突くぞ」「オヽ突け、突け。殺せ。殺せコヽ殺せ。ハヽ放しやせぬぞ」修理之介ももてあつかひ、「放せ\/」と捻ぢ合ふたり。将監夫婦も気をあせり「放せ\/」と、留むれども、耳にもさらに聞入れず。女房お徳すがりつき、「アレお師匠様の御意がある。エヽおとましの気違ひや」と、もぎ放せば女房を取つて投げ踏付け\/地団駄踏み、「なんぢやれ\/。おのれまでが気違ひとは。エヽ女房さへ侮るか。不具は何の因果ぞや」と、どうと座を組み大地を打つて、声も惜しまず歎きける心ぞ、思ひやられたる。将監重ねて「汝よく合点せよ。絵の道の功によつて、土佐の名字を継いでこそ、手柄ともいふべけれ。武道の功に絵書の名字、譲るべき仔細なし。ならぬならぬ」といひ切れば、女房はつと居直りて「サア又平殿。覚悟さつしやれ。今生の望みは切れたぞや。この庭の手水鉢を石塔と定め、こなたの絵像を書きとどめ、この場で自害しその後のおくり号を待つばかり」と、硯引きよせ墨すれば、又平頷き筆を染め、石面に差向ひ、『これ生涯の名残りの絵、姿は苔に朽つるとも、名は石塊に留まれ』と、我が姿を我が筆の、念力や徹しけん、厚さ尺余の御影石、裏へ通つて筆の勢、墨も消えず両方より、一度に書いたる如くなり。将監大きに驚き入り、「異国の王義之趙子昂が、石に入り木に入るも、和画において例なし。師に優つたる画工ぞや。浮世又平を引きかへ、土佐の又平光起と名乗るべし。この勢に乗つて姫君を奪ひかへせ」とありければ、『ハヽヽはつ』とばかりに、又平は、「忝し」と口吃り、礼よりほかは涙にくれ、躍り上り飛上り嬉しナナナナナン泣きこそ道理なれ。将監重ねて、「心剛にて志厚けれども、敵に向つて問答せんこと、いかがあらん」とありければ、女房聞きもあへず、「モ常々大頭の舞を好き、わらは諸共ツレ脇にて舞はれしが、節のあることは少しも吃り申されず。サ又平殿。悦びにめでたう舞うて立つまいか」『オツ』と答へて立上り、古き舞を身の上に、なぞらへてこそ舞うたりけれ。「さるほどに鎌倉殿、義経の討手を向くべしと武勇の達者を選ばれし」「それは土佐坊」「コヽヽこれはまた、土佐の又平光起が師匠の御恩を報ぜんと、身にも応ぜぬ重荷をば、大津の町や、追分の、絵に塗る胡粉は安けれど、名は千金の絵師の家、いま墨色を上げにけり」かくて女房勇みをつけ、「またもや御意の変るべき。はや御立ち」と勧めける。「オヽ、オヽヽヽヽいしくも申されたり。身こそ墨絵の山水男、紙表具の体なりとも、朽ちて朽ちせぬ金砂子。極彩色に劣らじ」と勇み進みし勢ひは、「由々し頼もし。我ながら、あつぱれ絵筆の健気さよ。唐絵の樊l張良を楯についたと思し召せ。イザお暇申しましよ」と起出づる。将監声かけ「待て\/両人。吉左右の餞別せん」と刀抜く間も見せばこそ、又平が像を画きし手水鉢、二つにどうと切破つたり。一座の人びと呆れ顔。女房お徳びつくりし、「コレもうし将監様。大事の門出命づく。身を祝うての舞ひ諷ひ。なにがお気に入りませぬ。又平殿を二つになされしは、不吉を願ふお心か。ただしは狂気サ遊ばしたか」「ホヽウ疑はしくばいひ聞かさん。そのむかし都誓願寺の御仏は賢聞子芥子国といひし人。親子名乗りのその印。片形作り合せし御仏なりしに、しかるにこの仏体、朝暮両眼より御涙しきりなりしに、時の名医これを考へ、五臓を作り込んだる仏体なれば、正しく肝の臓の損じならんと、二つに分けてこれを直せば、たちまち涙止りしこと、いまの世までも割符の弥陀とナコリヤ隠れなし。この理をもつて又平が魂込めしこの絵姿、絵は吃らねど吃るは舌。舌はもとより心の臓。その心の臓調はざるゆゑ口吃る。