《 其ノ三 『一谷嫩軍記』二段目「林住家の段」の夢幻浪漫を追体験する−忠度の腕塚堂のこと− 》

 
 JR神戸線新長田駅で降りて浜側(南側)へ歩き出します。
 言うまでもなくこの一帯は5年前の阪神大震災で甚大な被害を受けた所です。
 阪神高速が走る国道2号線を越えて元の「神戸デパート」があった辺りをさらに浜の方へ向かいます。
 少し大きな通りに出て右へ曲がると「駒林神社」が見えてきます。
 ここまで駅から歩いて約10分。
 この辺りの地名は「長田区駒ケ林(こまがばやし)町」。
 神社の脇を通り沿いにもう少し西へ歩くと「駒ケ林町四丁目」になり、「平忠度公を祭る腕塚堂」の案内看板が見えてきます。
 看板には
  「場所 長田区駒ケ林町四丁目(これより南60m下る)
    /由来  平相国清盛の弟薩摩の守忠度公、源平一の谷合戦にて岡部六弥太忠澄に敗れこの地にて戦死す。
    依而此地を廟所として祭る。特に斬り取られた片腕を埋めた墓碑を腕塚と称して永く信仰の対象とした。
    何時の世にか腕、腰、足の痛みあるところと墓石を擦れば直ちに快感を覚え全治に向うとて参詣者の足を絶たない。
    毎月七日は命日とて特に賑う」
 と記されています。
 
 言われるままに住宅がひしめく狭い路地を南へ入ると、「腕塚堂」の看板があり、位牌を祀ったお堂と塔が残っています。
 ここにも由来書きがあり、次のように記されています。
  「腕塚堂(平忠度塚)/平忠度は平清盛の末弟で、歌道にもすぐれ豪男で知られた武将でした。
    源平一の谷合戦(一一八四年)のとき、平忠度は一の谷陣の大将でしたが、敗れて駒ケ林指して落ち行く途中、
    源氏の武将岡部六弥太忠澄と戦い、首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされてしまいました。
    忠度はついに静かに念仏して討たれ、そのエビラ(矢を入れて背に負う道具)には、
    『行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし』という歌が書かれた紙片が結ばれていたといわれています。
    この腕塚は忠度の切り落とされた腕を埋めた所と伝えられ、腕、腰、足の痛みがなおると人々から信仰されています。
    長田区役所」
 
 私が最初にここを訪ねたのは、今から4年程前、震災から10ケ月ほど経ち鉄道がようやく復旧した頃でした。
 幸いにしてこの辺りは地震直後の火災は免れたため焼失はしていませんでしたが、
 十三段の塔がみな崩れていて道端に整然と並べられていました。
 まだそのままだろうと思って行ってみたのですが、完璧に元の形に復元されていたのには驚きました。
 地下鉄海岸線の工事(「駒ケ林」という駅も出来ます)を軸とする長田地区の復興も驚きでしたが、
 こんな小さな信仰の場所を大事に守っている町の人々の心意気に感動しました。
 
 歌道に優れた忠度は腕の力も凄い豪傑であったようで、岡部六弥太を左腕一本で投げ飛ばしたとも言われています。
 文楽では「林住家の段」の段切で、忠度は六弥太に上着の右袖を切られ、恋人菊の前への形見として渡されます。
 「コハ冥加なき幸せと戴く右の片袖は右の腕(かいな)を落ちかたの、軍に討死し給ひし後の哀れと知られたる」と記されているのは、
 忠度の死に方(運命)を暗示するものです。
 文楽劇場へ向かう通路に今月の舞台写真(モノクロ)が掲示されていますが、
 今月は玉男さんの忠度が捕手のツメ人形を左腕一本でねじ伏せている良いホーズの写真が貼られています。
 『一谷嫩軍記』が初演された時に出版された絵尽し(絵本)には、
 右の腕一本で捕手を抱え上げ左腕でもう一人の捕手の首を絞めている所が描かれていますが、
 いずれも忠度の腕の力を象徴する場面です。
 現在でも二百五十年前の絵に近い演出が残っているのは驚きです。
 ちなみに、長田区駒ケ林町の隣は腕塚(うでづか)町です。

 「林住家の段」は初演者豊竹駒太夫の風(ふう)が残るとされています。
 「駒ケ林」という地名から、
  「駒が林の忠度塚に因み、駒太夫の語る忠度劇に、林という狂言回しの老女を登場させた作者は、
   まさしく駒太夫の芸風を意識して『林住家の段』を書いていたのである」
 と指摘するのは、早稲田大学の内山美樹子教授です(「『一谷嫩軍記』二段目考」=「早稲田大学文学研究科紀要」39。 1993)。

 忠度の腕塚堂の残る駒ケ林。「駒(太夫)が」架空の「林」という老婆が登場する二段目を語る。
 考えただけでも楽しい話ではありませんか。

 今月の文楽と切っても切れぬ関係にあるこの史蹟に、文楽劇場のプログラムは一行も触れていません…。
 
 

投稿:岡目八目さん(2000.01.13)
 
(補足)先日行って参りました。完成した地下鉄海岸線「駒ケ林」駅の2番出口から、交差点を西へ渡ってそのまま先が「駒林神社」となります。
    案内看板からは「うでづか」への道順を示すいくつかの石標が訪れる者を導いてくれます。
    右上の写真にも見えます御手水の上に木額が掲げてあり、そこに二首の歌が彫り付けてありました。
    新しいものではありますが、素朴な郷愁を誘う趣ある歌でしたので、ここに転載いたします。
       うみしづかいそべのまつをわけゆけばこまがばやしにただのりのつか
       まいるならつきのなのかはごめいにちかねのひびきのたゆるひまなし
勘定場(2002.05.30)