「今世紀最後の本格的な通し狂言・決定版」(平成10年11月公演)というコピーからどんな『忠臣蔵』が思い浮かぶでしょうか?
残念ながらこれは完全版では ありません。「十段目」(天河屋)がそっくり省かれている上に、究極の「九段目」(山科閑居)の重要な伏線である「二段目」の端場(力弥使者)がカットされているからです。
そこで今回はこの「文楽版『忠臣蔵』」の欠を補い、「人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』」として完成するよう、ポイントをほんの少しだけ書いてみることにします。
「二段目」…ここは「大序」で高師直に侮辱を受けた桃井若狭助の舘。庭掃除をする奴達もその噂で持ち切りですが、家老の加古川
本蔵はそれを柔らかにたしなめます。その言動に「お庭の松も幾千代を守る舘の執権職」「年も五十(いそじ)の分別盛り」との
詞章が見事に体現されています。
そこへ登場するのが本蔵の妻の戸無瀬と娘の小浪。名前が(加古)川との縁語になっているのが一目瞭然です。
若狭助の奥方も心配しているとの相談を夫や父に持ちかけますが、これをも捌いてしまう本蔵の年の功は見事なものです。
そうこうするうち大星力弥が塩冶判官の使者として来訪。口上受取を指示された戸無瀬は許嫁である小浪にその役を譲り、
小浪と力弥との恋の思いを下地にひく初々しい対面の場となります。
「じっと見交す顔と顔。互の胸に恋人と。物もえ言はぬ赤面は。梅と桜の花相撲に 枕の行司なかりけり」
…浄瑠璃作者の何と粋なこと。節付けも実によくできています。
(時間の都合でここをカットする劇場側の感性を疑わざるをえないでしょう?!)
それゆえにこの端場を「梅と桜」とも呼ぶのです。
さて、この筋書きだけでも大切であることはおわかりいただけたでしょうが、それより重要なのは人物造形についてです。
加古川本蔵については前述しましたので、残り三者について簡潔に詞章を取り混ぜて書いてみます。
そもそもこの四者の人物造形を頭に入れずに「八段目」と大曲「九段目」に向かうなど考えられないことなのですから。
大星力弥…「畳触りも故実を糺し」「まだ十七の角髪や」「大小立派さはやかに」等々。
「さすが大星由良助が子息と見えし其の器量」−この詞章がすべてを言い尽くしています。
若狭助が登場し「お使者大儀」と言われた去り際の詞章もすばらしい…
「ナニお取次の女中御苦労と。しづしづ立て見向きもせず 衣紋繕ひ立帰る。」
この所、二人の関係を悟られまいと慌てて知らん顔をしたとのみ解釈するのは如何なものでしょう。
仕事をする表の顔が凛々しければ凛々しいほど、私だけに愛を語る裏の顔も一層魅力的であるということです。
戸無瀬…本蔵の後妻であることは「九段目」からもわかります。が、ここでしかわからないことがあります。
よくしゃべる。本蔵から「武士の妻でないか」と叱られる。力弥の応対を小浪に譲るための仮病、
「アイタタタ」「今朝からの心遣ひ 又持病の癪が差し込んだ。是ではどふもお使者に逢はれぬ。」
「娘や随分御馳走申しゃや。したが余り馳走過ぎ。大事の口上忘れまいぞ。」
「私(わし)も聟殿にアイタタタ あいたからうの奥様は。気を通してぞ奥へ行く。」
つまり、戸無瀬の出自は町人ではということになるのでしょう。女中奉公のため屋敷に上がっていた戸無瀬を、
妻を亡くした本蔵がその後添に引き入れた、ということかもしれません。町人ならではの機転と良い意味の無遠慮さ。
そのざっくばらんな性格を的確に踏まえているからこそ、浄瑠璃作者もざっぱっと洒落てみせるのです。
それにしても「あいたからうの奥様」とは実に言い得て妙。そのまま戸無瀬の人物造形の言葉ともなっています。
小浪…彼女の積極性。うぶな処女の奥に隠された官能のゆらめきを感じ取れるのはここ以外にはありません。
「八段目」の詞章は景事(道行)の音楽性の裏に回りますし、「九段目」では初々しさのみが強烈です。
「日頃恋し床しい力弥様。逢はばどふ言(い)をかう言をと。娘心のどきどきと。胸に小浪を打ち寄する。」
小浪とはよくも付けたり。可憐さのみでは捉えきれない少女という存在をそのまま包みこむことに成功しています。
「只今の御口上受取る役は私。御口上の趣を。お前の口から私が口へ。直(じき)に仰って下さりませと摺り寄れば」
魔性、小悪魔、コケット…。『舞姫』(森鴎外)のエリスもこの通りでしょう。浄瑠璃のヒロイン全般にも共通すること。
なお、この「梅と桜」ですが、幸いなことに八世綱大夫・十世弥七による録音が残されています。
「仮名手本忠臣蔵」全段ダイジェストCD全集として市販されているはずと記憶しています。
このコンビなら人形なんか無くとも十分にこの人物造形を味わっていただけること請け合いです。