いま石面の又平を二つに切破るこの将監。絵師の手のうち、なか\/思ひよらねどもコレ、この刀は主人より給はる名作。その名作の奇特をもつて心の臓を断切つたれば、吃ることはよもあらじ」といふに、又平頭を下げ、「ハヽありがたし\/。いよ\/首尾よく姫君の、御供もうし立帰らん」と詞すずしき一言に、奥方始め、人びとも二度びつくりに、又平はわがでにわが口疑はしく、「らりるれろ。オまみむめも。プウ、さしすせそ。エかきくけこ。アリヤ\/直つた\/\/直つた\/直つたアハヽヽハ。アいふはいふはなにをいふ。狸百匹棒百本。天王寺のたうたう念仏。十もうせば仏になる。誓願寺の仏の誓ひ。ハハア」師匠の御恩を頭に戴き、どう\/\/。力足踏む又平は、いまぞ出世の金頤、あつぱれ諸人の絵本ぞと、勇みいさんで急ぎ行く。

【考察】
 「土佐将監閑居」(通称「吃又」)のポイントは三つある。一つはマクラからの河内地、次に又平の狂気、そして段切りの舞である。そしてそれらを最もよく伝えているのが、もちろん今日聴取可能な範囲において、1971年11月28日にNHK3TVで放映された四代竹本津大夫六代鶴澤寛治による奏演(端場は当時の伊達路団六)であろう。よってここでは上記三点に関して、その津寛治奏演の録音を参考にしながら若干の考察を試みることにする。なお、参照用として詞章を端場から掲載しておいたが、もちろん当該奏演の通りに改めたものである。

 まず第一点、河内地についてである。「低音の部分の音遣いに特徴があり、更に音の高低、急緩(ママ)に独特のものがある。しんみりした場面に用いられ、打沈んだ愁いを含んだ曲調である。」(『義太夫節の曲節』)、「低音部の粘ったような発声のほか、音の高低や伸び縮みに特色のある地。」(『文楽浄瑠璃集・文楽用語』)、「有ふれた風とは違って、ヒツ立てた足取で語らねばならぬ。」(『浄瑠璃素人講釈』)、「花やかな河内地」「河内地と申すのは耳障りの至極よろしい節遣いで、」(『文楽の鑑賞』)等々が、河内地について散見される解説である。その初代豊竹河内太夫は越前少掾の門弟で、享保元文年間に活躍、「チヤリ語りの元祖」(『浄瑠璃大系図』)としても有名である。
 これらの記述を総合して考えてみると、東風元祖越前少掾の直弟子で、師匠のワキツレや端場も勤めていることからも、高音域から低音域まで幅広くなだらかに行き来する語りであり、また、チャリ場とは「文節くばりのおかしき場」(『増補浄瑠璃大系図』)とされることからしても、巧みな足取りの緩急自在な語り口であるものと結論付けてよいであろう。
 文字譜も冒頭の「こゝに土佐の末弟」から「殊勝なる」のフシ落ちまで、中が四度、ウが十一度、そしてハルが三度と、実に細かく変化にも富んでいる。津寛治の奏演ではその妙が見事に聞き取れるし、緩急に関しても「こゝに土佐の末弟」はズッと言い、「重起といふ絵書あり」は粘って重く、以下「生れついて」「口吃り、言舌」「明らか」「ならざる上、家貧しくて」「身代は」「薄き」「紙衣の火燧箱」「朝夕の」「煙さへ」「一度を二度に」「追分や」と、急、緩、鮮やかに語られているのである。
 もちろんこれらの高低と緩急は、このいわゆるマクラ一枚の重要さと表裏一体をなすわけで、軽妙な又平首の大津絵師と、吃音と貧苦を身に背負った男という両面を表現する技巧としての必然性を有しているのである。「風」とはそういうものだ。
 さて、前出の「しんみりした場面に用いられ、打沈んだ愁いを含んだ曲調である。」と、「花やかな河内地」とは矛盾するように見えるが、それぞれ河内地のもつ一面に光を当てたものと考えれば問題はなく、「低音の部分の音遣いに特徴があり」「低音部の粘ったような発声のほか」と殊更に表現されていることについても、緩急・高低の流れにあって、強調され耳に留まる部分がどこであるかを考えれば、当然導かれるものである。それはまた、急かつ高い部分の表現が優れていればこその帰結でもあるのだが、津寛治の奏演は、この点についても前述のマクラにぴったりとあてはまっており、とりわけ三味線寛治のリードが鮮やかで見事と言うほかはない。(この考察では触れなかったが、端場を担当した伊達路団六の奏演もまた、切場との整合性においても実に素晴らしい最高の出来映えであったことを、ここに付言しておきたい。)
 なお、この河内地に関しては、そのあとに見える女房お徳の挨拶および申し立ての部分にもそのまま共通することを、念のため言い添えておく。

 次に第二点、又平の狂気についてである。『文楽の鑑賞』で鶴澤友次郎は「たゞ単に土佐の苗字を継ぎたいと念願する芸術家肌の一徹さに止まつてをるのみです。」と述べている。そう書かれた昭和初年という時代や、そう語った友次郎が歩んできた芸道やらを考え合わせると、それは確かに「単純」だと言えようが、戦後とりわけ現代日本という時空間にあっては、その「単純」さこそが複雑かつ至難の業となっていることは言うまでもあるまい。自らを二十一回猛士と称し、「狂」に殉じた吉田松陰に対する理解もまた同様である、と言ってもよいであろう。もちろん、空虚かつ無意味な精神論に我田引水した過去が存在したことは承知の上でだが、いや十分理解していればこそ、その逆のヒステリー的な全否定をも乗り越えての考察なのである。
 この点においては津大夫の語りが、まさに聴く者の魂を揺さぶり、聴く者の胸中を文字通り切実な思いで溢れさせ、その結果聴く者に涙を催させる、純度の高い感動をもたらしている。「わが咽ぶえを掻きむしり」「師匠の名字を継ぎたい、ばつかり」の強さ、「叱られてもおぢるにこそ」「又平むづと抱き留め」の最速、「恐い者はないわい」「オヽ突け、突け。殺せ」の必死、そして究極「名は石塊に留まれ」に収斂する語り口。同情の涙ではない、共感の涙をこみ上げさせるのは、並大抵の力量では叶わぬことである。三味線の寛治ともども、まさしく純然たる「狂」の世界にいる。空恐ろしくさえ感じられるほどである。
 そしてそれはお徳の詞章からもひしひしと伝わってくる。とりわけ「死しての後の石塔にも、俗名土佐の又平と、御一言のお許しは、師匠のお慈悲」の涙ながらの必死の訴えには心を強く打たれるのである。またここのところ一連のお徳の詞章に付された三味線は、河内地の高低緩急の変化はもとより、その節目節目に入る三の開放弦テンの一撥一撥が、実に鋭くまた深く、印象的に耳に残るものとなっている。
 さらに、この又平お徳両者必死の訴えを締めているのがスヱテであって、「土に喰ひつき泣きゐたり」および「声をあげて泣きゐたる」がそれに当たり、一の音に下降して終結する旋律と共に、深々と心に突き刺さり染み渡るのである。大落トシや泣キの手、それに付随する上モリ下モリ四ツ間もない、元々の西風浄瑠璃。その簡潔かつ雄勁な表現の典型的な魅力の一つがこのスヱテなのである。もちろん津大夫寛治の奏演はそれを余すところなく表現しているのだ。
 が、原作(改作もこの主題に関する部分は詞章をそのまま踏襲している)からみれば、まさしくそうでなければならないのであって、「叶はぬ時はえん正介定」「首がけの、博奕」「命の相場が一分五厘」「命は掃溜めの芥」という又平の詞こそ真実以外の何ものでもないのであるから。そして津大夫の浄瑠璃こそ、まさに血を吐くが如き語り。女房お徳の詞「エヽおとましの気違いや」が100%真実となるものなのである。三味線寛治の厳しい稽古の賜物でもあろう。