私自身もこの機会にもう一度聴き直してみることにしましょう。
平成十六年十一月大阪国立での通し狂言は、二段目本蔵松切に野澤喜左衛門=補曲と記し、今後とも現行形態における「二段目口」上演が難しいことを明確にした。
よってここに詞章本文ならびに注釈を掲載し、通し狂言「仮名手本忠臣蔵」鑑賞の資とするものである。
(さるお方から以下のようなご教示を受けました。感謝申し上げるとともに、茲に掲載して謹んで本稿の補訂とさせていただきます。
・野沢喜左衛門補曲というのは、段切れの本蔵と戸無瀬、小浪のやり取りの箇所を、現喜左衛門氏が補曲したということです。
・奥の枕の文章(本蔵一間より立ち代りの前に付ける)も段切れも、これは昔から丸本本文どおりと改訂が加えられているものと二つ伝わっています。
・つまり喜左衛門補曲というのは梅と桜をカットすることとなんの関係もないと思います。)
二段目口(科白のうち、詞で語られた部分を【 】で示した。
なお、( )は参考奏演での省略箇所である。)
√久方の。
(「新潮日本古典集成」『浄瑠璃集』を底本とした。)
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(綱・弥七の奏演を参考にした。)
・「久方の」三重で場面転換が明白。
(本蔵松切から始まる現行はあまりにも唐突。) ・「空も弥生の」ハルフシで気分が改まる。 (現行は鶴岡での若狭助恥辱の場面からそのまま繋がるが、 ストーリーを追うだけでは「音曲の司」の死を意味する。) ・「年も五十路の分別ざかり」ゆったりどっしりと。 ・「ナント関内」角助との奴詞、大序からくだけて変化あり。 (均質化・平板化は現代日本文化の病理そのもの、 個性化という我が儘勝手の行き着く先がこれである。 文化とは風土に根ざした共同体の花実であるものを。) ・「とやはらかに」家老本蔵の捌きはまずここにあり。
・「アアこれ々々戸無瀬」以下の捌き方も見事。
・「そもじもまた」以下、戸無瀬のくだけた雰囲気。
・「あひたからうの奥様」以下、単なる駄洒落ではなく、
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『義太夫百番』という書がある。「竹本摂津大掾」を著した水谷不倒の校訂により、明治三十二年刊行。
―まことに幾百編の浄瑠璃を絹篩に掛けたりといふも不可なく、其の名章佳句の後世に伝ふべきものあるは論を俟たず。(凡例)―
その下巻に「仮名手本忠臣蔵」桃の井館の段・山科の段が収録されており、二段目は端場から丸々一段だが、九段目は端場の雪転しが省略されている…。
…以来百年、どうやらその絹篩は笊と化してしまったようである。明治は遠くなりにけり。
「十段目」…「天河屋義平は男でござる。」 我が子を質にとられ、我が身に刀を突きつけられても、討ち入りの諸道具を調達したことは決
して口外しないという町人の覚悟の一言。感じ入った由良之助は夜討ちの際の合言葉を「天」と「河」とし、さらに、秘密保持の
ためと無理に暇を出されていた妻おそのとの復縁の手筈まで整えてやって出立する…とまあ、主軸はこんなところでしょうか。
ところで、この段は近年とんと上演されません。その理由は一般的には次の三点でしょう。
時間…大序(初段)からここまで十時間は経っていて、かつ前場が大曲「九段目」では観客もへとへとである。
構成…『忠臣蔵』全体からみると「外伝」にあたるところで、前場から直接討入り成就・引揚勢揃いにつなげても問題ない。
内容…武士としての義士が町人義平の心底を疑って偽りの拷問をして彼を試すというのが何とも嫌な感じである。
こう並べるともっともなのですが、由良之助は義平の真実心を見抜いており、試されているのは実は義士たちの方なのでは。
「花は桜木人は武士と申せども、いっかないっかな、武士も及ばぬ御所存」
「是に並ぶ…(義士名羅列)…等、潰れしまなこを開かする、妙薬名医の心魂」
などの由良之助の詞は、お世辞挨拶ではなくて、本当は義士に対して発せられたものでしょう。面々を「馴染み近付きでなき此
の人々」と言う客観的な発言も、人を見る目がないという皮肉はさておき、この四十余名の集団の心を一つにしなければ仇討ち
は叶わぬということを冷静に判断している由良之助の実感なのだと考えます。そもそもいくら確認のためとはいえ、首領自らが
長持ちの中へ入り込み、姿を現すや「畳に頭を摺り付くる」というのは、形式的な武士のプライドを振り回す人間にはとうてい不
可能な言動でしょう。
自らを戯画化した由良之助がその実“おちゃらけ”にしたかったものは何なのでしょうか。その答は「『忠臣蔵』は前近代の封建
的芝居」という一般的な解釈に対する回答にもなっているように思われるのです。