 そこまで至れば、もはや例の『浄瑠璃素人講釈』に見えるあの有名な逸話、大隅太夫が「ここに土佐の末弟」とただ語っても団平が次の一撥をトンと弾いてくれない、という話の真実を解説する必要もないであろう。「名」というものに対する「狂」わんばかりの意志、その夾雑物のない純然たる強さ恐ろしさが理解されたはずであろうから。
  この点についてはまた、この作品が時代物であるということ、原作者近松門左衛門が武士階級出身であるということ、などとも絡んでくるのであるが、実はそれに関しては、近松の時代物浄瑠璃に共通する特有の語り口、という視点からも迫ることができるのである。
 近松の時代物で、途中断絶やそれによる近年での復活や再演ではない作品となると、ほとんど皆無という状況である。その中にあって、「輝虎配膳」(『信州川中島合戦』)は初演の風が色濃く残っており、「こらもう完璧なる西風のもんといえます」(『織大夫夜話』)。なお、興味深いのは、この曲を「とりわけ染太夫風のもんをやるのに役に立ちますし」(同前)と語っていることで、このことは「吃又」中に「所謂染太夫風」「大掾が常に云つてゐた染太夫風」(『浄瑠璃素人講釈』)を認めていることと重ね合わせることも可能であろう。
 さて、その「輝虎配膳」中に「起直り莞爾と笑ひ」という詞章があり、それについて織大夫(現綱大夫)は「これはむつかしいでつせ。説明文でっけど何のふしも付いてない、太夫一人で一息で言わんならんのです。近松物特有のもんです。」(前掲同書)と語っている。この他には、「老母会釈し」「老母膝を立直しけらけらと高笑ひ」がそれに該当する。つまり、地であるにもかかわらず、節付けもなく、三味線のあしらいもない、詞のようであるが、抑揚も表情もない、ズッとした言い方ということであろう。それが「吃又」にも散見する。冒頭の「ここに土佐の末弟」は特別に置くとしても、「又平時節と女房を、先へ押出し背中を突き」「又平も手を合せ」「しんきをわかして女房を引きのけてつゝと出で」「女房聞きもあへず」などはまさしくその例に他ならないのである。津大夫の語りを聴くと、明らかにその箇所を意識して確信的に語っているのがよくわかる。寛治の指導よろしきを得たためでもあろうが、よく伝承されているものと驚嘆するとともに、畏敬の念を禁じ得ないのである。
 織大夫はまた「輝虎配膳」について、「後世の当たり前の浄瑠璃にない、何や古浄瑠璃的というか古風な雰囲気を感じまんねけど。」(前掲同書)と述べるのであるが、この「吃又」が「四段目風の花やかな語り口で、それに河内地が随所に加味されてゐます。」(『文楽の鑑賞』)とはいえ、それが初演に極近い段階でのことであり、原作をほぼ忠実になぞった詞章といい、前述の特徴を備えているところから見ても、近松原作曲の清潔感とでも呼ぶべきものが底に流れていることは確かであろう。その点においても、津大夫寛治の奏演は理想的なものであると言えるのだ。年代物の真木をそのまま柱に用いて構築された作品、そして奏演、とでも表現しようか。

 最後に三点目、段切りの舞に関してであるが、これは上述の二点から当然帰結すべきものであり、とりわけ第二点の考察からは必然的に直結してくる。
 要するに、土佐の名字を許された後の大頭の舞と、改作で蛇足された吃音解消後の舞とは全く異なるものであるという点である。
 又平に名字認可をもたらした奇跡は、「名は須弥山とつりがへ」という強い意志の力によって現出したものである。故に舞の詞章にも「名は千金の絵師の家」とあり、「身こそ墨絵の山水男、紙表具の体なりとも」まさしく「名」によって「朽ちて朽ちせ金砂子」となるのであり、又平自ら「あつぱれ絵筆の健気さよ」と舞って見せるのである。
 また、そもそもこの舞を舞うに至ったのは、「敵に向つて問答せんこと、いかがあらん」との懸念を払拭すべく、「節のあることは少しも吃り申されず」が故にである。お徳の言う「悦びにめでたう舞うて立つまいか」(原作では将監の「試みに一節めでたふ舞うて立て」)はあくまでも二次的な付加にすぎない。そしてこの段階では吃音という実体はもはや何ら問題にもならないのである。(というよりも、もともと又平が名跡継承の障害と考えていたこと自体、将監によってすでに否定されているのであるから、この吃音という設定自体が、近松の名辞論とでも言うべきこの作品の主題に到達可能かどうかの、仕掛けであったと考えられるのである。)
 又平お徳夫婦が「古き舞を身の上に、なぞらへ」たこと、それが何であったかを確認しておこうではないか。そう、それは「土佐」である。「土佐」の名字が「又平光起(重起改め)」という実体をあらしめているのである。近松が設定したこの主題は、「言葉が物をあらしめる」という、この近代思想の中核をなす命題ともシンクロすると言ってもよいだろう。
 したがって、改作の蛇足に伴う舞の方は、ただただ喜んで調子に乗って舞えばよいものなのである。このあたりに関しては、超一流の人形遣いの手に掛かると、さすがにお見通しのようで、例えば吉田玉男など、前述の舞における荘重かつ締まった遣い方と、後者におけるチャリがかった砕けた姿勢と、明瞭に舞い分けているのである。実際舞台で拝見した時も、前者の舞ではこちらが笑うところは一ヶ所もなく、むしろピンと張り詰めた気合い気迫、つまり強い意志の力を感じ取り、思わず姿勢を正すような形式性、つまり「名辞」の意味というものさえも伝えられたのであった。後者の場合はそれと対照的な滑稽さ、チャリ首の特性を見事に活かした動きを見せてくれたのである。もちろん津大夫寛治の奏演においても同断である。
 なお、後者の舞はそれはそれで、全快治癒の喜びはたやすく共感されるものであるから、一杯に語り遣って観客の心を掴むのもまた当然のことである。後者の舞に関して、決して手を抜くとかお座なりにするとかということではないことを、念のため付言しておく。

 以上で今回の考察は終了としたいのだが、最後に。
 何事にも適当に、ただただ生活するというレベルにおいては、衣食住ほか医療保健に至るまで、随分と楽になった現代日本にあっては、この「吃又」もまた、大津絵描いて浮世を渡っていればそれでいいではないか、ということになるのであろう。実際、国立文楽劇場の客席においては、大頭の舞よりも改作の蛇足舞の方がより大きな感激をもたらしているのかも知れない。そしてそれは、無意識下の領域においては、臓器移植や遺伝子治療によってもたらされるもの、人間を規定してきた生老病死の克服という、明るい未来への予告として捉えられている、という一見突拍子もない発言も、案外正鵠を射ているような気がするのである。
  大隅団平の逸話など、もはや遠い昔のこと。いやその話自体が虚言妄言であると断定されかねないだろう。しかし、私は、その名人からの伝承を確かなものと聴かせてくれた津大夫寛治の奏演に、心静かに幾たびも耳を傾けるだけなのである。